犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

JR福知山線脱線事故・調査情報漏洩

2009-09-27 23:51:07 | 時間・生死・人生
9月27日付 朝日新聞 「天声人語」より

「はるのそらの とはのなみだの ひとつゆを いまなきひとの たまのみまえに(春の空の 永遠の涙の ひと露を いま亡き人の 魂の御前に)」。昭和41年2月、全日空機が東京湾に墜落して133人全員が亡くなった。その調査に加わった山名正夫東大教授(当時)が、犠牲者の霊前にささげた鎮魂の歌である。

ジェット時代の幕開けに、それらの大事故が相次いで、国の運輸安全委員会の前身になる組織はつくられた。その委員会で、4年前のJR福知山線の事故をめぐる調査情報の漏洩が明るみに出た。調査の中立性を揺るがすゆゆしき不祥事である。JR西日本は報告書の修正まで頼んでいて悪質だ。安全より業績という社風が改まっていないのだろうか。もともと鉄道も航空も、専門性に閉ざされた狭い世界である。調査側と当事者側の「なれ合い」は、古くて新しい懸念でもあった。

66年の全日空の事故でも利害関係者が調査団に入っていたという。影響があったのかどうか、「原因不明」として調査は終了する。組織と相いれなかった山名教授は途中で辞表を出した。冒頭の一首は、真相に至れぬことを死者にわびる歌でもあったと、人づてに聞いたことがある。宝塚線事故の犠牲者は107人を数える。揺るがぬ調査に基づく再発の防止こそが、せめてもの鎮魂なのだと肝に銘じなくてはならない。


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世の中の色々な不祥事のニュースに接すると、全身でガッカリして脱力してしまって、何もかも虚しくなって怒る気も起きないことがあります。事故調の山口浩一委員がJR西日本の山崎正夫前社長に情報を漏洩した上、事故現場に自動列車停止装置を設置すべきとする最終報告書の文言を「削除すべき」と発言していた件については、怒る気どころか、そもそも自分が何をどう感じているのか、よくわからなくなってしまいました。

上に引用した天声人語の内容については、全くその通りだと思います。しかしながら、どこかが絶望的に軽く、スッキリしない感が残ります。「ゆゆしき不祥事」「悪質」「社風が改まっていない」といった、正義から不正義を糾弾する上から目線のせいかもしれません。山名正夫教授が絶句の奥底から絞り出した31文字も、「肝に銘じなくてはならない」という結論への論拠として引用されてしまっては台無しのようにも思えます。もちろん、私がこの天声人語のような文章が書けるかと言えば、全く書けません。

一般庶民である私にとって、JR西日本のような大企業の社長は雲の上の人です。何の地位も権力もない自分自身を省みてみれば、今回の件を「ゆゆしき不祥事」「悪質」「社風が改まっていない」などと断罪することは憚られます。私もこれまで大小さまざまな組織に属して仕事をし、それなりに社会の厳しさを知り、大人になってきました。組織人として採るべき行動と個人の良心が矛盾することはよくあり、その過程で徐々に純粋な良心は麻痺し、ある時には根回しや嘘によって保身を図り、何とか今日まで失業しないでやってきました。

しかしながら、どうしても論理的に誤魔化すことができない行き止まりが、107人の死です。現に生きている人間として、私も死者には絶対に敵いません。そして、ただこの一点のみにおいて、雲の上の大企業の社長は、金儲けしか頭になく価値序列を見失った俗物であると思います。大企業の利益よりも1人の人間の生命のほうが重いことは、幼稚なお説教や綺麗事などでなく、企業なる抽象名詞は個々の人間の思考作用によって初めて間主観的に存立できるという意味において、紛れもない真実です。そして、死者を見失った再発防止策や信頼回復策の類が、このような方向に走ることもまた真実だと思います。

我々が持つ言語の限界が、上に引用した天声人語の記述であるとするならば、非常にもどかしい気持ちが残ります。「揺るがぬ調査に基づく再発の防止による犠牲者の鎮魂」というまとめ方など、安っぽすぎてクソ食らえと思います。しかし、これ以上先に進もうとするならば、自分も同じ電車に乗って、脱線して死んでみるしかないでしょう。天童荒太氏の小説「悼む人」の主人公のように、現場のマンションに行って、悼みの儀式を107回繰り返すのが生きている者の限界かも知れません。遺族でない私は、「同じように自分が乗った電車が脱線して、同じように痛みを感じて死にたい」と述べる方の心の中は想像できませんし、する資格もないと思います。

「容疑者」と「被疑者」

2009-09-24 00:48:27 | 言語・論理・構造
法学部の刑事訴訟法の授業で、答案に「容疑者」などと書いたら、それだけで単位はやらないと言われたことがあります。法律を専門に学ぶ者として、答案でこのような単語を使うことはあまりに恥ずかしく、イロハのイも解っていない証拠とのことでした。刑事訴訟法には「被疑者」という文字は沢山ありますが、「容疑者」という文字は1つもありません。他にも、刑事訴訟法には「被告人」という文字は無数に出てきますが、「被告」という呼び方はありません。そして、これらの法律の条文に規定のない用語は、現場の実務では一切使用されない不正確な呼称であり、マスコミによる新しい造語という意味で、「マスコミ用語」と呼ばれています。刑法学会や法曹界では、以前からこの「マスコミ用語」の存在に対する違和感と苛立ちのようなものがあり、「なぜ法律上の用語とわざわざ違った用語を使うのか」という問いが立てられているのを耳にします。しかしながら、なかなかスッキリとした解答は出ていないようです。

私も、刑事訴訟法に「容疑者」という文字がないことを知った当初は、何でマスコミは法律の条文の通りに「被疑者」と言わないのか、不思議に思っていました。そして、新聞やテレビでそれらの用語を目にするたびに、なぜこれほど不正確な俗語が流布しているのか、理由を知りたいと思いました。それは、一種のエリート意識を伴っていたのかも知れません。その後、法律を離れて言語哲学の本を読んだ時に、自分なりの答えは出ました。まず、ソシュールの言語観により、言語はシニフィアン(能記)とシニフィエ(所記)の不可分の結合関係によって成り立つシーニュ(記号)だとすれば、「マスコミは『被疑者』のことを『容疑者』と呼んでいる」ことを大前提とする限り、両者において一般的に抽象として把握されている概念は一致しており、シニフィエは同一であると思われました。そして、ここで問題になっているのは、このシニフィエと「被疑者」及び「容疑者」との結びつき、すなわち記号システムの全体(ラング)の捉え方なのだと思いました。

犯罪の疑いをかけられた人を「被疑者」と呼ぶか「容疑者」と呼ぶかは、言語が恣意性を持った記号体系である以上、どちらの言語によって切り取っても正誤の問題は生じません。そして、言葉の意味は個々の主体の把握作用であり、語彙の概念も人それぞれであって、しかも文脈次第である程度の広がりと逸脱も許容される以上、ある言語が正確にある概念を内包することもありません。そうすると問題は、民主主義国家の条文によって呼称を「被疑者」と定めた場合の実際の効果です。果たして刑事訴訟法の条文は、「容疑者」という呼び方は本当は不正確であり、非公式な造語であると断定するだけの力を持つのか。その答えは、「容疑者」という言葉が日本社会で広く使われ、日本語を話す人々において広く意味が理解されているという現実において、明らかであるように思われました。ウィトゲンシュタインの前期から後期への転向が、言語が文法的に不完全・論理的に不整合であっても意思疎通が可能であるという事態によって促されたのだとすれば、この場合にも同じことが言えると思います。すなわち、「マスコミは『被疑者』のことを『容疑者』と呼んでいる」ことを問題にするならば、「容疑者」が「それ」であることを認めてしまっているので、語るに落ちているということです。

民主主義国家における国民の意思として法律を作り、その条文によって呼称を正確に「被疑者」と定めたとしても、「犯罪の疑いをかけられた人」のシニフィエと「容疑者」のシニフィアンの結合は、実際にはビクともしていません。すなわち、記号システムの全体(ラング)として、法律の規定はその程度の力しか持っていないことが明らかになっています。さらにハイデガーによれば、このような抽象概念は、実存の語りによってそれぞれの世界を分節していることになります。実際に、1人の人間が一生の間で客観的宇宙を見渡すことはできず、人は自分の関心・配慮・気遣いによって捉えられた日常世界を見回すことしかできません。従って、刑事訴訟法のテキストや六法全書によって初めて「被疑者」という抽象概念を把握し、「容疑者」がマスコミの造語であることを知るのであれば、「被疑者」という言葉を使う者は、自分は法律の素人ではないのだという実存的な契機を有することが避けられなくなります。私は、自分なりにこのように答えを出してから、「『マスコミ用語』という用語」それ自体が法曹界の業界用語のようになっているように思えて、マスコミ用語に対する違和感はなくなりました。

岸本葉子著 『がんから5年』

2009-09-22 21:03:34 | 読書感想文
p.132~

がんを通して、現代医学の達成と限界に接すると、代替または対極をなすものへと、行きがちだ。構図としては、精神世界というジャンルが台頭した状況と、似ている。科学とテクノロジーの発展によってもなお、解決できない問題があると気づいたとき、もうひとつの智慧に、傾倒するのと。「だからこそ、注意深くあらねば」と、自分に言い聞かせてきた。

科学や近代合理主義の基本をなすのは、扱う対象と自分とを「分ける」態度である。がんを告げられたとき、私はまさにその態度をとった。自分の体に起きていることを、認識主体である「わたし」と、できるだけ切り離して、客観的にとらえ、判断を下す。それは少なくとも、短期間に意思決定しなければならない治療までは、有効だったと思う。けれども、治療後も治ったかどうかわからないのが、がんだ。いつまた再発進行し、余命がわずかに限られるかもしれない不安が、長期にわたって続く。

不安と向き合うにあたっても、治療までと同じ方法を適用しようと試みた。自分の体に起きたことに対して、そうしたのと同様に、自分の心に起きていることも対象化して、認識主体たる「わたし」の制御下におこうと。体についての科学が医学なら、心についての科学である、心理学をあてはめて。おおむねそれは、功を奏した。禅に興味を持ったのも、心理学的メソッドのひとつとしてだ。宗教に接近しているつもりはなかった。心頭滅却すれば火もまた涼し、という。そのような動じぬ心、平常心を保つ、私の知らない別な処しかたがあるのだろうか、と。

般若心経の真の醍醐味、というか、私にとって核心をなす体験は、そのように暗記したものを、声に出すところにあった。ちょっとでもよけいな考えが頭をよぎると、とたんにつかえる。そうでないときは、自分が一本の管になり、ひとつづきの音が、通り抜けていく感覚になる。玄侑宗久さんによると、それこそが「わたし」がない状態という。判断も予測も、目的的あるいは因果的な思考も働いていない。日頃は、思考する「わたし」を、自分のすべてと思い込んでいる。でもそれは、もっと多様な広がりを持つかもしれない自分を、狭く限定してしまうことでもあるのだ、きっと。


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裁判員制度の開始と前後して、「あなたは死刑を言い渡すことができますか」という問いが広く聞かれるようになり、あっという間に消えてしまいました。この問いが不毛だったのは、科学や近代合理主義では説明がつかない「死」を問題にしていたにもかかわらず、扱う対象と自分とを「分ける」態度を前提とし、その上で問いを立てていたことが原因だと思います。

殺人罪や死刑といった「死」を考える際には、やはり自分自身が突然末期がんで余命3ヶ月と宣告された時のような、絶望的な緊張感がなければならないと思います。それは、がんでない間はがんになった時のことがなかなか想像できずに挫折することかも知れませんし、何かの拍子に上手く想像できてしまって足元が崩壊することかも知れません。

伊藤真著 『伊藤真の民法入門』 『伊藤真の刑法入門』

2009-09-20 00:41:48 | 読書感想文
● 民法入門 p.10~11

法律を学ぶということは、イメージの修得だといってもいいくらいです。英語を勉強するときに「APPLEはリンゴだよ」と教わればすぐにイメージできます。それはわれわれがリンゴをみたことがあって知っているからです。しかし、民法をまったく知らなければ「危険負担は双務契約において問題となる」と言われてもさっぱりわからないでしょう。法律がわかるようになるというのは、危険負担といわれたら、「ああ、あの場面のあのことだな」とピンとくるようにすることなのです。

結局、民法の勉強は、抽象的な条文や制度をみたときに具体例が思い浮かべられるようにする、と同時に具体的な事例をみたときに条文や制度をみつけることができる。つまり、この抽象と具体の間を自由に行ったり来たりできるようになることが目標です。


● 刑法入門 p.123

法曹実務では、罪数のところが大事なポイントとなります。たとえば、被害者に向かってピストルを撃って被害者が死んでしまったという単純な殺人罪1つを例にとってみても、分析的・理論的に考えるとその中にはいろいろな犯罪が成立していることがわかります。

具体的には銃を準備した段階で一応殺人予備、狙いをつけた時点で殺人未遂、銃口から飛び出した弾が被害者のかたわらまで近づいて来てあぶないという状況になると暴行罪、そして服に穴を開けた時点で器物損壊罪、そして体に触った時点で傷害罪、そして人の命がなくなった時点で殺人既遂ということになります。1発、バンと撃っただけで殺人予備、殺人未遂、暴行、傷害、器物損壊、殺人既遂、それだけ成立しています。しかし、通常それは殺人既遂の1罪で終わってしまいます。


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法学部に入学してすぐの頃、これらの本を読んで「目から鱗が落ちた」瞬間の感動は、今でも鮮明に思い出せます。そうだったのか。殺人罪が成立している時には、本当は殺人予備罪、殺人未遂罪、暴行罪、傷害罪、器物損壊罪も成立しており、混合的包括一罪になっていたのか。この分析的・理論的な「客観的真実」を知った私は、その客観的真実を知らない一般人に対して、とてつもない優越感に浸っていました。そして、客観的・物理的に成立している真実を見抜く力がある法律家は、それを見抜く力のない法律の素人よりも優れており、専門家たる者が無知な大衆の感情などに左右されてはならないと当然のことのように思っていました。

もちろん、これは私自身の未熟さと拙速さ、頭の悪さによるものであり、他の人は「目から鱗が落ちた」経験をしているのか否か、私にはよくわかりません。しかしながら、被害者が何かを語ればすべて「被害感情」となり、マスコミや世論が被害者に感情移入して厳罰を叫ぶ事態は憂慮すべきであり、法律家が素人のように感情に引っ張られることは恥ずかしいというのが法曹界の主流の思考方法であるならば、「目から鱗が落ちた」経験をしている人は、かなりの多数派なのかも知れないと想像します。それは、私の個人的な経験からすれば、目に別の鱗がついてしまい、しかも最初よりも視野が狭くなってしまった状態ではないかとも思います。

思考停止

2009-09-18 00:36:44 | 言語・論理・構造
「近年は、犯罪被害者が持ち出されれば誰も反論できなくなる」。「被害者の気持ちを考えろと言われた途端、人は思考停止に陥ってしまう」。このような言葉を、大学院で刑事訴訟法の学者からよく聞きました。実務に就いても、弁護士の仲間内の会話でこのような嘆息の言葉をよく聞きます。恐らくこれが、法律の世界でずっと生きてきた人々、あるいは現に生きている人々の偽らざる本音だと思います。国家権力から市民の人権を守るというパラダイムからは、代用監獄の廃止、人質司法の改善、死刑廃止、取り調べの可視化という方向性が絶対的です。そこに近年、「犯罪被害者」「犯罪被害者遺族」という特権的な地位を持った人が現れて、反論の許されない聖域が作られてしまった。このような流れに非常に苛立っているというのが、最近の刑事訴訟法学者や弁護士会の本音だと思います。気が進まないながらも、犯罪被害者の保護や救済に取り組まなければならなくなった。「思考停止」という言葉に、あるべき思考の流れが邪魔されているという、何とも言えないもどかしさが表れているように感じます。

あらゆるパラダイムは言語による構成物である以上、論理や文脈による流れを持ち、ゆえに流したいところは最初から決まっています。この流れに全く違う流れがぶつけられ、その論理の存立が根底から危うくなったとき、そのパラダイムは思考停止に陥ります。その意味では、あるパラダイムと別のパラダイムが相容れない状態で土俵の中心を奪い合っている状況では、いずれのパラダイムもその筋を外される可能性を持っており、思考を停止させられる弱点を常に抱えているということになります。国家権力から市民の人権を守るというパラダイムを守り切り、そのパラダイムが思考停止に陥らないためには、犯罪被害者に対して次のような囲い込みをするしかありません。「厳罰化は犯罪被害者のためにならない」。「厳罰によって、被害者はますます自分を苦しめることになる」。「怒りや恨みからの解放のため、被害者の心のケアこそが本当に必要なのである」。このような言い回しには、特権的な聖域を侵さないように注意しつつ、自らのパラダイムの維持にとって障害となる声を何とかして抑え込まなければならないとの切迫感があります。

出自を全く異にする複数のパラダイムにとって、他のパラダイムが思考停止をもたらすことはお互い様です。「犯罪被害者が持ち出されれば人は思考停止に陥る」というのであれば、それはそのパラダイムが元々そのような弱点を持っていたのであり、そのパラダイムを信奉している人だけが思考停止に陥るということです。そして、それが近年の現象であるとするならば、それによって他のパラダイムがずっと抑えられていたことをも示しています。国家権力から市民の人権を守るというパラダイムの原動力を一言で言えば、「死ぬに死ねない怒り」だと思います。それは、無実の罪で逮捕され、警察官や検察官に強引な取り調べを受け、裁判官にも犯人と決め付けられ、挙句の果てに死刑を執行されてしまった、このような事例において頂点に達するものです。このようなパラダイムから犯罪被害者を見ると、同じように、被害者は加害者に対して「死ぬに死ねない怒り」を有しているように見えるはずです。加害者は何としても厳罰に処されなければならない、そして死刑にしなければならない。しかしながら、実際の犯罪被害者からは、多くの場合、そのような怒りは表現されていません。表現されているのは、「生きながら死んでいる哀しみ」、あるいは「体内の深い所から力を抜き去られた状態」とも言うべきものです。

「私の娘が殺された日に、私のすべての世界が崩壊しました。なぜ今生きているのか、不思議なくらいです。一生救われることはありません。あの日、全てが終わればいいと思いました。今でも、何を見ても破壊したい衝動に駆られます。常に爆弾を抱えて生きています。いや、私は生きていません。ここにいるのは人間の抜け殻です。私は娘と一緒に死にました。今でも、世界中の人が同じ目に遭えばいいと思っています。しかし、いつもそう思っているわけではありません。ですので、『二度と同じ思いをする人がいなくなってほしい。そのために、犯人は自らの命をもって罪の償いをしてほしい』と切に願っています。私が事件の直後に娘の後を追わず、今日まで生きてきたのは、裁判の結果を見届けるためです。今でも自分が生きていていいのか、自信がありません。死刑判決は、1つの区切りになると思います。しかし、犯人が死刑になっても、娘は帰ってきません。ですので、私にできることは、犯人の死刑を確実に見届けることだけです・・・」。このような繊細な心の襞を追うことにより、経験者でない者が思わず絶句してしまうことは、「思考停止」ではありません。他方、このような繊細な言葉を聞いても、「心のケアによって被害者遺族の厳罰感情を和らげなければならない。死刑では遺族は救われない」との結論しか出てこないのであれば、それは「思考停止」だと思います。

医療過誤の裁判を担当しながら医者にかかるのは心苦しい

2009-09-15 23:55:07 | その他
私のかかりつけの医師が、医療過誤の裁判を起こされて困っていると嘆いていました。「患者さんのためを思って一生懸命やっているのに、思い通りの結果にならなかったというだけで抗議されることが多くなった。しかも、患者さんと家族が集団で押し掛けてきて、強引に説明を求めることもある。最近のマスコミの医師に対するバッシングは厳しく、医師のほうはうっかり本音も言えない。この裁判についても、医師として最善を尽くした結果であることは疑いなく、どう考えても医療過誤ではない。この裁判のせいで余計な時間を取られて、結果的に他の患者さんに迷惑をかけてしまっている・・・」。

かかりつけの医師は、私が数件の医療過誤の裁判で患者側に付いていることを知りません。ですので、雑談の中で誰が聞いても納得してくれるはずの話をして、同情と激励の返答をもらうという認識しかありません。私も社会の儀礼に従って、「そうなんですか。大変ですね」「最近は患者エゴがひどいですからね」などと言って適当に話を合わせています。その時、頭の中はゴチャゴチャになり、人格が分裂した感じになっています。いくつもの医療過誤の裁判を担当し、いくつもの病院やクリニックを訴えていると、「医師=悪」という価値判断で頭を固めておかないと、まともに仕事ができなくなってきます。そして、かかりつけの医師が何を語っても、その言葉に共感することはできなくなっています。

私が担当している数件の医療過誤の裁判における医師は、看護師との連携不足、カルテへの不正確な記録、患者や家族への説明不足、検査結果の見落としや見間違えなど、明らかに医療過誤があるように見えます。しかも病院側は裁判において、死者に鞭打ち、遺族の追悼の感情を逆撫でするような主張を堂々と繰り返してきます。「原告は、家族の死に直面して冷静な判断力を失い、何の落ち度もない病院を逆恨みし、敵意をむき出しにして事実を歪曲し、病院に対して法外な金額を請求しようとしている・・・」。このような準備書面を出されてしまえば、こちらも黙っているわけには行きません。正義は必ず勝つ。医療過誤を隠蔽しようとする巨悪は暴かなければならない。そのためには医師や看護師を徹底的に個人攻撃しなければならない。そして、いくつもの準備書面を集中的に仕上げるためには、日常生活全般を通じて、「医師=悪」という常識の中で生きることが不可欠になってきます。

私はかかりつけの医師の話を聞きながら、無意識のうちに、事態をある構造の中に押し込もうと試みていました。すなわち、自分が担当している裁判は医師のほうに落ち度があり、裁判を起こした患者が正しい(医師=悪、患者=善)。これに対して、かかりつけの医師には全く落ち度がなく、裁判を起こした患者のほうが間違っている(医師=善、患者=悪)。自分がこのような是々非々の対応をしようとしていることは、非常に人間的であるように思えました。しかしながら、このような線引きが可能であると仮定することそれ自体が、善悪二元論を前提に、自分は必ず善の側に立っていることを保障するものである以上、単なる自己欺瞞であることは明らかでした。いったん医療過誤の有無が正面から争われ、裁判になってしまった以上、双方が自らを善であると主張し、相手方を悪であると主張することは避けられないからです。

私はなぜ原告側に立ち、患者や遺族の方々と共に涙を流しつつ、あちこちの病院に乗り込んで証拠保全をし、難しい文献をひっくり返しながら、厳しく医療過誤を追及しているのか。それは、医師が自らの過ちを認めずに事実を隠蔽し、患者が泣き寝入りさせられることは、明らかに社会正義に反し、絶対に許すことができないからです。そして、これが私にとって絶対的な正義である理由は、たまたま患者側に立って医療過誤を追及する方針の法律事務所に採用されたからです。弁護士会の求人票には、そのような点までは書いてありません。もしも、病院側の顧問の事務所に採用されていたならば、事態は全く逆になっていたことと思います。その違いをもたらしたものは、面接の日程かも知れませんし、前任者の退職時期かも知れませんし、来客によって電話が遅れたことかも知れません。そして、世の中の多くの人の「絶対に譲れない信念」や「唯一の正義」は、実はこのように成り立っているのかも知れないと思います。

香山リカ著 『しがみつかない生き方』

2009-09-13 00:24:38 | 読書感想文
p.156~

「誰もがお金が好き」という考えは、あまりにも急速に場を選ばずに広がりすぎたのではないだろうか。出版の世界も、その変化の波に飲み込まれた。2000年代に入る頃から、本を上梓するときにも、編集者がそれまでとは違うことを言うようになってきたのだ。「せっかく出すからには、やっぱり売れてほしいですよねえ。つきましては、販売促進活動のためにテレビや雑誌への売り込みをお願いできませんか?」といった具合だ。彼らの言葉の前提になっているのも、「著者のあなただって、お金が好きですよね。売れてお金が儲かるほうがいいですよね」という考えだ。

しかし、たとえば本の場合、本当に「売れればよい」のだろうか。また、「売れる本が必ず良い本」なのだろうか。私の場合、いまの社会を精神科医として見渡して思いついたことが出てくると、それを何とかして人に伝えたい、と思う。「せっかくだからこれをみんなに言ってみようかな」という素朴な気持ちが、本を書くときの動機の大半を占める。「とにかく売れ線ねらいで」とそそのかされ、金儲けだけが動機となって本を書き始めても結局、原稿用紙200枚、300枚と書き続けて1冊を仕上げることは不可能なのではないか。

本を1冊書き上げるためには、「これは売れるため、お金のため」というおまじないだけでは、気力が続かない。心にもないことをひとりで何十時間も書き続けるほどの精神力のタフさは、私にはない。そう考えれば、「本を書く」という行為は、「お金が好きやねん!」という気持ちとはずいぶんかけ離れたものだ。おそらくこれまでは「本を出したい」という出版社のほうも、「私たちには、著者の意見を世に出す役割がある」といった使命感も抱いていたからこそ、決して能率が良いとは言えないこの仕事をずっと行ってきたのだろう。そこで、出版の世界にまで「とにかく売れるものがいちばんよいもの」といった考えが流れ込むと、言いたくないことを言ったり、意味がないことを編集したり、というおかしなことになってしまう。


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この本は7月に発売されて以来、すでに30万部を突破するベストセラーになっているようです。この状況は、上に引用した香山氏が本を書く際の覚悟に照らしてみると、非常に逆説的だと思います。そして、この逆説を逆説として捉えることは、出版不況、活字離れ、新刊の出版点数の増加による書籍の短命化といった単語を経由している限りは、まず不可能ではないかとも感じます。

文章を書くという点では、ブログを書くという行為にも、全く同じことが当てはまるように思います。ブログを更新する主たる動機が、アクセス数を増やすこと、人気ブログにランキングされること、さらにはアフィリエイトで稼ぐことに置かれているならば、検索上昇中のキーワードを多用し、有名ブログにトラックバックするといった手段が有効になります。これは、香山氏が述べるとおり、単に書きたくもないことを書くという無意味な行動だと感じます。

野矢茂樹著 『論理トレーニング』

2009-09-11 00:52:31 | 読書感想文
この本は、法科大学院の適性試験対策のテキストとして、受験生に広く用いられていました。「旧来の知識偏重型の試験から自分の頭で考える試験へ」という新制度の目的に合致する内容だったからです。法科大学院制度も7年目に入りましたが、今年の新司法試験の合格率は27.6%と初めて3割を切り、過去最低を更新しました。今年の不合格者は実に5350人にも及び、受験生の不安は増す一方で、結局は受験予備校が隆盛するという形に戻ってしまったようです。どんなに偉そうな能書きを並べても、高い学費と膨大な時間を費やした挙句に不合格では、理論と実務の融合も新時代の法曹養成もヘッタクリもないということです。

試験の合格・不合格は、それが重要な試験であればあるほどその後の人生設計が異なってくる以上、人生そのものを人質に取られることになります。ゆえに、入学試験・資格試験・就職試験を問わず、自分の本音はとりあえず抑えて、出題者から求められていることを答えるのが試験だということになってきます。下記の引用の1段目は、野矢氏が小論文の受験参考書の模範解答を引用した部分であり、2~3段目は野矢氏がそれを強烈に皮肉りつつ小論文試験の害を述べた部分です。そもそも「自分の頭で考える試験」というものが背理を生じるのであれば、この本が法科大学院によって推奨され、しかも法科大学院制度が早くも破綻を来たしている現状は、落ち着くところに落ち着いただけなのかも知れません。


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p.166~

「世界中どこへ行っても必ず日本の若者がいる、と言われて久しい。出かけた先での風評の第一が、日本の若者は自国の文化を知らない、ということ。第二に、マナーの悪さだ。海外に出ることは、悪いことではない。島国に住む日本人が、異国の文化に触れ、現在の日本のあり方を考えることは必要なことに違いない。だが、ショッピングに狂奔し、観光地を落書きで汚して帰る実情では情けない。真に外国を知るには、まず自国の文化を知ることから始まる。日本には、世界に誇れる文化財があるのだ。それに無関心でどうして他国が理解できよう。教養の根本は、自国文化の理解にあると思う。精神的豊かさもそういう理解の上に成り立つのではないか。また、旅の面白さは自分で見、自分の頭で考えるという主体的姿勢から生まれる。いわゆる『パック旅行』は旅ではない。技術の進歩が物質的豊かさを生み出した反面で、肝心な人間性を貧困にしている現状を我々は今こそ、考え直すべきである」。

これは、受験参考書に示されていた小論文の入試問題に対する模範解答をそのまま引用したものである。そしてその問題とは、「『本当の豊かさについて』、『技術の進歩』、『使い捨て』、『旅』、『家族』、『文化財』という語句のうち、少なくとも3つを使用して、400字程度にまとめよ」という趣旨の問題であった。なるほど、このような問題に対してはこのような解答が「模範解答」なのかもしれない。だが、この文章を論文的叙述として評価してみたい。まずなによりも、相手に何を伝えたいかが不明確である点が指摘できる。つまり、全体としてもっともなことを主張していることに自己満足し、他者に対する感受性の欠如を示している。そして、もっともなことを言っているという安心感が、緊張感のないだらしのない論述を生み出してしまっている。

このようにとってつけたような穏当な結論をつけて「よい子」ぶりを示さねば点が取れないのであれば、小論文試験は多大な害を与えていると見るべきだろう。この模範解答は、採点者を読み手として想定し、与えられた語句を強引にもこなしつつ、「本当の豊かさについて」といういかにも常識的結論を求めるような論題に答えるものであるために、まさにそれにふさわしいものとなっている。そして、「もっと自国の文化を知ろう」、「もっと旅行のマナーをよくしよう」、「もっと主体的な旅行をしよう」と、虚しい正論をほとんど論証の構造をもたないままに並べ立て、最後に「物の豊かさから人間性の豊かさへ」と鼻白むような結論をとってつけて終わる。しかし、いったい、「技術の進歩が人間性の貧困をまねく」というのは本当なのか。もしそうなら、どうしてそうなるのか。

ある弁護士の苦悩 その2

2009-09-09 00:04:53 | 実存・心理・宗教
その夫婦は、見るからに体全体がやつれており、表情にも全く生気がなかった。自己破産の法律相談に来たにもかかわらず、2人ともなかなか口を開こうとせず、視線も泳いでばかりで落ち着かない。一見して、危険な状態にあることが察知できた。彼が色々と質問を工夫したところ、ようやく男性のほうが小さな声で話し始めた。「息子が会社でいじめられて、1年前に自殺しまして……」。女性も徐々に話し始めた。「労災を申請したんですが認められなくて、裁判を起こす気力も湧いてこなくて……」。彼には、「はい」と答えて大きくうなずき、意図的に沈痛な表情を作る以外の行動は思いつかなかった。そして、自分自身の偽善が情けなくなると同時に、地獄は淡々と語ることによって地獄でなくなり、それが同時に地獄の所在を示すのだなと思った。

夫婦は、封印してきた記憶が一気に解放されたかのように、彼がメモを取る余裕もないスピードで代わる代わる話し出した。息子の死後、2人とも鬱状態になってしまった。そんなある日、新興宗教の団体から電話があった。曖昧な返事をしていると、信者が数人で自宅まで勧誘に来た。信者の話は、絶望の淵にある自分達には救いに感じられた。先祖の供養をおろそかにしていたのが悪い、息子の名前の画数が悪いから命を落としたのだ、このままでは成仏できないなどと言われて、最初は非常な反発を覚えたが、信者達の真剣な表情と語り口に接して、それは探していた答えなのかも知れないと思った。嘘でもいいから、この答えに賭けてみようかと思った。その時、なぜか鬱状態が軽くなった。夫婦で消費者金融からお金を借りて高額な印鑑を買い、壺を買った。息子のために色々な物を買ったが、ついにお金がなくなって買えなくなり、借りたお金も返せなくなってしまった……。

彼は、延々と続く夫婦の話を聞きながら、話を遮るタイミングを図りかねていた。話は大体わかった。これ以上詳しく聞いていると、完全に時間がなくなる。カウンセリングは精神科医の仕事であり、自分の今回の職務ではない。夫婦は自己破産手続を依頼しているのだから、そのために最善を尽くすのが弁護士の義務である。彼は、確実に自己破産が認められるための免責不許可事由の有無を、裁判所の書式に従って愚直に聴取し始めた。「奥様は買物依存症になって浪費したことはありますか」。「ご主人は風俗にはまって大金を使ったことはありますか」。「お二人は、競馬、競輪、競艇、パチンコ、麻雀は好きですか」。「株式投資や商品先物取引に手を出したことがありますか」。彼が定型的な質問をするたびに、「いいえ」と答える夫婦の顔は徐々に険しくなっていった。そのうちに、露骨に不快そうな表情を見せて首を横に振り出し、今にも叫びだしそうな雰囲気となった。彼は、もはや限界だと思った。

本来であれば、「回収できる債権はありますか」といった質問事項がまだ続いていた。弁護士は事前にこれらの事項を詳しく聴取して、裁判所に報告しなければならない。借りたお金は返さなければならないという近代社会の基本を、国家権力によって反故にするのであるから、厳しい要件が求められるというのがその理由である。もし夫婦がその新興宗教の教団を詐欺で訴えて、代金が返金されるようであれば、自己破産よりもそちらの裁判をしなければならない。しかしながら、彼は一人の人間として、この点を問いただすことができなかった。夫婦は、その教団から詐欺に遭って不必要なものを買わされたと認めるのかどうか、繊細なところで苦しんでいる。すべては息子のために買ったものであるから、教団から騙されたと認めても認めなくても、その先にあるのは、息子の死に直面しなければならない絶望である。両親は、教団を訴えるために弁護士のところに来たのではなく、自己破産をするために来ているのだから、答えは明らかではないか。

裁判所による審尋の日が来た。いかにも聡明そうな裁判官は、書類にざっと目を通すと、夫婦に対して冷徹な口調で次々と質問を浴びせた。「何で、こんな何百万の借金をするまで商品を買ったんですか?」「常識的に途中でおかしいと思わなかったんですか?」。夫婦は必死の形相で、問われたことに誠実に答えようとした。「息子のためでした」。「疲れ果てていました」。「追い詰められていました」。裁判官は納得できないという様子で、最後の質問をした。「それであなた方は、今もその教団を信じているんですか?」。夫婦が答えられないでいると、裁判官は代理人弁護士である彼に向かって厳しく述べた。「このままでは破産は開始できません。資料を補充してください。今も信じているのかいないのか、態度を明確にさせてください。詐欺に遭ったことを認めるならば、内容証明を送って、債権回収に努めたことの証拠を提出してください」。彼は、弁護士を辞めるか、人間を辞めるかの選択肢を突きつけられたように思った。


(フィクションです。)

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「3・生きがいを求める心 ―変化への欲求」より

2009-09-06 00:27:14 | 読書感想文
p.58~

生活を陳腐なものにする1つの強大な力はいわゆる習俗である。生活のしかた、ことばの使いかた、発想のしかたまでマスコミの力で画一化されつつある現代の文明社会では、皆が習俗に埋没し、流されて行くおそれが多分にある。かりに平和がつづき、オートメイションが発達し、休日がふえるならば、よほどの工夫をしないかぎり、「退屈病」が人類のなかにはびこるのではなかろうか。

しかし、ここでちょっとみかたをきりかえてみよう。変化や発展というものは、たえず旅行や探検に出たり、新しい流行を追ったりしなくてはえられないものであろうか。決してそうではない。ほんとうは、おどろきの材料は私たちの身近にみちみちている。少し心をしずめ、心の眼をくもらせている習俗や実利的配慮のちりを払いさえすれば、私たちをとりまく自然界も人間界も、たちまちその相貌を変え、めずらしいものをたくさんみせてくれる。自分や他人の心のなかにあるものもつきぬおもしろさのある風景を示してくれる。

わざわざ外面的に変化の多い生活を求めなくても、じっと眺める眼、こまかく感じとる心さえあれば、一生同じところで静かに暮らしていても、全然退屈しないでいられる。エミリー・ブロンテは一生ひとりで変化に乏しい生涯を送ったが、あの烈しい情熱と波瀾に富む『嵐ヶ丘』を創り上げる心の世界をもっていた。むしろ精神の世界が豊かで、そこでの活動が烈しいひとほど、外界での生活に大きな変化を求める欲求が乏しいとさえいえるかも知れない。


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これは昭和41年の文章ですが、まさに神谷氏が述べるとおり、その後の日本はマスコミの力による画一化が進み、戦争のない平和な時代が続き、パソコンや携帯電話などのITが発達し、週休二日制になって祝日も増えました。これは、先見の明や時代の先取りといった陳腐な捉え方では済まないように感じます。特にこのくだりは、変化や発展、流行について語っているため、そのこと自体を40年の時間の流れという側面で語ってしまえば、面白くも何ともないお説教で終わってしまうように思います。

変化や発展に関する現代の考え方と言えば、「自分を変える」ことと「社会を変える」ことに集約されています。そして、自分を変えるためには自己啓発が必要であり、社会を変えるためには政権交代が必要とされるようです。この両者に共通するのは、いずれにしても変化や発展は正義であり、善であり、幸福をもたらすものだという大前提を疑っていないところだと思います。そして、これは神谷氏の述べる「退屈病」がさらに進んだ状態であるとも感じます。変化や発展に強制的に追い立てられてしまえば、生きがいは見失われるという皮肉な結果なのだと思います。