彫刻にはもっと肝腎な根本生命がある。詩の魂である。立体感を重んずる余り、一にも二にもその事ばかりで彫刻を律していると、いつの間にか彫刻の生命が無機的なものとなる。
と高村光太郎は綴る。
書にも同じようなことが言えそうである。
続けて、
芸術の総勘定としての生命がかえって圧しつぶされてしまう。
と綴って、さらに、
量の問題は彫刻の本質の問題であって、彫刻の内的生命の問題ではない。立体感ばかりで彫刻は生きない。
と。書も本質はみたがるが、内なる書の生命をどこにおいて現代の書は歩んできたのだろうか。
その立体感をまでも生かすのは彫刻家の内にある詩の魂である。
と光太郎。注釈が続く。ここの注釈は大事である。
ここに詩というのは、必ずしも文学の謂ではない。いわゆる「詩的」なという事ではない。詩的にあつかえというのでは尚更ない、あの一つのものの事である。これがあるからこそ、そもそも彫刻もはじまるのである。この根本無くして何の立体感ぞ。……
と続く。
また、こうも綴る。
……構造が無くとも指を指らしく作ることは出来る。関節があり、指の腹があり、爪があれば、指には違いない。けれどもそれは指だという記述に過ぎない。……
造形的構造がなければ指として存在しない、と。書の世界にも通じそうな話である。
それっぽい文化症候群時代では、うけそうにない話しかもしれない。
ここまで読んでくれた方は、「昭和」度が高い?
と高村光太郎は綴る。
書にも同じようなことが言えそうである。
続けて、
芸術の総勘定としての生命がかえって圧しつぶされてしまう。
と綴って、さらに、
量の問題は彫刻の本質の問題であって、彫刻の内的生命の問題ではない。立体感ばかりで彫刻は生きない。
と。書も本質はみたがるが、内なる書の生命をどこにおいて現代の書は歩んできたのだろうか。
その立体感をまでも生かすのは彫刻家の内にある詩の魂である。
と光太郎。注釈が続く。ここの注釈は大事である。
ここに詩というのは、必ずしも文学の謂ではない。いわゆる「詩的」なという事ではない。詩的にあつかえというのでは尚更ない、あの一つのものの事である。これがあるからこそ、そもそも彫刻もはじまるのである。この根本無くして何の立体感ぞ。……
と続く。
また、こうも綴る。
……構造が無くとも指を指らしく作ることは出来る。関節があり、指の腹があり、爪があれば、指には違いない。けれどもそれは指だという記述に過ぎない。……
造形的構造がなければ指として存在しない、と。書の世界にも通じそうな話である。
それっぽい文化症候群時代では、うけそうにない話しかもしれない。
ここまで読んでくれた方は、「昭和」度が高い?
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