犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

裁判員制度と行政訴訟

2009-05-31 21:28:12 | 国家・政治・刑罰
朝日新聞 5/28朝刊 読者投書欄
68歳 無職男性 「行政訴訟にこそ市民感覚必要」より

国民の司法参加は、人権侵害や公害、法令や行政行為へのチェックを担う民事・行政訴訟でこそ発揮されるべきだ。国民が市井の常識と感覚をもって参加するのであれば、刑事事件の量刑判断より行政訴訟の当否の判断の方が、はるかに容易で確かなものが期待できる。私は今、ある住民訴訟に関与しているが、行政の感覚は唖然とするほど市民感覚とズレている。せっかくの裁判員制度なら、司法も行政も立法もチェックできる行政訴訟にこそ参加させるべきだと思う。


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裁判員制度の開始と前後して様々な意見が飛び交うようになったが、「裁判員制度が必要なのは刑事訴訟ではなく行政訴訟である」との意見も耳にするようになった。刑事訴訟と行政訴訟の違いは、裁かれるのが個人か、国・地方公共団体かという違いである。裁判所も国の機関である以上、国が国を裁くということになるが、正確には司法権が行政権を裁くということである。実際の訴状には、被告の欄に「国」「○○県」と書かれ、その下に大臣や知事の名が書かれており、行政権であるところの「国」が原告の国民から訴えられることになる。もしも裁判員制度が行政訴訟において実現されていたならば、「人を裁くことの重みに耐えられない」という問題は生じない。裁かれるのは国であって、人ではないからである。もっとも、「国」とは実体のない抽象名詞である以上、国を裁くことの影響は末端の公務員にまで及び、仕事が増えて精神を病んだり、残業が増えて家庭が崩壊したりして、いつの間にか刑事裁判よりも多くの人を裁いていることもある。

行政訴訟において「人を裁くことのプレッシャー」が存在しないのは、善悪の関係がはっきりしているからである。裁判所の玄関から走り出て掲げられる垂れ幕には、「勝訴」と「不当判決」の2種類しかない。勝訴判決は誰の目から見ても正当であり、「日本の司法は生きていた」と言われる。敗訴判決は誰の目から見ても不当であり、「日本の司法は死んだ」と言われる。これに対して刑事訴訟においては、被告人と支援者の側には「無罪」と「不当判決」の垂れ幕があるが、被害者と遺族の側に「死刑」の垂れ幕はない。同じように、被告人と支援者の側は満場の拍手や怒りのシュプレヒコールを行うが、被害者と遺族の側はそのような行動ができない。静かに涙をこらえても涙が流れ、あるいは怒りを押し殺しても怒りが湧き起こり、そのような中で言葉にならない心情を述べるのみである。これは、被害者や遺族が刑事裁判の当事者ではないという理由によるものではなく、「死刑」の垂れ幕を持って走り出た人に喝采を浴びせる行為には違和感を生じるという倫理的な理由によるものである。「人を裁くことの重さ」とは、この単純な善悪二元論で捉えられない倫理を指しているものに他ならない。

国民は人を裁くことの重さに耐えられるのか、死刑を言い渡すことの重さに耐えられるのかという問いに対しては、それぞれの立場からの多数の解答があり、「司法参加」「市民感覚」というキーワードの奪い合いになっている。そして、まずは軽微な刑事事件や行政訴訟で練習してから凶悪事件に向き合うようにすべきではないかとの意見も聞かれるが、これは上記の問いの所在からすれば、いかも平板である。「人を裁くことの重さ」の前に悩むこととは、実存的な罪と罰の問題に悩むことであって、行政訴訟で練習したところでそもそもの問題のレベルが異なるからである。人が人を裁くということは、裁判官も検察官も同様であり、何も裁判員に限ったことではない。従って、それは市井の常識と感覚を持ち込むというようなスローガンではなく、「市民」という肩書きではない一人の人間が他の人間の罪を裁くという、深い実存的な問題の入口に立つことになる。「勝訴」と「不当判決」の2種類の垂れ幕を持って喜んだり怒ったりするのではなく、「死刑」の垂れ幕を持って走り出せない倫理の渦中で苦しむとき、その「市民感覚」は特定のイデオロギーから自由になる。

中央大学理工学部教授 殺害事件

2009-05-29 00:12:48 | 実存・心理・宗教
山本竜太容疑者(28)による犯行動機の供述

私は毎日毎日、警察官や検察官から、高窪教授を殺害した件について聞かれまくっています。事件当日のどうでもいい一挙手一投足にとどまらず、生まれてから大学入学、在学中、卒業後の転職に至るまで、本当に細かく聞かれて困っています。これは、取り調べが厳しいとか、拷問で自白を迫られるとか、そんな単純なことではありません。私は人生を賭けてこの殺人を実行した以上、話したいことは山ほどあります。それに、私の話を何でも聞いてくれて文字にしてくれる人も沢山いて、皮肉なことですが、とても恵まれた環境にいると思います。それなのに私は、なぜか語るに語れないのです。話したいのに上手く言葉にできない、そのイライラばかりが募ります。確かに、捜査官の聞き方は悪いですし、供述調書を作るための質問は下手だと思います。それにしても、毎日取り調べを受ければ受けるほど、私がそれを語るための言葉は遠ざかって行くように感じられて仕方がありません。大新聞までが大騒ぎして、私の犯行動機を明らかにしようと躍起になっていますが、私は台風の目の真ん中で白けています。

私は卒業後、5つの会社を転々としており、事件当時は給料の低いアルバイト店員でした。一度も私と話したこともない評論家の方々が、私はコミュニケーション能力がないとか、孤立して屈折した感情を抱いていたとか、好き勝手なことを言っているようですが、私の心など誰もわからないでしょう。仕事を辞めるというのは、別に飽きっぽいわけでも、堪え性がないわけでも、融通が利かないわけでもありません。私はいつも、その会社のために、そして同僚のために、居てはならない自分のほうで身を引いていました。誰しも、そこでずっと勤めようとの固い決意で入った仕事を、好きで辞めるわけではないでしょう。組織に馴染めずに逃げた者は、どのような理由があれ、敗残者です。私はどこでも真面目に一生懸命仕事に取り組みましたが、物覚えや要領が悪くて、足を引っ張ってばかりいました。理系で観念の世界を肥大させた者は、現実の職場では使い物にならないのです。そうは言っても、自分で自分の不甲斐なさを責めて落ち込んでいるときに、他人から厳しく叱責されることは、一気に破壊的衝動に向かいかねない複雑な感情を溜め込むものです。いずれにしても、私のような退職者は社会的不適応者とのレッテルを貼られ、陰で笑い者にされていても耐えるしか方法がありません。

なぜ大学を卒業して数年も経ってから教授を殺しに行ったのか、世の中の人は口を揃えて「動機がわからない」と言っています。当たり前でしょう。わかっているのは私だけです。その私ですら、最近は自分の動機が段々とわからなくなって来たので、これはもう誰にもわからないで終わるかも知れません。とにかく、周囲が「動機がわからない」と言って困っている光景には、渦中にいる張本人は笑うしかありません。現に私は高窪教授を殺したのですから、私には教授を殺す動機がありました。高窪教授は誰からも好かれる人柄で、殺されるような人ではなかったとの報道が多いですが、それはその通りでしょう。あくまでも私にとって、他の誰でもなく、その特定の人を殺さなければならなかったというのが、私の動機です。「高窪教授を絶対に殺されなければならない」とまで思い詰めた今の私を作りあげるのに決定的な影響を与えた人物は、他でもない高窪教授その人です。これが私の動機です。これでは理由になっていないと言われても、私にとっては、これ以上正確な動機を語ることはできません。従って私は、「労働条件への不満が教授への不満と結び付いて一方的に恨みを募らせた」とか、「自分の失敗を他人のせいにして逆恨みした」とか、ありきたりのことを適当に書かれてしまうしかないようです。

捜査官や精神科医からは、殺害の瞬間の心理状態も詳しく聞かれています。しかし残念なことに、私はその時は頭が真っ白で、振り返って言葉にできるようなことは何も記憶にありません。殺人という行為は、誰にとっても人生を賭けた大勝負で、その瞬間は無我夢中で理屈など存在しないのでしょう。今でこそ殺人はただの犯罪ですが、大河ドラマを見れば一目瞭然であるとおり、日本史に出てくる歴史上の人物は、そのほとんどが人を殺しています。教科書のどのページを見ても、○○の変、○○の乱、○○の戦いばかりです。古今東西の歴史では、殺人に肯定的な意味が付与されている時期のほうに圧倒的な長さがあります。「敵は本能寺にあり」と言えば時代の大転換をもたらした歴史上の人物となり、「敵は中央大学にあり」と言えば単なる刑事被告人ですが、人間の瞬間的な心理としては、両者の区別などできないでしょう。私にとっては、殺人を犯した後のことは眼中にありませんでした。発覚して逮捕されてしまったからには、粛々と今の時代のルールに則って、刑事訴訟法で裁かれるのみです。「誰にも自分を裁くことなどできない」と強がる必要もありません。それにしても、私がポロッと「卒業前の忘年会で先生から疎外されていると感じた」と述べた言葉を捉えて、「動機がわかった」と騒ぐのは勘弁してほしいです。


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単なる想像です。

物には必ず名前があるのか

2009-05-26 22:10:38 | 言語・論理・構造
上司:「大至急、切手を貼るときに使うやつを注文しといてくれ」

部下:「切手の裏に水をつけて貼るあれですか」

上司:「そうだよ。名前を調べて大急ぎで注文しといてくれ」

部下:「名前がわからないと、カタログで検索できないんですけど」

上司:「だから、その名前を検索しろって言ってるんだよ」

部下:「『切手貼り』でしょうかねえ? 『き』の欄にはないですけど」

上司:「もっとましな名前はないのか」

部下:「『スポンジ』ですかね? でも、『す』の欄にもないですけど」

上司:「もっと真面目に考えろ」

部下:「『水付け』でしょうか? でも、『み』の欄にもないです」

上司:「だから、『スタンプ何とか』で探してみろよ」

部下:「ですから、『す』の欄は全部見ましたって」

上司:「君は何でこんな簡単な物の名前がわからないんだ」

部下:「そもそも、これには名前がないんじゃないですか?」

上司:「名前がないわけないだろ。名前がなければどうやって使うんだ?」

部下:「課長だって、名前を知らないで毎日使ってたじゃないですか」

上司:「つべこべ言わず、何でもいいから調べてすぐに注文しろ」

部下:「ネット社会は忙しい上に不便ですね」

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1220476562

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「2・生きがいを感じる心 ― 認識としての生きがい感」より

2009-05-24 23:48:00 | 読書感想文
p.30~

青年時代に生きがいについて悩むひとはかなりいても、大人になると避けておくのがふつうになる。男のひとにしても女のひとにしても、単に社会的な役割を果たすだけで人間の生存意識のすべてがみたされるかどうか、一個の独立人格としての存在理由は何か、というような問いは意識にのぼらないのが一般であろう。それは一種の防衛本能のようなものかも知れない。なぜならば、うっかり本気でこういう問題に立ちむかうならば、今まで安全にみえていた大地に突然割れ目ができ、そこから深淵をのぞきこむような不安や不気味さにおそわれる恐れがあるからである。

しかし長い一生の間には、ふと立ちどまって自分の生きがいは何であろうか、と考えてみたり、自分の存在意義について思い悩んだりすることが出てくる。この時は明らかに認識上の問題となってくるわけで、大まかにいって次のような問いが発せられるわけであろう。
1.自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか。
2.自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか。
3.以上あるいはその他から判断して自分は生きている資格があるか。
4.一般に人生というものは生きるのに値するものであるか。

生きがいということがとくに認識上の問題になるのはどういうときであろうか。いうまでもなく青年期は一般に、もっとも烈しく、もっとも真剣に生の意味が問われる時期である。ところがその青年たちも大人になると、いつしか生存の意味を問うことを忘れ、ただ生の流れに流されて行くようにみえる者が多い。その流れがせかれるようなことでもないかぎり、ふつう壮年期は無我夢中で過ごしてしまい、だんだん年をとって来てそれまでの生きがいがうしなわれ、生きる目標を変えて行かなくてはならないときに、この問題が再び切実に心を占めることになる。これは、老人一般の最大の問題であろう。いわゆる社会保障制度の充実だけで解決できるものでないことは、北欧の老人自殺率がよく示している。


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昨年は、30歳代の自殺者数がバブル期の約2倍の4850人となり、統計を取り始めた昭和53年以降最多となった。警察庁によると、前年比で増えた30歳代の自殺原因は、就職の失敗が35%増、仕事の失敗が32%増、職場の人間関係が26%増、生活苦が25%増だそうである。一般に壮年期は25歳から45歳までと定義され、本来は最も気力・体力が充実している20年間である。そして、神谷氏が述べるように、多くの人は生存の意味を問うことを忘れ、ただ生の流れに流されて無我夢中で過ごしてしまう20年間でもある。上記の自殺の動機にしても、青年期や老年期のそれとは異なり、人生の悩み、生の意味の喪失という方向性ではない。

神谷氏が述べる「安全にみえていた大地に突然できる割れ目」とは、自殺の危険性と高めるものとは全く違う。生きがいといった問題に本気で立ち向かい、そこから深淵をのぞきこむような不安や不気味さに襲われることからは、単に「死ぬまでは生きているしかない」とのありきたりの解答が出てくるだけであって、自ら命を絶つ行動とはかけ離れているからである。その意味では、単に社会的な役割を果たすことに集中する人間の防衛本能が、皮肉にも30歳代の自殺者数の増加を招いてしまっている。このような状況を改善しようとすると、現代社会では、良くわからないカタカナ語(セロトニン・ノルアドレナリンなど)、適当にわかるカタカナ語(ストレス・メンタルヘルスなど)、良くわからない漢字(統合失調症・適応障害など)、適当にわかる漢字(心の悩み・癒しなど)が連発されるのが常である。しかし、どれを取っても、「生きがい」という素朴な言葉の力に及んでいるようには見えない。

中島義道著 『観念的生活』

2009-05-23 21:57:47 | 読書感想文
第9章「原因としての意志」より  p.137~

テレビでは、相も変わらず犯罪心理学者だとか精神医学者だとかが勝手なことをほざいている。こんな時、大幅に限られた視点で何を語ろうと、「真相はわからないのだ!」とカツを入れたくなる。意志と行為の間には、次の微妙な関係がある。一方で、まず「Xを殺す」という意志が行為から独立に原因として確認され、次に「Xを殺す」という行為が結果として確認されるわけではない。「Xを殺そう」という意志が「Xを殺す」という行為の原因である限り、この行為を実現できないいかなる心の状態も意志ではないのである。だが他方で、意志と行為はライプニッツの「不可識別者同一の原理」という意味で同一ではない。それは単に同一なものの2つの表現ではなく、意志が行為を引き起こすのであって、その逆ではない。この文法を維持する限り、行為を引き起こす以前の意志は無意味ではない。

なるほど、意志は行為を実現することをもって、初めて単なる願望ではない意志として判定される。だが、意志とはまだ行為を引き起こしてはいないが、行為(力)を引き起こす「力」ではなかったのか。とすると、なるほど行為を実現することをもって正式に意志であると判定されるのだが、判定以前の単に行為を引き起こす力を持つ段階をも意志として認めざるをえない。力学の場合は、玉突きの玉Aの運動量は玉Bに衝突する前に計測可能である。だが、意志の場合は行為から独立にその力を計測できない。それにもかかわらず、行為を引き起こす独特の力として「ある」のだ。ここには ―アンスコムが示したように― 意志は記述に依存することが絡んでいる。

ヒュームが「近接」を因果関係の要件としたように、意志を因果的に解釈する者は(デイヴィドソンがその典型であるように)、原因を自然主義的に解した上で、意志とは心の状態であり、その状態を何らかの物質的なものが支えている、と考えがちである。だが、原因としての意志を認める場合でも、その原因概念を動力因や質料因に限定する必要はないのだ。意志は、形相因や目的因とも深く関わっている。形相因としての意志は、現在の意志行為を説明する際に役立つ。例えば、私はいまずっと座っているが、夢遊病でない限り、「座ろう」という意志を持っていなければならない。歩いている限り「歩こう」という意志を、食べている限り「食べよう」という意志を持っていなければならない。とはいえ、私は刻々とそれを実現しようと励んでいるわけではない。

多様な状態が意志として適格であるためには、公共的承認が必要であることがわかる。われわれは他人の意志を(当人の心理状態を含めて)決定する権利を持っているのだ。意志は多くの場合秘匿的なものではない。上司をビルの上から突き落とした男は、「突き落とす」意志と並んで「殺す」意志もあったとみなされてしまうのである。これに関係して、次のような微妙な例が問題になる。揉み合っている時、彼には彼女を殺す意志はなかった。だが、その直前まで明確な殺意があった。この場合、彼は彼女を「殺した」のか、そうではないのか。難問に見えるが、意志は行為者の心理状態だけで決まるものではなく、(それをも加味して)公共的に決まることを想い起こせば、無理やり一つの正解に達する必要もない。


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中島氏が裁判員に選ばれて、裁判官や他の裁判員と噛み合わない論争を繰り広げるところが見てみたいです。恐らく、裁判長と中島氏が顔を真っ赤にして一歩も引かず、被告人はその存在を忘れられて放置されるのでしょう。

びっくりして呆れてしまいました。

2009-05-21 00:22:09 | 国家・政治・刑罰
某弁護士会 「模擬裁判員裁判の感想」より

今日の中間評議では、裁判員の一部からものすごい意見が飛び出しました。その仰天発言とは、「被告人は黒とまでは言えないが、白でもない。灰色である以上、万一真犯人であるのに、我々が無罪にして逃がしてしまったら被害者遺族にも申し訳ない」という趣旨の発言でした。つまりは、「疑わしきは被告人の利益に」ではなく、「疑わしきは有罪に」という趣旨です。私はびっくりして呆れてしまいましたが、これが標準的裁判員の発想なのかなとも思い、危惧しました。こうした裁判員を相手に、裁判長がどのようにリードして評議が進行していくか、実に興味深いと思っています。がっかりしたのは2人の陪席裁判官で、素人の裁判員と全く同レベルの議論をしていました。裁判員制度における弁論をいかに行うかについて、非常に考えさせられました。


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上記の弁護士の感想においては、法律家は一般人よりも一段上に立っていることが大前提とされている。法律家は、裁判員と同じ目線に立って、裁判員制度を共に作り上げて行くわけではない。専門家は真実を知っているが、素人である一般人は真実を知らない。従って、法律家は裁判員を正しい方向に教育をしなければならない。このような裁判員の客体化が、法律家がその無知に直面してびっくりして呆れるための条件である。法律家は、「灰色の被告人を無罪にしてしまっては被害者遺族に申し訳ない」という誤った考えが起きないように、教育によって裁判員を啓蒙しなければならない。ここにおいては、いつも自分が中心におり、ずれているのは周囲である。一般的に、ズレという現象は、その定義において相互にずれていなければならない。ところが、専門家である法律家が常に中心にいる限り、ずれているのはいつも裁判員の側になる。

また、上記の弁護士の感想においては、裁判への市民参加が目的とされている裁判員制度において、市民感覚というものが事前に方向付けられている。本来、市民感覚を裁判に導入するというならば、専門家である法律家のほうが謙虚に大衆の声に耳を傾けなければならないはずである。ところが、「灰色の被告人を無罪にしてしまっては被害者遺族に申し訳ない」という感覚は、市民感覚として新制度に採り入れられることはない。近代刑法の原則を理解した者は「市民」と呼ばれ、理解していない者は「大衆」と呼ばれて区別される。どんな法律家であっても、法律を学ぶまでは一般人であったはずであるが、その時の記憶を完全に忘れ去っている。そして、法曹界の常識だけがすべてではなく、一歩外に出れば非常識であるということを忘れ、世の中がすべて特定の論理で動いていると思い込む。法律家が裁判員の無知に直面してびっくりするということは、このような専門家の視野狭窄に自覚的でないということでもある。

「灰色の被告人を無罪にしてしまっては被害者遺族に申し訳ない」という感覚が生じることは、誤判を生じる危険性の有無を論じる以前に、情のある人間にとって必然的に避けがたい心の動きである。人間が人間であるための最低条件、人間が社会生活を営むに際しての当然の常識と言ってもよい。これは、近代刑法の理屈とは関係がなく、それを理解しているか否かの次元の話でもない。「被害者遺族に申し訳ない」という感情が自然に起きるのは人間として当たり前であり、そのような心の動きが起きないような人間は、果たして人間の名に値するのか。「疑わしきは罰せず」という原則は、単に近代刑法のルールであるというだけの話であって、世の中の森羅万象がそれで説明できるわけではない。従って、灰色の被告人を無罪にしてしまえば、被害者遺族に申し訳ないことは当然のことである。この問題意識が共有できていない専門家には、びっくりして呆れることが、さらに被害者遺族の気持ちを逆撫でしているという現実の意味がわからない。

サイバンインコ

2009-05-20 23:36:09 | 時間・生死・人生
ハイデガーは、神とは存在の擬人化であると述べた。人間の思考は、新たな何物かを空想する場合であっても、経験によって得たものや現実の事物と完全に切り離された別物を考えることができない。従って、この世のすべてのキャラクターは、すでに存在する事物の一般形をデフォルメしている。ミッキーマウスはねずみであり、スヌーピーは犬であり、サイバンインコはインコである。さらに、このデフォルメは多くの場合には擬人化を伴っており、本来は動物には存在し得ない表情がキャラクターに存在意義を与えている。この擬人化は、森羅万象全ての物に魂が宿っているという多神教の考えとも親和性がある。

サイバンインコは、裁判員制度の導入に伴って誕生した。このようなキャラクターは、制度のイメージアップのために用いられている。それでは、なぜ人間にイメージを生じさせることが必要となるのか。それは、新たな制度というものは、本来この世に存在しないものだからである。人間の作る制度というものは、作られる前には影も形もない。「ない」という状態は、それに気付くための手続きを介在させる必要があり、それは「ある」との比較によって初めてもたらされるため、現在形ではなく過去形において初めて登場する。従って、裁判員制度を定着させるためには、一目でそれとわかるキャラクターが必要である。しかも、「ひこにゃん」のように人気がなければならない。

人間の認識が直接性の制限の下で普遍性の領域を拡大させるのであれば、人間がキャラクターの絵や着ぐるみを見たときには、その個別性の向こうに普遍的なキャラクターを見ていなければならない。そして、見る者がそれを特定の名称で呼ぶことにより、他者との区別が可能となるならば、その絵や着ぐるみは個別の事物の系列の一端を超えて、普遍性を媒介する機能を担うことになる。かくして、人気のあるキャラクターが付された商品は売れ行きが良くなり、著作権をめぐって争いが起きることが多い。これは、商品の内容にかかわらずキャラクターのほうに釣られて買うという消費行動である。同じように、サイバンインコによって裁判員制度に関心を持った国民は、いきなり裁判員として死刑か無罪かを決めることになる。

動物のキャラクターは、人間が考え出したものである以上、本来すべては人間の中にある。サイバンインコの存在は、実際のインコにとってはどうでもいいことであり、迷惑な話である。何かにつけて「ゆるキャラ」ブームの現在だが、サイバンインコが「ひこにゃん」並みの人気を得ることはなかった。当たり前である。そして、裁判員制度に参加したいという国民の比率も最後まで上がることはなかった。当たり前である。かくなる上は、裁判員が全員サイバンインコの着ぐるみを着て法廷に座るくらいしか、このインコの出番はない。裁判員制度に「ゆるキャラ」を求めることは、それほどバカバカしいことである。

天童荒太著 『悼む人』

2009-05-17 00:04:56 | 読書感想文
p.49~

蒔野のなかに、この男は実は悪意に満ちた人間ではないのか、という疑いが湧いた。外見は清廉な印象で、他人の死を悼む姿勢は偽善だとしても、心根は善良なのだろうと考えそうになる。だが本当にそうか。人が生きてゆくために仕方なく忘れたり、眠らせておいたりするものを、奴は掘り返し、人々の安逸な暮らしを乱しはしないか……。蒔野の仕事は、死者を訪ねる行為が似ていても、基本的に人々の怒りや悲しみを代弁することが目的だった。だがこの男は、赤ん坊の死もチンピラの死も、事故死も自殺も殺人の被害者も、たぶん蒔野の母の死も、同等に扱う。この世界では、人の死に多少なりと軽重の差をつけることは暗黙の了解だろう。英雄や聖人の死が、悪党の死と同列では許されない。奴の行為は、きっと人々を戸惑わせ、苛立たせる。


p.257~

あの日の夕方、急の雨で、妻は傘を持ってわたしを駅に迎えにいくとメールをくれ、歩道を歩いていました。そこへ過積載のトラックがスピードを落とさずに曲がってきて、荷台の鉄骨が彼女の上に崩れ落ちたのです。2年前でした。いまも怒りと悲しみと、迎えにこなくてもいいと彼女にメールを打たなかったことの後悔に、身を裂かれる思いです。時間が癒してくれるというのは大嘘です。怒りも後悔も時間とともにつのります。ときおり人から明るくなってきたなどと言われます。そんなときは、明るく見えたという自分の顔を刃物で切り裂きたくなります。知ってほしいのです、本当に素晴らしい女性がこの世界に存在していたということを。できるだけ多くの人に覚えていてもらいたいのです。なのに、みんな自分のことで忙しく、妻が次第に忘れられていくのを、ただ無念に思ってきました。だから、もし本当にいるのなら、わたしは<悼む人>と話したい。他人だからこそ、もし覚えていてもらえるなら、そのぶん彼女の存在が、永遠性を帯びる気がするのです。


p.376~

病院で亡くなる子どもに対し、ぼくは何もできません。死を教訓に、次の子の治療に努力する場所にもいないのです。無力なまま、親しくなった子の死を見送り、悲しむ間もなく、また仲良くなった子を見送ることがつづきました。入院先の医師は、気にし過ぎだと言いました。誰もが人の死を経験するが、心の隅にしまったり、そのうち忘れたりして生きていくのだと。そんなことはわかっていました。ただ理屈で理解できても、感情の底では納得できていなかった。退院して家へ帰る途中、道端に花が供えられているのを見つけました。聞くと、その場所で交通事故があり、若い女性が亡くなっていました。家族に愛され、友だちに大事にされていた人が、身近なところで亡くなっていた……。なのにぼくはそれを知りもしなかった。いいのか、それでいいのかと、突き上げるような痛みを胸に感じました。いても立ってもいられなくなったのです。


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直木賞を受賞した『悼む人』がベストセラーになったこの国で、まるで別の国の出来事のように、裁判員制度が目前に迫ってきた。裁判における死との向き合い方については、一方では「裁判員が死者に感情移入して厳罰化が進むのではないか」というレベルの低い議論がなされ、他方では「裁判員は殺人者を裁くことの重みに耐えられるのか」というレベルの高い議論がなされている。これらに対して、この小説のテーマであるところの「悼む」という行動形式は、レベルの次元を異にしている。見ず知らずの他者の死を「悼む」という行為は、社会常識からすれば解釈不能である。そして、何かの宗教の儀式ではないか、単なる自己満足ではないかとの解釈を呼び起こし、それを見る者を困惑させる。

愛する人を理不尽に奪われた遺族が犯人の厳罰を求めているのに対して、「刑罰の謙抑性は近代刑法の大原則である」との回答をぶつけられれば、全く答えになっていないとの印象を受ける。この違和感は、イデオロギー的な右と左の対立ではなく、個とシステムとの対立である。過去の判例の積み重ねによる量刑相場の中には、匿名化されたデータはあっても、個々の人生はない。同じように、全体的なシステムのメカニズムはあっても、他の誰でもない「その人」が生きてきた歴史はない。生ける者が死者を「悼む」という行為形式は、この繊細なところを正確に突いている。凶悪犯罪には厳罰が妥当であるという一瞬の価値判断は、何もポピュリズムによる感情論だけではなく、あるべき法を標榜する堅苦しい正義論だけでもなく、人の死を「悼みたくなる」心によっても導かれる。裁判員が、生前には全く面識のない他者であるところの被害者の死を悼めるのであれば、それは判決文の言語では直木賞は取れないということである。

福岡市の追突事故 高裁が1審判決を破棄 その2

2009-05-16 02:13:32 | 時間・生死・人生
「加害者を厳罰に処して、それで遺族は溜飲が下がるのでしょうか。精神的なケアによって心の平安を図ることが最も大切であり、恨みや憎しみからの解放こそが必要なのではないでしょうか。何でも厳罰化を訴えるのは、復讐的制裁のみを念頭に置いた不毛な発想であり、根本的な解決を遠ざけるのではないでしょうか」。このような問いは、私刑からの脱却を至上命題とする罪刑法定主義の理念を念頭に置いている。この理念を大前提とする限り、遺族感情を汲み入れての厳罰化は、人類の進歩に逆行するものであることは疑いない。そして、このような進歩主義は、科学的な実証主義に基づいている。ところが、どういうわけか、この実証主義が我々の目の前で実証されることは非常に少ない。

福岡高裁の判決を受けて、一瞬のうちに3人の我が子を亡くした大上かおりさんは、「胸がいっぱいで言葉が思いつきません」と語った。この言葉が思いつかない地点、自分自身の感情が上手く言えない地点には、厳罰感情や復讐、ましてや溜飲を下げるといった心情が入り込む余地はない。何をしたところで死者が戻ることはなく、厳罰によって遺族は報われることなどない。たかが厳罰によって報われるほど、人の命は軽くはないからである。ゆえに、たとえ求めていた判決が得られても、遺族が満面の笑顔で会見をすることはない。これは、無罪判決を得た冤罪の被告人とは対照的である。厳罰を求めざるを得ない者の激しい苦悩と深い絶望を伴った表情を前にして、人はそれを正確に描写する言葉を持ち合わせていない。「加害者を厳罰に処して、果たして遺族の傷ついた心が救われるのでしょうか」。この問いの恐るべき逆説的構造を知る者は、この問いを発することがない。

近代刑法が想定する人間のモデルは、「合理的で理性的な人間」であった。自立した個人が理性と主体性をもって社会を形成してゆくとの理想的なモデルである。そこでは現在を見ずに未来を先取りし、無意識よりも意識を優位に置く。このような近代の理想的人間像に隠された欺瞞と弊害については、さまざまな哲学者によって徹底的に暴かれてきた。その急先鋒がハイデガーである。しかしながら、憲法を頂点とする現実の法治国家は、この近代の理想的人間像を大前提としている。そして、犯罪被害の問題についても、無理にそのパラダイムに閉じ込めようとして、数々の歪みを生んできた。犯罪被害者の声はその歪みの効果であるから、それを更に同じパラダイムに閉じ込めようとしても、同じ苦しみが繰り返されるだけである。

客観的な刑法理論からすれば、この飲酒運転追突事故の今林大被告の行った行為は、刑法208条の2(危険運転致死罪)に該当するか否かだけが問題である。以上、終わり。法治国家に生きる合理的で理性的な人間は、この真実を理解しなければならない。自立した個人が理性と主体性をもって社会を形成してゆく近代社会では、遺族の感情に流されて条文を拡大解釈することは許されない。かくして、今林被告とその弁護人の防御活動は、完璧なロジックによって正当化されることになる。しかし、一歩外に出て、無意識よりも意識を優位に置く近代の理想的人間像を疑ってみれば、このロジックも簡単に崩れてゆく。この素材を提供するのがハイデガーであり、具体的な哲学者の名など知らなくても自然にその哲学を実行してしまっている被害者遺族の声である。

人間が内的倫理によって完結しているのであれば、そもそも外的強制である法律など要らない。にもかかわらず、この世に厳しい法律が必要であるのは、危険だとわかっていながら飲酒運転をし、さらには水を飲んで証拠隠滅を図ろうとし、友人に身代わり出頭を頼むような人間がいるからである。このような犯罪者が目の前にいる限り、この世の倫理は次善の策として厳罰化を要求する。従って、この倫理の問題を措いたまま、厳罰化だけに反対したところで人間の割り切れなさは消えない。これは人間が倫理を突き詰めれば必ず突き当たる地点である。法律を知らない素人の戯言ではなく、生きて死ぬ人間の中核である。その意味では、「厳罰化の是非」というテーマを設定し、賛成論と反対論を対立させているのは、問題をわざわざ難しくしているようなものである。


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この文章の3段目から5段目は、一昨年の12月22日、福岡地裁の第1審判決前の訴因変更命令のときに書いた文章を、ほぼそのまま引用したものです。
(http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/d/20071222)
この文章も、1審と2審で結論が分かれているのに引用できてしまうことからもわかるように、裁判員制度の開始を目の前にした実務的な問題に対応する力がないことは明らかです。それでも、飲酒運転事故の事実は1つであるのに、客観的な条文の罪が成立したりしなかったりして、法律の客観性の危うさの前に右往左往している法律家の姿は非常によく見えます。

福岡市の追突事故 高裁が1審判決を破棄 その1

2009-05-15 23:53:13 | 時間・生死・人生
福岡市東区で平成18年8月、飲酒運転で自動車に追突して海に転落させ、幼児3人を死亡させた今林大被告の控訴審判決公判が15日、福岡高裁で開かれた。高裁は、業務上過失致死傷罪を適用して懲役7年6月とした1審の福岡地裁判決を破棄し、危険運転致死傷罪を適用して、懲役20年を言い渡した。父親の大上哲央さん、母親のかおりさん夫妻は、遺影を抱いて傍聴席の最前列に座った。2人は判決理由にじっと聞き入り、「被告人を懲役20年に処する」という裁判長の言葉に目を大きく見開き、うなずき合った後、一言一言かみしめるように判決理由に聞き入ったとのことである。閉廷後、記者会見した父親の哲央さんは、「事故から2年9か月、毎日毎日苦しい生活を送ってきた」と振り返り、「今まで言い続けてきたことが裁判長に伝わった」「3人も私たちと一緒に判決をしっかりと受け止めることができた」と言葉に詰まりながら話した。保釈中の今林被告が法廷に姿を現さなかったことについて、母親のかおりさんは、「遺影を毎日見ることがどんなにつらいか。今林被告にも分かってほしいと思って持ってきたのに…」と悔しがった。

この裁判における今林被告の陳述は、3人の人命を奪ったことに対する哲学的苦悩とは遠くかけ離れたものであった。弁護側の地裁の最終弁論では、「被告人は既に社会的制裁を受けており、もはや刑罰は必要ではなく、執行猶予に付すべきだ」との主張がなされた。刑事裁判のテーマは国家刑罰権の存否であり、今林被告が争っているのも刑期の長さである。なぜ今林被告は、1日でも刑期を短くしようとして必死に争ってきたのか。公訴事実(訴因)の肝心なところは否認し、情状に有利となる場面では遺族に謝罪し、すべて刑期を短くする方向での逆算に基づく戦略を立てていたのはなぜか。これもハイデガーの言葉を借りれば、時間の中に投げ込まれた現存在たる人間の存在の形式の必然であり、それに基づく人間の頽落である。ハイデガーの時間とは、刻一刻、生起と消滅を同時化する時間である。それは瞬間の生であると同時に瞬間の死である。この文脈においては、一言で「メメント・モリ」と言ってしまってもよい。

今林被告は24歳である。そして危険運転致死傷罪を適用した高裁の判決は懲役20年であったが、危険運転致死傷罪を適用しなかった地裁の判決は懲役7年6ヶ月であった。高裁の判決によれば今林被告の出所は44歳になるが、同罪が適用されなければ出所は31歳で済む(仮出獄の場合を除く)。この差を目の前にぶら下げられれば、多くの人間はどうしても必死になって争いたくなる。他人の命を奪ったことは重々承知の上、それでも出所が31歳か44歳かという人生の分岐点に立たされれば、必死になって争いたくなる。これは、自分は自分であり、他人は他人であり、自分は他人ではなく、他人は自分ではないという存在者の存在の形式に基づくものである。そして、この形式にどっぷりと浸かってしまうことが、まさにハイデガーの述べる頽落である。その意味では、他人の生命を奪った者が徹底的に自己弁護できる近代刑事法のシステムは、確信犯的な頽落の実現であると言ってもよい。

人間は生まれ落ちた限り、1秒1秒死へと近づく。生きていることは、死に近づくことの別名である。これは誰のせいでもない。人生の残り時間が1秒1秒減っていることが避けられないとなれば、懲役20年と懲役7年半の差は天国と地獄である。30代を丸々刑務所で過ごすのか否か、これは天地の差である。他人の人生を奪ってしまったこととは無関係に、自分の人生は一度しかない。刑期を1日でも短くしたい、この欲求は存在不安の効果であり、変形ニヒリズムの効果である。他人の冥福を祈ることも大切であり、遺族に謝罪を続けることも大切であることはわかっているが、それでも30代を丸々刑務所で過ごすことだけは絶対に嫌だ。人間がこのような変形ニヒリズムから逃れられないのであれば、その欲求を自らに端的に認めればよいだけの話であり、「人権」に頼る必要などない。


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この文章の2段目から4段目は、一昨年の12月21日、福岡地裁の第1審判決前の訴因変更命令のときに書いた文章を、ほぼそのまま引用したものです。
(http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/d/20071221)
刑法学的に意義のある議論は、なぜ1審と2審で結論が分かれたのか、その原因を実証的に探ることに尽きると思われます。マスコミにおいても、裁判員制度の開始を目の前にして、まさにこの点の国民的な議論が求められているといった論調が主流です。その意味では、1審と2審で結論が分かれたにもかかわらず、全く同じことを言っている私の文章には、学問的な価値がないことは明らかだと思います。