OGUMA    日々軌 小熊廣美の日々新

規格外の書家を自認している遊墨民は、書は「諸」であるという覚悟で日々生きている。

気楽に綴らせていただきます。

二世

2010年01月12日 | 書道・筆文字
小5の長男、明日、校内で書初め大会があるのを知って、妻は
「練習しなさい!」と。
「いいよ、もう……」
「いいじゃなく、やれっていってんだよ!!」
「(冬休みの宿題だった書初めの課題は)終わってるし!」
「あれじゃひどすぎるから、書けっていってるんだよ!!!」
「えー、あれ上手いよ、○○より、○○より、○○より上手いし」(下には3人ほどいるらしい)
「上手いとか下手とかの前に、お前のそういういい加減なところが許せないといってるんだ!!!!」
「アー……」という調子で子どもはいやいやお習字練習に。
もちろん、私も付き合わされることになる。

数ヶ月前、学校で個人面談があり、妻は担任から長男のことを、
「とってもクラスでもみんなと仲良くやってるし……」と担任は、勉強はさておき、いいところをみてくれている。続けて
「ただ、字がね(ひどいですよね)……。お父さんはねえ(書家なのにね)……」
「ええ、まあ」と言うのがやっとの妻。

私は鉛筆の持ち方も矯正する。講座では。でも家では無能である。「いいんだよ!!!」といって、とんでもない持ち方で、いい加減に書く長男。
(私の生徒のつめの垢でも……と思う日々)

書道界では、二世、三世も多い。政治の世界といい勝負か。ただ、なかなか芸術性の深いところでは先代を超えられるか、というと難しいところもある。技術はそこそこにやれば伸びるので書家にはなれる。(書を続ける環境があれば、とりあえず書家にはなれる)
大きいのは、今まで書道業界でそのトップ(さまざまなトップがあるが)に立てば、「食える」職業であった。それは誰かが引き継がなくてはならない状況がある。

でもそういうのが書の堕落を招く要因になることもある。
芸術は一世である。二世、三世も、それを肝に銘じて精進するしかない。
うちは早いうちにその芽を摘んだ?
コメント
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