前号の「家紋石」を見学した帰りに、ボランティア方が作られたのでしょう。石の宝殿界隈の説明板を見つけました。
石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(16)
魚橋古窯跡
高砂市阿弥陀町魚橋の地蔵山の東斜面に続く台地から、すさまじいまでの量の古瓦の破片が出土しました。地元の人は、ここを「カワラッシャ」と呼んでいました。
・・・・
これらの古瓦の研究から意外な歴史が浮かび上がってきました。
瓦の様式からみて、ここで瓦が生産されたのは12世紀の初頭から13世紀のはじめにかけての、ほぼ100年間です。
つまり、古代から中世へと社会が大きく変動した100年間に限って盛んに瓦を生産したしたことは、何を物語っているのでしょう。
六勝寺
京都・六勝寺(ろくしょうじ・りくしょうじ)は、京都東山の岡崎周辺に建てられた寺で、古代末期、時の専制者(天皇・上皇)の造寺等が思いのままであった時代の建造物です。
六勝寺の研究は、昭和30年代に入って急速に進み、意外な事実が明らかとなりました。
六勝寺の瓦には、魚橋窯跡から出土する瓦と全く模様の瓦が多数含まれていたのです。
古瓦の研究者、魚橋窯で焼かれた瓦が六勝寺に供給されたのではないかと推測されました。
魚橋瓦は、六勝寺だけではなく、さらに広く京都の大寺、宮殿に送られたようです。
六勝寺自体が、古代末期の院政の象徴とも考えられる存在で、魚橋窯からこの地域は院政とよほど深く関係していたんですね。
(注) 六勝寺:院政期、天皇や中宮の発願で鴨川東岸の白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院。いずれも「勝」の字がつくので六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)と総称されました。
*写真:石の宝殿周辺の観光ガイド(説明板の一部)、現在、古窯跡に「東洋金属熱錬工業所」が建設され、古窯跡の面影は偲ぶことはできません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます