gooブログはじめました和!

写真付きで日記や趣味を思いつくまま気の向くままに。

川原寺跡(弘福寺)へ

2019-06-21 | 日記
ウチワサボテン、挿し木3年目にして開花。一週間前から咲き出して種の出来る様子も解ってきた。触れた瞬間に柔らかい棘が突き刺さり、柔らかいと言っても痛い。バラの棘とは違って扱い難くて少々悩む。
でも、せっかく綺麗な黄色い花を見せてくれるサボテン故に見切るわけにはいかないなぁ~。

今日は明日香村の川原寺跡(国の史跡)に行ってきた。甘樫丘や飛鳥寺、石舞台や岡寺etc.沢山の名所旧跡が在る明日香村を何回も訪れていたのに、川原寺(かわらでら)は初めてだった。新聞で読み、川原寺跡・弘福寺(ぐふくじ)のご住職に会いたくなったのである。


  6月21日(金)
吉野線飛鳥駅に降りて「かめバス」に乗り「川原」で降りるとすぐ目の前左手、庚申石碑のところに写経道場・川原寺の案内矢印があった。
門をくぐると笑顔で迎えて下さり、本堂(中金堂)に案内してくださった。
ご本尊十一面観音像と弘法大師作の持国天と多聞天(重文)、そして十二神将(平安時代)が祀られていた。カラフルな牛の神将だけは後世に造られたのだそうだ。
9世紀に弘法大師(774~816~835年)が朝廷より川原寺を賜り、京都と高野山を往復する際の宿舎として使われていたそうで、境内には大師堂もあった。

      (画像はクリックすると拡大する)

飛鳥時代、川原寺は飛鳥寺・薬師寺・代官大寺と並ぶ四大寺に数えられていたそうだが、三度の焼失で五重塔や金堂や講堂、僧房等全てがなくなったという。弘福寺と呼ばれる今のお寺は川原寺の跡地に中金堂が江戸時代に再建されたお寺らしい。
確かに周囲に残っている礎石はかなり広範囲に及び、1200年の歴史を感じる雰囲気があった。
平城遷都に伴って飛鳥寺は奈良市の元興寺として、薬師寺は西ノ京の薬師寺に、そして代官大寺は奈良市の大安寺としてあるのは我々の知るところである。これだけの大きなお寺が何故この地にとどまったのか?理由は誰にも解らない大きな謎だそうだ。

          

673年天武天皇が国家安寧を願って川原寺で写経をさせた日本初の写経の記録が日本書紀にあるそうで、今のご住職が2年前から境内で写経道場を開かれたそうだ。
お父様である先代のご住職の後を継ぐ決心をされ、生まれ育った大好きな飛鳥を世界の人達に知ってもらいたいと熱く話しておられた。

写経のお部屋は床の間のある畳敷きの和室。硯箱の中に墨と硯石と筆、墨汁、他に筆ペンも置かれていて、「お好きなのを使って下さい。筆にされますか筆ペンにされますか?」と尋ねてくださった。字には特に自信のない私、ちょっと迷ったが筆を選んだ。「墨を磨って下さっても墨汁でも、どちらでもいいですよ。」
緊張していた私は墨を磨る程の落ち着きを持っていなかったので墨汁を使ったが、心得のある人は筆もきっと愛用の自分のを持参するのだろう。

爽やかな緑の風を感じながら、小鳥のさえずりを耳に、顔を上げれば床の間の掛け軸・山水画を目にし、田園風景に囲まれた静かな部屋でひとり筆を運んだ。
こんな体験に感動しながら、慣れない筆に手が緊張して不器用な手が更に“ぎこちなく”なり、より下手な字になった。(笑)
心で書けば良いんだと自分に言って聞かせて般若心経276文字を書き上げた。令和元年六月二十一日の日付けを入れるとホッとした。

丁度その時3人連れの参拝者が来られ、窓から左手に甘樫丘、右手に飛鳥寺の屋根を眺めて「蘇我入鹿(そがのいるか)の首塚」の逸話になった。
飛鳥時代の豪族、蘇我氏が政治の実権を握って好きなように振る舞っていたのを、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣《藤原》鎌足(なかとみのかまたり)が、天皇中心の政治に戻そうとして蘇我入鹿の首をはねた事件。場所は板蓋宮(いたぶきのみや)、そして、その首が飛鳥寺まで飛んで行った話である。

645年「乙巳の変」(いっしの変)と言うそうで、645年「大化改新」と思っていた私に誤りがあったのを知った。(笑)
時の天皇は皇極天皇(こうぎょくてんのう)、642年に夫である舒明天皇(じょめい天皇)の崩御により即位した天皇である。大臣の蘇我蝦夷(そがのえみし)に新宮殿の建設を命じたのが板蓋宮(いたぶきのみや)で、643年に遷っている。
645年の事件が「大化改新」ではなく、「乙巳の変」から始まった政治改革が「大化の改新」である事を認識。遅ればせながら賢くなったよ。3人の参拝者にありがとう!(笑)

話は脱線するが登場人物を整理すると、皇極天皇は蘇我入鹿が殺害された「乙巳の変」で退位して同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位する。が、孝徳天皇の崩御にともない、再び天皇に即位し、斉明天皇となった。歴史上、天皇の生前退位は645年これが初めてという。2019年4月30日、平成時代の昭仁天皇(あきひとてんのう 85歳)が生前退位され、5月1日徳仁天皇が(なるひとてんのう 59歳)が即位され令和時代になって2ケ月足らずの今である。

中大兄皇子は舒明天皇と皇極天皇の子で、後の天智天皇であるよな。次の天皇・天武天皇は天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)。
思えば私はこの辺りから天皇の系図がややこしく、名前が覚えられずに歴史が嫌いになった様な気がする。。。。。

今日私は、中大兄皇子が母の斉明天皇の為に建てたという川原寺の跡地に建つ弘福寺に来て、香具山を真正面に眺め、反対方向に甘樫丘や飛鳥寺の屋根を眺め、確り気持ちを明日香村に落ち着かせてこそ真剣に楽しく学ぶ気持ちになったのである。(笑)


境内に残る礎石は当時には珍しい貴重な瑪瑙(大理石)だそうで、石に触れ、塔跡の基壇に上がり、かつての金堂の基壇を歩いてからバス道に出て、かつての南大門や中門の礎石を振り返り、飛鳥の歴史を私なりに感じ取って満足した。

道路を挟んで目の前の橘寺に来る沢山の人達も川原寺の歴史を知れば、きっと来たくなる川原寺跡・弘福寺ではないだろうか・・・・・



































この記事についてブログを書く
« 福知山城へ | トップ | 忍性さん開眼法要 »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事