犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 10・ 死刑存置論と死刑廃止論の対決

2008-04-06 19:01:02 | 国家・政治・刑罰
●対決その1

廃止論: 悔しいけど、日本では死刑賛成派が大勢を占めているようだな。

存置論: その通りだ。民主主義の社会では、多数決はそれなりの合理性を持っている。死刑は存置すべきだ。正解は出ている。

廃止論: なるほど。どんなに少数派が自らの正当性を論証しても、現実の世界を生きる上では、多数派の結論に従わざるを得ないということだな。

存置論: そういうことだ。よくわかってるじゃないか。

廃止論: 要するに、世界の国々の多数派は死刑を廃止している以上、少数派である日本もいずれはそれに従わざるを得ないということだな。

存置論: そういうこと・・・、あれ??


●対決その2

存置論: 日本では死刑賛成派が大勢を占めているが、それでもお前は絶対に廃止論を譲らないんだな。

廃止論: 当たり前だ。多数決はあくまでも便宜的な手段だ。多数派が間違いを犯すことはよくある。ナチスドイツのヒトラーだって、最初は民主的に選ばれただろう。

存置論: なるほど。数の論理に絶対的な正当性はなく、正しさは別のところにある。従って、少数派の意見も同等に尊重しなければならないということだな。

廃止論: そういうことだ。よくわかってるじゃないか。

存置論: 要するに、世界の国々の多数派は死刑を廃止しているからといって、日本の死刑制度にとっては何の理由にもならないということだな。

廃止論: そういうこと・・・、違う!!

光市母子殺害事件差戻審 9・ なぜ「死刑」の垂れ幕はないのか

2008-04-06 14:23:50 | 国家・政治・刑罰
裁判所の玄関から、「勝訴」や「無罪」の垂れ幕を持った弁護士(又は事務員)が走り出してくると、待ちかねた支援者が大歓声を上げる。全員でバンザイをし、嬉し涙を流して喜び、「日本の司法は生きていた」と叫ぶ。これに対し、弁護士が「不当判決」の垂れ幕を持って現れると、支援者の間には悲鳴とため息が漏れる。悔し涙を流して、「日本の司法は死んだ」と叫び、さらなる戦いを決意する。これは、昔ながらの判決に伴う光景である。それでは、なぜ「死刑」や「無期懲役」の垂れ幕はないのか。オウム真理教の一連の裁判でも、このようなものは見られなかった。このごく当然の現実が、死刑をめぐる問題の性質をそのまま示している。

被害者の支援に携わる弁護士が「死刑」の垂れ幕を持って裁判所からの玄関から走り出し、遺族が歓声を上げて拍手をする。このような光景には、人間はどういうわけか違和感を覚える。実際にこのようなことを目の当たりにすれば、死刑賛成派の人々でさえ、その一部は死刑廃止論に回ってしまうだろう。遺族はその正義のためには死刑を望むしかなく、無期懲役刑では怒りも悲しみも収まらない。しかし、現実に死刑判決を得たところで、そこに純粋な喜びはなく、怒りも悲しみも消えない。無罪を求めて戦う被告人の支援者と、死刑を求めて戦う被害者遺族の支援者と、その絶望的な断絶はこの点にある。政治的な問題は他者に対する戦いであるが、哲学的な問題は自問自答の苦悩である。理屈で説明できないところに、人間の倫理観というものが存在する。死刑判決の一方を聞いた遺族は、いつでも心中複雑であり、「死刑」の垂れ幕を持って走し出されても困る道理である。

善悪二元論に基づき、公権力を悪として戦う行為は、ある意味非常に単純である。そして、伝統的な法律学は、犯罪や裁判をめぐる問題をこのパラダイムでのみ論じてきた。まず現状の否定があり、将来におけるゴール設定があり、あとは単にそれに向かって突き進むのみである。自分たちの要求が通るのが正当であり、通らないのは「不当判決」であって、非常に無邪気である。このようなパラダイムによって犯罪被害者の側の問題意識を矮小化されてはたまらない。ゴール設定のある問題など、最初から解答が出ているわけであり、哲学的な苦悩や自問自答に比べれば問題の数ではないからである。「勝訴」や「無罪」の垂れ幕を持って走る善悪二元論からは、「死刑にすればそれで済むのか」といった疑問が投げかけられ、だから死刑には意味がなく廃止すべきだとの結論に直結することがあるが、それでは話にならない。「死刑にしてもそれで済まない」というのは、議論のゴールではなく、スタートである。

死刑存置論にしても、死刑廃止論にしても、他の社会問題と同等に政策論として捉えているか、それとも生死の問題として哲学的に突き詰めているかによって、その指し示す地点の深さも変わってくる。遺族の怒りと悲しみが哲学的なものであるならば、政治的な善悪二元論によっては、その深さに到達することはできない。死刑に賛成するか、反対するか以前に、その両者に共通するところの死刑とは何なのか、まずはそれを考えることが論理的に先である。「勝訴」の垂れ幕に喜び、「不当判決」の垂れ幕に怒る、遺族が犯人の判決を待つ気持ちは、そのような単純なものではない。このことを見落とした専門家は、遺族が死刑判決に純粋に喜べず、さらに怒りと悲しみを深くしている意味がわからない。一体あなたはどうすれば満足なのか、ゴールを示してくれと困惑する。遺族の言葉はそれを聞く人を厳しく選ぶが、伝統的な「勝訴」と「不当判決」のパラダイムは、その任には相応しくない。