犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山崎豊子著 『「大地の子」と私』

2010-08-22 23:27:27 | 読書感想文
(平成8年の出版です。)

p.23~

 先ごろお亡くなりになった井上靖さんが、こういってくださったことがあります。「山崎君はテーマの発想がいい。文章力は、たとえば川端康成さんのような特別な人を除けば、作家同士そんな極端な差があるものではない。だとすれば大切なのはテーマだな。山崎君はいつもテーマだけで50点はとっている」
 私には過ぎた言葉ですが、そのテーマの重要性を、文革の場面で再認識しました。出だしを間違えると、最後まで電車に乗り違えたようにうまくいかないものです。特急で行くはずが、鈍行に乗ってしまったようにだらだらと冗漫になってしまう。それに、長編小説を書ききるためには、「同じことを、同じ情熱と、同じ忍耐力で、持続する」ことが大切です。言葉にすると平凡だけど、平凡の非凡、実行がむずかしい。


p.204~

 昨年(1995年)、「戦後50年の締めくくり」という言葉が氾濫した。私は、その言葉を聞くたびに、第二次世界大戦というあれほどの戦争が、50年で締めくくられてしまうのはおかしいと思った。納得がいかなかったのである。
 1985(昭和60)年12月、中国で取材していた私は、胡耀邦総書記とお会いする機会に恵まれた。そのとき胡耀邦さんが、私に発した一言がいまだに忘れられない。
 私は胡耀邦さんに次のように云った。「日本の侵略をそこまで責めるのならば、イギリスの犯した阿片戦争は、まさに民族の滅亡に繋がる重大な侵略ではないですか。なぜそのことは一言もおっしゃらずに、いつまでも日本だけを責めるのですか」と、阿片戦争によって、上海、厦門の開港を迫り、香港を取り、当時の中国を半植民地化したイギリスの侵略行為に思いを致した。
 すると、胡耀邦さんはこう云われた。「中日戦争からはまだ40年しか経っていないが、阿片戦争からは100年経っている」。私はこの一言を聞いて忸怩たる思いがした。ああ、中国という国は歴史を百年単位で区切りにする国であったか、と。


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 歴史が個々の人間と別に存在する何物かではなく、人々の集まり及びその個々の人生の時間を歴史と呼ぶのであれば、「歴史を忘れるな」という命題と、「時が自然に解決する」という命題の矛盾が際立ってくるように思います。「過ちを繰り返さない」と「歴史は繰り返す」も同様です。

 時間を数量的に捉える限り、「戦後65年の反省」とは、「『戦後50年の反省』から15年の反省」を含むはずのものですが、人は普通はこのような重畳的な時間の捉え方に耐えられないはずです。人が時間の中で生きることが老いることと同義であり、その先に死があるのであれば、人の時間を歴史の側から強引に断ち切られて殺されるという出来事だけが、現に人々の歴史として残っているように感じられます。

永井隆著 『如己堂随筆』

2010-08-20 23:21:39 | 読書感想文
(昭和26年の出版です。)

p.114~

 「あの原子爆弾が私たちに加えた損害のうちで、いちばん大きかったものは何でしたろうか?」と田川が私にたずねた。彼は爆弾の裂けるまでは、私の隣に住んでいた小学校の教員で、あの爆弾で愛する妻と4人の子供を天にささげ、財産をすっかり燃やしてしまった。そして手もとに残ったのは、たった1人の男の子であった。私も同じく妻を天にささげ、家も財産も失なったが、手もとには1人の男の子と1人の女の子が生き残っている。

 「原子爆弾1発で、わたしの家庭はつぶされました。私の財産はなくなりました。私の古里、長崎は廃墟となりました。私の祖国日本は無条件降伏をしてしまいました。ああ、なんという大きな損害でしたろう!
 けれども損害はそれだけだったでしょうか? こういう損害については、原子爆弾をわが身に親しく経験したことのない人々にも想像がつきます。それだから世界中の人々が原子爆弾を使うな……と大騒ぎをしているのです。たしかにその叫びは正しい。大騒ぎして原子力管理問題について議論するだけのことはあります。実際ひどいですからなあ、原子爆弾は! けれども私は感じています。世界の人々が感じておらない大きな損害がまだ他にあることを……」

 長崎の原子野はこの通り着々と復興してゆく。だがしかし、どうしても回復できない傷が残っている。それを田川は言うのであった。「そうですね。私にも近ごろそれが何であるか、気がついてきました」。私は低い声で言った。「それは心に受けた傷ではないでしょうか?」


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 戦争体験を語ることが、心に受けた傷の傷口を無理にこじ開けることだとすれば、最初から傷口が存在しない後世の人々に対して戦争を伝えることは、本来の意味では不可能だと思います。私はこれまで、何回か戦争体験のある方々のお話を直接伺ったことがありますが、正直なところ「押し付けられた」という印象が強く、「伝わってきた」という感じはありませんでした。

 戦争が後世に伝わるということは、戦争体験のない戦後生まれの世代に対する口伝を飛び越え、文字にして記されたものが、さらなる後世の人々に伝わるという作用を指すのだと思います。自然現象としての風化と、比喩としての風化が、目の前の形としては逆の動きを示すことが避けられないならば、後世への伝わり方は、数ではなく質の問題となるようにも感じます。

美谷島邦子著 『御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年』より その2

2010-08-18 23:06:31 | 読書感想文
p.166~

 その日、遺族が泣きながら電話をかけてきた。遺品がみつかった直後、責任ある立場の日航の世話役が、その遺族に向かってこう言ったという。「奥さん、このようなもの(夫の愛用のメガネ)を大切にしておくのは奥さんの代だけですよ。孫の代になったら、どうせ見向きもしなくなるのです。だから、早く焼却して荼毘にふしたほうがよいですよ」と。
 その言葉を聞いて、彼女は立ち上がる気力がなくなったという。日航が、1日も早く事故を忘れようとしているように見えてつらかったと話す。
 遺品のひとつひとつに亡くなった人の物語がある。亡き人と共有した家族の物語がある。遺品は、たった1つのかえがえのない命を、もう一度、見る人の心の中に蘇らせることが出来るのだ。私は遺品の公開で、どうしても捜したかったのは、健の野球帽だったが、見つからなかった。電話をかけてきた遺族の話を聞いて、いつかは大企業の心を変えたいと思った。


p.169~

 2008年9月23日、広島に着いて日航の安全推進本部長の岸田清さんや、安全啓発センター長の金崎豊さん、そして遺族の小澤さん母子と合流し、まず、平和記念公園で献花をした。私は、1991年8月にも遺品を見る目的で、遺族の武田さんと平和記念資料館を訪ねていた
 日本は、核兵器の惨禍を受けた唯一の被爆国だ。高齢化した被爆者は、話したくもない、思い出したくもない体験を懸命に語りつづけている。「こんな思いをほかの誰にもさせたくない」と、核兵器を使うことの愚かさ、悲惨さを訴えている。(中略)
 残された人たちは、亡くなった人との間にあった物語を紡いでいかなければ生きていけない。どんなことであれ、残された人たちが生きていくための物語を奪っていいはずがない。戦争はその物語を奪っていった。亡き人を思い、その面影を心にしまう、そうした場所が必要だと思う。そこで自分の過去を整理しながら、自分の人生と、その人との物語を紡ぎなおしていくことができる。それが、二度と繰り返させないという思いにつながっていく。
 資料館見学後、一緒に見学した日航の社員ともそんなことを話した。加害者、被害者という距離が縮まったように思った。


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 日本の8月前半のマスコミの報道は、いつも形が決まっているように思われます。8月6日は一斉に広島、9日は長崎となり、12日が近づくと戦争のことを忘れたように日航機事故です。さらに15日が近づくと、日航機事故をすっかり忘れて終戦の話です。そして、8月後半になると、どちらもほとんど姿を消します。

 人の生命、死、二度と過ちを繰り返させないという思いに冷静に向き合ってみれば、このような縦割り的な扱いはあり得ず、すべては自然に一本の線につながるはずだと思います。日々新たに起こっている遭難や事故も同様です。ただし、「暗いニュースばかりでは気が滅入る」という多数派の視聴者の要望を考えてみれば、マスコミがこのつながりを表現することは厳しいと感じます。

美谷島邦子著 『御巣鷹山と生きる 日航機墜落事故遺族の25年』より その1

2010-08-17 00:01:31 | 読書感想文
p.123~

 8月、時効が中断したままのボ社関係者を除いて、時効を迎えた。ボ社の事情聴取はされないまま、同社の修理ミスの背景や具体的原因は永久に解明されることはない。真相が、国際間のみえない圧力の下で消えてしまう。無念でならなかった。遺族からは、「納得がいかない」と再調査を望む声が上がった。
 公の場で、どのような過ちが、何故起きたのか明らかにしたいという希望は叶えられなかった。今後の安全対策に役立つ資料が、日の目を見ることがないのが残念でならなかった。私は、「人を罰してほしかったのではない」と改めて思った。

 事故直後に、遺族が刑事告訴を起こすのは負担が重い。この方法しかなかったが、遺族が本当に望んでいるものはそこにはなかった。刑事告訴をしたことで、私たちは、原因究明を求めるのには、刑事責任を追及するやり方は問題があることを知った。
 刑事責任の追及は、事故の原因究明にはあまり役に立たない、逆に支障になっているのではないか、と話し合った。多くの人が係わり分業で作業がなされている場合、そのひとつひとつの動きを切り離して、どの人がやったのかを特定するのは困難だ。そこで個人の刑事責任を追及しても、原因究明にはつながらない。

 ここまで何度も記しているが、事故の原因究明に欠くことができないのは、当事者にありのままに語ってもらうことだ。しかし、当事者には、刑事事件の捜査で語れば責任を追及される、という恐怖感がある。米国でとられているような「免責」という方法をとらないとだめなのではないか。個人の責任を追及するという枠組みは果たしてよいのだろうか。遺族たちで何度も話し合った。


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 刑事裁判とは、証拠によって被告人の有罪・無罪を決める場であり、検察官と被告人との熾烈な戦場です。従って、「当事者にありのままに語ってもらうこと」は目的ではなく、原因究明も目的ではありません。また、「二度と過ちを繰り返してほしくない」「こんな悲しい思いを他の誰にもさせたくない」という人類の願いに近づくように努力する場でもありません。
 被害者が当事者として想定されず、疎外されてきたのには、このような理由があるように思います。過ちが繰り返されるのは当然です。

 人が理不尽に打ちのめされる心情は「語り得ぬものの沈黙の行間に示される」のに対し、裁判の用語はそれを受け止めることができません。従って、どんなに「人を罰してほしいのではない」と言っても、「それが罰を叫んでいることになるのだ」と評価され、裁判上では厳罰感情という名を与えられます。
 「犯罪のない社会になってほしい」と訴えるだけでも一苦労であり、さらにその苦労を表に出すや、「被害者参加制度は被害者のためにもならない」との批判が飛んでくるわけですから、刑事裁判とはその程度の仕組みだとの感を強くします。

江花優子著 『11時間 お腹の赤ちゃんは「人」ではないのですか』より その2

2010-08-08 00:06:42 | 読書感想文
p.225~

 桜子ちゃんと元気くんは、事故後の経緯の辿り方など、かなりの類似性がある。起訴状に適用されている条文は、刑法211条1項前段と同じにもかかわらず、なぜ元気くんだけが「業務上過失致死」が成立したのだろうか。これほどまでに明暗を分けてしまうことになった理由を土本武司教授(刑法)に、検証してもらった。
 「刑事裁判は訴因制度をとっています。従って、裁判官は検察官が組み立てた訴因の範囲内のみで審理し、判決をします。静岡のケースは、わずか30時間後であれ、生きて生まれてから死亡したケースであるので、検察官が赤ちゃんの死を致死罪に評価できると訴因構成したことに対し、札幌のケースは、少なくとも一部露出がなければ“人”とは言えず、胎児に怪我をさせたとしても罰則規定がないという従来の考え方で訴因に取り込まなかったからです」

 これまでの事件取材でも、同様の事件であるにもかかわらず関わった警察官、検察官、弁護士、裁判官によって、送検、起訴、量刑の違いが起こる事態を数多く目の当たりにしてきた。法のもと平等であるべきはずなのに、なぜこのような事態が起こるのか聞くと、ほとんどの法律家は、「そのようなもの」「仕方がない」と口をそろえるというのが悲しい現実だ。
 土本教授がこう続ける。「検察官は全国ピラミッド型で統一的な仕事をし、解釈についても統一性があるべきです。しかし、札幌と静岡の事件でこのように解釈が分かれてしまったということは、水俣病事件・最高裁判決の見方の違いによるものだと思われます」。やはり、この両者の裁判の判決の明暗こそ、熊本水俣病事件以来、議論が十分に進んでいないことの弊害なのではないかと思わずにはいられない。


p.232~

 いつから“人”になるのかと、法律家をはじめ、多方面の専門家と長年にわたり議論を続けている加部一彦医師(新生児科)が、こう言う。
 「この亡くなった子どもを通じた胎児の問題は、人間の始まりの時期という議論に関係します。医学、生物学、倫理学、宗教学、法律学とそれぞれの立場によって、いつから“人”になるのかという見解が大きくずれています。同じ問題を議論しているのに、これだけ大きくずれているということをいままで誰も問題視していません。それは、それぞれの立場でしか議論されなかったからなのではないでしょうか」


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 刑法学における議論とは、結論を正当化する理由付けの議論のことです。そして、刑法の専門家が胎児の命を守るために色々と頭をひねっているのですが、どうにも上手く行っていません。
 昭和63年の最高裁判決(水俣病事件)は、「胎児は母体の一部を構成する」との理屈を示しました。しかし、母体の一部であれば刑法が自己堕胎罪を処罰していることと矛盾するという尤もなツッコミを浴び、引き続き「ああでもない、こうでもない」の議論となっています。何十年間議論しても答えが出ないのであれば、恐らく問題の立て方が間違っているのでしょう。

 法律はすべて言語による構成物であり、「人」も「胎児」も「生」も「死」も言語です。そして、ウィトゲンシュタインが述べるとおり、本来、言語ゲームに外部はなく、この世界のすべてのものは言語ゲームに回収されます。なぜなら、言語ゲームの外部という概念すら言語で表現されるしかない以上、それはすでに言語ゲームの内部に位置づけられざるを得ないからです。
 医学、生物学、倫理学、宗教学、法律学のそれぞれの立場によって、いつから“人”になるのかという見解が大きくずれているのは、それぞれの外部がある言語ゲーム、すなわち厳密な定義による人工的な言語ゲームの中のルールが違っているからだと思われます。そして、法律学のルールにおいて私が学んだことは、胎児の命の儚さに対して繊細な感情を持つことは、理性的・客観的な判断を害するものであり、恥ずべき態度だということでした。自分は無事に育って大人になっているという感慨も同様です。

 法律の専門家ではない江花氏は、客観性を標榜する社会科学に基づく法制度に客観性がないことを見抜き、法律家から「そのようなもの」「仕方がない」との言葉を引き出しています。厳密に定義された言語ゲーム内の論争においては、その言語ゲームのルールそのものを問うことはありませんから、江花氏のような指摘は非常に怖いと思います。

江花優子著 『11時間 お腹の赤ちゃんは「人」ではないのですか』より その1

2010-08-07 23:21:48 | 読書感想文
p.152~

 人身事故の被害者が死亡した場合、加害者に損害賠償を請求するには、葬儀費用などの「積極的損害」、死亡した本人および遺族への精神的な被害に対する賠償となる「慰謝料」、死亡しなければ得られたはずの収入を意味する「逸失利益」の、3つの賠償請求をすることができる。
 結果、桜子ちゃんに対する損害賠償として、3653万8150円が支払われることになった。この“命の値段”を聞いて、あなたなら安いと考えるだろうか。それとも高いと考えるだろうか。雅弘さん(父親)は、戸惑いを隠せない様子でこう話す。

 「こう話すのは矛盾しているかもしれませんが、本当は民事訴訟なんて、起こしたくありませんでした。桜子が無事に生まれて側にいてくれたら、それだけでいいんです。桜子が帰ってきてくれたら、それだけで十分なんです。でも、それはどう願っても叶いません。せめて、桜子が“人”として生まれたということを、証明したいがために挑もうとしたのが民事訴訟でした。
 実際に金額を提示されると、どう受け取っていいのか困惑します。これが桜子の代わりなのか? 富山県の無保険車傷害では1億円以上だったのに、これが桜子の命の価値に等しいのか、これは子どもの命そのものなのか。突き詰めて考えると、お金で命を買うこともできることなのかなって……でも、妻は“こうしてお金のことを話すこと自体、どうなんだろう”と口をつぐんでいます」

 交通事故でわが子を失った多くの被害者は、こう言う。「賠償金は使えません。だって、使ってしまったら、子どもの命が消えてしまうんですよ」。雅弘さんも、その気持ちは手に取るようにわかるという。しかし、事故により退職したいまでは、賠償金から生活費を切り崩さなければならない状況になってしまった。そして、雅弘さんは、目を伏せながら、こう続ける。
 「このお金は子どもの命に対する代償ではない。ぼくたちに対する慰謝料なんだ。そう、妻と思うようにしています。被害者でありながら、子どもの賠償金を手にすることで、罪悪感を持つようになってしまう。それは、本当に嫌なものです」
 交通事故でかけがえのない人を亡くし、賠償金を手にした人たちには、さまざまな苦難が及ぶものだ。交通事故被害者の会に寄付する人や観音像などの慰霊碑を建てる人もいるという。一方、知人や親族などから、賠償金をあてにしたかのようにお金を無心される人さえいるとも聞く。


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 この世の人間は、色々な名目のお金を発明しています。「慰謝料」「示談金」「和解金」「解決金」などの表のお金から、「迷惑料」「手切れ金」「ハンコ代」「口止め料」などの裏のお金まで、この名目を気にする人は非常に気にします。
 それは、複雑な人間の心の奥底を抑え付けて形だけで済ませるのが「大人の交渉」であり、お金を払って済ませるのが「大人の解決法」だからです。そして、お金の受け渡しを行った後は、その話を蒸し返さず、金額に不満を持たないのが「大人」だからです。そして、法律実務は、この基準に客観性という裏付けを与えています。

 交通事故の法律実務においては、「積極的損害」「慰謝料」「逸失利益」といった賠償金の名目が類型化され、賃金センサスやライプニッツ係数によって客観的な算出が可能になっています。実証科学においては、命の値段が安すぎるという点が最大の問題であり、これに解答を与えようとすれば、賠償金をできる限り高くするという究極的な目標が設定されるものと思います。
 しかしながら、お金を払って一切の問題を終わりにするのが「大人の解決法」であり、それに客観性を与えて法的安定性を保つのが現世的な効率に合致するとすれば、本来問題にしたかったはずのそれは、形にならないまま深い場所に残されるはずです。それは、江花氏が正確に指摘しているように、「問題は賠償金を手にしたその先から始まる」ということだと思います。

ブログ

2010-08-04 23:22:02 | その他
 人が時間を割いてブログを書く目的の1つには、世間での表面的な人付き合いに窒息し、ブログの中で自分自身と向き合って毒を吐くという点があると思います。私個人の勝手な感想としては、この毒の強さが、ブログという媒体の価値を高めているように思われます。ちなみに私の場合、このブログを書かなければ死んでしまうという切実感はありませんし、書いても書かなくても世の中など全く変わりません。
 単に腹が立った、頭に来たという程度のことであれば、勝手に自分の日記に書いていればよく、わざわざプライベートを世界に公表する必要はないはずです。これに対し、実社会の中では偽りの自分を演じるしかなく、しかも個人の無力さを思い知らされている場合、人間の吐く毒は自分自身に向かい、他人にも向かい、複雑に絡み合っているように感じられます。そして、人はなぜかこのような場面においてブログという手段を必要とし、現代の技術がこのような表現手段を発明していることに救われるのだと思います。
 また、そこで語られる言葉は、プライバシーの公表や多数派の形成ではなく、誰か1人だけでも共感できる仲間を探したいという叫びですらなく、他人に言葉を書くことそれ自体が目的であるような、迷走した矛盾だらけの言葉になるのだと思います。
  
 ブログという媒体の価値がこのようなものであればあるほど、考え方の異なる他者との衝突は避けられなくなるはずです。そして、考え方の異なる者からの一方的な批判は、誰しも自分の部屋に土足で踏み込まれ、泥だらけにされてそのまま出て行かれたように感じるものだと思います。もちろん、コメントを受け付ける設定にしている限り、自分の望むようなコメントばかりが寄せられないのは当然のことであり、それが勝手に自分の日記に書いている場合との歴然とした違いでしょう。
 人と人とは、簡単にわかり合うことなどできません。どんなに経験を積んだ精神科医やカウンセラーであっても、その辛い経験をした人自身になることはできない以上、苦しみや悲しみの本当のところまでは理解などできるものではないはずです。そして、人が他者を理解できる限界とは、この理解できないという地点の共有であると思います。

 例えば、子供を亡くされた方が、ブログの中で「子供を喪った悲しみは何ものにも比しがたいものだ」と書いた場合、親や兄妹を亡くされて悲しんでいる方がこれを読めば、自分の悲しみのどん底を否定されたように感じ、さらに傷を深くすることでしょう。逆に、親や兄妹を亡くされて悲しんでいる方が、「私の苦しみは他の何にも増して深い」とブログに書いた場合、子供を亡くされた方は、そんなことはあり得ないと反射的に思うことでしょう。
 そして、人はこのような場合、お互いに敵対的なコメントを送って自分の考えの正しさを主張し合うかと言えば、そのような事実はほとんど存しないように見受けられます。ここには、「ものの考え方は人それぞれ」「多様な価値観をお互いに認め合う」といった通俗的な価値相対主義ではなく、人生の一回性において他者の人生は体験できないという事実において他者と通底してしまうような、逆説的な力が働いているように感じられます。
 ここに言う「正しいこと」とは、述べている内容の正しさ如何ではなく、その一段上の「正しいこと」、すなわち内容ではなく形式の正しさです。

 この「犯罪被害者の法哲学」というブログの題名は、私自身が何か新しい法哲学を世に問おうというような、積極的な目的を持ったものではありません。単に、私の狭い経験から、人は犯罪被害に遭った場合、参考人聴取・実況見分・証人尋問といった法律的な問題と、運命・人生・絶望といった哲学的な問題に同時に向き合わざるを得なくなるという現実を述べただけです。私はこの先、何を書きたいのか、何が書けるのか、自分でも全くわかりません。

池田晶子・陸田真志著 『死と生きる・獄中哲学対話』 「池田晶子 9通目の手紙」より

2010-08-03 00:01:51 | 読書感想文
「池田晶子 9通目の手紙」より

p.190~195

 殺人は、公的な罪である以前に私的な罪であることが気づかれているのでなければ、公的に罰することさえ、実は罰する意味を為しません。あなたは、公的な罰としての死刑を、公的なものとして受け容れながら、私的な罰としての自己の苦しみのほうこそを、正当な罰として受けとめている。公私ともに、あなたは自分の「罰」については、十分に認識し、かつ語っているとも思います。けれども、あなたは、自分の「罪」の側については、まだ明確に語っていない。

 やはりあなたの場合には、人と違う特殊な事情があります。言うまでもなく、人を殺した経験を持つという、きわめて特殊な事情です。私には人を殺した経験がありませんし、ヘーゲルだって、ありません。そして、世の絶対多数の人々もそうなのです。だからこそ、そこを知りたい。「人を殺す」とは、いったいどういうことなのかということを、「具体的に」聞いてみたい。「具体的と」いって、犯行状況、その手順がどうのといったことではありません。そんなことは、刑事と検事にまかせておけばいいことです。

 人を殺せば血が流れる、たくさん流れる、だんだん動かなくなる、死ぬ、死んで永久にいなくなる、これは、とんでもないことではないですか。恐ろしいことではないですか。こんな恐ろしいことが現実になるなんて、とんでもないことなので、倫理的判断以前に、人は人を殺さない、正確には「殺せない」のではないか、私にはそう思えるのですが、なぜあなたには殺せたのですか。恐ろしくはなかったのですか。「初めて人を殺す」というのは、どんな「気持」がするものなのでしょうか。

 私の手許に、判決文のコピーがあるのですが、たとえば、<金銭欲を満たすためには手段を選ばず、人命を奪うことも辞さないという被告人両名の自己中心的かつ短絡的な態度が顕著に表れたものである>といったような一節があります。「金が欲しい」ということと、「人を殺す」ということは、全然別のことなのに、なぜそこが「短絡」することができるのか。「人を殺す」というのは、人間の経験のうちで、最も尋常ならざる何事かであるはずなのに、人の世は相も変わらず殺人ばやりで、殺さない側の人々も、もう慣れっこになっているのか、そんな説明で事足りて、それ以上考えてみようともしない。そういう人々が、やはりあまり考えもせずに、次に人を殺すようになるのではないか。


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 人はいつか必ず死んでしまうのに、なぜ生きなければならないのか。人は必ず死ぬのだとすれば、人生の目的は死である。「人は何のために生きているのか」と問われれば、「人は死ぬために生きているのだ」と答える以上に正確な答えはない。「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」。

 「死刑」には「死」が含まれます。そうだとすれば、人々がどんなに死刑を議論したとしても、未だ生を知らない者は死を知らないのですから、知らないものを知らないと知らずに議論していることになります。そして、「死刑」のうちの「死」を忘れたまま、「刑」ばかりが議論されているように思います。これは、死刑制度の賛成・反対のいずれかという問題ではなく、その対立によって「死」を忘れるということです。
 「死刑」のうちの「刑」を語る文献は、それこそ無数に存在しているようです。死刑は他の刑罰とは違い、奪われた命は永遠に戻らないのだという議論も、まさに死刑でなくても人は死ぬという点を見落とし、死刑と終身刑の違いという「刑」だけを語っています。高名な刑法学者が「死刑廃止は私のライフワークである」「死刑廃止をこの目で見るまでは死ねない」と語っているのを聞いたことがありますが、これも同様だと感じます。

 「死刑」のうちの「死」を語るものは、私の知る限り皆無に等しく、この池田氏と陸田氏の対話が日本ではほとんど唯一のものではないかと思います。池田氏は癌で早世し、陸田氏には死刑が執行され、この本で語られている「死」がますますわからなくなりました。「死」を含む「死刑」「殺人」「過失致死」について、生きている人間には何も知り得ないのは当然のことだと思います。

池田晶子著 『41歳からの哲学』より

2010-08-01 00:06:29 | 読書感想文
p.99
 性交をする、すなわち精子と卵子が結合して受精するという生殖の過程そのものは、決して自分の意志ではない。生殖のために必要とされるこの変てこなシステム自体は、断じて人間の意志によるものではない。それは自然の意志というべきなのか、とにかく人知を超えた自然の所産である。だから、子供を作るのは自分ではない。子供は天からの授かりものなのである。

p.100
 産んだ子供を現実に育てるのは大変だ、生まれてくる子供も気の毒だ、と言いたくなる。しかし、産みたくて産んだ子供なら、頑張って育てるのは楽しいはずである。さらには、生まれた子供は自分ではない。自分が作って、自分が産んだのだから、子供は自分の子供だと人は言いたくなるのだが、しかし、自分が産んだ子供は自分ではない。他人である。

p.108
 我々、この世に生まれた時、まだ名はなかった。ただ自分であった。その、ただの自分に名が与えられ、人は自分とはその名のことだと思うようになる。つまりこれは、思い込みなのである。人は、自分とはその名だと思い込み、その思い込みのまま、過去から未来へと人生を生きてゆく。これは驚くべき光景である。

p.137
 自分の命は自分のものだ。本当にそうだろうか。誰が自分で命を創ったか。両親ではない。両親の命は誰が創ったか。命は誰が創ったか。よく考えると、命というものは、自分ではないどころか、誰が創ったのかもわからない、おそろしく不思議なものである。言わば、自分が人生を生きているのではなく、その何かがこの自分を生きているといったものである。
 こういった感覚、この不思議の感覚に気づかせる以外に、子供に善悪を教えることは不可能である。これは抽象ではない。言葉によってそれを教えるとは、考えさせるということだ。考えて気づいたことだけが、具体的なことなのだ。


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 大阪市西区のマンションから長女・桜子ちゃん(3)、長男・楓ちゃん(1)の遺体が見つかり、母親の風俗店従業員・下村早苗容疑者(23)が死体遺棄容疑で大阪府警に逮捕された事件では、例によってマスコミが世論を盛り上げ、早くも忘れかけるというパターンに入っているようです。「どうして救ってやれなかったのか」という問いは、これも決まって攻撃の矛先が児童相談所や近隣の住民に向かいます。そして、最後はこのような犯罪を生んだ社会構造にまで広がり、これといった具体策が出ずに終わるように思います。

 すでにこの世を去った池田晶子氏の言葉は、このような行き止まりの問題に対する最善の答えを予め出していると感じられます。人の生死という形而上の問題を、形而下の政策論で捉えれば、すぐに限界が来るからです。親になる資格もないのに親になってしまった人間に対して、我が子を虐待して殺さないように教えるには、命に関する哲学的な考察を経るしかないはずです。但し、私の狭い経験からの推測ですが、下村早苗容疑者には我が子を殺すことの意味を考えるだけの能力はなく、真の意味での反省は一生かかっても無理だと思います。