犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞 1/30朝刊 『私の視点』 臨床心理士・西脇喜恵子氏

2009-01-31 02:12:59 | その他
「被害者参加制度 ― 偏った被害者像を超えて」より

法的な議論は別にして、臨床心理士の立場から犯罪被害者支援に協力してきた私にとって、たとえば「法廷が私的報復の場になる」という意見には違和感がある。犯罪は時に、心が壊れてしまうのではないかというほどの被害体験を強いる。そういう経験を生き抜いてきた犯罪被害者が、心を抑制し、努めて感情的にならないように話す場面に居合わせることは多い。

法廷が被害者の生の声や感情に影響を受けないかという心配の根底には、「怒りに打ち震え涙を流しながら感情的にものを語る」といった偏った被害者像がありはしないか。従来の法廷にはなかった新たな制度は、法曹関係者に抵抗感や不安感を生じさせるのだろう。だが、法曹関係者がやるべきは、そこで新たな登場人物の動きを封じるというということではないはずだ。

被害者参加制度で、犯罪被害者の感情に法廷が影響されるのではと心配する前に、やってほしいことがある。それは、目の前の犯罪被害者をありのままに受け止めるという当たり前のことだ。そして、法曹関係者は犯罪被害者に接した時、法曹関係者の側にわきあがる感情にこそ真摯に向き合ってほしい。


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法曹関係者はこれまで、本来政治的に中立であるはずの臨床心理士に対して、政治的な役割を期待してきた。それは、被害感情を癒し、厳罰を求める被害者の心のケアをすることによって、厳罰化への流れを抑制することである。バリバリの人権派の論客であっても、近年では「被害者など軽視して構わない」とは言いにくく、「被害者」「被害者遺族」という単語を出されれば口が重くならざるを得ない状況となっている。そこで、この流れを打開するものとして、修復的司法に代表される心のケアの理論が提唱されるようになってきた。そこでは、「怒りに打ち震え涙を流しながら感情的にものを語る」とのステレオタイプの被害者像を前提に、「法廷が私的報復の場になる」という懸念が示された上で、臨床心理学に対して高い期待が寄せられているのが通常である。

上記の臨床心理士・西脇喜恵子氏の意見は、このような法曹関係者のイデオロギーを一刀両断に切り捨てている。臨床心理士に「心のケアによる厳罰感情の沈静化」の役割を求める法曹関係者は、目の前の犯罪被害者をありのままに受け止めるという当たり前のことを怠っている。また、感情的であることをマイナスの要素であると決め付けている法曹関係者は、自らにわきあがる感情に真摯に向き合うことをしていない。このような西脇氏の指摘は、政治的に無色透明である臨床心理学からのものとしては至極当然である。どんなに臨床心理士が手を尽くしても、肝心の被告人が法廷で訳のわからない弁解や自分勝手な理屈を繰り返すのであれば、被害者の心のケアの効果など上がるはずもない。このような被害者の厳罰感情を抑えることまで期待されるのでは、臨床心理士の負担があまりに大きすぎる。

もっとも、西脇氏が述べるような偏った被害者像に陥らないためには、逆の側の政治的なイデオロギーの欺瞞にも細心の注意を払う必要がある。すなわち、道徳論に基づく厳罰推進派が、「怒りに打ち震え涙を流しながら感情的にものを語る」被害者に人道的に寄り添うことによって、秩序維持の手段としての厳罰化を達成することの危険である。このような政治論は、単に被害感情を作為的に煽ることによって自らの政治目的を実現しようとしているだけであり、真摯な犯罪被害者支援活動ではない。人がある日突然犯罪被害に遭って人生を狂わされることは、政治的に左でも右でもなく、ありのままに受け止められなければならない事項である。しかしながら、左側の反体制派と右側の体制派の遠近法によって物事を見ることに慣れてしまった法曹関係者にとっては、これが非常に難しい作業となってしまっている。

犯罪被害者遺族に警官が「乱暴な言葉」

2009-01-30 00:23:46 | 実存・心理・宗教
裁判員制度の実施を目前にして、ここのところ刑事裁判をめぐる様々な報道が増えている。特に、一足早く導入された被害者参加制度をめぐり、全国初の被害者参加人による直接質問、論告求刑の意見陳述のニュースは大きく報道された。そのような中で、1月25日に一つ気になる記事があった。昨年12月、山梨県北杜市の飯田教典さん(当時61歳)が暴行されて死亡した事件をめぐり、被害者参加制度を利用する意向を持っていた飯田さんの長女(31)が北杜署に事件の説明を求めた際、署員から強い口調で罵られたというものである。長女が「殺人罪が適用されないことは納得できない」と伝えると、署員は「何が納得できないんだ。殺意がないから殺人じゃない。警察は検事の言う通りに動いているんだ」と罵った。さらに署員が「刑事と検事の違いが分かっているのか」と尋ね、長女が「分からない」と答えたところ、「話にならない」と威圧的に話したという。長女の兄(34)が「被害者なのにこんな対応をされるとは思っておらず、警察に裏切られた気分だ」と抗議したところ、県警は発言の事実を認め、遺族に謝罪したとのことである。

被害者遺族をひたすら悲劇の主人公とし、警察官の行為を道徳的に断罪することは簡単である。しかしながら、このような善悪二元論の捉え方は、ほんの僅かに風向きが変わっただけで、今度は被害者遺族をクレーマーとして非難する危険性がある。この差は紙一重である。実際に署員がどのような単語を述べたのか、県警はどのように謝罪したのか、再発防止のためにどのような努力をし始めたのか、このような攻撃によって、いわゆる世論としての構造が作られることは多い。かような構図において悪者とされた県警の側においては、表面には現れない被害者遺族への恨みの感情が奥深く沈潜し、なかなか払拭されないことになる。今後は遺族に対して細心の注意を払うということは、同時に腫れ物に触るようなよそよそしい態度を取る可能性を高めるということでもある。また、慎重に言葉を選んで表面的な対応に終始しつつ、心の奥底では白けているという状態を招来するということでもある。

「警察は検事の言う通りに動いているんだ」「刑事と検事の違いが分からないのでは話にならない」との警察官の言葉は、恐らく実存の深いところに触れられたがゆえに、行き場を失って発せられてしまったものである。検察官は、明らかに殺意があると思われる暴行についても、被疑者が頑強に殺意を否認することによって、やむを得ず傷害致死罪でしか起訴できないことが多い。そして、このような結果は、被害者遺族と直接応対している刑事にとっては非常に苦しく、無力感を覚えるところである。自分はどんなに殺人罪で立件してもらいたくても、司法試験に合格した検察官の指揮に逆らえば、キャリアでない公務員は首が飛ぶ。組織とは単に人の集まりであり、一人一人がそれぞれ自分の人生を背負って生きているが、実際に人は組織の論理を離れて生き残ることは難しい。目の前の被害者遺族を救いたくても、自分にはどうすることもできない。署員の強い口調での罵りは、恐らくこのような葛藤の渦を背景にしていたものと思われる。

他方で、遺族の側の「被害者なのにこんな対応をされるとは思っていなかった」との抗議は、いかなる意味でもクレーマーではない。現代社会の一般的なクレーマーとは、自らの抗議は誰の目から見ても正義の精神に適うと信じ切っているものである。土下座しろ、仕事を辞めろなどの要求を延々と続けるのも、このような強い正義感に裏打ちされているからである。そして、不祥事を暴いて厳しく批判すればするほど世の中は正しくなり、行政や警察は糾弾すればするほど正常化するとの確固たる信念がある。これに対して、今回の被害者遺族の抗議は、形の上では抗議によって謝罪を引き出しているものの、それによって社会正義の実現を目指すという種類のものではない。どんなに謝罪を受けたところで、死者は帰らない。それゆえに警察の対応は、腹が立つのではなく、ただただ悲しい。正義のために興奮して糾弾するのではなく、張り裂ける思いの行き場がない。すなわち、確たる目的のないまま、単に論理の要請によってそうせざるを得ないという種類の抗議である。

定額給付金

2009-01-27 23:17:04 | 言語・論理・構造
A 「定額給付金に賛成ですか? 反対ですか?」

B 「もちろん反対です。たったの1万2000円では、消費の回復など望めません。税金の無駄遣いです」

A 「そうですか。でも、あなた1人では1万2000円ですが、100人集まれば120万円、1万人なら1億2000万円になりますから、かなりの効果が上がると思いませんか?」

B 「ですから、そういう全体的な問題じゃなくて、個人消費の問題です。せめて1人に5万円くらい給付されないと、国民の消費は回復しないでしょう。私は自分の生活を考えると、10万円でも足りないくらいです」

A 「なるほど。しかしそうすると、定額給付金に使う予算は2兆円では済まなくなって、ますます国民の税金の無駄遣いになりませんか?」

B 「いや、ですから、これは個人消費の問題であると同時に、国家経済の問題です。100年に一度の大不況を迎えて、税金の無駄遣いだけは避けなければなりません」

A 「わかりました。あなたの言うことを総合すると、あなたの給付金は10万円以上、その他の国民はゼロにすべきだということになりますね」

B 「はい、そうです……、いや違います! とにかく私は、定額給付金には全面的に反対です」

A 「なるほど。では、定額給付金が支給されて、周りの人が受け取っていても、あなたは受け取りを断固拒否されるんですね」

B 「はい……いや……、もう少し考えさせて下さい」

中島義道著 『私の嫌いな10の人びと』 第4章より

2009-01-26 23:51:37 | 読書感想文
第4章「いつも前向きに生きている人」より

p.80~

「いつも前向きに生きている人」は、自分だけそっとその信念に従って生きてくれれば害は少ないのですが、おうおうにしてこの信念を周囲の者たちに「布教」しようとする。「いつも前向きに生きている人」は、とにかく「後ろ向きに生きている人」が嫌いなのです。こういう人は、「後ろ向きに生きている人」が目障りでしかたない。これは男でも女でも、むしろいかなる組織でも一般的に当てはまるのですが、後ろ向きに生きている人を見つけるや否や、全身で「調教」しようとする。

「いつも前向きに生きている人」はおうおうにして、個人の私生活にまでも、その表情にまでも、介入してきます。くよくよしている人を視野の一角に認めるや、すぐに駆け寄って、明るい顔を求める。「いつまでくよくよしてるんだ! そんなじゃ、天国のおかあさんだってきっと悲しむぞ。おかあさんのためにも、しっかり前向きに生きなきゃ駄目じゃないか!」「そうね、ありがとう。私、もう泣かないから」という具合に事は進行していきます。こうして、いつも前向きに生きている善良な市民は、くよくよしている人を見つけるや否や、「笑え」と強制する。このように、困ったことに、この大和の国には落ち込んでいる人を見るとすぐに励まそうとする生物が多く生息している。

私は他人を励ますことが嫌いです。励まされることも嫌いです。この過酷な人生において、なぜくよくよすることを嫌う人がこれほどいるのか、私には不思議でなりません。と、考えに考えて行き着いたのは、「いつも前向きに生きている人」にとって、そばにめそめそくよくよしている人がいると、結局は自分が不愉快なんですね。もちろん私にとっても、すぐそばに「いつも前向きに生きている人」がいるときわめて不愉快なのですが、私はその信念自体を変えようなんて大それたことなど考えていない。ただ、信念は墓場までもっていってもいいから、それを私に強制しなければそれだけでいい。

生きることは苦しいに決まっているのですから、もしわれわれが「人生とは何か?」を真剣に問うなら、自分の苦しかった体験を思い出し、それを牛のように何度も反芻して「味わう」ほかない。厭なことは細大漏らさず憶えておいて、それをありとあらゆる角度から点検、吟味する。どんな人でも、被爆体験を、強制収容所の体験を忘れることは、けっしてないでしょう。そのわけは、それを後世に伝える義務があるからのみではなく、そういう過酷な体験を潜り抜けてはじめていまの自分があるからです。それを削除したら自分の人生を考えることができないから、たとえできるとしても、それは欺瞞的だからです。


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自己陶酔的な悩みに対して与えられるべきものは、単なる慰めや癒しである。これに対して、存在論的な苦しみに対して向けられなければならないものは、単に尊敬と畏怖である。

中野翠著 『ラクガキいっぷく』より

2009-01-25 23:47:28 | 読書感想文
p.104~

日曜日の夕方。千葉からの帰路、朝青龍vs白鵬戦は、道ばたにクルマを止めてクルマについている小さなTVで見た。朝青龍の猛々しいガッツポーズにすっかり白け、サッサとTVを消した。相撲の世界でああいう感情表現は見たくない=見とうもない=みっともないと感じるのだ。他の競技でやってくれ、と。

そう感じながら、私はたちまち自己矛盾に気づいてしまう。派手で感情むきだしのアクションが不快だというなら高見盛はどうなのか、と。私は高見盛のあのアクションには不快どころか、かなりの好感を寄せているじゃないか。朝青龍はモンゴル人で高見盛は日本人、という違いは全然関係ない。そんなわかりやすいことではなくて、もっと微妙で複雑な違いだ。言葉に置き換えるのは難しいけれど、何か「浮世離れした楽しさ」があるかどうか ― かもしれない。

小沢昭一さんの「寄席や国技館にはトロンとした空気があるから好き」という言葉も思い出す。勝った負けただけじゃあない、どこか芸能に近い部分にこそ相撲の独特の魅力があると思う。今場所は大関陣の不甲斐なさが目立った。何だか哀愁が濃くなってしまったけど、私は魁皇が好き。仕切り前、重みのある手でゆったりとマワシを叩くしぐさに見ごたえがあって。大らかな「相撲の心」を感じるのだ。


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大相撲初場所は、引退が取りだたされていた横綱朝青龍の復活で異例の盛り上がりを見せました。テレビの平均視聴率は17%を超え、「満員御礼」は10年ぶりに7日間を超えたそうです。しかしながら、多くの評論家が述べているように、「大相撲人気の回復」と言い切るには違和感が残ります。この源泉を探れば、やはり中野翠氏が述べるところに行き着くように思われます。相撲文化は、国技という名目とは全く関係のないところで、「浮世離れした楽しさ」の上に育まれてきたものなのでしょう。

大相撲には、平成元年11月場所から平成9年5月場所まで、連続666日の「満員御礼」という記録が残っているそうです。今回、その頃の客層がそのまま帰ってきたわけではないことはもちろんですが、どうも客足が安定しているようには見えません。スポーツ新聞の1面には朝青龍の横柄な土俵態度をセンセーショナルに報じる記事が連日掲載され、朝青龍が勝てば何ともいえないため息とブーイングが混じったような歓声が上がり、多くの観客は朝青龍が負けるところを楽しみに見に来ているというのでは、このようなバブルはすぐに弾けてしまうように思われます。

今日の千秋楽では、場内に対戦相手の「白鵬コール」が起こり、NHKのアナウンサーが慌てて「朝青龍を応援する声も飛んでいます」とフォローを入れる一幕がありました。また、座布団投げは禁止されているはずなのですが、明らかに朝青龍を目がけて投げ付けられたような座布団が飛ぶ場面もあり、思わず漫画の『ああ播磨灘』を連想してしまいました。このような殺伐とした空気ではなくて、小沢昭一氏が述べるようなトロンとした空気が回復したときに、国技館には安定した客足が戻るように思われます。以上、外野の無責任な戯言でした。

被害者参加制度 初の公判(東京地裁)

2009-01-24 00:03:03 | 時間・生死・人生
1月23日、東京地裁において交通死亡事故の刑事裁判が開かれ、被害者の男性(当時34歳)の妻(34)と兄(35)の二人の遺族が公判に参加した。これは、昨年12月1日に施行された新制度に基づくものであり、実際に被害者側が参加したのは全国で初めてとみられている。被告人質問においては、被害者の兄が「どうして謝罪に一度しか訪れなかったのですか」「あなたが考える誠意とは何ですか」などと被告人に直接問いかけた。また、被害者の妻は「単なる交通事故でなく殺人と思っている。実刑を強く望みます」「発言できることは意義があるが、これを(判決に)反映してもらうことを望んでいる」との意見を陳述した。参加人らは、法廷が終わった後において、「私たちが前例になるので、感情は極力出さないようにした」と記者に述べたとのことである。

被害者参加制度の賛否両論の論点は、法廷が私的闘争・報復・仇討ちの場になり、法廷の秩序が乱れたり混乱したりするのではないか、それによって推定無罪の原則が守られなくなるのではないか、ということであった。このような視点から今回の法廷を見たならば、あまりにも裁判が淡々と順調に進みすぎ、拍子抜けしてしまったはずである。本来、イデオロギー的な賛否両論を盛り上げたいならば、参加人が罵声を浴びせながら被告人に殴りかかって、法廷警備員に制止されるような状況を望まなければならない。しかしながら、実際にこのような状況が生じやすいのは、人の命が失われた事件の裁判ではなく、ネット上の名誉毀損や振り込め詐欺などの裁判である。すなわち、法廷の秩序が混乱する可能性と、罪の重さとは比例するものではない。

ネット上の名誉毀損や振り込め詐欺の被害者が、法廷で怒りの感情をむき出しにして「謝れ」「金返せ」などと叫べば、それは腹いせになるばかりか、厳罰への圧力としての効果を上げることができる。これに対して、今回の裁判の「あなたが考える誠意とは何ですか」「単なる交通事故でなく殺人と思っている」といった言葉は、感情をむき出しにして叫ぶほど虚しい。これらの言葉の裏側には、他人はもちろんのこと当人の想像をも絶する狂気がある。そして、その狂気は凄まじい精神力によって抑えられなければならず、しかも実際に抑えられているがゆえに、非常に静かで淡々としている。言葉にすれば「どうして謝罪に一度しか訪れなかったのですか」という簡単な問いの形になるとしても、そこに実際に示されているのは、どのような言葉を尽くしても表現できない深い何かである。このような静かで淡々とした狂気にとって、法廷の秩序が乱れるか乱れないかということは些細な問題である。なぜならば、極限の絶望と苦しみを全身で生きているのであれば、法廷の秩序など、たかがこの世のルールであると知るからである。そして、このような秩序であれば、今さらそれを乱す意味もなく、乱さない意味もない。

従来の刑事裁判の構造を根底から変えるこの新制度は、近代刑事司法の大原則をもたらした中世の苦い歴史の教訓という点からすれば、どうしても受け入れることができないはずである。しかしながら、歴史の教訓に従って制度を運営してきたところ、それによって新たな問題が生じたならば、それがまた新たな歴史の教訓となる。歴史は個々の人間を離れて存在することがない以上、その個々の人間が不慮の事故や事件で突然人生を終了させられた場面は、間違いなく人類の歴史の一場面である。人間が歴史の客観性というパラダイムを追求すればするほど、遺された者は、特権的な地位に立つことができない。ここにおける「遺された者」とは、いわゆる遺族の意味ではない。いつどこの今現在にも「今現在」という時間があるとすれば、その「今現在」に生きている者すべてが「遺された者」である。

五木寛之著 『人間の覚悟』

2009-01-23 00:56:47 | 読書感想文
第2章「人生は憂鬱である」より


p.60~

「悒(うれえる)」という感覚は、喜びの背景に流れるある種の哀感と似ていますが、万葉集に、「うらうらに 照れる春日に雲雀あがり 情(こころ)かなしも ひとりしおもへば」という大伴家持の有名な歌があります。おだやかな春の日、野原は緑、空は青く白い雲、雲雀が元気よくさえずり舞い上がっていく――、そんな春の景色を見ながら、一人こころが悲しいと詠んでいるのです。

万葉の時代の「かなし」は今の「悲しい」とはちがって、天地自然のあらゆる情感が心にしみこんでくるような、なんともいえない「いとしい」という感覚を同時にはらんだものでしょう。「吾妹子(わぎもこ)かなし」もそうですが、単純に喜び愛するのとはちがった感覚で、どこかにひそかな愁いを背負った感情です。ある西洋の思想家は、「人はなぜ、あらかじめ失われると分かっているものしか愛さないのだろう」となげきましたが、たしかにその通りです。人間はそれが永遠に目の前にあると分かれば、あまり愛着をおぼえない勝手なところがあるのです。


p.71~

何か気持ちが落ちこんで鬱々としてさえない心の状態、それを医学的にマイナスだからといって病気として分類するだけでは、人にとって大切なものが見えなくなる。今の時代は、そういう「愁い」までも心療内科の対象として心の病にしてしまうのですが、私はそれはまちがっているのではないか、と思います。人生は憂いに満ちているし、人は憂いを抱えて生きていくものだと覚悟しなければならない。

フランスで「ル・モンド」紙の宗教面の編集長から聞いた話ですが、18世紀にはじめて仏教がヨーロッパに伝わったとき、人生はそもそも苦であるというところから出発する仏教は、虚無的な敗北の思想であるとされ、なんとなく嫌がられたそうです。しかし、ショーペンハウエルの厭世主義や、『死に至る病』で絶望を追究したキルケゴール、また「神は死んだ」と宣言したニーチェや、『存在と時間』を著したハイデガーのように仏教思想を足がかりにする哲学者が生まれ、あらためてヨーロッパでも仏教が見直されるようになってきたという話でした。人の憂いや不安の背景には、言葉にできない悲しさ、生きていること自体が切ないという情動があります。


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この世に生まれてきたこと、生きていくことは、それ自体が憂鬱なことである。この真実を真実として捉えている限りは、その憂鬱にも救いがある。しかし、この深い感情を表明したことによって、「少しずつ元気を出してください」「1日でも早く立ち直れるように陰ながらお祈りしています」「自分で自分を責めないで下さい」との励ましを受けてしまえば、その憂鬱には救いがなくなる。

名古屋・闇サイト殺人事件 死刑求刑

2009-01-20 18:49:47 | 時間・生死・人生
 一昨年8月、名古屋市千種区で磯谷利恵さん(当時31歳)が拉致・殺害された事件の論告求刑公判が、本日名古屋地裁で開かれました。検察側は、強盗殺人罪などに問われた闇サイト仲間の川岸健治被告(42)、堀慶末被告(33)、神田司被告(37)に対し、「無差別に被害者を拉致・殺害し、いつ誰でも同じような被害に遭うかもしれないと体感治安を悪化させ、世間を震撼させた」として、全員に死刑を求刑しました。論告に先立ち、遺族の意見陳述が行われ、利恵さんの母富美子さん(57)が「最愛の宝物の娘の命を奪われ、生きがいを見いだせなくなりました。3被告は命をもって償ってください」と述べました。富美子さんらは、3人への死刑適用を求めている活動を行っており、この署名はすでに30万を超えています。

 どのような残虐非道な被告人の裁判であっても、死刑の求刑というものは後味が悪いと感じます。しかしながら、仮に無期懲役の求刑であった場合のやり場のない虚しさを想像してみれば、「第三の選択肢」なるものはないと思います。そもそも、法律・裁判とはこのようなものです。すなわち、生産性のあるプロジェクトではなく、過去の不幸な事実の清算です。何かをプラスにする作業ではなく、マイナスをゼロに戻す作業ですらなく、マイナスの割合を少しでも減らす作業です。裁判所に来なければならない人は、基本的に不幸であり、後ろ向きです。この単純な事実は動かせません。そしてこの事実は、執行猶予であろうと、罰金刑であろうと、民事の慰謝料の支払いであろうと同じことです。死刑求刑・死刑判決に伴う後味の悪さを死刑廃止論にすぐに結びつけ、そこに希望を見いだそうとすることは、この深い絶望を直視しない短絡的な議論であると思います。

 3人の被告人への死刑適用を求める署名が30万を超えたことは、他の一般的な署名活動と比べてみれば、異質な感は否めません。この署名は紛れもなく、「殺せ」という方向を向いています。北海道から沖縄まで、身内でもない赤の他人が何の権利があってこのような要求ができるのか、「殺せ、殺せの大合唱」との揶揄も起きるところです。しかしながら、このような揶揄が決定的に見落としているのは、死刑を求める者の感情移入の客体です。人間が残虐な殺人事件の第一報を聞いて、瞬間的に感情移入せざるを得ないのは、被害者遺族ではなく殺された被害者自身に対してです。ところが、人間は生きている限り、死者に感情移入することができません。すなわち、死者の身になるということの意味がわからないということです。「死者の無念」と言語化した途端、その行き場のない感情は行く宛てもなく放り出されます。そして、この死者への感情移入が、いつの間にか被害者遺族への感情移入へと変形され、形而上の存在論は、政治的な厳罰論へと姿を変えます。

 人間社会に報復や復讐という行為形態があるとするならば、それはそのような被害を受けた当人がなすべきものです。殴られた者は殴り返し、名誉を傷つけられた者は傷つけ返します。そうだとすれば、殺人者に対して殺し返す権利があり、あるいはその義務を負う者は、死者自身のはずです。殺人者を誰よりも憎んでいるのは、被害者遺族ではなく、死者自身です。この論理関係は、絶対に動かすことができません。それにもかかわらず、生きている人間は、やはり死者の身になって考えるということの意味がわかりません。死者の犯人に対する憎しみや悲しみを想像したい、しなければならない、するべきだと思います。しかしながら、生死という存在の形式において、これは絶対にできません。だからこそ、生きている者は死者における憎しみや悲しみを想像したい、想像しなければならないと思います。これは「絶対」と「絶対」の無限連鎖です。

 「厳罰感情、報復感情の発現としての死刑は憎しみの連鎖であり、人類はこの憎しみを克服しなければならない」、このような理論はよく聞かれるところです。理屈としては筋が通っており、具体的にどこが間違っていると反論することは難しいと思います。しかし、何となく直感的に、大事なところが飛ばされているような気がします。これは、厳罰感情や報復感情の主体、そして癒しや慰めの主体を、何の疑問もなく被害者遺族に置いていることに基づくものだと感じます。誰よりも犯人のことを憎みたい死者自身は犯人を憎むことができず、従って最大の憎しみは論理的に連鎖することができません。また、誰よりも悲しみを癒されなければならない死者自身は悲しみを癒されることがなく、従って最大の悲しみは論理的に癒されることができません。この事件における30万以上の署名が示すとおり、人間は死者に感情移入することによって、身内でもない者同士の殺人事件の犯人に死刑を求めます。そして、このように感情移入をせざるを得ないのは、人間は生きている限り、必ず誰もが死者になるからだと思います。


この事件に関する過去の文章はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/e/2df4ef250f9de680ca2ecdcafa903850
http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/e/2d816d6d92f66a423ea37f95c346c047

保坂和志著 『書きあぐねている人のための小説入門』

2009-01-18 18:32:47 | 読書感想文
第7章 「テクニックについて ― 感傷的な小説は害悪である」より (p.210~)


感傷的な話は決まって、友人や近親者が死んだあとの時点から、その死が進行しているときを振り返って、「私には何もできなかった」と、自分の無力を甘くかみしめるつくりになっているが、その傍観者的態度が罪悪なのだ。

当事者として出来事に関わったら、それが終わっても出来事の不条理さにいつまでも腹が立ったり、「ああすればよかったんじゃないか……」「こういう手も打てたんじゃないか……」と考え続けるはずのものが、感傷的な書き方は、そういう整理のつかない気持ちを全部言葉としてきれいなフレーズで昇華させてしまう。

これはリアリティということと正反対だ。リアリティとは、それを生み出すサイクルに書き手が巻き込まれることによって初めて生まれてくる。つまり、文章を書く感情や思考を一色にしないことで文章が現実と連絡を取り、そこからリアリティが生まれる。感傷的な小説は世界を閉じればいいのだから、表面的なテクニックだけで書ける。小説に現実を持ち込んだら、それは絶対に感傷的にはならないのだ。


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感傷的な小説とは、例えばこのようなものである。「主人公(女性)の母親は生きることに疲れ、自殺してしまう。主人公は葬式の席で、母親から買ってもらった砂時計を、悲しみのあまり遺影に投げつけ壊してしまう。そんな主人公に彼氏は、壊れた砂時計と同じものを主人公に渡し、ずっと一緒にいることを約束する。主人公も彼氏とずっと一緒にいられるよう願う。やがて時が経ち、主人公は少女から大人へと成長する中で、様々な恋や別れを繰り返してゆくが、その心の中は常に母親の存在で支配されたままである。周囲が徐々に新たな幸せを見つけ出していく一方、主人公は独りで幸せを求めて奔走する」。

小説という表現形式は、何らかの解答を書くためにあるのではなく、最初の1行から最後の1行までに至る全体として提示されるものである(p.48)。本当の小説とは、その小説を読むことでしか得られない何かを持っており、それらに接したときの「感じ」は、普通に使っている言葉では説明できない(p.16)。これは、愛する者を不慮の事故や事件で亡くした者の手記に表れる種類の言語と同様である。小説とは、人間において社会化されていない部分をいかに言語化するかということであり、それは普段の生活をする上ではマイナスとなる部分である(p.12)。また、小説の言語は、ある問題を社会問題として扱うのではなく、根本のところまで問いかけを深めなければならない(p.74)。

社会科学は、すでに問題化されたものを見ることによって、個ではなく社会の側についてしまう(p.13)。そこでは、役に立つか立たないかという視点が万能となり、愛する者を失った悲しみを悲しみとしてそのまま捉えた言葉は、現代社会が一番聞きたくない種類の言葉となる(p.48)。現代社会で頭がいいと言われるのは、物事をモデル化・簡略化して語ることができる人であり、会社ではフローチャートの企画書が書けるような人材が高く評価される。しかしながら、このような俯瞰は幻影であり、まずはこのモデル化の欺瞞を看破するところから小説の言語は始まる(p.54)。人間が人間として心の底から知りたいと思うことは、すべて外から見ることができない。すなわち、自分がその外に立って論じることができない(p.56)。全体に向かって書かれた言語は、必ずその中に自分自身を含むからである(p.52)。

公訴時効の撤廃を求める声明 その2

2009-01-17 18:54:29 | 時間・生死・人生
公訴時効の完成が刻一刻と迫る状況、これは数々の人間ドラマを生み出す。時効寸前の逮捕と言えば、平成9年の福田和子元服役囚(故人)の逮捕が国民的な注目を浴びた。愛媛県松山市内で同僚のホステスを殺害した福田容疑者は、幾度となく偽名を使い、美容整形を繰り返し、全国のキャバレーを転々として潜伏した。石川県では、警察が逮捕に向かう直前、その行動を察知し、とっさの判断で近くにあった自転車に乗り逃走した。結局、福井市内で逮捕されたきっかけは、スナックのカラオケで握ったマラカスに残された指紋であった。この15年にわたる劇的な逃亡は、大竹しのぶさんの主演でテレビドラマ化されている。

人生を賭けて逃亡する犯人、それを追う刑事の執念、この構図にはエンターテインメント性がある。迫り来る時効完成の日、止められない時間との戦い、古今東西で「犯罪」はドラマになりやすい。視聴者は犯人の側に感情移入することも、刑事の側に感情移入することも簡単である。ここでは例によって、犯人の逮捕を願う被害者側の視点が脱落している。すなわち、古今東西で「犯罪被害」はドラマになりにくい。刑事は自らの威信を賭けて犯人を挙げなければならず、先に犯人に自首されてしまうことは、ある意味では負けである。これに対して、被害者側の視点からは、何よりも犯人の自首が求められる。ここにおいて、刑事の執念と被害者遺族の願いの方向性は異なっている。

時効という法制度がある社会においては、公訴時効の完成が刻一刻と迫る状況は必然的である。この状況を「犯罪」の側からドラマにすれば、それを見る者は必然的に時間の外に立つ傍観者となる。これは、時の流れを客体的に捉えて感傷的になり、自らの人生に酔っている状況である。ところが、人間の時間性は、本来このような感傷的なものではない。時間が止まらないということは、「生きる」という現在形と、「生きている」という現在進行形が等しいということである。それは、生きている限り刻一刻と死に近付くということであり、残された時間が強制的に減らされて行くということである。ゆえに、「犯罪被害」は哲学的な内容を含み、法制度の中ではなかなか捉えられにくい。

公訴時効制度の存在意義の1つとして、専門的な議論においては、犯罪行為に対する可罰性の減少が挙げられている。これは、世論としての事件への関心の薄れと、被害者の応報感情の薄れの両者を含んでいる。これは現在の日本の法制度において時効制度が存在していることを前提とし、それを根拠付けるための議論であるため、どのような意味でも正当になるのは当たり前のことである。これに対して、被害者遺族が「犯人への憤りは増すことがあっても薄れることはない」と実際に述べるのであれば、それは端的な事実であって、どんなに法の理念を持ち出したところで噛み合うわけがない。○年○月○日という日が刻一刻と近付いてくる中で、被害者遺族の張り裂けそうな思いに正確に応えることができるのは、犯人の側における自首すべきか否かの深い逡巡のみである。