犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 44・ 被害者の死は無駄ではない

2008-04-22 23:05:32 | その他
呉智英・佐藤幹夫著 『刑法39条は削除せよ! 是か非か』 p.197~
「おそらく犯罪被害に遭遇した人びとの唯一の支えは、加害者になされる『法の裁き』であり、そこで執行される刑罰である」


ここ数年、戦後民主主義の中で忘れられていた犯罪被害者がようやく思い出されてきた。刑事訴訟法においては意見陳述制度が設けられ、被害者や遺族の「心のケア」も進んできた。しかしながら、法の裁きと刑罰を離れた更生、社会復帰、赦しには意味がないばかりか、問題の中心を見失わせることになる。加害者に与えられる法の裁きなくして、犯罪被害者の保護も救済もあり得ない。

死刑の選択基準の1つとして、永山基準は「遺族の被害感情」を掲げている。ある法科大学院の教授は、広島高裁が死刑判決を選択した理由について、本村洋氏の被害感情が強かった旨を述べていた。この専門家の上から目線は抜き難いものがある。本村氏の一貫して揺るがない記者会見を見て、「被害感情が強い」としか受け取れないのでは、全く話にならない。本村氏が述べていたのは、元少年を死刑にせよという感情ではなく、彼は死刑にならなければならないという論理の必然である。

本村氏が「死刑判決は決してよいこととは思っていない。厳粛な気持ちで受けとめている」と述べていたように、判決は単純な厳罰化を志向するものではない。安田好弘弁護士は記者会見において、厳罰化の傾向に抗議するといったようなことを述べていたが、これも典型的なレッテル貼りからの批判である。安田弁護士には物事がそのようにしか見えないのであればどうしようもないが、裁判所も多くの国民もそのような図式には乗っていない。

今日の判決は、本村氏のみならず、これまで司法の壁に苦しめられ、裁判所から疎外され、軽い刑に泣き寝入りをしてきたすべての被害者と被害者遺族にとって意味がある。今日の判決によって裁判所の一つの正義が示されたとすれば、これまでに亡くなった被害者の死も無駄ではなかったことになる。このような悲惨な犯罪がなくなる社会にするために、すべての被害者の死が意味を持つことになる。改めて本村氏の精神力に驚嘆するとともに、陰ながら最大限の敬意を表したい。


光市母子殺害、当時18歳の男に死刑判決…広島高裁(読売新聞) - goo ニュース

光市母子殺害事件差戻審 43・ 死刑判決は後味の悪いものである

2008-04-22 13:12:28 | 時間・生死・人生
判決の後の喜びと怒りには、2種類のものがある。伝統的な喜びと怒りは、一市民が当事者として闘った後の判決である。例えば、民事裁判によって巨大な社会悪に立ち向かう。行政訴訟によって公権力の横暴に抵抗する。そして、刑事裁判において冤罪を主張し、無罪判決を求めて闘う。これが伝統的な判決の光景であった。そのような刑事裁判においては、無罪判決が出れば大騒ぎして喜び、有罪判決が出れば大声を上げて怒る。これは純粋に政治的な争いである。このような形式に収まるのは、裁判の当事者として判決に参加しているからである。

これに対して、犯罪被害者の遺族は、刑事裁判ではこのような形で判決に参加することはない。裁判所に対して闘う、加害者に対して闘うと言っても、これは法律を離れた比喩的表現であり、被害者はあくまで刑事裁判の当事者ではない。従って、政治的な争いを繰り広げることはなく、判決の後の喜びと怒りの内容も、伝統的な光景とは全く異質である。死刑判決が出なければ、悔しいよりも虚しい。そして、死刑判決が出ても、嬉しいと同時に虚しい。これが被害者遺族の遺族たる地位である。この哲学的難題を容易に扱えると思うのは、修復的司法の愚である。

当事者でない本村氏の闘いは、ようやく9年目にして死刑判決の形をとって結実した。本村氏も激しく悩んでいたとおり、死刑を望むとは、人の死を望むことである。にもかかわらず、この世には死が正義となり、生が不正義となることもある、この信念は決して揺らがなかった。そして、死刑判決によって初めて、新たに残酷な事実に直面する。元少年が死刑になっても、殺された被害者は永久に戻らない。伝統的な裁判所の前で垂れ幕を掲げて万歳三唱をする思考方法においては、この絶望は決してわからない。ところが、実証主義的な人権論は、この哲学的難題の問いすら矮小化しようとする。

死刑判決は、確かに後味が悪い。しかし、この後味の悪さこそが被害者遺族の遺族たる地位であり、その苦しみである。これは、仮に無期懲役刑が言い渡された場合のやり場のない怒り、悔しさ、虚しさを想像してみればわかる。本村氏は判決を前にして、亡くなった2人の墓を訪れ、「一つのけじめがつきそうだよ」と語り掛けたという。生きて死ぬべき存在である我々は、心の中で死者に語りかける。この行動形式は、いかなる政治的な争いをも超えて普遍である。本村氏の墓前での語りかけは、弁護団の数千数万の理屈を一瞬で吹き飛ばす。この裁判は、死刑しかあり得ない。


光母子殺害、元少年に死刑判決(gooニュース) - goo ニュース

光市母子殺害事件差戻審 42・ 人間はただ死刑を望むものではない

2008-04-22 12:14:08 | 国家・政治・刑罰
例えば、死刑が確実と思われる連続殺人犯が、警察官に追い詰められて自殺を図った。さて、被害者の手当てを差し置いても、この殺人犯を命を何としても救うべきか。死刑廃止国ならば答えは簡単であり、救命すべきであるとの結論が導かれる。それでは、死刑を存置している我が国においてはどうか。これも、法治国家である限り、その生命を救わなければならない。まずは、裁判において反省し、真実を話し、遺族に謝罪することが第一である。その上で、国家における正義として、極刑の存在を証明しなければならない。これが法治国家である。

我が国は8割以上が死刑の存置に賛成しており、死刑反対派からは「人権意識が低い」「人命軽視だ」との批判を呼んでいるところである。しかしながら、人間はただ死刑を望むものではない。殺人犯が現場で自殺を図った場合において、人間の倫理は、「何としても命が助かってもらわなければ困る」との方向の指針を示す。これは、死刑に賛成している人のみならず、被害者の遺族においても同様である。人間の倫理が望むのは、あくまでも国家による正当な手続きを経ての死刑である。この意味で、「死刑賛成派は中世の仇討ちの思想から成長していない」との批判は的外れである。

単に国家が被害者遺族の自力救済の代行、復讐権の満足、仇討ちの代理行使を行っているに過ぎないならば、殺人犯がその場で自ら死を選ぶことは喜ばしい。また、どこからともなく正義の味方が登場して、警察が逮捕する前にその犯人を殺すならば、大いに拍手喝采を受けるはずである。しかし、近代法治国家における多くの死刑賛成派や被害者遺族の倫理は、そのような幕引きを決して喜ばない。あくまでも近代国家が国家の名において、極刑としての死刑を宣告すべきだということである。法治国家における生きる者の正義感は、この形式のみによって維持される。

光市母子殺害事件における本村洋氏を初めとして、ほとんどの被害者遺族は、「殺せ」「死ね」などとは叫んではいない。真実を語ってほしい、自らが起こしたことの重大性に気づいてほしい。そして、他人を殺したことの罪は、自らの死に値することを知ってほしい。論理的に、理性的に、このような要求をしているのみである。被告人がこのような逡巡を経て初めて、仮に無期懲役であったとしても、遺族の心に届く謝罪が可能となるはずである。この意味で、死刑反対派から賛成派に向けられた批判の多くは、ポイントが外れている(もしくはわざと外している)ものが多い。


26枚の傍聴券に3886人 光母子殺害事件判決(朝日新聞) - goo ニュース

光市母子殺害事件差戻審 41・ 新たな先例などいくらでも作ればいい

2008-04-22 11:38:52 | 時間・生死・人生
光市母子殺害事件の刑の決定に際しては、被告人がその当時18歳になったばかりであったこと、被害者が2人であったことなどから、「永山基準」など過去の判例との兼ね合いが問題となっている。そして、一方からは、「先例に捕らわれていてはならない」「新たな先例を作る時期に来ている」などと主張されている。他方からは、「死刑の範囲が拡大されて先例になってしまう」「このような先例を作ってはならない」などと主張されている。

死刑を論じる際に、なぜ死刑の適用基準の先例を論じることが非常にもどかしく感じるのか。それは、「死」の形而上性と、「先例」の形而下性との激しいギャップによるものである。殺された人は生き返らず、この世で二度と生活をすることができない。殺人罪や死刑を論じるとは、本来はこの事実を論じることでしかあり得ないはずである。しかしながら、先例を論じることによって、死者は置き去りにされ、生き残った者だけが政治的な権力争いを繰り広げることになる。これは一つの人間疎外であり、全体主義である。

お役所は前例を踏襲し、裁判官は判例に追従する。これは、社会を維持するための予測可能性と、法的安定性の維持を目的とする。ここにおいて最優先されるのは、人間の生活である。消費者としての人間、様々な欲望を追求して衝突する人間である。このような思考パターンにおいて、最も忌み嫌われるのが「死」である。殺人罪を論じ、死刑を論じるにあたっても、なお人間の死は遠ざけられる。かくして、死は客観的な事実として客体化され、それを論じる者の主観的な死は忘れ去られる。

先例に従うことは、自らの死を除いて考える限り、先人が受け継いできたものを後世に伝える尊い仕事である。しかしながら、人間はどう頑張っても、死後の先例は追えない。21世紀において喧々諤々と論じられている前例や判例の基準も、50世紀や100世紀にはゴミ以下である。その時、21世紀において前例を墨守してきたお役所の公務員の人生の意義は何なのか、21世紀において判例を研究してきた裁判官や学者の人生の意義は何なのか。このような問いは残酷であるが、事実は事実である。

殺人や死刑を論じることは、このような残酷な問いに正面から衝突することに他ならない。死とは永遠かつ無であるならば、ここ何十年かの先例に捕らわれていることの愚かさにも気づくはずである。本村弥生さんと夕夏ちゃんは、永久にこの世に戻らない。そして、元少年に死刑が執行されれば、彼も永久にこの世に戻らない。この永久の時間軸の前には、新たな先例などいくらでも作ればよいはずである。


光母子殺害事件 広島高裁判決、主文後回しに(朝日新聞) - goo ニュース

光市母子殺害事件差戻審 40・ 対立の構図が作られたのはマスコミのせいではない

2008-04-22 01:00:08 | 国家・政治・刑罰
光市母子殺害事件において、遺族の本村洋氏は、「私と弁護団の戦いのように誤解されたのは痛恨の極みだ」と述べている。他方、弁護団長の安田好弘弁護士のほうも、「この事件を死刑廃止論の主張のために利用しているのではない」と述べている。それにもかかわらず、この事件については、死刑反対派と死刑推進派の対決という非常にわかりやすい図式ができあがった。もちろんBPOの意見書のように、テレビ番組を批判した上で、このような誤った対立構図を描いたのはマスコミであると結論付けて済ますことは簡単である。しかし、事態はそれほど単純ではない。抽象概念の存立にとって、二項対立は避けられないからである。

「高い」と「低い」、「長い」と「短い」、このような概念は、単独で存立することができない。すべては、比較の中の関係性において初めて存立することができるからである。平均を取るためには、少なくとも2つのサンプルがなければならず、それによって初めて関係性が生じることになる。人間は、絶対的な「高さ」や「低さ」なるものを五官で捉えることができない。同じように、「多数派」と「少数派」、「与党」と「野党」、これらの概念も一方だけでは意味をなさない。お互いがそれぞれの存立の基礎を他者に依存しているからである。そして、「死刑廃止論」と「死刑存置論」の対立も同様である。マスコミが構図を作ろうと作るまいと、両者は二項対立である。

人間の価値観を含む対立構造は、利益と不利益、好き嫌い、あるいは損得の対立をもたらす。これは、価値相対主義の不能を意味する。日本国憲法21条1項の表現の自由は、価値相対主義を大前提とする。そこでは、死刑廃止論を訴える者も死刑存置論を尊重し、死刑存置論を訴える者も死刑廃止論を尊重し、相互に理解し合わなければならないはずであるが、そのような社会は一向に実現しない。ヴォルテール(Voltaire、1694-1778)は「私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は命にかけても守る」と述べたが、それでその後はどうするんだという話である。ある特定の意見に対して、ある特定の価値観から賛成ないし反対の意見を述べる以上、それはメタ言語のレベルにおいては価値相対主義であるが、対象言語のレベルにおいては価値絶対主義である。

ある形式においては価値中立的な命題であっても、それが用いられる場面の選定においては中立的ではないことがよくある。BPOの意見書はこの事件の報道について、「被告弁護団の異様さに反発し、被害者遺族に共感する内容であって、公平性の原則を十分に満たさず、広範な視聴者の知る権利に応えていない」と結論付けた。ここでは、あくまでも「公平性の原則」「知る権利」といった価値中立的な概念が用いられている。それでは、逆に冤罪事件が発覚し、世論の針が逆に振れて警察を非難する報道がなされた場合はどうか。BPOが「捜査官の過酷な取調べを非難し、無実の容疑者の苦しみに共感する内容であって、公平性の原則を十分に満たさず、広範な視聴者の知る権利に応えていない」との意見書を出すことはまず考えられない。ここでは、価値関係的な内容によって、価値中立的な形式が決められている。

光市母子殺害事件の裁判は、本村氏と安田弁護士の意思とは離れて、死刑反対派と死刑推進派の対決となった。この構造の成立は、マスコミのせいでもなく、国民のせいでもない。人間は自らの意見を主張するときには対象言語において価値絶対主義となり、同じ意見と共鳴する際にも対象言語において価値絶対主義となるが、異なる意見を拒絶する際にはメタ言語において価値相対主義となることに基づくものである。マスコミは公平性の原則に従い、国民の知る権利を保障する形で本村氏と被告弁護団らのコメントを報道したところ、多くの国民は本村氏に共感し、被告弁護団の異様さに反発した。それだけのことである。本村氏の姿勢が共感を呼んだのは、主に本村氏自身の力であり、マスコミの力ではない。そして、被告弁護団が異様だと受け取られたのも、端的に被告弁護団が異様だからであり、マスコミの力ではない。


本村さん会見「死刑を信じる」 22日差し戻し審判決 (朝日新聞) - goo ニュース