犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 25・ 起訴状に「命日」はない

2008-04-14 18:39:30 | 言語・論理・構造
今日で、光市母子殺害事件からちょうど9年となる。人間は生死という存在の形式をそのまま生きている以上、近しい人々の命日は特別な日である。人間は、通常の病死や寿命であっても、大切な人の死を悼む。そして、お墓参りをして、いつまでも故人を偲ぶ。大切な人の死という現象は、残された人間にとっては、その人の最期の瞬間の記憶と切り離すことができない。ここで被害者遺族に事件からの立ち直りを求めることは、「殺されたこと」と「死んだこと」とを切り離すよう要求するに等しい。そのような器用な心理状態を作ることなど、人間にはもとより不可能である。故人を偲んではならない、身内の墓参りをしてはならないと言うに等しいからである。

法律学の内輪のギャグとして、「六法全書には『故意』はあるが『恋』はない」というものがある。これは、「恋」などあってはならず、間違って入ってきた場合には即刻締め出すということである。人間の不明確な感情を排除し、条文における客観的な真理を追求するならば、どんなに一般社会で流通している言葉であっても、法律学の中に入れてはならない。すなわち、部分的言語ゲームの閉鎖性である。これと同じように、「起訴状には『犯行年月日』はあるが『命日』はない」。国家権力が裁けるのは、あくまでも検察官の主張する公訴事実(訴因)のみであって、それが予断排除の原則を担保しているからである。従って、起訴状の中には遺族にとっての命日の概念などはなく、あってはならないことになる。

客観的な「犯行年月日」のみを追求し、「命日」を排除する法律家の思考法は、人間の生死を純粋に客体化する点において、死体の解剖を行う監察医、司法解剖医に似てくる。監察医は人間の死の重さに押しつぶされていては身が持たず、仕事にならない。遺族が監察医の言動を冷たいと感じても、ある程度は人間の心を失わないとできない職務であり、細分化した現代社会の役割分担においては必要不可欠である。裁判に提出される鑑定書においては、遺体全体の写真が徐々に切り刻まれ、内臓が無機質に台の上に並べられ、メジャーで計測され、その写真に説明が淡々と添えられている。例えば、「肺・・・重さ 左340g 右420g、表面 灰白紫赤色、硬度 海綿様柔軟、断面 赤褐色」、「肝臓・・・大きさ 24×16×6cm、重さ 1100g、表面 暗赤褐色、硬度 弾力性柔靭、断面 赤褐色」といった感じである。遺族の中には愛する人の体が切り刻まれ、生物学的なサンプルのようになることの冷たさに耐えられずに、司法解剖を断る人も多い。しかし、あとで医療過誤の立証ができなくなって悔しい思いをすることもある。近代司法制度はどちらに転んでも非常に残酷である。

光市母子殺害事件の弁護団の弁護活動も、人間の生死を純粋に客体化する法律家の思考法からすれば、特に問題はないとされることになる。殺人事件の弁護というものは、そもそも鑑定書に残された遺体の状況から、被告人に有利な事情を探し出す仕事である。これは、人間の死の重さなど感じてはならず、人間の心を失うことが積極的に求められるという点で、事情は監察医と同じである。弁護団は、あくまでも検察官の主張する公訴事実(訴因)をめぐって攻撃防御をしている。元少年が本村夕夏ちゃんを床に叩きつけたと攻撃されるならば、遺体写真と鑑定主文を持ち出して、そのような傷は存在しないと防御する。紐で首を力いっぱい絞めたと攻撃されるならば、遺体写真と鑑定主文を持ち出して、そのような痕跡はないと防御する。そして、このような痕跡がなく、元少年が「泣き止ませようと思って首にリボンをちょうちょ結びにしてあげたら死んじゃった」と言うならば、その通りに主張する。これで何が問題か。客観的な「犯行年月日」のみを追求し、「命日」を排除する法律家の思考法からすれば、実に筋が通っている。

弁護団が純粋に法律学の考え方に染まっているならば、国民からの批判は全く理解できないはずである。心理状態としては、司法解剖の監察医が「人間の遺体を切り刻むなど何たることだ」と怒られて、意味がわからずにキョトンとしている状態に近いものと思われる。しかしながら多くの国民は、司法解剖の監察医にはそのようなものは求めない。監察医が人間の死の重さに押しつぶされ、貧血を起こしたり精神を病んでは失格だからである。死体を解剖して正確に死因を特定するためには、人間を臓器の塊として見るタフさがなければならず、ある程度人間の心を失うことは必要悪の範囲内である。これは、多くの国民において共通了解とされている事項である。これに対して、光市母子殺害事件の弁護団には多くの国民からの違和感が表明された事実は、自然科学と社会科学との違いを端的に示している。国民の非難の声は、社会科学における実証主義の行き過ぎへの警鐘である。あくまでも「犯行年月日」は部分的言語ゲームであり、1次的言語ゲームである「命日」を否定し去ることはできない。

光市母子殺害事件差戻審 24・ 死刑賛成派は「殺せ」と叫んでいるわけではない

2008-04-14 01:26:46 | 国家・政治・刑罰
池田晶子著『14歳からの哲学』 Ⅲ-24「善悪[2]」より

人を殺すのが悪いことなのかどうかという、最初の問いに戻って考えよう。人を殺すというのは、ひとつの具体的な事柄なのだから、それが絶対に悪いことなのかどうかを言うことはできない。でも、戦争の時には人は人を殺すことを躊躇しないけれども、平和の時には、それが最も悪いことだと人は感じる。法律がいけないとしなくても、人はそれをそうと感じるのはなぜだろう。

ヒトラーみたいな大悪人を殺すのは悪いことではないかどうか、もしも君がそういう極限的な状況に置かれたとしたなら、あらゆる可能性を考えぬいて、判断するんだ。そして、賭けるんだ。君の善悪、君の全人生を、そのひとつの行為に賭けるんだ。善悪の判定は「神」のみぞ知る。このとき、来世の存在への問いは避けられないとわかるだろう。極限的な場面ばかりじゃない。君の行為のひとつひとつ、心の中のあらゆる思いが、そういうことなのだとわかるだろう。

(p.163~164より引用)

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死刑廃止論からは、死刑を求めることは殺人を推奨することに他ならないとの批判が強い。これは事実である。死刑とは殺人である。それゆえに、死刑の是非の問題はここから始まるわけであるが、死刑廃止論のレトリックは、どうにもこのスタートラインを崩そうとする。これは、アムネスティ・インターナショナルにおいて典型的であるが、死刑存置論を矮小化して解釈した上で批判し、その反批判を呼び込もうとする方法である。いわく、「犯人を殺せばそれで満足なのか」「遺族は犯人が死んでも満足しないだろう」「殺せ、殺せの大合唱は背筋が寒くなる」などといった批判である。これに反批判をしてしまえば、スタートラインは完全に見失われる。

昨年の8月24日、名古屋市千種区内で会社員の磯谷利恵さん(当時31歳)が車で拉致され、殺害されて遺棄された事件があった。利恵さんの母親の磯谷富美子さんは、3人の被告人の極刑(死刑)を求めてずっと署名活動をしている。私はこの事実を知り、最初は迷わず署名をしようと思った。しかしながら、実際に3人の被告人の氏名を書くときに、何とも言えないプレッシャーを感じた。さらに、葉書を出す段となって、大いに迷った。死刑が殺人であることは間違いない。「お前は人殺しの片棒を担ぐのか」、「たとえ殺人を犯した者であっても、死刑によって被告人の家族が悲しむことは事実だろう」といった死刑廃止論の殺し文句も脳内を駆け巡った。結局私は、自分自身を問い詰めた上で、その葉書を投函することにした。

この事件については、現在まで27万人近い署名が集まっているそうである。中には深く考えずに署名をした人も含まれるだろうが、多くの人は各人の逡巡を経て、考え抜いた上で結論を出しているはずである。死刑廃止論の言い分もすべて経由して、その上で被告人の死刑を求めて署名するのであれば、これは1つの弁証法のあり方である。自分は自分の意志で殺人を推奨する、このような人間の倫理が指す方向は、その論理の強靭さに置いて信頼に値する。少なくとも私にとって、磯谷富美子さんの言葉の一つ一つは、心の琴線に激しく触れた。これに対して、死刑廃止運動をしている安田好弘弁護士の言葉が私の心の琴線に触れたことは、ただの一度もない。死刑存置論に立つ人々の多くは、自らが殺人を推奨することの覚悟くらいはできているはずである。


磯谷富美子さんのホームページ
http://www2.odn.ne.jp/rie_isogai/
http://www2.odn.ne.jp/rie_isogai/page002.html

このブログの過去の文章
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