OGUMA    日々軌 小熊廣美の日々新

規格外の書家を自認している遊墨民は、書は「諸」であるという覚悟で日々生きている。

気楽に綴らせていただきます。

麦の秋

2016年06月11日 | 文化・芸術
90回目の草月の大々的ないけばな展を新宿タカシマヤでみたとき、一枚だけアイフォンで撮らせていただいたのをここに。
確か、渡邉さんという東北の方の作品だったか。

お花の世界も、草月創始者の勅使河原蒼風らの造詣という意識は今もなお健在であるようだが、蒼風らの時代の前衛的造形意識という印象はない。書も含め、前衛というジャンルはあっても、前衛を感じさせる作家はまれなのと同じ。そういう時代になっているのだ。


蒼風の御子息で三代目家元となった宏さんは、竹のインスタレーションが大きく大胆で新鮮だったが、そのお嬢様で四代目の茜さんは竹を扱っても大胆ななかにも繊細さを感じさせていた今回。

ほかの流派でも、お花というなかでの造形は、花を使わないものまででてきた。そして、そこには、造形だけではなく、映像や音楽という要素まで入るようになってきた。
書も文字を書かないで、書というジャンルにあるのとまた同じであるようだ。

他のジャンルと同じように、パフォーマンスがあるが、競い、優越をつける花バトルまででてきている。書も同じか。


今は、その伝統にどっぷりつかり鑑賞するほどの精神的な余裕は感じられず、何か目立ったこと、目新しいことに目が行く時代になった。

お花のいくつかの展覧会をみて、これでもかこれでもかという制作態度を多く感じ、食傷気味になっている。

そんなとき、いま野にあってみなぎる麦の穂をつなぎ合わせて塊りにし、洋風の赤紫の花を大胆に挿した一つの小さな作がその時の私の感性にとてもここちよく感じたのだ。

日本文化は、それっぽければ、それでいい、となってしまったようなところがあるが、一個人の作家は、今と真剣に対峙しなくてはいけないのだろう。
言葉ではたやすいが、そう簡単ではない。他人事ではない。




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