犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

湊かなえ著 『告白』 を題材に 刑法の答案を書く

2009-02-28 23:33:19 | 読書感想文
問題: 下村直樹、渡辺修哉、森口悠子の罪責を論ぜよ(特別法違反の点は除く)。

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1 下村直樹の罪責

(1)森口愛美に対する罪責
 下村直樹は、森口愛美に尻餅をつかせようとして、同人に電流が流れる財布を触らせ、同人を数分間失神させているので、暴行罪(208条)が成立する。
 その後、下村は愛美が生きているのを確認しながら、同人に殺意を抱き、同人が泳げない状態にあることを知りつつ、プールの水の中に投げ込み、同人を殺害しているので、殺人罪(199条)が成立する。

(2)コンビニエンスストアに対する罪責
 下村は、自己の手を剃刀で切って血を出し、その手でコンビニの所有にかかる商品を次々と触って回り、それらの商品を売り物にならなくしているので、威力業務妨害罪(234条)及び器物損壊罪(261条)が成立する。

(3)母親に対する罪責
 下村は、母親をナイフで刺して殺害しているが、この行為は殺人罪(199条)の構成要件に該当する。しかし、母親は下村を殺害しようとして目の前までナイフを突き立てていたことが認められ、下村が自己の生命を防衛するため、やむを得ず抵抗して母親を刺したことも認められる。従って、この行為は正当防衛(36条1項)により違法性が阻却され、不可罰である。

(4)罪数
 森口愛美に対する暴行罪は、近接した時間における一個の人格の発現行為であるため、混合的包括一罪として殺人罪に吸収される。コンビニに対する威力業務妨害罪と器物損壊罪は観念的競合(54条1項前段)となり、この罪と殺人罪とは併合罪(45条前段)となる。
 なお、下村は14歳に達していないため、刑事罰は科されない(41条)。


2 渡辺修哉の罪責

(1)森口愛美に対する罪責
 渡辺修哉は、事情を知らない下村直樹を利用して、森口愛美を感電死させようとして、同人に電流が流れる財布を触らせたが、同人は数分間失神するに止まっている。この行為は、下村を利用した間接正犯による殺人未遂罪(203条・199条・43条)に該当しないか。
 思うに、行為当時、一般人であれば認識し得た事情及び行為者が認識していた事情を基礎にして、一般人を基準に結果発生の危険性が認められる場合には、未遂犯が成立すると解すべきである(具体的危険説)。
 これを本件についてみると、確かにこの財布の殺傷力は不十分であった。しかし、渡辺は財布のかなりのパワーアップに成功していたのであるから、一般人を基準に考えれば、死亡結果発生の危険性は十分に認められる。よって、渡辺の行為は、下村を利用した間接正犯による殺人未遂罪(203条)に該当する。
 さらに、愛美はプールに落とされて死亡しているため、結果的に渡辺の殺意は実現されている。そこで、渡辺に殺人既遂罪(199条)は成立しないか。途中経過が当初の見込み大幅に異なっているため、因果関係の錯誤の処理が問題となる。
 思うに、客観的な因果関係については、行為の際に一般人の予測しえた事情と、行為者の予測していた事情を判断の基礎事情として判断すべきである(折衷的相当因果関係説)。そして、因果関係の錯誤についても同様の基準で判断すべきである。
 これを本件についてみると、愛美がプールサイドにおいて感電したならば、その衝撃で水中に転落して死亡することは、一般人において予測可能である。また、愛美が感電によって死亡しなかった場合に、下村が愛美を水中に投げ込むことも、一般人において予測可能である。よって、渡辺には殺人既遂罪(199条)が成立する。
 この点、下村にも単独犯による殺人罪が成立しており、単独犯が2つ成立するのは奇妙とも思える。しかし、これは錯誤論適用の結果であるから、不当ではないと解する。

(2)孝弘に対する罪責
 渡辺は、自己の小指を噛んで血を出し、孝弘の顔に血を塗っている。これは、人の身体に対する不法な有形力の行使にあたるので、暴行罪(208条)が成立する。

(3)綾香に対する罪責
 渡辺は、自己の血だらけの手で綾香所有の携帯電話に触り、物理的、感情的に本来の目的で使用できなくさせ、携帯電話が本来持っている機能を損なわせているので、器物損壊罪(261条)が成立する。

(4)北原美月に対する罪責
 渡辺は、北原美月の首を絞めて殺害しているので、殺人罪(199条)が成立する。また、同人の遺体を大型冷蔵庫に隠しているが、これは社会通念上の埋葬方法に反しているため、死体遺棄罪(190条)が成立する。

(5)瀬口教授、八坂准教授らに対する罪責
 渡辺は、不特定多数の生徒を殺害しようとして、中学校の体育館に爆弾を仕掛けたが、その爆弾はK大学理工学部で爆発し、瀬口教授、八坂准教授らを殺害している。この行為は殺人罪(199条)の客観的構成要件に該当するが、故意が認められないのではないか。具体的事実の錯誤における方法の錯誤の処理が問題となる。
 思うに故意責任の本質(38条1項)は、規範に直面しつつそれを乗り越えた反規範的人格態度に対する道義的非難にある。そして、規範は構成要件として与えられているので、認識した犯罪事実と発生した犯罪事実が構成要件を同じくする場合には、故意が認められるべきものと解する(法定的符合説)。
 よって、渡辺には殺人罪(199条)が成立する。

(6)罪数
 瀬口教授、八坂准教授らに対する罪については、死亡した人間の数だけの殺人罪が成立するが、これはスイッチを押すという1個の行為によってなされているため、観念的競合(54条1項前段)となる。そして、この罪と他の殺人罪2罪、暴行罪、器物損壊罪、死体遺棄罪は、すべて併合罪(45条1項)となる。
 なお、渡辺は14歳に達していないため、刑事罰は科されない(41条)。


3 森口悠子の罪責

(1)下村直樹、渡辺修哉に対する罪責
 森口悠子は、下村と渡辺をHIVに感染させて殺害するため、同人らが飲むはずの牛乳に、HIV感染者の血液を混入している。しかし、実際にこの方法によって感染する確率は低く、しかもその牛乳パックは桜宮正義によって事前に取り替えられている。そこで、森口には殺人未遂罪(199条)が成立するか。未遂犯と不能犯の区別が問題となる。
 思うに、前述の通り、行為当時、一般人であれば認識し得た事情及び行為者が認識していた事情を基礎にして、一般人を基準に結果発生の危険性が認められる場合には未遂犯が成立すると解すべきである(具体的危険説)。
 本件では、一般人を基準に考えれば、その牛乳によってHIVに感染する確率が皆無ではなく、牛乳パックが事前に取り替えられたのも偶然に基づくものであるため、死亡結果発生の危険性は十分に認められる。よって、森口には殺人未遂罪(203条)が成立する。

(2)瀬口教授、八坂准教授らに対する罪責
 森口は、K大学理工学部電子工学科第3研究室に爆弾を仕掛け、瀬口教授、八坂准教授らを殺害している。この行為は、建造物侵入罪(130条前段)及び渡辺を利用した間接正犯による殺人罪(199条)に該当する。
 この点、渡辺にも単独犯による殺人罪が成立しており、単独犯が2つ成立するのは奇妙とも思える。しかし、これは錯誤論適用の結果であるから、不当ではないと解する。

(3)罪数
 下村と渡辺に対する殺人未遂罪は、社会通念上1つの血液混入行為によってなされているので、観念的競合(54条1項前段)となる。また、瀬口教授、八坂准教授らに対する罪については、死亡した人間の数だけの殺人罪が成立するが、これは爆弾を置くという1個の行為によってなされているため、観念的競合(54条1項前段)となり、建造物侵入罪とは牽連犯(54条1項後段)となる。
 そして、これらの2つの罪は併合罪(45条前段)となる。


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刑法的評価の観点から人間の行為を見ると、人物が恐ろしくノッペラボーになる。しかも、一度こう見えてしまうと、元の顔が永久に戻らない。怖いことだ。

朝日新聞連載「人を裁く」 第4部・被害者の姿・(5)より

2009-02-26 21:32:23 | 言語・論理・構造
1月30日朝刊より

パリ・セーヌ川の中州、シテ島にある荘厳な石造りの裁判所。藤生好則さん(72)は「参審員の中で、娘が被害者から、我が子と同じ1人の人間に変わっていくのを感じた」という。文部省職員だった娘の朱美さん(当時25)は95年10月、派遣先のパリの自宅アパートで殺害された。男性2人が起訴され、1人に禁固10年、主犯とみられていた男性は証拠不十分で無罪。夫妻は軽すぎると感じたものの「参審員にあれだけ真剣に考えてもらった結果だから」と納得できたという。

好則さんは、裁判員制度と被害者参加は「コインの表裏」で、どちらも欠くことはできないものだと考えている。「第三者の目があることで、被害者も被告も自分の言うことが社会に通用するかどうかを意識するようになる。裁判に神はいないのだから、少しでも多くの目で被害者と被告の姿勢を見て、判断してもらうしかない」


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日本では、被害者参加制度と裁判員制度が5ヶ月違いで実施されることになった。この両者はそれぞれ沿革を異にし、論理的に「コインの表裏」となっているわけではないが、このメタファーには非常に含蓄がある。それは、裁判制度に多元的な視点を持ち込むという意味においてである。裁判に神はおらず、そのために人間は神を作ってきた。それが、「初めに言葉があった。 言葉は神と共にあった。 言葉は神であった」という新約聖書の一節に示されるとおり、閉じた言語空間の確立であった。この閉鎖的な神は、人間の瞬間的な洞察力や、それを表現する語彙力といった定義不能なものを排除してきた。そして、法廷の中で「構成要件・違法性・責任」という刑法の構造で対象を捉えた途端、その特権的な地位に立った者は、神の目を獲得した。被害者参加制度と裁判員制度には、この幻想やフィルターを破壊しようとする契機がある。

刑事裁判とは、単に起訴状に書かれている行為を被告人が行ったか否か、単にそれを確定するゲームの場である。白黒つける勝負の場においては、検察官も弁護士も勝負師であり、人を殺す覚悟がなければ死刑の求刑などできない。このような割り切りは、あくまでもこれが閉じた言語空間のシステムであり、数学的な人工言語の体系だからこそ可能となったものである。そこでは、被告人は内的逡巡などしてはならず、捜査官は攻撃されるべき対象であるとの一元的な世界が確立している。しかしながら、本来の世界は、その閉じた言語空間の外にある。人が人生として生きる時間は、数字で測定できない。「懲役10年」という数字は、単なる数字として見ればそれだけであるが、「その時に生まれた子どもが小学4年生となっているだけの期間」と言えば、急にリアルになる。それは、殺された者が生きられなかった時間を表すものであり、刑罰=国家権力による人権侵害としての懲役の時間ではない。すなわち、人間と人間とを結びつける根源的なものとしての、苦しみや悲しみを自ずから示すような時間である。

法律の専門家から述べられる両制度への反対論の多くは、閉じた言語空間を維持できないことへの危惧に端を発するものである。しかし、一元的な視点を前提に構築された言語体系よりも、多元的な視点に耐え得るだけの言語体系のほうがより強靭であることは言うまでもない。これまでの刑事裁判では、「捜査官の作文の捏造」の恐ろしさばかりが強調されてきたが、これはすべての言語は作文であるという言葉の恐ろしさに気付いていないが故の恐れである。開かれた言語空間においては、実際には交わされていない会話が交わされたことになり、実際に交わされた会話が交わされていないことになる。あるいは、実際にいない人物がいたことになり、実際にいた人物がいないことになる。これらの事実はすべて嘘ではなく、すべてが真実のつもりで述べられている以上、それは矛盾していることにおいて真実である。被害者も被告人も、自分の言うことが社会に通用するかどうかを意識するようになるメリットがあるのであれば、それは法律の専門家が心配しているようなデメリットを上回って余りある。

香川県立中央病院 受精卵取り違え事件

2009-02-24 00:03:22 | 実存・心理・宗教
1.自分の受精卵を別の患者に移植させられた女性の心情(推測)
院長らが3人並んで頭を下げて、「深くお詫び申し上げます。再発防止に努めます」というのを聞いて、あまりにバカバカしすぎて笑ってしまいました。勝手に努めて下さい。こんなことは誰でも言えるでしょう。いや、言っちゃいけないでしょう。私はこれまで、無理解な人達が少子化問題について適当なことを言うたびに、大声で叫んで泣きたくなる気持ちを抑えながら、傍目には前向きに生きてきました。幸せそうな子供連れの家族を見ると、ムラムラと殺意すら沸いてくることもありました。こういうことはあまり人前では言えないのですが、これは紛れもない事実です。もちろん永久に実行に移されることはないので、この程度のことは許してくれるでしょう。私は病院からのあまりに突然の説明に、これまで積み上げてきたものが足元から崩れ落ちました。立ち上がれるとか立ち上がれないとか、そんな生易しい話ではなく、立ち上がるための上下左右の感覚すら失った状態です。これまで抑えてきた殺意が、行くあてもなく、私の周りをウロウロしながら自らの運命を苦しめています。「天から授かった我が子」などと言えば、人工的な体外受精の場面には相応しくない言葉だと非難する人もいるでしょう。しかし、我が子が天からの授かり物でなければ、誰が不妊治療をしてまで我が子の生命の誕生を求めるでしょうか。

2.別の患者の受精卵を移植されて中絶した女性の心情(推測)
私は、自分のお腹の中で新しい命が育っているのを毎日楽しみにしていました。いずれ生まれてくる我が子は、私の生きがいでした。現在の日本では、片や人工妊娠中絶の件数が1年で27万件にも及び、その横で私達のように不妊治療に励んでいる人がいるのですから、矛盾した状態にあることは誰しも知っています。しかし、一人の人生は一度きりであり、数字で統計的に測れるものではありません。社会や制度の矛盾の問題は、他の誰でもないこの私が、この人生において我が子を生み育てるということとは何の関係もありません。私はそれだけに、里子を育てている方に対しては、言葉に表せないほどの尊敬の念を持っております。その反面、我が子を虐待したり「赤ちゃんポスト」に置き去りにする人は論外として、安易に妊娠と中絶を繰り返す若い人達には激しい怒りを感じています。芽生えた命をこちらの都合で勝手に処分することは、生命倫理的には殺人にも等しいものと考えておりました。私は今回、自分の人生の中で、たった一人でこの矛盾を抱え込むことになってしまいました。お腹の子が我が子ではないというだけで中絶をした私は、人殺しの汚名を着てしまったのでしょうか。世論が病院を責め、私に同情してくれればくれるほど、この唯一の事実が絶えず私を責め立ててくるのです。

3.受精卵を取り違えたかも知れない医師の心情(推測)
今回の最大の問題は、昨年11月に人工妊娠中絶をした後、謝罪を繰り返してきたにもかかわらず、2月になって裁判を起こされてしまったことです。もし裁判にならなければ、このようにマスコミに大きく報道されることもなく、病院や私自身の信用や社会的評価が下がることもなかったわけですから、事後の対応の不手際が非常に残念に思われます。病院にはこれまで約1000件の実績があり、私も人工授精の作業をほぼ1人で担ってきましたが、この実績まで否定するように言われるのはどうにも腑に落ちません。どの業界でもそうだと思いますが、この世の中の仕事というものは、マニュアル通りにやっていたらパンクします。マニュアルはあくまでも建前であり、理想論のようなものです。「作業台には1つのシャーレだけしか置いてはならなかったのではないか」「容器を色分けしたり蓋と本体の両方に名前を書いておかなかったのか」との正論を述べている方、あなたは自分の会社でどれだけ忠実にマニュアルに従って仕事をしていらっしゃるのですか。とりあえず、今の私にできることは、「気の緩みです。注意不足でした。厳しさが足りませんでした。非常に反省しています」と繰り返すことだけです。61歳にもなって、このようなことで足を掬われて経歴に傷が付くのは痛いですが、何とか信頼の回復に努め、イメージダウンを解消したいと思います。

4.中絶させられた子供の心情(推測)
私は誰でしょうか。結局、現代科学の最先端を尽くしても、受精卵の取り違えはあったかなかったかは確定できなかったようです。そうだとすれば、判明したとか判明しないとか、そのように他人事のように言っているのはどこの誰ですか。もし、担当医師が受精卵の取り違えをしていたのであれば、その受精卵の持ち主である両親の子供がこの私です。それでは、もし取り違えがなかったならば、私は果たしてこの私だったのでしょうか。逆に、もし担当医師が受精卵を取り違えていなかったのであれば、その受精卵の持ち主である両親の子供がこの私です。それでは、もし取り違えがあったならば、私は果たしてこの私だったのでしょうか。人々は善意からこう言うでしょう。もしも私が生まれてから、真実が判明してしまった場合の苦しみに比べれば、今回は最善の処置であったと。物心付いたときに、私がこのような人生を背負っていることがわかって愕然とすることを想像すれば、最初から生まれないほうが幸福であったと。しかし、この世に一度も生まれることがなければ、私には幸福も不幸もあり得ません。人間として生まれなかったことによって私と語ることができるこの私、一体私は誰なのでしょうか。受精卵を取り違えたかも知れない先生、せめてこの私に代わって、この問題を考え続けてはくれないでしょうか。

齋藤孝・山折哲雄著 『「哀しみ」を語りつぐ日本人』

2009-02-22 17:41:32 | 読書感想文
p.17~
私はいま、日本人がこれまで何百年という歳月の中で培ってきた感情が、急速に枯渇しているという印象をもっています。たとえば「哀しみに浸る」という言葉もあるように、哀しみという感情は、自分の心のなかに、液体のように貯めておくものだと思うんです。哀しみとは本来、じっくりと浸るべきものなのに、そこに浸るための十分な時間 ― すなわち独りの時間がうまくもてない。

p.21~
「ムカツク」という一語だけをもって、自分の心の“本当のところ”を探る道具とするには、あまりにも心許ない気がします。それは譬えていうなら、これから版画で板を彫り込もうとするときに、肝心の彫刻刀が一種類しか手元にない状態。要は、丸太の刃先の彫刻刀だけでは繊細なラインを彫り込むことができませんから、作品の仕上がり、この場合は感情の表出が、非常に大ざっぱになるわけです。

p.32~
たとえば仏教では、哀しみと苦しみが、人間にとってもっとも重要な感情だと説いています。また、かのイエス・キリストの立場になれば、おそらくは「貧しき者」と同じ意味で「哀しみ深き人、汝は天国に近い」という台詞が出てきそうな気がします。かたや日本の『古事記』に登場する英雄たちや女性たちの多くは、哀しみの感情に身をまかせて愛をうたっている。こうした文学表現は『万葉集』にも共通しています。万葉的な恋を表す言葉は「こひ」でした。万葉歌人はしばしば、この言葉に孤独の「孤」と「悲」という漢字をあてていました。

p.45~
あまりの不幸に崩れ落ちてしまうような“悲しみ”ではなく、慎みという心の張りを保った“哀しみ”の感情。しかしながら、いまやこうした“感情の起伏に流されまい”というような「張り」が失われつつあることと、現代人の哀しみの希薄化とは、何か連動するところがあるのかもしれません。
(「哀」は「口」+「衣」の会意兼形声文字で、思いを胸中におさえ、口を隠してむせぶことを表す。一方、「悲」は「非」+「心」の会意兼形声文字で、心が調和を失って裂けることを意味する。)

p.120~
哀しみの感情といったものも、自分と相手の身体が融け合うような感覚が基本になっているような気がしてなりません。人間が何かに共感するということは、それが身体で融け合える、言い換えれば心が一つになれるという感覚を抱くことなんだと思います。しかし厳密にいえば、そういった感覚をもちながらも、心は完全に一つになるのではありません。だから「孤悲」のように、独りで哀しみを自分のなかに貯め込むことになるわけですね。


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この本は、2003年(平成15年)の出版である。この年には、齋藤孝・明治大学教授による『声に出して読みたい日本語』シリーズがベストセラーになり、ちょっとした日本語ブームが起きていた。脳の活性化という不純な動機に支えられながらも、言葉のリズムを感じ、その美しさを感じる日本語ブームは、なかなか好ましいものであった。「私の言語の限界は私の世界の限界である」「語り得るものを記述することによって語り得ぬものが暗示される」というウィトゲンシュタインの断章にも通じるところがある。

これに対して、昨年からの漢字ブームには、この時のような深さがない。普段使わないような難しい漢字は、単なる「うんちく」のレベルであり、他人に一目置かれたいという動機が存在するのみである。1つの言葉を自分に対して噛み締めて味わうのではなく、漢字が読める自分を評価してくれる他人の目が主目的になっている。単に麻生首相の誤読に始まり、漢字能力検定協会の不祥事に終わってしまうような雰囲気である。

東京都江東区 女性殺害事件・無期懲役判決

2009-02-19 21:29:42 | 時間・生死・人生
東京都江東区のマンションで昨年4月、会社員の東城瑠理香さん(当時23)が殺害され、遺体が切断されて捨てられた事件で、東京地裁は18日、殺人罪などに問われた星島貴徳被告(34)に対し、無期懲役の判決を言い渡した。検察側は、切断されて捨てられた女性の肉片を大型ディスプレーに映し出すなどして残虐性と社会に与えた衝撃を積極的に立証し、死刑を求刑していた。また、公判では遺族が死刑を強く求めていたが、判決は「矯正の可能性がいまだ残されており、特に酌量すべき事情がない限り死刑とすべき事案とまでは言えない」と結論づけた。判決の後、遺族は涙で目を腫らして無言で法廷を後にしたが、星島被告は一度も遺族と目を合わせることはなかったとのことである。

この裁判は、裁判員制度の導入を目前に控えた我が国の刑事裁判において、裁判員が死刑と無期懲役の境界線上にあるケースにどう対応するのかという点から注目を浴びてきた。そして、この判決に対しては、例によって社会科学の視点からの解釈が優勢となっている。いわく「裁判員制度が始まれば、厳しい被害感情をあらわにした主張に強く反応する裁判員も出てくる。感情に流されて不当に量刑が重くなりすぎないか、裁判所には公平で適正な訴訟指揮が求められる」。「『劇場型裁判』に陥ることがないのか、裁判員制度は大きな課題を突きつけられている」。このような傍観者的・評論家的な視点からは、被害者の殺害による死、そして加害者の死刑による死という2つの死の生々しさが全く伝わってこない。この生々しさとは、もちろん物質的な遺体写真のことではなく、人間存在の絶対的消失に対する戦慄と畏怖のことである。

この裁判においては、被告人による遺体損壊の残虐さを強調するために、凄惨な写真がスクリーンに映し出されるなどし、検察側の手法に疑問の声も上がっている。ここでは、裁判員に与える影響と被害者参加人に与える影響が混同されている節もあるが、両者の問題は全く異なる。それは、2人称の死と3人称の死の決定的な差異であり、2人称の遺体は遺体の名で呼ばれるべきものではない。裁判員の問題は、いわゆる「グロ画像」への耐性のことであり、最高裁も心のケアなどのシステム作りを進めている。これに対して、被害者参加人の問題は、これまで共に人生を生きており、これからも共に人生を生きるものと信じており、一緒に生活し、信頼し合い、愛し合い、お互いに名前を呼び合ってきた、世界に一人しかいない「他でもないその人」が、魂が抜けて人格を否定された状態で、被告人の罪を裁くためだけに利用されていることに対する張り裂けそうな苦しみのことである。赤の他人である裁判員に配られた死体写真をすべて取り上げて、抱きしめて元に戻したくなることは、被害者参加人にとってあまりに常識的な心情である。

今後の裁判では、検察側が被害者の誕生から成長をスクリーンで紹介し、いかに犯行が許されないものであったかを視覚的に立証することが増えるものとされている。この点についても、裁判員が過度に感情に流されることはないのか、裁判員制度の課題であると言われている。しかしながら、専門家は本当の難しい問題を正面から見ようとはせず、いつも無意識のうちに逃げようとする。刑事裁判のテーマである起訴状記載の実行行為は、あくまでも法律の言語によって人為的に切り取られたものに過ぎず、その周囲における人間存在の深淵が消えることはない。ゆえに、スクリーンに映し出されるものは、「他でもないその人」の一生であり、存在であり、人生であって、間違っても肉体ではなく、ましてや肉片ではない。死刑と無期懲役とを分けるものは、法律論的には、単に被告人の犯行の悪質性や冷酷さである。しかし、死体と死は異なるものであり、よって死刑を死体によって語ることはできない以上、最後に被告人の死刑と釣り合うものは、形而上の人間存在だけである。

江花優子著 『君は誰に殺されたのですか ― パロマ湯沸器事件の真実』

2009-02-17 21:47:26 | 読書感想文
p.208~

パロマは社員や、パロマに関係するサービスショップもそれに関与していないと断定しています。もしそれが事実なら、パロマは自社製品を危険な修理をされて、死者まで出したわけですから、その「犯人」を、探さなきゃいけないでしょ。自社製品が殺人マシーンに変わったんですよ。それを、さも人ごとのように言い捨てる。そんな気持ちですから、通り一遍の注意書きを業者向けに配っただけなんでしょう。これが名の知れた企業のトップの姿勢だから、ここまで被害が拡大したんですよ。危険な器具を扱っているという認識の低さ、無責任さが今回のような事態を招いたことをあの社長は自覚しているのでしょうか。今回の一連の回収や点検によって、会社が赤字に陥り、その結果社員の削減。なんて愚かなトップでしょう。被害者は末端の社員まで及びますか……


p.225~

当該7機種の点検・交換などの対策費用は、200億円を超える見通しになる。また、8月初旬の販売台数は、前年度に比べ小型湯沸器が約50%の減少、ガスコンロも30%から40%の落ち込みがあった。そのため、名古屋市、岐阜県恵那市など4工場で働く非正規社員約100人を、9月中に解雇する方針を明らかにした。パートさんたちが解雇されるのは、私のせいなんやわ。みんなそれぞれに家族がいて、生活がある。この不景気な世の中で職を失って、どうなるんやろうか ―。そう聰子は自分を責めていた。そして、自分のとった行動が、これほどまでに世間を大きく揺るがしたと、恐れを抱くようにもなっていた。


p.249~

幾度となく、パロマにも電話をし、抗議や質問もしてきました。だからといって、どうしたいのか、自分でもわかりません。どんなことをしても、敦は帰ってきません。ただ、そんな行動をして、自分で納得したいだけなのかもしれません……。お子さんがいて殺されたら、どんな解決を望まれますか? 解決なんてありませんよ。いったい、この争いで、何が解決できるのか……。


p.276~

ママはただ、あっちゃんが何故死んだのか、それだけが知りたくて、それだけだった。それがこんな事に発展しようとは、思ってもいなかったよ……


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2月15日の読売新聞に、この本の書評が載っている。「大企業や警察、行政当局に単身で立ち向かう母親の執念に驚いた」。「真相が明らかにされる過程は、推理小説の謎解きのようでスリリングだった」。しかし、このような書評にはどうしても違和感が残る。山根敦さんの母親・石井聰子さんの意志は、恐らくこのようなものではない。石井さんは何も、大企業や警察、行政当局に好きで立ち向かっているわけではなく、このような人生を歩まされていること自体が耐えがたい苦しみである。それでも、息子の敦さんの人生を元に戻してほしいという唯一の願いを追求するためには、論理的にこれ以外の方法は考えられない。問題解決型の政治経済の理論は、どうにもこの種の問いをそのまま捉えるのが不得手である。

戦っている相手もよくわからない。解決策は見えない。取りあえずの解答も見えてこない。なぜ死ななければならなかったのか、それだけが知りたい。立ち直りも信頼回復も社会変革も虚しい。人の命はそんなに軽いものではない。このような形而上の生死の問いは、問う者の生活に支障を生じさせるのみならず、周囲にも支障を生じさせる。特に、この不景気な世の中で非正規雇用者を解雇することにつながれば、多くの人々の恨みを買う。ゆえに、この種の問いは抑えられ、無理やりに曲げて解釈される。そして、遺された者が怒りを通り越して諦めに達したとき、それは立ち直りであると勘違いされて評価される。現代社会の実利主義は、「最後に10分だけでも会いたい」「5分でも会いたい」「1分でもいい」という純粋な願いを、どれだけ邪険に扱ってきたことか。

朝日新聞連載「人を裁く」 第4部・被害者の姿・(4)より

2009-02-15 21:27:11 | 言語・論理・構造
1月29日朝刊より

裁判員制度の開始にあたって、刑事弁護を手がける弁護士の間には「裁判員が被害者と被告を『善と悪』の構図でとらえてしまい、被告の『推定無罪』の原則がおろそかにされるのではないか」「裁判員が被害者の訴えに同情して、被告側の弁護に反感を抱くのではないか」といった心配の声が根強い。若手弁護士は「被告は、どのような謝罪をすればいいのか想像できていないために、余計に遺族を傷つけていたように感じた」と話す。


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善と悪の構図は、権力者の鶴の一声で決まるものではなく、ましてや世論調査による多数決で決まるものでもない。善悪の区別は、善は自らを善と知ることにより、悪は自らを悪と知ることにより、自ずと生じるものである。これは、善人と悪人という人間の属性のことではなく、行為の属性の問題である。しかも、これは他者から与えられる義務ではなく、自らの本能的な欲求としてのみ沸き上がってくる種類のものである。「すべて私が悪いんです。許してもらおうとは思いません。どんな罪でも受けます。亡くなった方の命には代えられません……」。死者や遺族を前にして、このような言葉が述べられるのであれば、いかなる凶悪犯人の言葉であろうとも、聞く者はこれを瞬間的に「善」と感じる。自ら犯した罪に向き合うことは、自己否定の動きだからである。もちろん、これは善であるがゆえに言いにくい言葉であり、実際には言えないことが多い。

これに対して、「死者の側には重大な落ち度がある」「被告人は既に社会的制裁を受けており刑罰は必要ない」といった言葉も、非常に言いにくいものである。これは、言いにくさの方向性が逆を向いている。他者を顧みず、自己中心の弁解を正当化することについては、人間はなぜかこれを後ろめたいことだと感じる。そして、聞く者はこれを瞬間的に「悪」と感じる。また、ことの重大さを理解する能力に欠け、奥行きのない二次元の軽薄な認識であると感じる。従って、一般社会においては、死者や遺族を前にしてこのような言葉を述べる行動は、厳に慎まれる。誰に教えられたわけでもなく、人は「言ってはならないこと」は「言ってはならないこと」だと知る能力があるからである。これに対して、法廷の中では、この善悪のルールが意図的に逆転させられている。これは、人は内的倫理よりも欲望を優先することがあり、そのためには外的な道徳による規制が必要であり、しかもその道徳と法は峻別されて客観性を獲得したことに基づくものである。

一般社会と隔絶された法廷の中においては、それに応じた善と悪の構図が生じている。そして、それに基づいた特有の形の問いが生じてくる。そして、法廷内における善悪のルールの逆転を維持するために、制度を運営する側においては、被害者を刑事裁判のシステムに参加させたくなかった。また、被害者がこのような空間において逆恨みに遭い、二次的被害を受けることも目に見えていたため、被害者も裁判に参加しようとしなかった。裁判員制度と被害者参加制度の鍵を握るのは、この構造をフィクションと見抜く力である。それは、被害者と被告人の言葉の間の沈黙を読む力に等しい。犯罪行為に伴う両側における無数の名付けられない感情は、本来は沈黙として示されるしかなく、言葉は対象を実体化し、下手な言葉はあらぬ実体を作る。そして、謝罪の言葉には自分自身を騙すための保身が混入し、反省の弁は言ったそばから嘘になり、沈痛な表情は他者を意識して無理に作られる。このような中で、裁判員は切迫感と絶望感をどの場面で感じ取ることができるのか。刑事弁護を手掛ける弁護士が悩むべきはこの点である。

映画 『誰も守ってくれない』

2009-02-14 20:52:20 | その他
正義を実現し、悪を叩き潰す瞬間の高揚感は、人間にとって何とも言えない喜びである。正義は必ず勝ち、悪は必ず滅びる。この人間の生きがいが、人類の長い歴史を作り上げてきた。ある時代の人間社会は、犯罪者の一族を連帯責任で磔で処刑することによって正義を実現していた。またある時代の人間社会は、その反動として権力の糾弾を絶対的正義とし、関係ない者まで大集合して凶悪犯罪者を支援し、警察権力の打倒を目指してきた。そしてこの映画では、マスコミやネットが発達した現代社会の病理として、当事者でない者が被害者遺族に勝手に感情移入し、それが暴走することの危険性を描いている。さらには、加害者の家族へのバッシングによる理不尽な苦しみを丁寧に描く一方で、被害者の家族の背負い続ける深い苦しみにも目を向けている。この映画のテーマは多岐にわたり、論点も複雑に絡み合っており、一言で感想が語りにくい。単純な勧善懲悪では追いつかない、現代人が抱える正義の概念の混乱をそのまま描いている映画である。

近時は巨大掲示板への書き込みやブログ炎上による逮捕も珍しくなくなったが、ネットによる特定の者へのバッシングは、単なる愉快犯以上の恍惚感をもたらす。それは、単純な損得の問題ではなく、正義感の発現に端を発し、自己実現をもたらすからである。人間はいつの時代も楽しいことが大好きであるが、それに正しさが加われば鬼に金棒である。そこでは、不正義の側の者が嫌がれば嫌がるほど正義が実現されることになるため、攻撃はエスカレートし、歯止めが効かなくなる。「歪んだ正義」と表現されることもあるが、もともと人間の正義とはこのようなものである。その意味では、正義はいつも歪んでおり、暴走しなくても十分に危ない。明らかに強者から弱者に対するいじめですら、強者は「いじめられる側に原因と責任がある」との能書きを欲し、正義の側に立とうとする。善悪二元論において善に立つことが大好きな者は、悪を追及して改めさせることが大好きであり、そのために悪役を欲する。そして、いずれ悪役は「役」ではなく、れっきとした「悪」となる。

自然科学の分野で注目された複雑系のパラダイムは、政治経済や人間社会全般にまで適用されつつある。高度情報化社会における価値観の多様化は、相互の主義主張の並立を認め、寛容的な相互理解を促すものとして肯定的に捉えられてきた。しかしながら、正義はその定義において唯一絶対的かつ排他的であるため、善悪の対象の大混乱をもたらしてしまった。今の世の中では何が善で何が悪なのか、善悪が複雑に入り組んでいて非常にわかりにくい。しかも、ほんの少しのきっかけによって、善悪は簡単に入れ替わる。本来人間に備わっている正義感の強さは、ここで出口を失う。この不安を払拭し、自分が常に善の地位に立っていることを確認するためには、世間の多数派において悪とされている者を叩き続けなければならない。凶悪犯人が逮捕されれば、本人だけでなく家族をバッシングする。それによって、その家族が精神的に追い詰められて自殺したのであれば、自らを反省するのではなく、しっかり監視していなかった警察をバッシングする。かくして、正義は永久に正義である。

この映画に対しては、被害者の家族に感情移入する近年の我が国の傾向の中で、あえて加害者の家族に感情移入したものだとする評価もあるようである。しかしながら、マスコミの報道やネット社会が人間の手を離れて暴走することの危険性が描かれていることからもわかるように、これは単純な二元論ではなく、もはや価値観の相違と相互理解の問題を超えている。人間は、自分以外の誰かに感情移入しながらでなければ、自分の立ち位置を確定できない。その意味で、他者への感情移入は存在論の必然であり、誰に感情移入して主義主張を展開するかはさして重要でない。それ以前に、人間が善悪の評価を対象にあてはめるためには、事前に善悪の観念を知っていなければならない。それは、自らは善であると知ることによってそれは善となり、自らを悪と知ることによってそれは悪となるということである。従って、正義が正義であるならば、あえて不正義を糾弾して叩き潰す必要はない。「罪を憎んで人を憎まず」という格言には様々な解釈があるが、このような正義の危険性を述べたものであるならば、非常に的を射ている。

愛する者を喪った現実を受け入れないということ

2009-02-11 00:12:24 | 時間・生死・人生
「愛する者を喪った者は、すぐにその事実を受け入れることができない。しかし、時間が経つにつれて、段々とその事実が受け入れられるようになってくる。従って、周囲の者には、その立ち直りに協力することが求められる。もちろん立ち直りのスピードには個人差があり、急がせてはならないが、1日も早い立ち直りに向けて理解を示すことが必要である」。このような言い回しを耳にすることは多い。この善意の励ましには、疑われていない大前提がある。それは、主観と客観の単純な二元論である。すなわち、ある者の死という客観的な事実が動かぬものとして存在しており、それをなかなか受け入れることができない主観との間にズレが生じている、との捉え方である。ここには、人間は誰しもいずれは現実を受け入れる時が来ざるを得ないのであり、時間の経過によってズレは修正されるとの強い確信がある。ゆえに、いつまでも愛する者を喪った現実を受け入れないことは端的に誤りであり、「いつまでも悲しんでいると死者が浮かばれない」との励ましも一般的に広く聞かれるところである。

しかし、それほどまでに現実と言うならば、「現実を受け入れられないこと」も、れっきとした1つの現実ではないのか。一刻も早い立ち直りを求めている周囲の者が、「現実を受け入れられないという態度を表明している」という遺族の現実を受け入れられないだけではないのか。ある者の死という事実が、動かぬものとして存在するためには、死の瞬間という時間を固定しなければならない。すなわち、死者の死が客観的に存在するためには、その後に生きている全ての者において、主観的にもその死が受け入れられていなければならない。ある者の死という客観的な現実が動かぬものとして存在しているならば、それはどの時間の現実においてもそのように存在していなければならず、時間の経過によって変わる種類のものではないからである。ところが、主観と客観の二元論は、ここに人間の時間性を援用する。そして、本来は死を受け入れられない状態など一時でも認めるのは背理であるにもかかわらず、安易にその状態を想定し、時間の経過をもって問題を先送りする。

人間の時間性とは、物理的な時間の流れの中に人間が生まれてくるということではなく、その者が生きる時間が人間の時間だということである。すなわち、時間とは、1人の人間が生まれた瞬間から死ぬ瞬間までの間のことである。すべての時間は今であり、現在であり、現在は一瞬である。そして、人間の生には限りがあり、永遠に生きることはできない。逆に言えば、すべての過去は永遠に消えないため、人間は永遠の中に生きることができる。これは、死者が存在したという過去は、遺された者がさらに死者となっても永遠に消えないという意味である。自分自身の死の時を見据えて、その時までの時間を誰にもかけがえのない自己のものとして生きること、ハイデガーはこれを「本来的時間性」と呼んだ。過去を過ぎ去ったものとして忘却し、目の前のものを現前化していて生きている限り、「いつまでも悲しんでいると死者が浮かばれない」との文法は説得力を持つ。これに対し、一瞬が永遠であり、永遠が一瞬である絶望を知った者にとっては、このような励ましは意味を持たない。

ハイデガーは近代社会に生きる者の多くが自分自身の死から目を背けており、「非本来的自己」を生きているのだと断じた。自分は今日明日死ぬことはない、自分の死は遠い先のことだとの自信がある者においてのみ、「時間の経過によって必ず悲しみから立ち直れるはずだ」との確信が生じる。そして、「一生悲しみ続けるなどとんでもないことだ」「いつまでも立ち直れないのでは幸福になれない」との善意から、遺された者への励ましが広く行われることになる。このような励ましを拒絶することは、自ら不幸を好むということではない。人生の絶望を絶望と知った者が、美辞麗句で彩られた安易な希望を厳然と拒否する覚悟を示すということである。これは、幸福や立ち直りの拒否でありながら、幸福や立ち直り自体の拒否ではない。安易な希望の先には絶望があり、安易な幸福の先には不幸があると知りながら、それを求める者はいないからである。「なぜ存在者があるのか、そしてむしろ無があるのではないのか」。これは、共に同じ地平に立って探求すべき問いであって、慰めや癒しによって解答を与える問いではない。

竹内薫・竹内さなみ著 『シュレディンガーの哲学する猫』

2009-02-10 23:29:38 | 読書感想文
Chapter10 大森荘蔵の章 -過去は消えず、過ぎ行くのみ- より

p.292~

ウィトゲンシュタインが、いったん<意味>を<表象>という名のコピーと考えてしまうと、今度はその表象の意味(つまり表象の表象)が必要になり、さらには、その表象の表象の意味(つまり表象の表象の表象)といった具合に無限のコピーが必要になってしまう、と警告するのと同じように、大森荘蔵は、僕たちの知覚風景の表象など存在しない、と断言する。僕たちは、その風景をじかに見ているのであって、風景の表象を見ているのではない。ここで行われているのは、一貫して、「存在←→表象」という、お子様ランチの旗のごとく月並みな二元論の常識を覆し、「存在←」という一元論を確立しようという哲学的な試みなのである。あるいは、「存在/表象」という一種の<重ね合わせ>による統一的な描像といったほうがいいかもしれない。

同様なことは、いま見ている知覚風景だけでなく、過去の思い出や想起についても云える。過去を思い出すのは、過去のシーンを表象として見ているのではなく、過去の出来事をじかに見ているのである。「過ぎ去った日々や亡くなった人々のことが時折思いもかけず心によみがえる。そのときそうした思い出や面影は何か過去の形見が残されたもののように思われる。それらの日々や人々はもはや二度と戻らないが何かその影のようなものがわれわれの手元に残されている、といったように。ただその影によってわれわれはかろうじて過ぎ去り失われた時とつながっているのだ、と。つまり今われわれに残されているのは、過去そのものではなくその過去の写しなのだと感じるのである」。

大森は続ける。「しかし、では死んで久しい亡友を思い出すときもその人をじかに思い出しているのか、と問われよう。私はその通りであると思う。生前の友人のそのありし日のままをじかに思い出しているのである。その友人は今は生きては存在しない。しかし生前の友人は今なおじかに私の思い出にあらわれるのである。その友人を今私の眼や肌でじかに『知覚する』ことはできないが、私は彼をじかに『思い出す』のである。そのとき、彼の影のような『写し』とか『痕跡』とかがあらわれるのではなく、生前の彼がそのままじかにあらわれるのである。『彼の思い出』がかろうじて今残されているのではなく、『思い出』の中に今彼自身が居るのである」(「記憶について」『流れとよどみ』産業図書)。

今は亡き友人が、その本人が、今、ここに居る。僕は、この一節を読む度に、死んでしまった祖父母や伯母や叔父や友人たち、あるいは、自分になついていた動物たちのことを思い出し、なんだか目頭が熱くなる。ここには、陳腐な素朴実在論と薄っぺらの二元論的認識論にはない、本物の思想がある。僕は、大森哲学のルーツは、ウィトゲンシュタインやクワインに負うところが大きいのは当たり前だとして、存在論的にはアインシュタインの相対性理論の時空概念の影響や量子論の世界観が決定的だと考えている。大森哲学は、一見、平易な言葉で書かれており、誰にでも理解できるかのようだが、その奥は深い。大森哲学は、何げない言葉を遣いながら、実は、僕たちの日常の世界を見る目を根本から変えさせるほどの大きな主張をしているのであり、その表面的な易しさの下には、千尋の深海が僕たちの哲学的沈潜を待ち受けている。


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哲学とは、説明の技術の巧拙を他者と競い合う種類のものではない。哲学とは、生きることそのものであり、人生そのものである。人は筆舌に尽くしがたい苦しい経験をすればするほど、哲学的思考が洗練されてくるとは、人生とは何と残酷なものであろうか。