今日の噺は、「石の宝殿も高砂」も登場しません。次回の話題の都合上、江戸時代も終わりのころの蝦夷地(北海道)を取り上げます。ご辛抱ください。
石の宝殿の謎(2部) 石の宝殿界隈を歩く(17)・松前藩
松前藩は悪の組織・「場 所」
「場所」というのは、そこで漁業や商業を営んでよいという藩の縄張のこことです。
松前藩は、蝦夷を八十余か所の「場所」に切り割って、これを藩士にあたえました。
「松前」という藩は、広大な採集の宝庫の一角を占め、その「場所」で働くアイヌに苛烈な支配を実施しました。多くのアイヌが命を失いました。松前藩は、まさに悪組織という外ではありませんでした。
松前藩は、みずからの藩や藩人個々の利益になること以外に、どういう思想ももって
いなかったのです。
松 前 藩
松前藩が、北海道という広大な地を支配しながら、山ばかりの松前半島の南端の松の地を根拠地としているのは、蝦夷に対する自信のなさのあらわれでした。
すでに、(高田屋)嘉兵衛は、「箱(函)館」という土地があることをきいていました。
道南のほぼ中央に位置し、大湾にかこまれ、港としてもわるくない土地のことです。
それに、箱館の背後には亀田平野という広大な平野があり、もしそこで城下町を営めば野菜の供給にも事欠きません。
松前藩は、アイヌからの襲撃をおそれていた
しかし、松前藩はアイヌに対して苛烈な支配をしていました。
野が広大なだけに、もし蝦夷が押しよせた場合、防禦がしにくかろうという規準になると、まったく問題がべつになります。
松前の地ならば、往来の山路はわずかしかなく、小人数でそれらをおさえておくだけで、安全です。
かなわぬときは津軽半島へ逃げてゆくのに、もっとも便利な土地でした。
松前は、山がせまり、城下町の形成には窮屈な上に、わずかな平野があるだけだけの土地でした。
当然「反抗があるかもしれない」と考えました。守備は十分ではありません。
そのため、松前藩は守りやすいという一点だけで、この松前を城下にしていたのです。
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