犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

人間としての当然の権利

2007-02-28 20:16:42 | 実存・心理・宗教
犯罪被害者の人権という概念は、新しいだけにその内容が確定していない。ただし、人間が苦しみの極限の中から「人権」という言葉を絞り出すとき、そこにはただならぬ重さが込められる。それは、人間として当然与えられてしかるべきものが与えられていないという理不尽さへの叫びである。犯罪被害者の叫ぶ「人権」とは、まず何よりも加害者に1人の人間として心の底から反省してもらい、法廷では嘘をつかずに真実を話してもらい、謝罪してもらい、1人の人間として罪を償ってもらいたいということである。

しかし、そのような目的のために「人権」という言葉を用いることによって、かえって言いたいことの本質が伝わりにくくなってしまう。それは、端的に人権という言葉の定義の問題である。人権とは、国家権力と市民の間の関係を規律するために発明された概念であり、日本の刑事裁判においてもそのような意味で用いられてきた。犯罪被害者の言いたいところである「人権」と、法律の専門家が指している「人権」とでは、そのニュアンスがずれてしまっている。

言葉の定義のレベルで起きる議論のズレは不毛である。被害者は、加害者に人間として反省してもらうために「人権」という概念を主張しているのであり、その目的を果たせなければ意味がない。しかし、法律の専門家からは、犯罪被害者の人権は裁判所に対して主張するものであって、加害者に対して主張するものではないと説明される。被害者からすれば、問題点を逸らされた感じである。なかなか本当に言いたいことには辿り着かない。どうでもいい前提問題で引っかかっているという感じである。

人権とは国家権力と市民の間の関係を規律するための概念であるという定義に立つ限り、被害者の人権論を主張すればするほど、問題点は被害者と国との間の話に移ってしまう。そこでは加害者が不在となる。これも被害者をバカにした話だろう。加害者が反省しようがしまいが、謝罪しようがしまいが、被害者が国から金銭の補償を受けられれば被害者の人権は十分に保障されるという安易な構図に流れるからである。

被害者は、あくまで人間という尺度でものを見た上で、「人権」という言葉を絞り出している。そのニュアンスは、人権派弁護士のそれではない。哲学的な「実存」の問題である。犯罪被害者の人権は、そのまま実存と言い換えられる。被害者の人間としての最低限の権利とは、加害者に法廷で真実を語ってもらい、心の底から反省してもらうことである。国から面倒を見てもらう権利を与えられる代わりに、加害者に反省してもらう権利を奪われるというのでは、いかにも本末転倒である。

犯罪被害者の人権という概念は、従来の「人権」の定義を変更するものである。言葉の定義のレベルで起きる不毛な議論を断ち切るためには、人権派弁護士のそれとはあえて定義を変更していることを明確にしたほうが良い。「犯罪被害者の人権」でワンフレーズである。そして、その内容は、哲学的な実存である。

実存主義と人権思想

2007-02-27 20:28:38 | 実存・心理・宗教
実存主義哲学からすれば、人権思想は人間の自己欺瞞である。それは、今ここに自分という人間が存在する事実と向き合わず、既成の理論を借りて安住しているという鈍感さである。人権思想は、人間が一度きりの人生において常に取り返しのつかない一瞬を生きている緊張感を捉えていない。

被告人にとっても一度きりの人生である。裁判という人生を賭ける場でこそ、実存の欲望は表面化する。死刑だけは絶対に逃れたい。短い人生で刑務所に入っている暇はない。刑期は1日でも短いほうがいいし、執行猶予で外に出て楽しく暮らしたい。罰金は1円でも安いほうがいい。これが被告人の偽らざる心境である。

しかしながら、このような人間の行動を実存主義のカテゴリーで捉えた瞬間、被告人は恐ろしい地点に立たされる。それは、被害者にとっても一度きりの人生であるという端的な事実である。このような現実に直面し続けることは、人間に哲学的な思考を促す。しかし、被告人はそのような思いをしなくてもよい。被告人には人権が保障されているからである。

被告人が死刑を逃れるために弁解したり、刑期を短くするために口先だけで謝罪したりすることは、自分勝手な実存の欲望などではない。立派な人権の行使である。しかも、歴史的に市民が権力者と戦って獲得してきた人権である。このような理論の裏づけを得て、被告人は自分の人生を離れて出来合いの人権論に安住することができる。

実存主義の視点は、このような自分の人生に対する甘い態度を容赦なく暴き出す。人権論に安住する者は、自分の実存をごまかし、他人の実存もごまかし、自己と他者がそれぞれ一度きりの人生を生きているという恐るべき現実から目を逸らす。歴史的に市民が権力者と戦って人権を獲得してきたことと、自分が被害者の一度きりの人生を傷つけたことには何の関係もない。一体誰が誰の人生を生きているのか、自分でもわかっていない。

実存主義の鋭い視点は、法律学にとっては恐ろしいものである。土俵の上で戦おうと思っても、土俵そのものを壊されてしまう。これまでの人権論は、実存主義は哲学の概念であって、法律学とは次元が違うとして処理してきた。しかし、犯罪被害者が訴えたいことは、まさに実存主義の指摘するところのものである。

人権とルサンチマン

2007-02-26 21:06:39 | 実存・心理・宗教
ニーチェは19世紀後半の思想家であるが、20世紀後半に来て再び注目を浴びることとなった。それは、ソ連の崩壊や民族紛争の激化などに伴い、原理主義やイデオロギーを克服するための思想として見直されたからである。「21世紀は人権の世紀である」といった大上段の標語に流されないための知恵としても、ニーチェの思想は多くのものを残している。

ニーチェの思想のキーワードは「ルサンチマン」である。これは、強者に対する弱者の憎悪や復讐衝動などの感情が内攻的に屈折している状態のことである。日本語では怨恨、遺恨などと訳されている。ニーチェが主に批判したのはキリスト教の道徳であるが、そこから生まれた近代市民社会のヒューマニズムや人権思想もルサンチマンの産物として捉えられる。

21世紀に入り、我が国では被害者保護の流れが強まってきた。しかし、いわゆる人権活動家や人権派弁護士からは、「犯罪被害者の人権」という概念には積極的な評価が与えられていない。21世紀は人権の世紀であると喧伝していても、それは被疑者・被告人の人権のことであって、被害者の人権は含まれていないかのようである。このような人権概念の混乱を読み解くためにも、その背景に遡ることは有用であり、ニーチェの思想は大いに参考になるだろう。

ニーチェの思想は後世にも影響を残しており、特にフランスの哲学者フーコー(Michel Foucault、1926-1984)の「生の権力」という思想は、法律学が見落としているものを鋭く指摘している。現代社会における権力の中心は、伝統的な国家権力ではなく、個々人のうちに内面化される見えない権力であるというものである。この見解に立てば、被疑者・被告人が国家権力に抵抗すること自体が、犯罪被害者に対する権力となっているという新たな視点も開けてくる。

社会的・関係的な人間存在

2007-02-25 18:32:03 | 国家・政治・刑罰
ヘーゲルの大哲学者たる所以は、法律学も社会学も心理学も含んだ壮大な体系を、一挙に弁証法によって説明したことである。そこで扱われる人間像は、抽象的なそれではなく、社会的・関係的な人間の存在の形式である。

ヘーゲルはまず端的に、人間の自我の欲望を直視する。その欲望は他者の承認を前提とするが、それはすべての人間にとって当てはまる。ここに自己と他者の弁証法的な反転が起きる。自分とは、他者にとっては他者である。すべての自己は、「他者の他者」である。人間はこのようにしか存在できない。

このような空間では、他者を否定したいという欲望(Sein)、それを否定されたくないという欲望(Nicht)が人間相互間において網の目のように拡がり、そこからルールとしての国家による「否定の否定」(Werden)が自然に出てくる。それが法律である。ここでは、単に自己と他者を含む人間の集まりが国家であって、「国家権力」として対象化することは不可能である。国家権力と戦うという行為自体が、論理的に存在し得ない。

ヘーゲルが見抜いた人間の社会的・関係的な存在の形式からすれば、被害者の不在という制度設計は、人間社会の自然的なあり方に反していることがよくわかる。近代刑法のパラダイムは、「加害者と被害者」という枠組みを隠して、「被告人と国家権力」という枠組みに捉え直した。罪を犯した人間が、「加害者」「犯人」という肩書きを背負わずに済むようになり、「被疑者」「被告人」という肩書きを背負わされることとなった。これが、被害者が見落とされることになった最初の原因である。

人間の社会的・関係的な存在の形式からすれば、人間が多数集まって国家を形成するのであって、国家とは人間の集まりという定義以上のものではない。他者の延長が国家である。従って、加害者が他者である被害者の存在を飛ばして、国家権力と対峙するという構造は、必然的に背理を生ずる。「被疑者」「被告人」という肩書きは、論理的に「加害者」「犯人」という肩書きの後にしか存在し得ないからである。

善悪とは何か

2007-02-24 21:39:48 | 国家・政治・刑罰
善とは何か。善悪とは何か。これは、哲学でも法学でも永久の課題である。この問題について、刑法のテキストで解答を示している2大哲学者が、カント(Immanuel Kant、1724-1804)とヘーゲルである。カントは人間の純粋理性の限界を探る方法によって、哲学にコペルニクス的展開をもたらした。ヘーゲルはさらに弁証法によって、静止した世界を動きのあるものにした。

カントによれば、「善」とは、自由な存在である人間が自ら道徳的であることを意志することを指す。すなわち、上からの押し付けではなく、本人が自らの良心によって犯罪をしたくなくなるという状態に至らなければならない。このようなカントの道徳律は厳格に過ぎて、哲学界でも法学界でも評判が悪い。現実の凶悪犯人の前では、かような立論はどうにも無力だからである。

これに対してヘーゲルは、人間が「善」という概念を所有していること自体を見落とさない。善悪とは、具体的なあれこれの行動である以前に、人間が所有している概念の形式である。弁証法的には、善があって初めて悪があり、悪があって初めて善があり、それは互いに単独では存在できない。二項対立の善悪二元論ではなく、二律背反の善悪一元論である。どんな聖人君主も、善であるためには「悪」の概念を有していなければならない。逆にどんな凶悪犯人も、悪であるためには「善」の概念を有していなければならない。

このようなヘーゲル哲学の到達点から見れば、人間が自らを善の側に立たせた上で、悪を攻撃して改めさせるという構造は、弁証法的に不可能になる。善と悪は個人のうちに不可分一体のものとして存在しており、絶対的な善の側に安住することなどできない。善悪とは個々の行動ではなく、人間が自らのうちに所有している概念の形式だからである。

このようにしてカントとヘーゲルが到達した地点は、法律学によってあっさりと捨てられてしまう。近代刑法は、ロック(John Locke、1632-1704)やルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712-1778)の啓蒙思想を取り入れて、国家権力は「悪」であるという大原則からスタートした。このような前提を立てる限り、被告人は「善」に位置づけられる。そして、誤認逮捕、自白強要、誤判、冤罪、重罰化などが絶対的な悪として槍玉に上げられる。このような壮大な近代刑法のシステムを前提とする限り、被害者の入る隙間は全くない。善悪二元論の構図からすれば、被害者は人為的に見落とされる存在でしかなくなる。

このような近代刑法のシステムにおいては、被告人が自らを反省し、自責の念を持つことには、否定的な評価が与えられるのみである。被告人はあくまで「善」でなければならないため、たとえ被告人本人が自らを「悪」だと認めようとしても、システム全体が評価してくれない。凶悪犯人の改心と謝罪は、悪である国家権力を利するものとして、将来的に近代刑法の原則を脅かすものでしかないからである。

アカデミズムの弊害

2007-02-23 22:16:15 | 国家・政治・刑罰
近代哲学はヘーゲルによって完成したが、その後は細分化の一途を辿っている。ヘーゲルは刑法学の教科書に登場する最後の哲学者であり、しかもフォイエルバッハの罪刑法定主義に負けるだけの役回りである。近代刑法学は、「人間はなぜ生きるのか」「人生の目的は何か」という問いを哲学に預けて、さらなる細分化に向かっている。それが犯罪学であり、被害者学である。

このような社会科学は、それだけ膨大な情報と課題を抱え込んでおり、もはや世の中全体を見渡すのが不可能な状況にある。他の領域の学問との連携など不可能に近い。学者は専門バカと言われて揶揄されるが、実際には狭い専門領域を深く探究するだけで一生かかってしまう状態であり、人間の能力を超える。

哲学を失った社会科学の拠るべき最大の論拠は、客観性である。社会科学は、社会的諸事象を科学的方法による観察・分析・考察を基にして客観的法則性を把握し、系統的な認識を作り上げることが目的となる。その客観性を保障するものは、データである。犯罪学や被害者学が独自の科学として強固な体系を築くためには、個人の独断や偏見ではなく、客観的なデータを基礎にしなければならない。かくして、データによる仮説の提示、仮説のデータによる検証という学問の技法が確立する。

犯罪学や被害者学の目的は、将来的に犯罪を防止し、被害者を救済することである。しかし、それを可能にするためには客観的法則性を把握しなければならず、そのためには数多くのデータが必要になる。そのデータとは、当然ながらこの世で起きる犯罪である。犯罪学や被害者学が学問として発展するためには、データとしての日々の犯罪の集積が必要である。ここにアカデミズムの弊害が生じる。

犯罪における被害の状況、その後の裁判の結果などは、サンプルとして蓄積され、将来のためのデータとされる。好むと好まざるとにかかわらず、次々とケースに分類され、学問的に分析される。それは知的好奇心を刺激する要素となり、場合によっては、「興味深い事例」や「事例の集積が待たれる」などと言われてしまう。新たな犯罪が起きるたびに、それはデータとして学問のカテゴリーに引き込まれていく。

社会科学の客観性は、何よりも将来にわたっての理論構築を目的とするから、被害者の間にはサンプルとしての互換性がなければならない。そこでは、被害者の一度きりの人生という視点は、端的に邪魔になる。そのような怒りと悲しみはどこまでも主観的なものであり、客観的な学問には取り入れられない。しかし、被害者の一度きりの人生という視点は、学問からは切り捨てられても、現実の世の中から切り捨てることは絶対にできない。

近年、修復的司法というものが提唱されているが、いまいち被害者の求めているものとずれているようである。その違和感を辿っていくと、やはり学問の細分化による哲学の欠如に行き着くように思われる。

自分の犯した罪と向き合うということ

2007-02-22 20:13:48 | 国家・政治・刑罰
犯罪被害者保護を「心のケア」という枠組みで議論するとき、事件そのものに関する論点は微妙にずらされる。被告人の反省や悔悟とは無関係なものとして、国家による金銭的な補償が問題とされることもある。しかし、被害者はとにかく事件そのものの情報が知りたい。そして、裁判に参加したい。これは人間としての当然の要求であるが、法律学はこの要求の意味が理解できない。

被害者がまず何よりも最初に望むことは、被告人が事件について明らかに語ることであり、自分の犯した罪と正面から向き合い、反省して謝罪することである。過去の事件を置き去りにしたまま、将来に向けた心のケアなどと言われても、土台が崩れている所にビルを建てるようなものである。極限まで追い詰められた被害者の声が指し示すものは、人間としての倫理であり、正義である。

哲学はもちろん、この被害者の声を当然のものとして理解する。哲学が扱うテーマは人間の倫理や正義であり、国家による金銭的な補償などは本質的な問題ではないからである。これに対して法律学では、倫理や正義の問題は抽象的すぎて扱えない。哲学から細分化した法律学には、何よりも実用性が求められるからである。

かくして裁判という場は、被告人が自分の犯した罪と向き合う場ではなくなる。被告人は自分の罪を軽くするために否認し、弁解し、あるいは口先だけの謝罪をすることが権利として認められる。これが現在の法律学の到達点であり、現在の裁判が採用しているカテゴリーである。この文脈の中で被害者保護を図ると言っても、被害者が望んでいる最大のものは与えられない。

被告人が自分の犯した罪と向き合うということ、これが人間としての倫理であり、正義である。そうであるならば、現在の裁判は反倫理的であり、反正義的である。社会が本気で被害者保護に取り組むならば、いずれ法律学のパラダイムを脱構築して、哲学のパラダイムからの新たな制度設計が必要となるだろう。

中立的な表現を装ったオピニオン

2007-02-21 21:03:35 | 国家・政治・刑罰
罪刑法定主義を大原則とする近代刑法の思想からは、裁判所が厳罰化の世論に押されて重い刑を言い渡すならば、裁判の安定性・客観的で公正な裁判が害されることになる。これに対して、逆に裁判官が被告人の情状や将来性を考慮して、通常よりも軽い刑を言い渡す場合には、罪刑法定主義からは問題がないとされる。

結局、裁判の安定性・客観的で公正な裁判というイデオロギーは、刑を軽くするという方向性に一方的に結び付けられる。しかし、論理的に言葉の意味を考えるならば、裁判の安定性・客観的で公正な裁判という中立的な価値は、重すぎる刑のみならず、軽すぎる刑によっても害されるはずである。

戦後60年、「罪刑の均衡」という一見すれば価値中立的な表現は、国家権力の濫用を抑制するという文脈でのみ捉えられてきた。裁判の実務もこの文脈を前提に動いてきた。ここで割を食ってきたのが被害者である。「罪刑の均衡」とは、刑が重すぎても軽すぎても問題であるという意味ではなく、重すぎる場合だけが許されないという意味に読み替えられていた。ここに表現と実質の乖離が生ずる。

人権活動家は様々な人権問題において国家権力と戦うときに、「法律を杓子定規に適用するだけではなく、超法規的措置によって人道的に柔軟な解決を図るべきである」と主張する。しかし同じ人権活動家は、被害者からの厳罰化の要求に対しては、「法律には客観的明確性が必要であり、安定した法の適用が要求されるので、その場の感情で個別的な解決を図るべきではない」と主張する。これは対照的である。答えが先にあって、それに合わせて後から正反対の理屈の形式を持ち出しているからである。

法律学の世界では、何よりも客観的で中立的な条文解釈の態度が求められるという建前がある。しかし、被害者にとっては中立でない時代が長く続いたことを見ても、そのような建前はもとより不可能であることがわかる。中立的な表現を装いつつ「裏の意味」を主張するオピニオンが幅を利かせるならば、中立性など放棄したほうがましである。

「正しい」ということ

2007-02-20 20:52:19 | 国家・政治・刑罰
ソクラテスからヘーゲルに連なる弁証法が、西田幾多郎によって仏教の禅の思想に結び付けられているのも、「自己言及の矛盾」という根本の哲学において共通するからである。ソクラテスの「無知の知」という思想は、禅の「悟ろうと思うほど悟れなくなる」という二律背反に通じる。

弁証法の視点というものは、単なるこの世の円環運動の説明に過ぎない。実に当たり前のことを述べているだけである。そこからは何らの主義主張も導き出せない。すべては在るように在る。この地点から法律を論じたヘーゲルからすれば、現在の法律学の議論は底が浅い。

もし何かの命題が正しいものであるならば、それに対して理屈をつける必要はない。もともと正しいことが明らかであれば、今さらそれを正しくする必要がないからである。我々は、「太陽は西から昇る」「日本の首都は大阪である」と主張する人がいても、ムキになって反論したりはしない。笑いながら放っておくだけであろう。正しいことに自信がある事項については、わざわざ理屈を持ち出して正しさを主張する必要性を感じないからである。

これに対し、我々が人権活動家に対して「加害者ばかりが有利に扱われるのはおかしい」と主張すれば、烈火のごとくの反論に遭うだろう。そして、様々な理屈を持ち出されて、誤った認識を改めるように強制されるだろう。笑いながら放っておいてはくれない。正しい知識が不足していると非難され、間違った考え方は訂正するように迫られる。

しかしながら、弁証法の視点からは、このように熱くなる理由がない。もし「加害者は有利に扱われていない」という命題が正しいものであるならば、それに対して理屈をつける必要はなく、今さらそれを正しくする必要がないからである。「加害者ばかりが有利に扱われるのはおかしい」と言う人に対しては、「太陽は西から昇る」と言う人と同じで、笑いながら放っておけばいいだけの話である。それが正しいということの意味である。

様々なデータを持ち出して理論武装し、論拠を積み上げて反対派を論破しようとする姿勢は、そのことによって自らが正しくないことを示してしまっている。正しくないからこそ、それを正しくしなければならなくなる。かくして法律の議論は、往々にしてイデオロギー論争に堕する。

弁証法の正義は、Sein-Nicht-Werdenという円環運動それ自体である。これに対して法律は、あくまでもSollenという当為である。当為はあくまでも仮説であって、正義ではない。その仮説が正義として絶対化されるとき、SollenはWerdenを指向し始める。しかし、SollenはWerdenにはなれない。

被告人の権利と被害者保護の矛盾

2007-02-19 21:03:32 | 国家・政治・刑罰
「被告人の権利と被害者保護は矛盾するものではなく、両立するものである」という意見がある。これは現状認識が甘い。現に存在する状況について、端的に「矛盾がある」と捉えなければ、問題の所在を見落としてしまうことになる。「いじめのない学校を作る」という目標を掲げた結果、いじめの存在を見落としてしまった本末転倒の愚と同様である。

現実には、とても「両立する」などとは言えない問題が山積している。例えば、被害者遺族が極刑を望んでいるのに、検察官が無期懲役しか求刑しなければ、裁判所が無期懲役を言い渡したとしても、遺族は「刑が軽すぎる」と言って控訴することはできない。それどころか、被告人には「刑が重すぎる」と言って控訴する権利が与えられている。この「刑が軽すぎる」という意見と「刑が重すぎる」という意見の衝突が全く解決できない状況を見ても、被告人の権利と被害者保護の両立など図れないことがわかる。

公権力は濫用されるものであり、市民によって抑制しなければならないという善悪二元論からは、被害者の問題を真剣に取り入れようとすれば、罪刑法定主義の構造が根本から崩れる。罪刑法定主義の基本的な構造がこのようなものであるからこそ、刑法学者は被害者の問題を戦後50年間も置き去りにしてきた。もし被告人の権利と被害者保護とが本質的に両立する理論であるとするならば、被告人の権利が優先されてきたこの50年間の説明がつかなくなる。

原理原則論を疑うことのできない大前提とする原理主義的な思考は、自己に都合の悪い理論を部分的に取り入れたり、妥協案を探ることによって、体系の崩壊を防ごうとする。「被告人の権利と被害者保護は矛盾するものではなく、両立するものである」という言い回しは、人権派の延命策としては優れているが、被害者の悩みや苦しみ、そして怒りと絶望とを正面から受け止めるという真剣さがない。