東神吉町をゆく(67) 砂部 喜多願庵
喜多順庵は『砂部あれこれ』の著者、喜多正人氏のご祖先です。
同家では過去に三代にわたって医師順庵の同じ名前が継がれたことがあり、古い順に、元祖と記録されている初代順庵(松隠・起生)(1764~1839)、二代順庵(松頼のちに松隠・公綺)(1789-1855)、三代順庵(哲堂・信締)(1850-1927)となっています。
このうち初代順庵は京都や長崎で医術の修行をして、姫路・明石両藩主、亀山本徳寺門主を診察した名医で、その子二代順庵と共に姫路藩から苗字帯刀を許され、4人扶持(年間7.2石、1,080kg)の待遇を受けていました。初代順庵は正がいた俳人でもあり、「日本外史」を著わした頼山陽とも親交があったそうです。
二代順庵には小野藩主一柳家の侍医大島元道を始めとして多くの医師の親族がいました。
また、現在米田橋の近くに移設されている上の写真「観月碑と「腰掛石」(加古川市史第2巻541ページ)をつくった人物です。
この句碑は、二代順庵が文化年間(1804-1817)に松岡青青蘿(せいら)の弟子で米田村神宮寺住職の栗本玉屑(くりのもとぎょくせつ)、等と相談して、加古川(旧西加古川下流部の洗北川)右岸の米田堤の川面に月が映える景勝地に、俳講仲間の集いや往来の人たちの休憩所として「観月亭」を建てました。のちに現在の米田交番近くの場所に移転されました。
喜多公綺
三代順庵は、18歳から大阪で3年間内科と外科の西洋医学を勉強したのち砂部村で開業し、また茶道や華道に秀でており村人たちが教えを受けました。
明治6年から学校の教師になり、印南郡医師会の会長に就いています。
また、明治の初め頃に砂部村で私塾(寺子屋)を開き、10人に読書、習字、算術を教えています。
その住居は砂部村の北端にあり、昭和の初め頃まで自宅で診療を行なっていました。 大正8年生まれの私(喜多正人氏)の母は、小さい頃そこで診察を受けた記憶があるとのことでした。
その後同所は弾丸列車(のちに加古川バイパス)の用地となったため、同家は昭和20年頃現在の場所に移住しました。
薬師堂境内には傾いて今にも倒れそうな大きな石碑があります。石の表面は風化が進み文字はほとんど判読不可能ですが、喜多家に原文が残っており、三代順庵が還暦を迎えた祝いに、その業績を称えた門人たちにより明治43年4月に建てられた顕彰碑と判明しました。
*写真:観月碑
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