犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 4・ ゼロ歳で殺されるとはどのようなことか

2008-04-03 20:37:16 | 言語・論理・構造
この事件の被害者の本村夕夏ちゃんは、わずか11ヶ月で殺された。「途中で人生を奪われた」という表現すら相応しくない。0歳では、人生が始まったばかりである。始まったと思ったら終わりである。このような恐るべき事実の前には、人間は絶句するしかない。従って、父親の本村洋氏が「私がこの手で犯人を殺します」と述べても、人間はやはりその絶句から口を開くことができない。これは感情ではなく、人生の一回性に伴う論理である。「最愛の娘を0歳で奪われるとはどのようなことか」、人間はまずはこれを想像して絶句する。さらには、「0歳で殺されるとはどのようなことか」、これを想像できないことに気がついてさらに絶句する。

大人になった人間には、誰しも最初の記憶というものがある。どれが一番古い記憶なのか、それが2歳なのか3歳なのか判然としないにせよ、それらしきものを追求すれば、脳みその奥のほうから何かが出てくる。それは、写真やビデオに残されている客観的な世界とは明らかに違い、唯一一回性を持った人生の最初の光景である。これは哲学の入口でもある。現に大人になっている人間は、0歳を無事に通過して、気がついたときにはこの世に生きてしまっている。それでは、0歳で殺されるとはどのようなことか。最初の記憶を探って思い出す機会のないまま命を終えるとはどのようなことか。これも絶句するしかない問いである。現に大人になって生きている者には、絶対に体験できないからである。これに平然と答えられる人は、客観性と言いつつ自分自身を除いていることに気がつかない人だけである。

心の哲学の分野で、心身問題をわかりやすく扱ったものとして、トマス・ネーゲル(Thomas Nagel、1937-)の『コウモリであるとはどのようなことか』という著書が有名である。コウモリはほとんど目が見えず、超音波の反響を耳で捕らえて物体を知覚する。すなわち、目ではなく耳でものを見る。このようにして生きていることがどのような感じなのか、人間として生まれてしまった者には知ることができない。コウモリに関する生物学的な性質がどんなに細かくわかったとしても、やはりそれがどのような体験なのかはわからない。これは、自分とはかけ離れた主観性の形式は上手く概念化できないからであり、現象的意識そのものを捉えることができないからである。これは決定的な断絶である。「0歳で殺されるとはどのようなことか」という問いも、結局は同じことである。この断絶性において捉える限り、わからないものはどうしてもわからず、絶句の中にしか正解がないことだけはわかる。我々は言語の働きによって、この断絶を容易に飛躍してしまっているが、それは言語が見せる夢にすぎない。

元少年の弁護団に明らかに欠けているのは、「0歳で殺されるとはどのようなことか」を想像しようとする能力である。ましてや、これが想像できないことに気づくことなど望めそうにない。死刑廃止論そのものが問題なのではなく、その主張の方法の稚拙さの問題である。弁護団があのような主張を繰り返し、自らは人権感覚に優れているなどと声高に叫ぶならば、もはや本村洋氏は「私がこの手で犯人を殺します」と言うしかないだろう。政治の能弁に哲学の絶句が対抗するためには、万人に正しいことを淡々と指摘するしかない。0歳で殺されれば、死刑廃止条約の条文を読むことができない。なぜなら、0歳で殺されれば成長して大人になることができないからであり、殺された者は死刑論議に参加することができないからである。そして、0歳で殺された人が死刑廃止条約の条文を読むことができると言えば嘘になるからである。