犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

七十七銀行女川支店 銀行員遺族らが同行提訴へ

2012-09-09 23:31:35 | 時間・生死・人生

朝日新聞 9月9日朝刊 「七十七銀行員遺族らが同行提訴へ」

 東日本大震災で七十七銀行女川支店(宮城県女川町)の行員らが犠牲になったのは、同行が安全配慮義務を怠ったためとして、行員やスタッフ3人の遺族らが総額約2億3千万円の損害賠償を求めて提訴することを決めた。震災から1年半の11日、仙台地裁へ訴状を提出する。

 支店は海まで約100メートルで、屋上は高さ10メートル。「指定避難場所」は支店から徒歩約3分の標高約16.5メートルの高台で、高台にある4階建ての旧町立病院は2階以上で津波を免れた。七十七銀行は遺族らへの説明会で、同行の災害用マニュアルに「指定避難場所または支店屋上等の安全な場所へ避難」と記されており、屋上への避難は「やむを得ないものであった」と伝えている。


***************************************************

 被災地での避難行動をめぐる雇用主の責任を問う訴訟が相次いでいることにつき、「千年に一度の天災を人のせいにしても仕方がない」「訴訟で責任を認めていたらキリがなくなる」「裁判沙汰をしても亡くなった人のためにならない」といった意見を聞きます。これらの意見は、「家族を失った悲しみは理解できるが……」との留保を付けるのが通常と思いますが、経験したことのない者にそれを理解できることはあり得ず、意見をする権利がないことに対する意見は得てして大上段からの残酷なものになりがちだと感じます。

 私はあの震災の日のあの瞬間、東京にあるビル内の事務所でお金の計算をしていました。紙幣や貨幣で構成される経済とは、紙切れや金属のことではなく、社会が生産活動を調整するシステムのことです。すなわち、人間の生活に必要な財貨の分配に関する活動や、それを通じて形成される仕組みです。私は、自身の脳内にある抽象名詞の束を唯一の拠り所とし、目の前の紙切れや金属に価値を認めることによって、極めて観念的・構造的な頭の使い方をしていました。そこに襲ってきた大地震は、目の前の仕事とは対極的な位置にありました。

 私は外に飛び出して揺れが収まるのを待つ間も、事務所の机の上に放置してきたお金の存在が常時頭にありました。もちろん、このような時に泥棒が入るわけがないと思いつつも、それとは別のところで、仕事に対する義務、職業倫理、責任の所在といった問題が頭を占領していたからです。平時と有事の観念的な区別が無意味となった現実を目の当たりにして、私は「命とお金のどちらが大事か」という問いもまた無意味であることを知りました。私は、足元から全身を揺さぶられても、なお脳内にある経済の仕組みに支配され続けていました。

 安全配慮義務、予見可能性といった法律用語で語られる議論は、人間が法律や裁判制度を作り上げたという法治国家の成立の一面のみを語っているに過ぎないとの印象を受けます。ある人間がその人である必然により他の誰でもあり得たという哲学的洞察を経れば、誰しも死者や遺族との差はなく、家族を失った悲しみが理解できないことと引き換えに、「何かをやって走り続けていないと死んでしまう」という胸中は当然理解できるはずだと思います。「訴訟は怒りをぶつけるためにあるのではない」「心に空いた穴を埋めるために裁判を利用するな」といった論評からは、社会科学の奢りのようなものを感じます。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
自分で好きに逃げりゃ (中島めんた)
2012-12-03 15:01:18
判断を間違った奴を責めりゃいい俺だったらこうしたぞって。それを間違った奴じゃなく会社、つまり金を出しそうな所を責める ゲス野郎
返信する
息子さんが務めていた会社 (ゆみ)
2013-09-09 01:39:07
息子さんが、務めていた会社です。
会社に責任はありますが、きっと会社を訴えるのは息子さんは望んでないと思います。
会社の一員として、がんばっていたのですから。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。