犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第8章「学問」より

2008-04-30 17:29:04 | 読書感想文
(青山学院大学・瀬尾佳美准教授のブログ発言について、『新・考えるヒント』の記述を適当にいじって、新しい文章を作ってみました)
 

第8章 学問 (p.115~)

瀬尾佳美准教授は、大阪大学理学部物理学科卒業、マサチューセッツ州クラーク大学修了、筑波大学社会工学研究科修了という輝かしい経歴の持ち主である。さらには、独立行政法人国立防災科学技術研究所客員研究員、および青山学院大学WTO研究センター研究員も務めており、我が国の知性を担う優秀な人材である。彼女は光市母子殺害事件の判決について、次のように語っている。「元少年が殺されれば、報復が果せた遺族はさっぱり幸せな思いに浸るに違いない。自分の血を吸った蚊をパチンとたたき殺したときみたいにね。それだけは喜んであげたい」。私は、我が目を疑い、もう一度最初から読んだ。しかし、輝かしい経歴を持ち、学問の府である大学の准教授を務めている方のブログには、確かにその通りに書いてあるのだった。

瀬尾氏には、『リスク理論入門 ― どれだけ安全なら充分なのか』という著書がある。いわく、我々はリスクをどうやって避けたらよいのか? 安全と便利のバランスは? リスク削減のコストは誰が負担すべきなのか? 自己責任か政府の責任か? そもそもリスクとは避けるべきものなのか?・・・ 言うまでもなく、これらは誘導尋問である。我が身にリスクが降りかかる恐怖、そしてリスクが降りかからない偶然を問うているならば、このような問いはあり得ない。すなわち、学問とは学説を身につけることではなく、学説を提げて人生に臨む態度である。この態度なり決心なりは、「リスク削減のコストは誰が負担するか」といった研究をしている学者には無縁のものだろう。そう言われても、彼女には何のことやらわかるまいが。

瀬尾氏はブログの中で次のようなことも書いている。「本村洋氏の意見陳述も、『死ね』という以外のメッセージは何もなく、同情はするが共感はしない」。これはまさに、瀬尾氏の研究業績そのものである。予期せぬ災害や事故は毎日のように発生しており、今や我々はゼロリスク神話から科学的思考へ移行しなければならず、ソフト型対策とリスクコミュニケーションを実施しなければならない。そして、環境経済学や環境リスク学の立場から、合理的なリスクの管理方法に指針を与えるのが「リスク論」であり、現代人はグローバルリスクへのアプローチをしなければならない。従って、ある程度の確率で殺人事件は起きるのだから、いちいち感情的に騒ぐのは愚の骨頂である。遺族も国民の1人として、殺人のリスクを負わなければならないのは当然であり、今回の場合には死刑というコストは大きすぎる。なるほど、実に筋が通っている。

リスクを確率論によって捉え、客観的に数値化したのは、専門家のひとつの功績である。しかし、実際に予期せぬ災害や事故のリスクを受けてしまった者の運命と苦悩、これはいったい何なのか。自分すなわち存在の謎を問い詰めてゆくなら、これ以上本質的な問いはあり得ないはずのこの問いを、彼らは所有していないことが多い。果たしてこの世に、数学的な確率論に依拠しながら災害や事故に遭遇している者がいるというのか。そんなことができると思っているのは、己の心を謎と感じたことのない偽物の学者だけである。人生に避けがたく降りかかるリスクという、人間について一番大切なことを説明しなければならない学問が、リスクの数値化の本質的な困難について何の呟きも現してない。どころか逆に、まさにそのことが学者たちを元気づけているとは奇怪なことだ。自らはリスクの外に立ち、リスクを受けた者を客体化して「同情はするが共感はしない」と言い放つ世界は、ちと居心地がよすぎる。

近代以降、制度として整備された大学は、覚悟という言葉の意味すら解さぬ愚者の楽園となり果てた。別に学問をしなくてもいいのだが、生活は保障されるからという理由で大学にいる者たちの言葉が、世間から侮られるのも当然である。我々はリスクをどうやって避けたらよいのか云々とうそぶく者たちの言を、私は全く信用していない。リスクという抽象概念を実体化した上でそれをマネジメントするという神話を信じる者だけが、科学的な「リスク論」を研究することができるからである。死刑の威嚇効果を殺人のリスクに対するコストと捉えるならば、被害者を数値化して「1.5人」「1.7人」といった形で計算することは、極めて科学的に優れた思考であり、グローバルリスクへのアプローチとしても有用である。しかしながら、人間がリスクを管理すべきであると態度は、その発想において最初から倒錯している。そして、リスクの発生頻度や影響度の実証的評価という身振りが、人間の生命や死の数値化という亡霊を生んだのである。

東野圭吾著 『流星の絆』

2008-04-29 15:14:02 | 読書感想文
作家の東野圭吾には、直木賞を受賞した『容疑者Xの献身』を初めとして、犯罪に関する小説が多い。しかも、犯罪者の心理だけでなく、捜査官の心理、さらには犯罪被害者遺族の心理までもが瞬間的に言語によって描写されている。人間社会における犯罪の不条理さを語る場面において、小説家の言語感覚の鋭敏さは、専門用語に束縛されている学者をはるかに凌駕する。「被害者遺族の取調べによる二次的被害」といった思考パターンにはまって動けなくなったときには、小説家が思わぬ言葉を提供してくれる。


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● 警察官(萩村刑事)の心理描写

p.60 
ある時、疲れて戻ってきた県捜査一課の刑事が、壁に貼られた似顔絵を見て、吐き捨てるように言った。「この絵、本当に似てるのかよ」
それを聞いた瞬間、萩村は嫌な予感を抱いたのだ。この事件は永久に解決しないのではないか――。

P.253
弟や妹たちとは会っていないらしい。施設を出る時期がばらばらだったし、自分一人で生きていくだけでも精一杯だったから、というのが功一の説明だ。
萩村の脳裏に、子供だった頃の三兄妹の姿が浮かんだ。励まし合い、手を取り合って生きていってくれたらと念じた覚えがある。現実はそれほど甘くなかったのだな、と胸に痛みを感じた。

p.304 
刑事にとっては辛い質問だった。萩村としては、被害者の遺族に捜査の進捗状況を話してやりたいとは思う。だがその遺族が絶対に他言しないという保証はないのだ。その情報を目当てにマスコミが接近してくるのも、彼等にとって幸せなことだとは思えなかった。また、容疑者を推察した遺族が暴走することも防がねばならなかった。

p.309
萩村の脳裏に、幼い3人の姿が浮かんだ。何が起きたのかを把握しない少女、ショックのあまり口がきけなくなった少年、その2人に弱いところを見せまいと懸命に涙を堪えていた長男――
彼等が失ったものの大きさを考えると、事件を風化させるわけにはいかないし、時効成立などという馬鹿げた結末には絶対させるものかという思いがこみあげてくる。


● 被害者遺族(有明功一・泰輔)の心理描写

p.28
話しているうちに、突如胸の内側が燃えるように熱くなってくるのを功一は感じた。静奈の寝顔を思い浮かべたからだった。両親が殺されたという事実以上に、そのことを彼女に教えなければならないということに、彼の心は激しく揺さぶられた。どうしていいかわからなくなり、絶望的な気分になった。

p.135
「俺はさ、悔しくてしょうがなかったんだ。顔を見ていながら、何も出来なかったことがさ。あの顔だけは、死んでも忘れない。忘れようとしても、無理なんだ。あの顔を思い出さない日はない。夢に出てくることだってある。だから、記憶が変わったなんてことはない。絶対にない」

p.391
「過去の事件に、いつまでも縛られているのは、君にとってあまりいいことだとは思えないな。若いんだから、もっと将来のことを考えるべきじゃないか。こんなことをいっても無理かもしれないが」
「おっしゃる通りですよ」と功一は答えた。「そんなことを言われても無理です。将来のことを考えるのは、すべてに決着をつけてからです」

p.469
功一は唇を噛んだ。やりきれなさが増大したような気がした。博打や女性関係で作ってしまった借金を返済するため、という理由のほうが、まだましと思った。今はただ、犯人を憎むことに徹したかったのだ。

若い時から老後が心配

2008-04-28 21:00:12 | 時間・生死・人生
● 小噺その1 (面白くない)

会社員A : まったく、社会保険庁の職員はミスばかりだな。

会社員B : 気持ちがたるんでるからだろう。民間では考えられないミスばかりだ。

会社員A : まったくだ。そもそも公務員は厳しい競争もないし、リストラもないし、安定した収入が保障されてるからね。税金で食っていけるという地位だけが目的なんだろ。仕事の内容に誇りが持てないからミスが出るんだよな。

会社員B : 本当だな。ところで、お前んとこの息子、今度小学校に上がったんだっけ。将来は何になりたいって言ってるんだ?

会社員A : Jリーガーかお笑い芸人になりたいとか言ってるけど、まあガキのうちの夢だよな。やっぱり父親としては、俺達みたいな苦労をさせたくないというのが本音だね。親心としては、やっぱり公務員かな。



● 小噺その2 (洒落にならない)

司法修習生A : 俺はやっぱり弁護士志望だな。

司法修習生B : 俺は検事志望だけどな。お前は何で弁護士志望なんだ?

司法修習生A : 弱者の味方になり得るのは弁護士だけだからだ。社会正義というものは、国家権力によって押し付けられるものであってはならないだろう。お前は検事になって巨悪を暴くことを望んでいるのだろうが、それは検察ファッショの怖さを知らない奴の妄想だ。検事は絶対に弱者の味方ではない。

司法修習生B : なるほど。立派な心がけだ。まあ、俺が検事になりたいのはそういう理由じゃないけどね。

司法修習生A : 何だって? 社会正義以外の理由があるのか?

司法修習生B : 弁護士じゃ、将来国民年金しかもらえないからな。検事になれば国家公務員共済組合に入れるから、安定した老後が保障されるんだよ。

三島由紀夫著 『新恋愛講座』 「おわりの美学」より

2008-04-27 20:53:54 | 読書感想文
硫化水素による自殺が全国各地で相次いでいる。今回は、周辺の住民が体調を崩したり、避難を強いられるなどの巻き添えのほうが問題となっており、「命の重さ」という抽象概念の出番すらない。周囲に迷惑をかける身勝手な行為については、2ちゃんねるなどの掲示板で「死ね」と叩かれるのが近年のお約束であるが、本人が死んでいるのだから笑い話にもならない。「自殺するときはせめて周囲に迷惑をかけないようにしてくれ」という本音が見え隠れする限り、「1つしかない命を大切にしましょう」という呼びかけは偽善となる。

ネットの掲示板などでは、「硫化水素が充満しています」「ガス発生中・入るな危険」などの貼り紙をするように指南されているらしいが、死に臨む態度としてはどうにも考えが浅い。形而上の「死」と、形而下の「近隣への迷惑」のギャップについて突き詰めて考える限り、このような死に方はできないはずである。死とは世界の終わりであり、必然的に近隣住民の消失をもたらすからである。死を選ぶという行為の定義において、そのような貼り紙をすることは背理である。また、そのような貼り紙をするという行為の定義において、死を選ぶことは背理である。

下記の文章は、昭和41年8月に三島由紀夫によって書かれたものであるが、生死に関する洞察である限り、平成20年においてもそのまま該当する。国電がJRになっても、電車は毎日毎日同じように走っている。自殺の防止にとって最も効果的なことは、逃げずに死を見つめることである。そして、周囲が生きているのに自分だけ死んでゆくことのバカバカしさを見つめることである。そうすれば、陸上自衛隊駐屯地で人質を取って籠城し、檄文を撒いて演説した後に割腹でもしない限り、人間は簡単に自殺などできなくなる。


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「おわりの美学」・「世界のおわり」 より p.234~

「世界のおわり」というのは永遠に魅力的な夢であります。死を宣告された癌患者にとって最高最大の夢は、自分の死ぬ時と世界のおわる時が偶然符合することにちがいない。もともと人間はみんな死すべき生物ですから、人間の最高最大の夢は、自分の死ぬ時と、世界がおわりになる時とが同時に起るということにちがいない。

それこそ公平なことだ、と彼には思われる。なぜなら、自分が死んだあとも、世界はこのまま変りなく、国電や地下鉄は毎朝満員の勤め人をのせて走り、東京タワーは東京タワーのあるべきところに立ち、パチンコ屋ではあいかわらずチンジャラジャラとやっていると思うと、ひどく不公平な気がするからです。みんなが生きているのに自分だけ死んでゆくのは、いかにもバカげている。

池田晶子著 『メタフィジカル・パンチ』

2008-04-26 20:22:51 | 読書感想文
(あちこちの文体を適当につなげて、聖火リレーに関する文を作ってみました)

何重もの厳重な警備に守られ、怒号が飛び交う中で行われる聖火リレーに何の意味があるのか。このようなことを考えるよりも、「聖火とは何か」を考えることが論理的に先のはずである。聖火とはただの火ではないのかと問えば、いや、そんなことはないとの答えが返ってくるであろう。いわく、聖火とは古代オリンピックが行われていたギリシアのオリンポス山で太陽を利用して採火され、聖火ランナーによって開催地まで届けられるものだ。この儀式には、ソクラテスやプラトンの時代からのルーツがあり、聖火はその辺に燃えている火とは全然違うのだと。確かにそのとおりである。しかし、それが一体どうしたというのか。

火とは何か。それは、物質と酸素が結びつくことによって酸化し、その酸化反応の過程で熱と光を発する現象である。それでは、聖火と呼ばれるところの特別な火は、いかにして特別な聖火になるのか。それは、人間の言葉によってである。次のような例を考えてみればいい。バスの中で責任者のミスで聖火の種火が消えてしまい、責任逃れのために慌ててライターで火をつけて誤魔化した場合、その前後の火には何か違いがあるか。何もないはずである。そして、その火が世界中から聖火だと思われれば、それはまさに聖火となる。平和の祭典であるオリンピックの儀式としては、それで一向に構わないはずである。

現に、日本の長野で燃えている火は、ギリシアのオリンポス山で採火された火とは全くの別物である。そして、フランスの聖火はフランス上空の酸素によって燃え、中国の聖火は中国上空の酸素によって燃えるに決まっている。これが同一の聖火であって、世界中を回ってきた聖火であると決められるのは、人間の言葉によってである。それゆえに人間は、その物質と酸素の結びつきに過剰な意味を与え、それを何重もの厳重な警備によって守り、その周辺で様々な歓声と怒号を飛び交わす。聖火の出発地を辞退した善光寺では、聖火の騒ぎを横目に、チベット騒乱での犠牲者を弔う法要が行われた。善光寺において静かに燃える蝋燭の火を見るがよい。

聖火をめぐる騒ぎはどうすれば抑えられるのか。それは、このような聖火リレーに何の意味があるのかを問うことではなく、「聖火とは何か」を問うことによって可能となる。それは、酸化反応の過程で熱と光を発する現象である点において、その辺のタバコの火と何も変わらないという身も蓋もない論理である。聖火が聖火であるという議論以前の大前提を疑わない限り、この喜劇はなくならない。現在の形の聖火リレーは、1936年に開催されたベルリンオリンピックにおいて、ナチスによって導入されたそうである。プロパガンダの天才と言われるドイツ宣伝大臣のゲッベルスが、大衆の感情を昂揚させるために、オリンピック発祥の地から火を運ぶというアイデアを思いついたらしい。さもありなん。

山田風太郎著 『あと千回の晩飯』

2008-04-24 20:55:24 | 読書感想文
光市母子殺害事件の元少年は控訴審において、弥生さんを姦淫した理由について、「山田風太郎の『魔界転生』という小説で、精子を女性の中に入れて復活の儀式ができるという考えがあり、生き返ってほしいという思いがあった」と述べていた。山田風太郎(1922-2001)の小説の一節がこのような形で登場することは、非常に残念な話である。実際に元少年にそのような形で読まれてしまったのであれば不幸であり、弁護団による防御の手段として用いられたのであれば失礼である。

18歳で罪を犯した元少年は、初めて死刑を宣告され、現在は世界がどのように見えているのか。27歳にして初めて自己の死が現実のものとして迫り、周囲の風景は変わったのだろうか。「人間はガンを宣告されると、桜の花がそれまでと違って見える」というフレーズもある。元少年が山田風太郎の小説を好んでいるならば、自らの死が具体的なものになったことによって、その思索が深まっていくものと思いたい。本村氏に出した「命尽き果てるまで謝罪を続けていきたい」との手紙が本心からのものであれば、死刑が執行される瞬間まで、謝罪の意志を持ち続けることが筋となるはずである。


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★p.43より
 自分と他者の差は一歩だ。しかし人間は永遠に他者になることはできない。
 自分と死者の差は千歩だ。しかし人間は今の今、死者になることができる。

★p.115より
 「人生に密着した死に方」とは、死の瞬間までいままでの全人生を背負い込んでいる死に方という意味だ。自分の手がけた仕事のなりゆきから心離れず、自分とかかわり合った人々への思い去らず、自分の全生涯を圧縮したような死だ。

★p.130より
 死だけは中途半端ですむことではない。死こそは絶対である。生きているうちは人間はあらゆることを、しゃべりにしゃべるのだが、いったん死んだとなると徹底的に黙る、未来永劫に黙る。
 あるいは死ぬ事自体、人間最大の滑稽事かもしれない。

★p.230~232より 適当に抜粋
 NHKのテレビ番組「生きもの地球紀行」のたぐいをよく見る。そして地の果てに棲息している生物たちの生活や行動に驚嘆する。こんな番組でさまざまの生物の生態を見ると、彼らの世界は決して楽園でなく魔界であることを知る。その生態の奇怪さに驚くよりも戦慄する。
 彼らは遊びで空を飛んでいるのではない。また消化のために野を走っているのではない。彼らの関心は餌の採取と、テリトリーの防衛と、求愛行動と、営巣分娩と短期間の子育てでそれ以外には全然関心がない。これだけのことをするのに彼らは必死だ。特に海底の世界の死闘は黙示録的だ。私は無神論者だが、宇宙の無限とこれらの生物の奇怪ぶりには神らしきものの存在を思わないわけにはゆかない。
 個体保存、種族保存のため、それのみのため必死に千変万化の工夫をこらしている彼らをやすやすと釣ったり、鉄砲で撃ったりして、それどころかまだ生きているものを焼いたり三枚に下ろしたりしてムシャムシャ食ったりしているのは人類だけではないか。地球を魔界に変えるのは人間だ。

光市母子殺害事件差戻審 45・ 「言葉のプロ」が言葉に負けた

2008-04-23 22:13:52 | 言語・論理・構造
法曹とは、法律という言葉を扱う職業である。そして、弁護士とは言葉のプロである。刑法199条の「人を殺した者」のたった6文字について、膨大な数の判例を読み、文献を読み、人生を賭けて解釈する。弁護団からすれば、言葉のアマチュアである遺族の言葉は論理ではなく感情で語られるものであり、取るに値しないはずであった。ところが、昨日の判決を受けた本村洋氏と安田好弘弁護士の会見を受けた多くの国民の反応は全く違った。本村氏は、妻子のみならず死刑によって加害者を含めた3人の命が失われてしまうことに言及し、この判決が社会を良くしていく契機となることを望んだ。これに対して安田弁護士は、判決は極めて不当であり、厳罰化を加速するものであるとして危機感を示した。どちらが論理的でどちらが感情的か、答えは一見して明らかである。

昨日の判決をめぐる多くのブログを見てみると、一般論としての死刑存置論と死刑廃止論とは別に、「司法の良識は生きていた」「裁判所は信頼に値する」といった安堵感と、本村氏の人格に対する賞賛の声が非常に多い。これは純粋に、思想の自由市場における言葉の力である。すなわち、「言葉のプロ」である弁護団が言葉に負けたことを意味する。本村氏は犯罪被害者の遺族として語ると同時に、1人の人間としての偽らざる言葉を語った。これは特殊な地位であるが故に、同時に万人において普遍である。これに対して弁護団は、あくまでも人権派弁護士の肩書きにおいて、部分的な正義の言葉を語った。人間の生死について、「人を殺した者」「死刑に処する」といった条文の中においてのみ語り、定義によって閉じられた世界で完結させようとした。このようなことになれば、当然大小関係によって、普遍が部分を包括することになる。プロが負けるのも当然である。

安田弁護士は、厳罰化によって死刑の適用が増えることを危惧している。しかしながら、これは記者が本村氏に対して「この判決で死刑に対するハードルが下がった事に対してどう思いますか?」との質問をしたのと同じく、視点があまりにも下品である。そもそも死刑とは、世界でたった1つしかない生命を意図的に奪う行為であって、ゆえに死刑論議は生命倫理を含む哲学的な問題でなければならない。死刑判決が増えたり減ったり、数字的な上下をもって政治的に争うことは、そもそも死刑の性質からして背理である。安田弁護士は長年死刑廃止運動に携わっていながら、その程度のこともわかっていないのかという印象である。これに対して本村氏は、上記の質問に対して、「何より過去の判例にとらわれず、個別の事案を審査しその案件に合った判決を出すという風土が司法に生まれる事を僕は切望します」と述べた。死刑廃止論の哲学としても、本村氏のほうが数段上であろう。

本村氏の9年間の苦悩は、すべては元少年の1つの犯罪から始まっている。元少年があのような行為を犯していなければ、すべては始まっていなかった。弁護団のように、閉じられた世界の中での部分的な言葉を語ると、この簡単なことが見落とされる。抽象論として厳罰化云々を論じるよりも、厳罰を受けるような犯罪をなくすことが論理的に先である。言葉のプロである弁護団は、自らその言語によって構築した体系を絶対化し、個々の人間を裁判における役割の中に当てはめ、その型の中に人間をねじ込んだ。そこでは、被害者遺族は感情的に厳罰を求める存在であり、大衆はその悲惨さに惑わされて死刑の拡大を望む存在である。このような状況において、昨日の判決に対する多くの国民の声は、この体系が部分的な正義に過ぎないことを明らかにした。本村氏と安田弁護士の記者会見は、論理の足場の強固さが格段に違った。本村氏は人間として語り、安田弁護士は肩書きにおいて語ったからである。


光市母子殺害、当時18歳の男に死刑判決…広島高裁(読売新聞) - goo ニュース

光市母子殺害事件差戻審 44・ 被害者の死は無駄ではない

2008-04-22 23:05:32 | その他
呉智英・佐藤幹夫著 『刑法39条は削除せよ! 是か非か』 p.197~
「おそらく犯罪被害に遭遇した人びとの唯一の支えは、加害者になされる『法の裁き』であり、そこで執行される刑罰である」


ここ数年、戦後民主主義の中で忘れられていた犯罪被害者がようやく思い出されてきた。刑事訴訟法においては意見陳述制度が設けられ、被害者や遺族の「心のケア」も進んできた。しかしながら、法の裁きと刑罰を離れた更生、社会復帰、赦しには意味がないばかりか、問題の中心を見失わせることになる。加害者に与えられる法の裁きなくして、犯罪被害者の保護も救済もあり得ない。

死刑の選択基準の1つとして、永山基準は「遺族の被害感情」を掲げている。ある法科大学院の教授は、広島高裁が死刑判決を選択した理由について、本村洋氏の被害感情が強かった旨を述べていた。この専門家の上から目線は抜き難いものがある。本村氏の一貫して揺るがない記者会見を見て、「被害感情が強い」としか受け取れないのでは、全く話にならない。本村氏が述べていたのは、元少年を死刑にせよという感情ではなく、彼は死刑にならなければならないという論理の必然である。

本村氏が「死刑判決は決してよいこととは思っていない。厳粛な気持ちで受けとめている」と述べていたように、判決は単純な厳罰化を志向するものではない。安田好弘弁護士は記者会見において、厳罰化の傾向に抗議するといったようなことを述べていたが、これも典型的なレッテル貼りからの批判である。安田弁護士には物事がそのようにしか見えないのであればどうしようもないが、裁判所も多くの国民もそのような図式には乗っていない。

今日の判決は、本村氏のみならず、これまで司法の壁に苦しめられ、裁判所から疎外され、軽い刑に泣き寝入りをしてきたすべての被害者と被害者遺族にとって意味がある。今日の判決によって裁判所の一つの正義が示されたとすれば、これまでに亡くなった被害者の死も無駄ではなかったことになる。このような悲惨な犯罪がなくなる社会にするために、すべての被害者の死が意味を持つことになる。改めて本村氏の精神力に驚嘆するとともに、陰ながら最大限の敬意を表したい。


光市母子殺害、当時18歳の男に死刑判決…広島高裁(読売新聞) - goo ニュース

光市母子殺害事件差戻審 43・ 死刑判決は後味の悪いものである

2008-04-22 13:12:28 | 時間・生死・人生
判決の後の喜びと怒りには、2種類のものがある。伝統的な喜びと怒りは、一市民が当事者として闘った後の判決である。例えば、民事裁判によって巨大な社会悪に立ち向かう。行政訴訟によって公権力の横暴に抵抗する。そして、刑事裁判において冤罪を主張し、無罪判決を求めて闘う。これが伝統的な判決の光景であった。そのような刑事裁判においては、無罪判決が出れば大騒ぎして喜び、有罪判決が出れば大声を上げて怒る。これは純粋に政治的な争いである。このような形式に収まるのは、裁判の当事者として判決に参加しているからである。

これに対して、犯罪被害者の遺族は、刑事裁判ではこのような形で判決に参加することはない。裁判所に対して闘う、加害者に対して闘うと言っても、これは法律を離れた比喩的表現であり、被害者はあくまで刑事裁判の当事者ではない。従って、政治的な争いを繰り広げることはなく、判決の後の喜びと怒りの内容も、伝統的な光景とは全く異質である。死刑判決が出なければ、悔しいよりも虚しい。そして、死刑判決が出ても、嬉しいと同時に虚しい。これが被害者遺族の遺族たる地位である。この哲学的難題を容易に扱えると思うのは、修復的司法の愚である。

当事者でない本村氏の闘いは、ようやく9年目にして死刑判決の形をとって結実した。本村氏も激しく悩んでいたとおり、死刑を望むとは、人の死を望むことである。にもかかわらず、この世には死が正義となり、生が不正義となることもある、この信念は決して揺らがなかった。そして、死刑判決によって初めて、新たに残酷な事実に直面する。元少年が死刑になっても、殺された被害者は永久に戻らない。伝統的な裁判所の前で垂れ幕を掲げて万歳三唱をする思考方法においては、この絶望は決してわからない。ところが、実証主義的な人権論は、この哲学的難題の問いすら矮小化しようとする。

死刑判決は、確かに後味が悪い。しかし、この後味の悪さこそが被害者遺族の遺族たる地位であり、その苦しみである。これは、仮に無期懲役刑が言い渡された場合のやり場のない怒り、悔しさ、虚しさを想像してみればわかる。本村氏は判決を前にして、亡くなった2人の墓を訪れ、「一つのけじめがつきそうだよ」と語り掛けたという。生きて死ぬべき存在である我々は、心の中で死者に語りかける。この行動形式は、いかなる政治的な争いをも超えて普遍である。本村氏の墓前での語りかけは、弁護団の数千数万の理屈を一瞬で吹き飛ばす。この裁判は、死刑しかあり得ない。


光母子殺害、元少年に死刑判決(gooニュース) - goo ニュース

光市母子殺害事件差戻審 42・ 人間はただ死刑を望むものではない

2008-04-22 12:14:08 | 国家・政治・刑罰
例えば、死刑が確実と思われる連続殺人犯が、警察官に追い詰められて自殺を図った。さて、被害者の手当てを差し置いても、この殺人犯を命を何としても救うべきか。死刑廃止国ならば答えは簡単であり、救命すべきであるとの結論が導かれる。それでは、死刑を存置している我が国においてはどうか。これも、法治国家である限り、その生命を救わなければならない。まずは、裁判において反省し、真実を話し、遺族に謝罪することが第一である。その上で、国家における正義として、極刑の存在を証明しなければならない。これが法治国家である。

我が国は8割以上が死刑の存置に賛成しており、死刑反対派からは「人権意識が低い」「人命軽視だ」との批判を呼んでいるところである。しかしながら、人間はただ死刑を望むものではない。殺人犯が現場で自殺を図った場合において、人間の倫理は、「何としても命が助かってもらわなければ困る」との方向の指針を示す。これは、死刑に賛成している人のみならず、被害者の遺族においても同様である。人間の倫理が望むのは、あくまでも国家による正当な手続きを経ての死刑である。この意味で、「死刑賛成派は中世の仇討ちの思想から成長していない」との批判は的外れである。

単に国家が被害者遺族の自力救済の代行、復讐権の満足、仇討ちの代理行使を行っているに過ぎないならば、殺人犯がその場で自ら死を選ぶことは喜ばしい。また、どこからともなく正義の味方が登場して、警察が逮捕する前にその犯人を殺すならば、大いに拍手喝采を受けるはずである。しかし、近代法治国家における多くの死刑賛成派や被害者遺族の倫理は、そのような幕引きを決して喜ばない。あくまでも近代国家が国家の名において、極刑としての死刑を宣告すべきだということである。法治国家における生きる者の正義感は、この形式のみによって維持される。

光市母子殺害事件における本村洋氏を初めとして、ほとんどの被害者遺族は、「殺せ」「死ね」などとは叫んではいない。真実を語ってほしい、自らが起こしたことの重大性に気づいてほしい。そして、他人を殺したことの罪は、自らの死に値することを知ってほしい。論理的に、理性的に、このような要求をしているのみである。被告人がこのような逡巡を経て初めて、仮に無期懲役であったとしても、遺族の心に届く謝罪が可能となるはずである。この意味で、死刑反対派から賛成派に向けられた批判の多くは、ポイントが外れている(もしくはわざと外している)ものが多い。


26枚の傍聴券に3886人 光母子殺害事件判決(朝日新聞) - goo ニュース