犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

世の中に「絶対」はない

2009-06-30 23:29:47 | 言語・論理・構造
生徒の親: 「『絶対に受かる』って言ったのに、受からなかったじゃないですか」

塾講師: 「いや、私はそこまで合格を保証したわけではなくて…」

親: 「だったら、そんな無責任なこと言わないで下さいよ」

講師: 「でも、『落ちる可能性がある』とは言えないわけで…」

親: 「だからと言って、『絶対に受かる』と言ったら嘘になるでしょう」

講師: 「それはまあ、その通りなんですけど…」

親: 「世の中に『絶対』というものはないんですよ。そうでしょう」

講師: 「そうですね…」

親: 「素直に誤りを認めて下さい。あなたが『絶対に受かる』と言ったのは誤りですね」

講師: 「はい… すみませんでした…」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

生徒の親: 「『絶対に受かる』って言ったのに、受からなかったじゃないですか」

塾講師: 「いや、当たり前の話ですけど、合格を保証したわけじゃないですよ」

親: 「だったら、そんな無責任なこと言わないで下さいよ」

講師: 「いや、試験の直前に『落ちる可能性がある』と言うほうが無責任じゃないですか」

親: 「だからと言って、『絶対に受かる』と言ったら嘘になるでしょう」

講師: 「そりゃそうですよ。嘘を言って自信を持たせなければ、塾講師として失格ですよ」

親: 「でも、実際には受からなかったじゃないですか」

講師: 「当たり前ですよ。それが試験というものですから」

親: 「そう言われればそうですけど…」

講師: 「世の中に『絶対』というものはないんですよ。それくらいはわかった上で、私の話を聞いてもらわないと困ります」

中島義道著 『私の嫌いな10の言葉』 第3章より

2009-06-28 00:58:36 | 読書感想文
第3章 「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」より

p.95~

ああ、この言葉はとりわけ虫酸が走るほど嫌いです。それは嘘だからであり、自分を守っているからであり、恩を着せているからであり、愛情を注いでいるとかんちがいしているからであり、つまり徹底的に鈍感でしかも狡いからです。こうした台詞は、常識的な価値観にがんじがらめに縛られている人から発せられることが多い。しかい、本人も気づいていない心の底では、「こんなおまえが目障りで厭でたまらない」のです。世間の掟を尊重し、その枠の中に納まってほしいのです。そうでなければ、自分が不安で不安でしかたない。

ここには、そう語る当人が気づいていない1つのたいへんな傲慢な態度がある。つまり、そう語る人は「おまえのために」言ってやるその相手より人間として絶対的に上位にいるという傲慢です。なぜなら、逆にそう言う人に向かって「私もあなたのためを思って言っておきたいのですが」と言いはじめたら、それこそ仰天してしまう。その「反抗的態度」に、怒り心頭に発するのが普通です。

私見では、この言葉が相手の心を打つことはまずない。救いがたいほどの鈍感さと卑劣なほどの狡さがそこにあるからです。「おまえのためを思って言っている」という言葉を吐く人は限りなく鈍感です。こちらの気持ちを正確に察知して言っていることは稀で、自分の気持ちを押しつけているだけなのですから。しかも、「よいこと」をしているという思い上がりがある。権威や体制や伝統を背景に裁く卑劣さがある。


***************************************************

人々の会話の中で、実際に「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」という言葉を聞くことは少ないと思います。しかしながら、もう少しソフトでありながら、実際には同じ意味を表現している言葉は非常に多いようです。例えば、他者の悲しみを目の前にして、「こんなおまえが目障りで厭でたまらない」場合に、「自分を守るため」に述べられる儀礼的な言葉の数々です。「お悔やみの言葉」を検索すると、当たり障りのない実用的な定型句が沢山紹介されています。このようなお悔やみの言葉を覚えて上手く使い分けられるようになるということは、中島氏が述べるところの徹底的に鈍感で狡くなることであり、常識的な価値観にがんじがらめに縛られることに通じると思います。


基本のお悔やみ
「この度は、誠にご愁傷様でございます。心からお悔やみ申し上げます。」

事故の場合
「突然のことで、なんと申し上げてよいか言葉もありません。心からお悔やみ申し上げます。」

急死の場合
「突然のご不幸で、さぞお力落としのことと存じます。どうぞお気をしっかりお持ち下さい。心からお悔やみ申し上げます。」

子どもを亡くした場合
「この度のご不幸、もう胸が張り裂ける思いです。どんなにお辛いことかと思うと、お慰めの言葉もありません。心よりお悔やみ申し上げます。」

夫を亡くした場合
「どんなにかお力落としのことと思いますが、お子さまのためにも、どうぞお気をしっかりとお持ちください。心からお悔やみ申し上げます。」

妻を亡くした場合
「この度は、誠にご愁傷様でございます。長年連れ添った奥様とのお別れ、どんなにかお辛いこととお察しいたします。心からお悔やみ申し上げます。」

袰岩奈々著 『感じない子ども こころを扱えない大人』

2009-06-26 23:22:05 | 読書感想文
p.20~
「気持ちを聞く」ということはカウンセリングのプロでも難しい。「どんな気持ちですか」と聞かれて、こんな気持ちなんです」と言葉にできるくらいなら、子どもたちは、もうすでに誰かに話しているだろう。誰も聞かなかったから、気持ちを話していないというのではなく、彼らもどう話せばいいのかわからないのだ。聞く側も、どう聞けばいいのかわからない。

p.31~
感情 ― 特に“ネガティブな気持ち”は、大人であってもなるべく感じたくないものだ。嫌われているかも、と思ったときのなんともいえない感じは、多くの人が「ああ、あの気分ね」と実感できるのではないだろうか。「嫌われているのかも」という不安は、できれば避けたい感情の1つである。だから、一瞬にして、「気にしない、気にしない」という対策や、「自分のどこが悪いかを考える」というように知的に処理して、不愉快な気持ちにとらわれすぎないようにする方法などを、たいがいの大人は編み出している。

p.96~
私たちは、「好きだけど、嫌い」「怖いけれど、面白い」「やりたいけど、やりたくない(しり込みする)」といったように相反する感情を同時に持つことがある。「好き」と言っても、すっきりしない。「嫌い」と言っても、もやもやする。自分のこころのなかで、本当はどう思っているのかがわからなくなってしまうのだ。ましてや、その混乱状態を言葉で表現するのは、さらに難しいことになる。どう表現したらいいかわからないし、説明してもわかってもらえないかもしれない、とあきらめてしまう。あきらめてしまえば、気持ちはますます見えないものになっていく。そんなめんどうなことをするくらいなら、細かい感情は無視しよう。気持ちなんて、ジャマモノ……という状態が生まれてくる。


***************************************************

ネガティブな気持ちは、それが「ネガティブな気持ちである」と言われることによって、ネガティブな気持ちになる。そして、その気持ちは消極的な評価を与えられることによって、深める対象ではなく紛らわせる対象となる。実際のところ、現実の世界が(程度の差はあれ)理不尽であることは、古今東西において変わることがない。誰にとっても理不尽であるならばそのこと自体が理不尽であり、誰かにとっては理不尽でないのならばそれもまた理不尽である。そして、この理不尽さは正確に言葉にすることができない。何がどう理不尽なのかと言えば、理不尽だから理不尽なのであり、それが理路整然と説明できるのならば、最初から理不尽ではない。このような行き止まりに直面して、採り得る1つの方法は、慰めや癒しを求めることである。この方法が持つ問題点は、他人にも慰めや癒しを与え、しかもその他人が慰められて癒されなければ、その正当性が維持できなくなるという点である。

喜びの感情は単純であり、人によってそう変わることはないため、共感することはたやすい。これに比して、苦しみや哀しみの感情は人それぞれであり、共感することは難しい。これは言語の限界である。人が自らの苦しみや哀しみの感情を他者に察してもらうことは救いであるが、それは厳密には感情への共感ではなく、人生とは理不尽さに引き回され続けるものである事実の共通理解でなければならない。ここに慰めや癒しはなく、残酷な現実の共有があるのみである。そうだとすれば、他者の苦しみや哀しみを察するためには、他者の苦しみや哀しみなど察することはできないという逆説を経ていなければならない。「お気持ちお察しします」と心の中で思うことと、それを口に出して他者に伝えることは決定的に異なる。後者において求められていることは、「お気持ちお察しします」という言葉が、他者の慰めや癒しをもたらすという具体的な成果を挙げることである。しかし、それほど簡単に具体的な成果が挙げられるならば、そもそも世界は理不尽ではない。

被害者参加人が被告人に殴りかかる

2009-06-25 21:38:32 | 国家・政治・刑罰
6月25日、横浜地裁小田原支部で開かれた殺人事件の公判で、被害者参加制度に基づき出廷した被害者の長男が、永田英蔵被告(71)に殴りかかろうとして刑務官らに取り押さえられた。永田被告は昨年12月8日、小田原市の海岸で、片川美津子さん(当時54)の首をひもで絞め殺害して砂浜に埋めたとして、殺人罪・死体遺棄罪に問われている。被告人が閉廷直前、裁判長に促されて「やっちゃったことですから罰は受けます」などと述べた後、長男は「おい、謝ることもできないのか」と言って被告人に殴りかかった。長男は怒りに満ちた被告人質問をぶつけ、「たった一人の肉親」と証言し、被告人に鋭いまなざしを向け続け、廷内には緊張感が漂っていたとのことである。今回の件を受け、被害者支援自助グループ「ピア・神奈川」の渡辺治重代表は、「遺族の精神的負担は相当なもの。廷内でのトラブルを避けるため、支援グループや友人らがサポートする態勢を整えるべきだ」と話した。横浜地検支部は「想定外の事態と受け止めている。物品が壊れなかったため刑事罰には問わない」とし、横浜地裁支部は「適切な警備人員を配置していた。騒動は残念だ」と話している。

自分の母親を殺した人間が、自分の目の前にいる。このような状況は、経験がない者には想像を絶する。想像しようとしても、すぐに限界にぶち当たる。経験がない私に想像できるのは、以下のようなことだけである。母親を殺された被害者参加人は、もちろん法廷で被告人に殴りかかることがルール違反であることは当然承知であり、自分の気持ちを抑えに抑えていた。堪忍袋の緒が何度も切れているのを繕って、耐えに耐えた。それを抑えるための最後の希望が、その時には、母親を殺した人間の口から出るほんの一言の謝罪の言葉であった。その時には、その言葉を聞くことが、極限まで追い詰められた人生の全てであった。しかし、自分の母親を殺した人間は、母親の命を奪ったことについて何も語らなかった。「刑に服します」とだけ述べて、「罪と罰」のうちの「罪」を語らなかった。この瞬間が何事もなく過ぎて閉廷すれば、被告人が罪を語らなかった事実は、あっという間に消え去る。世間はおろか、裁判長や刑務官においても消え去り、世界の中で覚えているのは自分一人だけになる。ここで殴りかからなかったら一生後悔するし、殴りかかっても恐らく一生後悔する。論理的に凝縮され、時間的に圧縮された自問自答の中で、全人生を賭けた善悪の基準に照らして、その時には唯一の行動が選ばれた。すなわち、殴りかかろうとする自分自身を止められなかったのであり、殴りかかろうとしたのは自由意思の限界を超えていた。誤解を恐れずに言えば、恐らくこのようなことである。

第一東京弁護士会・犯罪被害者保護委員長の大澤孝征弁護士は、「人間である限り感情の発露は自然なことだが、今回のような行動は認めがたい。こうしたケースが重なれば、この制度自体に批判が向けられる」との懸念を述べている。そもそも被害者参加制度に対する批判は、被害者が感情的に厳罰を叫ぶことによって冷静であるべき法廷が報復の場になり、被害者もかえってストレスを抱えてしまい立ち直りに有害であるというものであった。今回の件を評して、この懸念が現実化したとの捉え方は、実際に母親を殺された者の目の前に被告人がいるという、恐ろしく残酷で想像を絶する状況に直面して、その人間心理の繊細なところに分け入って現実を把握する姿勢に欠け、抽象的な法律によって与えられた単純な図式をあてがっただけで全ての結論を出そうという安易な手法である。人を殺すことと人を殴ることを比べてみれば、人を殺すことのほうが重大であることは言うまでもない。しかしながら、法廷の中においては、人を殺したことよりも人を殴ろうとしたことのほうが重大である。これが近代司法のルールであり、法治国家の上に築かれてきた法廷の秩序である。これはもちろん1つのフィクションであり、人を殴ることよりも人を殺すことが重大である事実は、時と場所によって動くことがない。ゆえに近代国家に生きる人々は、このフィクションを守り抜くため、今回の被害者参加人の行為を「騒動」「感情の発露」「法廷で暴れた」と評して、この問いを封じ込める。

今回のような件の周辺には、無数の被害者遺族が被告人に怒鳴りつけたくなるのを涙を流しながら抑え、殴りかかりたくなるのを拳を握って抑えてきた現実がある。この現実の先には、恐らく、最愛の人を奪われたにもかかわらず、怒鳴ることも殴ることもできなかった自己嫌悪の苦しみもある。そのような努力の集積によって、現在では被害者が被告人に殴りかからなかったことは全く問題ではなく、被害者が被告人に殴りかかったことだけが問題となっている。今回の被害者参加人も、最後の最後の瞬間に断腸の思いで自分の行動を抑え切り、傍聴席に座ったままであったならば、世の中には何の問題も存在せず、その裁判は本人以外には誰に記憶されることもなく消え去っていたことになる。法廷の秩序を破ることはルール違反であると知りつつ、ある瞬間にそのルールをも上回る善悪の判断を自らに課して一瞬の行動を選び取ることは、必然的に全人生を賭けた選択となる。このような人間の限界の姿を前にして、「いきなり声を荒げた」「短絡的に暴れた」「感情的になって叫んだ」と評して何の疑問も持たないならば、それは人間存在や倫理に対する嗅覚があまりに鈍いというものである。ある問いの立て方が大前提とされているとき、その前提自体に付いていけないならば、その前提の下での問いに答えることはできない。時代を超えた「罪と罰」の問題と、近代司法のルールとの軋轢が解消できていないのであれば、近代司法のルールが提示する問いに答えることはできない。

蔵研也著 『リバタリアン宣言』

2009-06-23 00:14:39 | 読書感想文
この本は、2年半前に出版されたものである。それによれば、近年の社会哲学のトピックな議論は、「大きな政府」と「小さな政府」であるらしい。そして、前者は「高福祉型」「社民リベラル型」がキーワードであり、後者は「自由尊重主義」「リバタリアン」がキーワードである。しかしながら、これらのキーワードは、2年半が経っても、どれもメジャーにはなっていない。それどころか、「格差社会」「勝ち組・負け組」「ワーキングプア」「ネットカフェ難民」といった後発的な造語に追いやられている。すなわち、人々の生活や実感に密着していない。この本には、3年前の郵政解散に伴う衆議院議員選挙を受けた日経の芹川洋一編集委員の言葉が引用されているが、その先見の明も面白い。「小泉さんが来年引退したら、小泉チルドレンが自民党を割って『リバタリアン新党』を作るというのも面白いかもしれない」(p.17)。「民主党は前原代表の下で自民党以上に小さな政府を目指すことによってその将来が開ける」(p.34)。

リバタリアニズムは、「国が個人に口出しをするな」「個人の自由に任せていればいいだろう」といった本能的なエネルギーをその根本に持つ。すなわち、自己完結としての自由ではなく、不自由の対概念としての自由を目的とする。しかしながら、「国家が個人に介入する」という大前提を疑っていない点において、「国家は個人の集まりである」という単純な事実が転倒している。従って、国家と個人は対立するものとなり、国家は個人の価値観の多様性を抑制する存在となる。リバタリアニズムは、国家による「貧困からの自由」は自由ではなく、国家が富める者に多額の課税をして貧しい者に再分配をすることは私的所有権の制限であり、フランス革命以来の財産的自由権の理念に反すると主張している。そうであるならば、「格差社会のどこが悪い」「フリーターやニートは一生負け組の人生を送れ」とまで言えなければ筋が通っていない。

頭の良い学者が精密に考えた理屈は、現実には使い物にならないことが多い。蔵氏も、無政府主義が理想的であり、人類は福祉国家から夜警国家・最小国家に戻るべきことを丁寧に立証している。しかし、目の前で「人員削減で失業してしまった人は、家族を抱えて明日からどうすればいいのでしょうか」「正社員が定時に退社しているのに派遣社員が残業させられて、しかも残業代が出ないんです」と言われてしまえば、途端に答えられなくなる。マクロ経済とミクロ経済の分離そのものがフィクションだからである。夜警国家・最小国家は壮大な体系を作らないことを目的としているが、それ自体が1つの壮大な体系になってしまっている。従って、目の前に「未来の国のあり方」を決める衆議院の選挙が迫っても、リバタリアニズムは何も使い物になっていない。与党も野党も口を揃えて「国民の生活を守る」と言うのみである。

官から民へ、規制緩和、民間にできることは民間へ。社会の進歩ということを考えれば、フリーターやニートが一生負け組の人生を送ろうとも、大した問題ではない。論理的にはこうなるはずであるが、今の世の中、大声でこのように言えば袋叩きに遭うため、筋の通ったリバタリアン宣言をすることは不可能である。これは、社会哲学のパラダイムの欠点でもある。人間の一生の時間を超える壮大な理論は、個々の人間を押し潰して全体主義となる。リバタリアニズムは、20世紀の最大の実験とその失敗である社会主義への反省をその論拠としている。そうであれば、1917年にソ連で生まれて1991年に死んでいったような無名の一庶民の人生には、いったいどのような意義があったのか。この問題は解決されないまま残る。結局、小泉チルドレンが自民党を割って「リバタリアン新党」を作ることもなく、民主党は前原代表の下で小さな政府を目指すことによって将来を開くこともなかった。

茂木健一郎・南直哉著 『人は死ぬから生きられる ― 脳科学者と禅僧の問答』

2009-06-21 19:14:47 | 読書感想文
第Ⅱ章 脳の快楽、仏教の苦 
「存在の根拠としての欠落」より  p.103~

茂木: コンピューターには親がいるわけではなく、とても合理的な設計とシステムのもとに生まれてくる。それに比べて、人間が生まれてくること自体、自分で選んだことではないし、基本的に不条理なものですよね。

南: だからこそ根本的に自己存在には根拠が欠けているということを人は受け入れられないんですよ。人間の存在の根本に、欠落がある。何か確かなものが存在して、それに意識が付け加わるということではなくて、人間の存在には何か根本的な欠落、あるいは喪失が原初にあるんだと思う。

茂木: そもそも、欠けるところから始まっている。

南: そう。古今東西、霊魂や死者に対して思想めいたものはあるわけでしょう。死者に対して、これだけ持続的な関心が続く生き物は人間以外にいないわけです。

茂木: 死者の陰に隠れたもっとエッセンシャルな何かがあるのかもしれない。「亡くなったお母さん」というとわかりやすいけど、それは別の喪われた何かの代償なのかもしれない、ということですね。

南: パズルのように凸凹を短絡的に結びつけてはいけませんがね。というのは、存在における原初的な喪失というのは、代償物では埋まらないと思うからです。「欠けたもの・失ったものを探す」というやり方では絶対に捉えられない。欠けた「もの」も無くなった「もの」もない。ただ「欠ける」んです。ただ「無くなる」んです。だから探しようがない。それを「何かが欠けた」と誤解すると、人はいろんなものをでっちあげてしまう。それが神や宗教、あるいは科学や経済や文化なのかもしれない。本当はただ欠けるだけなのに、欠けたということに対してそれを補おうとする力だけは常に働く。それが内部から力となって働いているとしか思えないんです。


***************************************************

人は、夢の中で死者に出会うことがある。あるいは、目が覚めている状態であっても、死者に語りかけることができる。この端的な事実について、自然科学は非科学的な妄想であると断じ、「いずれ脳科学の進歩が人間の意識をすべて解明するだろう」との唯物論的な見解を示し続けてきた。これを受けた宗教は、唯物論を激しく拒絶しながら、人が死者に語りかけることができる根拠について、天国・霊界・来世といった方面の物語を作り上げてきた。いずれにしても、そこには人が実際に死者に語りかけていることのリアリティはなく、それぞれの解釈の仕方によって解っているにすぎない。ゆえに、それが「解らない」という人の存在に対しては、科学も宗教も、そのこと自体を解ろうとしない。科学の客観性や宗教の薀蓄は、すでにたった一つの正解を見抜いている以上、それが解っている人が賢いのであり、解っていない人は愚かだからである。何を言っても矛盾が起き、何を言っても正解にならないという状況は、科学からも宗教からも拒絶される。

人が死者に語りかけることは、茂木氏が捉えているところの脳科学から見れば、生きている者に語りかけることと何も変わることはない。従来の脳科学は、このような人間の限界の思考、すなわち科学の客観性それ自体を突き崩すような思考を宗教に分類し、非科学的であるとのレッテルを貼ってきた。そして宗教のほうも、本来言葉に表せないものを簡単に言葉に表し、自己存在の不安や欠落から逃避し、解釈を固定化してきた。人が死者に語りかけることの意味は、生きていた人が死ぬという取り返しがつかないことに直面して、言語と実体験の間を見ることができるか否かによって大きく変わる。なぜ天国や霊界など存在しないのに、人は死者に語りかけることができるのかと問われれば、そんなことはわからない。科学や宗教というものが、知の体系を積み上げていく作業であるならば、それは人が現に死者に語りかけられることの理由を明らかにすることはできない。

神谷美恵子著 『生きがいについて』 「3・生きがいを求める心 ― 総論」より

2009-06-20 23:57:58 | 読書感想文
p.52~

生きがいへの欲求の領域はむしろ生物学的欲求のおわるところから始まると思えてくる。明らかにこれは、精神的存在としての、人間の欲求なのであろう。生きがいを求めてわざわざ社会的な安定をやぶるひとさえある。たとえば周囲の反対をおしきって青雲の志に生きる青年、社会的地位をなげうって貧しい伝道者の生活にはいる信仰のひと、愛する妻子をのこし、遠い異郷へ生命を賭けて冒険に出かけるひとなど。してみると、生きがいへの欲求というのは単なる社会的存在としての人間の欲求ではなく、個性的な自我の欲求なのであろう。いうまでもなく、この領域にも生物学的な欲求や社会的な欲求が侵入し、錯綜してくるが、それらをみたすにも人間は自我の本質的な欲求となるべく両立しうるやりかたでみたそうとする。

心理学者のなかでこの「生きがいへの欲求」について一ばん集中的に思いをひそめたのはアメリカのキャントリルかもしれない。彼の考えでは、人間の最も普遍的で本質的な欲求は「経験の価値属性の増大」を求める傾向であるという。そしてこの欲求がみたされたときには、それは経験の「高揚」として感じられるはずであるが、その感じの判断は本人のみによって行われる。ゆえに「あなたの行為が他のだれかにとって、いかに『成功』であるとみえようとも、もしあなた自身が経験の『高揚』を感じなければ、それはあなたにとって成功ではないだろう。それゆえに時折われわれからみると成功したようにみえるひとが自殺をし、世間が『偉大』であると考える芸術家なり作曲家なり政治家なりが、人生はむなしい、といってわれわれを驚かせるのである。」


***************************************************


以前に書いた『生きがいについて』の感想文の記事に、何のキーワードで検索されたのか、「How to make your dreams come true ~あなたの夢を叶える101のヒント~ 成功、お金、恋愛、人間関係、健康」というブログのトラックバックが来ています。私はこの種の言葉が心底苦手で、言葉として体の芯に届かないのですが、何となく面白いので削除しないで取ってあります。それにしても、キーワードを検索してたかるスポンサーリンクの表題も見事です。「怖いくらいの成功法・・・仕事もお金も人間関係も健康もすべて怖いくらい成功する方法を無料公開!」、「世界の億万長者の秘密公開・・・2年半で1億円稼いだ男が教える。あなたの人生が劇的に変化する!」、「自分を成功人間にする秘訣・・・なぜ人は自分を不幸にしてしまうのか? 全く新しい自分に変える科学の本!」などなどです。本当に誰もが億万長者になってしまったら、インフレが起きて経済は大変なことになるのではないかと余計なツッコミを入れたくなるところです。

神谷氏が述べるとおり、人の生きがいへの欲求というものは、単なる社会的存在としての人間の欲求ではなく、個性的な自我の欲求によって構成されているようです。これは、時代や場所によって変わることはなく、現在の情報化社会・少子高齢化社会・格差社会においても同じく当てはまるように思います。人が一度きりの人生を生きて死ぬものである限り、精神的存在としての個性的な自我の欲求こそが、生きがいを充足したとの感覚をもたらすものなのでしょう。どんなに生物学的な欲求(食欲・性欲・物欲)や社会的な欲求(金銭欲・自己顕示欲・名誉欲)が満たされても、それが自我の本質的な欲求と両立していなければ、生きがいは充足されないようにも感じます。上記のトラックバックがどうにも軽薄で安っぽいのは、一見すれば個性的な自我の欲求(経験の「高揚」)を語っているようでありながら、その中身が社会的な欲求(成功)で埋め尽くされているところに原因があるように思います。前向きに希望を語る言葉に自分の生きがいを託してしまえば、それを失うことの恐怖から、自分の頭で物事を考えることは難しくなるはずです。

稲垣重雄著 『法律より怖い「会社の掟」』

2009-06-18 00:56:50 | 読書感想文
この本は例によって、「現代社会の病理を一刀両断し、日本社会が抱える問題を根本的に解決する本」である。そして、稲垣氏は日本の企業に不祥事が続く理由について5つの視点を提示している。すなわち、(1)日本の近代化は革命によるものではないため、未だ近代法の考え方が社会の基本原理となっておらず、日本人には立法の当事者であるとの意識がない。(2)従って、日本人は今でも対人関係を重視し、契約ではなく話し合いによって行動しており、社会的正義の絶対的規準が存在しない。(3)このような日本人が集まった会社では、社員の情緒的な結びつきが強く求められ、身内意識で強く結ばれることにより、共同体の維持・存続が強く志向されている。(4)日本の会社はこのような性質を有するため、社内には明示されないルールがあり、社員は国の法律や一般道徳よりも社内のルールを優先して守るようになる。(5)こうして成長した会社では、安定志向による会社の維持が最優先となり、設立当初の目的が忘れられ、企業犯罪が起きたり不正が隠蔽されたりする。

稲垣氏の理論は非常に明快で、まさに「現代社会の病理を一刀両断し、日本社会が抱える問題を根本的に解決する本」である。非の打ち所がない。唯一の問題は、この本が去年の4月に出てから1年以上経っているのに、この本によって日本社会が抱えるすべての問題が根本的に解決されていないことである。理論を実証する期間としては、流れの速い現代社会では、1年以上というのは長すぎる。このような「すべての問題を根本的に解決する本」は、ここ十数年、毎月毎月大量に出ては書店に平積みにされ、いつの間にか消えている。そもそも、「この1冊ですべての問題を一挙に解決できる」という触れ込みであれば、そんなに毎月何冊も本が出ていることの説明がつかない。そして、この説明がつかないからこそ、何年経ってもこの手の本が毎月次から次へと出ているのであって、この1冊ですべての問題を一挙に解決できる」ならばそれ以外の本はとっくの昔に消えているはずである。

稲垣氏の本が出た1年前から比べると、現代のトピックは企業の不祥事から雇用不安に移ってしまった。(1)日本には近代化に際して市民革命がなかったと言われても、そんな昔のことよりも今の景気のほうで手一杯である。(2)そして、日本では契約より話し合いを重視するのであれば、それに従っておくのが賢い。余計なことをしてリストラされて人生設計が崩れても、誰も助けてくれないからである。(3)また、会社では共同体の維持・存続が求められているのであれば、それに乗るしかない。小難しいことを考えたのが原因でクビを切られ、無職になって住む所がなくなったのでは泣くに泣けないからである。(4)法律や道徳よりも社内のルールを優先して守っているのであれば、それに従うのが賢い。社内のルールを改革しようとしたのが原因で会社が業績不振となっても、誰も面倒を見てくれないからである。(5)会社の不祥事は、どんな理由があっても、必ず隠蔽されることを欲する。会社が不祥事を経て何年もかかって生まれ変わろうと決意した挙句、数年で倒産してしまっては悲劇だからである。

日本の会社にコンプライアンス、CSRが定着しないのはなぜか。それは、人は誰しも衣・食・住が充足されなければ死ぬからであり、衣食足りて礼節を知るからである。雇用不安という生死に直結する問題を目の前にすれば、企業のCSRのような生死に直結しない問題が後回しにされるのは当然である。日本国の歴史的沿革、風土、日本人の法意識、日本社会の体質を議論せよと言われたところで、目の前の自分の生活を差し置いて議論するような話でもない。企業の幹部がずらっと並んで頭を下げる光景を見ても、今や腹が減っては怒りも湧かない道理である。総選挙を目の前にして、今やどの政党も「国民の生活を守る」しか言わず、稲垣氏の述べるレベルからは非常に低いところの争いになっている。そもそも、社会や会社というものには実体がなく、人間の集まりに過ぎない。そして、社会も会社も、100年もすればその構成員は完全に入れ替わる。他方、その実体であるところの構成員のほうは、初めての人生を生きている。その実体のないものに永続性を認め、それを構成している人間の入れ替わりを見落としてしまえば、どんな理論も「人は食えなければ死ぬ」という単純な事実に勝てない。

刑事弁護の目指すもの

2009-06-17 23:11:30 | 国家・政治・刑罰
ある痴漢事件の被告・弁護側弁論

(例文1)
 被告人はこれまでにも何回も電車内で痴漢行為を繰り返し、そのたびに「二度と痴漢はしません」と誓ってきた。それにもかかわらず、今回も痴漢をしてしまったことについて、心の底から反省している。被告人は、被害者が「一生忘れることはできない」と述べていると聞き、反省の情を示すため、お詫びの手紙を書いた。
 被告人は今回初めて、自分はどのような時に痴漢をしてしまうのか、自分自身をしっかりと分析している。被告人が今回痴漢をしてしまったのは、会社で上司から怒られて、気分がムシャクシャしていたのが原因であった。これまで被告人が痴漢を犯した状況を見ても、会社でストレスが溜まった日の帰りに、つい誘惑に負けてしまったという現実がある。被告人は、このようなプレッシャーが自分自身を追い詰め、電車の中でストレスを解消してしまったことを深く反省するに至った。
 被告人は、今後は二度と痴漢行為をしないために、できる限り会社でストレスを溜めないように努力することを約束している。また、上司に怒られたりしてストレスを感じた日には、「今日は痴漢をしやすい日だ」と自分に言い聞かせるようにし、細心の注意を払って電車に乗り、意識的に誘惑を抑えるすることを固く誓っている。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(例文2)
 被告人は、これまで痴漢行為を繰り返したことによって生じた現実に直面し、愕然とさせられた。被告人は、今この瞬間にも過去に自分が痴漢を犯した被害者がその傷で苦しんでいるかも知れないこと、自分の行為一つで何の罪もない他人の人生を台無しにした可能性があること、被害者の家族まで巻き込んで幸福な人生を奪い去ったかも知れないこと等の事実に真剣に向き合い、激しく自分を恥じている。
 被害者が痴漢行為を受けてしまった過去の事実は変えようがなく、被害者の身体の記憶として永遠に残る。また、被害者が今後何百回、何千回と同じ電車に乗り、同じ場所にさしかかるたびに痴漢に遭った事実を思い出す可能性があること、その意味で被害者が「一生忘れることはできない」と語るのは誇張ではなく端的な事実であることも、否定のできない客観的な現実である。被告人はこれらの現実に向き合い、軽々しく反省の弁など述べられないことを思い知った。
 被害者は今回の被害を頭では忘れたいにもかかわらず、本能的なフラッシュバックが起きてしまう可能性があり、それによって電車に乗るのが怖いと感じて生活全般に支障が生じる可能性もある。また、周囲の無理解に重大なセカンドレイプが生じるといった危険性もある。被告人は、これらの状況を色々と考えた結果、軽々しく被害者にお詫びの手紙など書けないとの結論に至った。


***************************************************

上記の例文1と例文2を比べてみると、一見して例文2のほうが自らの罪と深く向き合っている。自己の犯した罪の本質を真剣に分析しているのみならず、正確には「同じ罪を繰り返すこと」が不可能である点も述べられている。被害者側の目線に立つことが、取りも直さず自分自身を正確に語ることになるという逆説の構造である。裁判官の眼から見ても、どちらの被告人に再犯の恐れが高いか、どちらの被告人に更生の可能性を感じるかは明らかであり、「罪と罰」の本質に迫っているのは例文2のほうである。しかしながら、例文2のような弁論は、実際の法廷ではまず見られない。これは、このような弁論がしたくてもできないのではなく、弁護人が法廷でこのような弁論をすることは好ましくないとされているからである。

被告人には無罪の推定が及んでいるため、被告人は被害者の身になる必要がないばかりか、被害者の身になってはならない。裁判とは罪を反省する場ではなく、起訴状に書かれた公訴事実の有無を確定する場だからである。従って、起訴状に書かれていない過去の犯行の被害者など、ますます裁判に持ち込んではならない。例文2のような弁論は、訴因制度からみても問題が大きい。これらが近代刑事裁判の大原則である。しかしながら、これらの大原則をすべて理解した上で、やはり例文1よりも例文2のほうに被告人の真剣さを感じるならば、これはもはやどうしようもない。日々の法廷では、例文1のような弁論が繰り広げられ、哲学的な「罪と罰」に立ち入ることもなく、過去の量刑相場に従って刑罰が決められてゆく。

堀井憲一郎著 『落語の国からのぞいてみれば』より

2009-06-15 00:03:03 | 読書感想文
p.91~

昔の旅は歩くばかりだから大変だったし、またその半面、のんびりしたものだった。近代からとらえた江戸の昔の旅は、そういうイメージになっている。でもこれは、ちょっとちがう。江戸に生きた人間として言わせてもらうと、誤解されている。歩くしかない時代には、歩く旅のことを、大変だとも、のんびりしてるとも、おもっていない。おもえないです。あたりまえだけどね。だって、歩くしかないんだもん。

たとえばいま21世紀初頭、東京の日本橋から京都三条へ行くとする。とりあえず日本橋から近距離ながらタクシーに乗って東京駅八重洲口へ。新幹線のぞみに乗り、2時間少々で京都駅へ。地下鉄烏丸線で烏丸御池駅まで出て、烏丸三条から三条大橋まではバスに乗りましょう。そんなもんでしょう。

ただこれを35世紀から来た未来人に話したとして、「あら。どうしてソゴンドブを使わないんですか」と言われてもどうしようもない。ソゴンドブ。いや、おれも知らないけどね。21世紀の人間だし。35世紀の移動方法は想像つかないです。でも35世紀の人間はソゴンドブで移動するのが当たり前になっていて、ソゴンドブって何かわからないけど、でもソゴンドブだと日本橋から三条まで45分で着くらしい。

35世紀人に「ソゴンドブで移動しないとは、ずいぶん大変ですよねえ」と言われても、「ソゴンドブを使わないなんて、ずいぶんのんびり優雅な旅をなさるんですねえ」と言われても、おれはどうしようもない。そういうことです。


***************************************************

数年前の江戸ブームにしても、昭和30年代ブームにしても、最近の歴史ブームにしても、今現在に絶対的な軸足を置いている限り、それは後世の人間が勝手に作った虚構から抜けることができない。それは、一方的な願望を投影したものであり、安易な癒しを求めるものに過ぎない。いかなる時代もその時代には現代であり、歴史上に歴史上の人物などは存在しないか、もしくはすべてが歴史上の人物である。この時代性が見落とされた人物は、すべて架空のアニメのキャラクターと同じである。この21世紀の現代社会も、遠い未来から見てみれば過去の歴史の一部分に過ぎないことに気付けば、呑気に「昔は良かった」などとは言っていられない。

過去の歴史の経験から学ぶとなると、例によって歴史の真実はどうだとか、何がどう歪曲されているといった争いが生じがちになる。しかしながら、すべての過去は現在から見た過去であると開き直ってしまえば、このようなことで争う必要もない。歴史とは、現代と異なる論理を持つ時代への興味だとするならば、そもそも現代の論理で歪曲の有無を論じても始まらないからである。このような単純な事実を見失わないために必要なものは、「笑い」である。この笑いは、権力者を風刺するとか、その種のシニカルな笑いではなく、もっと底が抜けてしまった爆笑のことである。そして、この笑いの象徴が、堀井氏の述べる「ソゴンドブ」である。本当に35世紀に「ソゴンドブ」が発明されているのか、このような問題意識を持ってしまえば、これは面白くも何ともない。