犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

北杜夫著 『マンボウおもちゃ箱』より

2010-11-21 23:49:16 | 読書感想文
p.182~

 この世に偉大な書物があるということは、それだけ幸福で、というのは私が本をよむことが好きで、なかんずくよくできた小説を手軽によめるということはかけがえのないことだとこのごろよく考えるのである。私は世間の一般の人よりも、その微妙な細部を味わうことができる。
 それならば、そのような本をよんで、堪能し満足しておればよいのに、なんで自分まで物を書きだすのか。ちょこざいなことではないか。さよう、ちょこざいなことである。

 世間の若い人はよく、自分は詩人になるよりほか道がない、などというが、そんなことは間違いである。詩人になる才能があるにせよ、小学校の先生にも道路工夫にもなることができる。私が物を書いているのは、それが性にあい好きだからであろうが、物を書くことを禁じられてしまったからといって、自殺するようなことはない。他のいろんな職業で生きてゆく。が、告白すると、やはり物を書きたいだろう、それもずいぶんと。


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 ここのところ、私はよく物を書いています。「被告人は本件を心の底から深く反省し、二度と過ちを犯さないことを決意し、真面目に仕事に取り組み更生することを誓っているため、再犯の恐れは皆無である」などと5分か10分くらいで書いています。国の刑事裁判のシステムがそうなっているからです。短時間で書類が仕上がるのは、過去の別の被告人の事件の書類が使い回しできることによります。

 私は物を書く仕事に就いてお金をもらっていますが、物を書いているという実感はありません。そして、ずいぶんと「物を書きたい」という欲求が溜まっており、最近はその時間がないことを嘆いています。罪と罰という重いテーマに関し、軽い文章ばかり読んだり書いたりしてお金をもらっていると、どんどん感覚が麻痺してしまうという危機感があります。

中川一政著 『腹の虫』

2010-11-19 23:43:51 | 読書感想文
 p.10~
 古今を流れる時間の一点に人間は生れる。東西古今のただ一点の場所に人間は生れる。そしてその時間と場所がかさなる一点に人間は生れる。それが人間の運命である。人間はその運命を足場にして生きてくる。
 私はロシアでもフランスでもない、日本に生れた。そして青森でも鹿児島でもない、東京に生れた。室町でも江戸でもない、明治に生れた。そして明治の10年でもなければ30年でもない、明治26年に生れた。もっと微細に言えば生年月日にも及ぶかも知れない。

p.53~
 私は研究所などで人体や石膏像をかいている生徒が、木炭や筆を立ててモデルの寸法割合をはかっているのを見ている。それで形はとれると思う。しかし私の捕捉したい形とその形は違うと思う。目に見える形ははかれる。目に見えない形ははかれない。目にみえる形と目にみえない形を混同して私は嘆いていたようだ。
 釣り落とした鯛は大きいと云う。三尺もあったという。そんなに大きくはない。一尺くらいだと傍の者がいう。釣り落とした者には感動があっていう。傍の者は冷静だから一尺という。我々が画をかくのは物を見て感動するからだ。感動がなければ画をかかない。
 道元の言葉であろうか。「世界は世界にあらず、これを世界という」。私達の仕事で云えば、「形は形にあらず、これを形という」。これが私の探究であった。

p.115~
 われわれは、フォルムとかムーヴマンとか、デフォルマシオンとかいっている。我々の仕事は感動をいかにして、画面のなかに定着させるかという事である。簡単にいえば、重箱にぼた餅をいれるのだ。この重箱にぼた餅をいくつ入れるか、いくつ入れたらいいか。そういってもいいのである。もう少しむずかしく云えば、虎でも獅子でもよい、いかに檻の中に追いこむか、殺さないで生かして檻の中に住まわせるか。
 ムーヴマンとは音楽でいえば、節まわしである。デフォルマシオンとは永歌することである。それはあくまで、自然に出ずるものであって、故意ではない。
 私は13、4から歌をつくっていた。20すぎる頃になって詩をつくった。画をかくようになって歌にも詩にも遠ざかったが、今思うとそれが私の画業の発足であったと思う。私は詩や歌をつくっているうちに、間を覚え、構図を覚え、ムーヴマンを覚えた。それ故、セザンヌの画集をみているうち、いち早く画のムーヴマンを見てとった。セザンヌの林檎は、ただ並べてあるだけではない。1つ1つの間に目にみえぬ受け渡しがある。



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 この本は昭和50年の出版です。間や構図の把握が無意識の意識化の過程であるならば、それは言語化の要素を含むものであり、歌と詩が画業の発足であったとの中川氏の述懐には圧倒されます。
 
 高度情報化社会では、無意識の意識化に関する敏感さは、消費活動を煽り立てられる情報をも把握してしまうため、明治26年生まれの中川氏の示唆を実践するのは難しいと思います。それが世界から取り残されることを意味するのであれば、非常に皮肉だと思います。

桐野夏生著 『東京島』より

2010-11-16 23:59:45 | 読書感想文
p.107~
 彼らは私たち夫婦と会って、折角上陸できた島が無人島だとわかった途端、半ば自棄糞でトウキョウ島と名を付けました。
 それから、変化が始まったと私は考えています。ものに名前が付けば、意味が生まれ、認識され、世界が確立するのです。私はその過程を目撃しているのです。彼らは、被災者気分で臆病に縮こまっていた癖に、何をしても咎められないとばかりに、主体的に暴走を始めました。その焦点となったのが清子の取り合いでした。
 私は、40歳を過ぎた清子が、若者たちに性の対象として見られるようになるとは思ってもいませんでした。清子も私も、自分たちを思慮深い大人だと思っていたのに、実は何も知らない幼児のようなものだったのです。それほど、新しく生まれる世界は自由で残酷なのです。

p.370~ 佐々木敦氏の解説より
 『東京島』を、たとえば「現代日本の縮図」などといった形に矮小化してしまってはならない。桐野夏生は、間違ってもそのような「現実社会」や「現代社会」へのフィクションへの移し替えを試みているのではない。
 そうではなく、たとえ出発点が具体的な「現実」や現実に起こった「事件」であったのだとしても、そこから小説家の「言葉の想像力」が制限抜きに飛躍してゆくことによって、あっけなくそれは「現実」や「事実」を凌駕して、もはや「小説の物語」でしか可能ではない「真理」を露わにすることになるのである。


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 解説の佐々木氏が述べているとおり、桐野氏は「小説の物語」でしか書けないものを書いているため、それを映像化するのは不可能だと思われます。特に、「ものに名前が付けば意味が生まれ、認識され、世界が確立する」という過程を映像化するのは論理的に不可能であり、映画は原作とは全く別のものであったように思います。

芦田淳著 『髭のそり残し』

2010-11-13 00:07:02 | 読書感想文
p.20~
 上品、下品にはいろいろあるようだが、私は相手によって態度を変えることを、下品なふるまいのひとつと考える。
 この国は、タテ社会で、その人の地位、肩書きがものをいう。名刺を見て、急に声の出し方まで変えるような姿を見るのも珍しくない。傲慢な態度の人間ほど、自分より上の立場の人には卑屈になるようだ。強い者に弱く、弱い者に強いという人間が、意外と多いのだ。
 また、自分と利害関係のない人にはまことに冷淡。職業柄、あらゆる階層の男女に出会う。そこでいえることは、人の地位と品格の上下は、全く関係がない。“ボロは着てても心は錦”と歌の文句のような人もいれば、その反対もいると人間模様は様々なのだ。

p.229~
 私のような職業の者は、日本に限らず世界中のあらゆる立場の人たちに出会い、仕事上でのつながりを持つ。そこでしみじみ感じることは、金持ち、貧乏、偉い人、普通の人、人間は様々だが国を問わずその地位と人格は全く一致しないということである。
 人も羨む恵まれた立場の人が、必ずしも温かい心を持っているとは限らない。その逆の立場の人間が高潔な精神を持っていて敬服することたびたび。人生をどう生きているかということが歴然と人相に表れるといえる。


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 この本は平成10年の出版です。言い古されたことが古い本に書いてあると、人間社会の常態は変わるはずがなく、しかも人間が入れ替わる限り実現されることがないとの感を強くします。

 この12年間でさらに進んだ事態としては、上品で高潔な精神を持った人間が下品な人間に利用され、心を病む傾向がより強くなった点が挙げられると思います。上品な人は、どんなに下品な人から責められても、「自分はそんな下品なことは絶対に言わない」と自身に誓い、耐えなければならないからです。そして、世渡りのためには、下品になったほうが楽だからです。

池井戸潤著 『空飛ぶタイヤ』より

2010-11-11 23:52:21 | 読書感想文
p.264~

 「お気持ちはわかります。ご立腹はもっともで、心苦しいばかりです。私にも立場というものがございましてこのようなことを申し上げておりますが、本当は、お返ししたいという気持ちで一杯なんです」。沢田は言葉巧みに懐柔にかかる。
 「ただ、部品を返せ返せないということを繰り返していても、何ものをも生みません。事故の責任を明確にしたいという赤松社長のお気持ちはわかりますが、それで亡くなった方が戻ってくるわけではありませんし、事故でダメージを受けているのは私どもも同じなんです。そこで、提案なんですが、そろそろ次のことをお考えになってはどうでしょうか」。

 「次のことだと?」 腕組みした赤松に沢田は眉を寄せ、懇願するような言葉を続ける。
 「新しい部品を持って参りました。先日のトレーラーと同じ形のものが御社で運行されていると、この益田さんからも聞いております。もしよろしければ、そのトレーラーの部品も交換させてください。そう簡単な話ではないと思いますし、この件についてはいろいろと失礼なことを申し上げてしまいました。それについてはこの場で深くお詫び申し上げます。ですが、社長、そろそろ前向きなことを考えていきましょうよ。これ以上事故にこだわっても、いい結果にはならないんじゃないでしょうか」。
 相手を丸め込もうと必死になっている男の説法を黙って聞き流した。沢田が口を閉ざすとふいに沈黙が挟まり、問うような眼差しが赤松を見る。

 「あの事故が全てを変えちまったんだ」。赤松はいった。「いまさら過去をどうすることもできない。だが、人間にはこれを越えなきゃどうしても先にいけないハードルがある。会社だってそれは同じだ。ウチの会社にとって、あの事故の真相究明がまさにそうなんだよ」。
 「誠意を受け取っていただけないでしょうか。社長。この通りです」。沢田はテーブルに額が付くほど頭を垂れた。それを見ていた益田もまた同じように「私からもお願いします」と右へ倣う。情にほだされてしまいそうな、しおらしい態度。もっともらしい話法。だが、赤松が目指すものはそこにはない。

 「なんなら出るところに出ようか」。赤松の啖呵に、黙っていた沢田は一言、「私どもの誠意を評価していただけなくて、残念です」と呟いた。
 赤松は噛みつかんばかりにいう。「じゃあ、法的な措置をとる。それでいいんだな」。
 ぐっと押し黙った沢田から、諦めたような吐息が洩れた。「仕方ないですね。ですが、そんなことをして傷つくのは赤松さん、あなたのほうじゃありませんか。裁判になれば、時間も金もかかる。御社にそんなことをしている余裕があるんですか」。


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 この小説は、走行中のトラックからタイヤが外れ、直撃を受けた歩行者が亡くなった実際の事故をベースにしています。この場面に登場する「沢田」とは、トラックの構造的な欠陥を隠そうとする大手自動車メーカーの社員です。他方、「赤松」とは整備不良との結論を押し付けられようとしている中小の運送会社の社長です。寸分の隙もない台詞の応酬を書き切る小説家の筆力には驚嘆します。

 「亡くなった方が戻ってくるわけではない」という台詞は真実です。真実の言葉は破壊力を持ちます。そして、現実のあらゆる裁判においても、この破壊力が人間の行動に決定的な影響を与えています。問題は、第1にこの破壊力の欺瞞性に敏感になれるか、第2にその敏感さに自身が耐えられるかです。この欺瞞性に鈍感な人ほど、真実を真実として振り回すからです。

新井満著 『自由訳・千の風になって』

2010-11-08 00:06:28 | 読書感想文
p.81~
 大風は、私たちの頭上を吹きすぎていった。月子は私の腕の中で、じっと風を見ていた。月子につられて私も、じっと風を見ていた。風の姿を見た人は、世界中で1人もいないであろう。しかし私はその時、風の姿をたしかに見たような気がした。森の中を、いかにも気持良さそうに吹きわたってゆく1人の風神の姿を…。
 次の瞬間である。頭の片隅で、かすかにひらめくものがあった。<そうか。つまりこの英語詩は、風を主人公にして自由訳すればよいのだな…> このことに気づいたとたん、苦しんでいた翻訳はあっというまにできあがった。原作の英語詩にwind(風)という言葉が登場するのは、1回だけである。意外に思われるかもしれないが、原作の英語詩の中で、“風”のイメージはかなり希薄だったのだ。

本の帯のコピーより
 大切な人を亡くしたら…… 悲しみをいやす奇跡の詩。
死者から、あなたへ。「私のお墓の前で泣かないでください…」 今、あなたの胸に送られてきたのは、千の風になったあの人からのメッセージです。それは喪失の悲しみをいやし、生きる勇気と希望を与えてくれる“再生”の詩。日本中が涙した感動のベストセラーを、ポケットに一冊。


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 上の2つの文を比較してみて、本が売れない時代に本を売るのはつくづく大変なことだと思いました。「癒し」「奇跡」「勇気」「希望」という安易な既成概念の枠を設定することは、『千の風になって』の詩の行間を没却することになります。しかし、本を買ってもらうためには、「癒し」「奇跡」「勇気」「希望」を前面に出すことが避けられなくなります。

 本が売れるということと読まれるということは別の問題であり、読まれなくても売れるのであれば、売上高は上がることとなります。そこでは、何度も同じ本を繰り返し読んで味わうといった人間の行為は、次々と本を売りたい側にとっては迷惑でしかないでしょう。しかしながら、『千の風になって』の詩を深く味わえば味わうほど、「癒し」「奇跡」「勇気」「希望」の押し付けには白けざるを得ないと思います。

向井万起男著 『君について行こう』より

2010-11-06 23:53:47 | 読書感想文
下巻 p.22~
 私も、スペースシャトルに乗り込むからには、死ぬかもしれないということを考えていないわけではない。でも、その恐怖は自分なりに心の中で始末をつけたという自負がある。宇宙飛行士募集に応募して、第2次選抜を通過したあたりで、そのことをじっくり考えたのだ。
 死の恐怖を引きずったまま宇宙飛行士に選ばれてしまってはマズイ、選抜から降りるか、死の恐怖に始末をつけるかを決断しなければと思い、自分は決断したのだ。死ぬときは死ぬ。宇宙をめざして死ぬのなら、私は後悔しない。今でも死ぬかもしれないということは忘れてはいないが、もう気になんかしていない。

p.317~
 あと1分。打ち上げまであと1分と迫ったのに、静かなままだ。私は、なにか不思議な気分だった。オレの女房が乗り込んだスペースシャトルが打ち上げられるまで、あと1分しかないというのに、なにも世の中が変わっていないなんてことがあっていいの? こんなことでいいの? 特別なこともなく、なんの儀式もなく、ただ時間だけが予定の打ち上げ時刻に向かっている。
 こんなに何もない状態でいいの? こんなに静かで何も起こらない状態で本当にスペースシャトルはあと1分で打ち上げられるの? 私は、本当に不思議な気分だった。私の人生で、これほど、時間だけがすべてという状態に置かれたことはなかった。


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 これまで何人もの宇宙飛行士がスペースシャトルで宇宙に行きましたが、そのニュースの取り上げられ方がいつも面白くないと感じます。「宇宙から地球を見ると国境線をめぐって争っている人類が愚かに思えませんか」とはとても聞けないでしょうが、何となく質問が紋切り型で軽薄に思われるからです。

 恐らく、宇宙飛行士の仕事が死と紙一重でありながら、聞く側がその事実を遠ざけたまま、夢や希望といった切り口からの質問に終始しているからだと思います。それで宇宙飛行士の方々が、多くの国民に感動を与える役割を遂行しているのであれば、立派なことだと感じます。

山田太一著 『路上のボールペン』

2010-11-03 00:38:11 | 読書感想文
p.25~
 ある時、ひどくバカバカしい議論をしかけてくる男がいて、私は腹を立てて、これでもか、というように、その男の議論のつまらなさを叩いた。帰り道は、ちょっと勝ち誇ったような気持だった。その時、終始一緒にいた友人が、ボソッといったのである。高田馬場のホームであった。電車の来る寸前に、「君は―」といった。
 「権力を持つと威張るんだろうな」。そこへ電車がすべり込んで来た。私は冷水を浴びたような気持だった。なにが嫌いといって、権力を持った人間の居丈高ほど嫌いなものはない、と思っていた。ところが、いわれてみれば、確かに私の中に、そういう嫌な芽がないとはいえないのであった。
 高田馬場から渋谷まで、口がきけず、今考えれば初心だったと思うが、渋谷でおりる時、「俺は、一生、決して威張らないよ」といったのだった。友人は、「そう」と、ちょっといたましいものを見るような目でいった。その目も忘れられない。私は、それ以降、威張ることができない。議論で、徹底的に勝つことができない。

p.181~ 『クリスチーネF』を見て より
 13歳の西ベルリンの少女が、とどめようもなく麻薬に溺れてしまう。一口にいえば、そのプロセスを余計なものをはぶいて執拗に追い続けた映画である。
 恐ろしいのが麻薬なら、多くの観客にとってそれは他人事である。「怖いんだワァ」といってその恐ろしさを楽しむだけである。あるいは「だれかにすすめられても、やめとこ」という啓蒙的効果にとどまる。それだって意味のないことではないし、この作品が、そういう側面の効用を持っていることも事実だが、演出の焦点はそこにはない。作品の主調音は「孤独」である。
 荒廃の根源にあるのは、麻薬ではなく孤独なのである。そしてその孤独は一映画がどうこうなし得るものではない。出来ることは、ただそのいたましさから目をそむけずにいるくらいのことだ。そうした作者の姿勢が、問題劇にありがちな観念先行、図式性、傲慢、泥くささから、この作品を救っている。

p.258~ 鴨下信一氏の解説より
 山田さんの書くものを見れば、これは誰でもすぐわかることだが、<腐臭>を嗅ぎつける鋭敏さというか、世間の腐っている部分、家庭の腐りかけている部分、自分の中の腐りはじめている部分から立ちのぼってくる臭気に対する敏感さ、これがきわ立っている。そしてこの点についての山田さんは、まことに容赦のない告発者であって、その告発ぶりは峻烈をきわめているといっていい。
 しかし一方、山田さんの中ではいつでも「(それが)そうだとすれば」と留保をつけて考えるところがあって、よくそれを山田さんの「人間に対する優しさ」などと一口に言うけれども、どうもそれは正しくないような気がする。それはもっと複雑な<何か>なのであって、これもそんなに簡単にいってしまってはおこられそうだが、ぼくらが<現実に生きてゆく>ことと何かつながりがあることなのだろう。それは妥協というような言葉で言われるべきことではなく、もっと人間の本質的な部分に根ざしているもののように思える。


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 この本は昭和59年の出版です。同年の「現代社会」も難問が山積しており、いつの時代でも「現代社会」はロクでもないものと捉えられていると思います。その意味では、「あの頃は良かった」「80年代はいい時代だった」とは全く思いません。

 それでも、この平成22年の現代社会の難問は、山田氏が示しているレベルまで行っていないように感じます。それは、世間の<腐臭>への敏感さに基づく苦しみではなく、<腐臭>への鈍感さがもたらす苦しみにレベルが下がっているということです。この問題は、経済や景気の問題とは全く別だと思います。