犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

NHKスペシャル 『水玉の女王~草間彌生の全力疾走』

2012-09-30 21:52:23 | その他

9月28日 NHKスペシャル より

番組の紹介より
 張りつめた糸が切れそうで切れない。83歳の前衛芸術家の姿に、そんな感覚を抱いた。1~3日に1点のペースで作品を生み出すという。その一方で、自殺の恐怖にさらされ、病院とアトリエとの行き来が欠かせない。カメラは、筆を持った時に見せる鋭い眼光を捉えたかと思えば、病院で「自分が自殺しそうで」と苦悩を語る姿を映し出す。

番組内の本人の言葉より
 草間彌生のカルテには、不安神経症となってるんですよ。強迫神経症と。自分が自殺思想でいたたまれなくて、毎日毎日自殺の恐怖に、今でもさらされてきて、今もそう。外に一人で買い物にも行かれないくらい不安がいっぱいなんです。絵の力で生きていく道を探したわけですけど、もしそれがなかったら私はとうの昔に自殺していたと思います。


***************************************************

 芸術のセンスのない私には作品を見る眼はありませんが、人間の狂気はテレビを通じても十分に伝わることを知りました。思わず見入ってしまうか、思わず目を逸らしてしまうか、凡人に可能な姿勢はどちらかだと感じます。強迫神経症という病名はとりあえずの解答であり、正確には「水玉を書いていないと死んでしまう病」というより説明がつかないと思います。人は自殺しようがしまいが最後には死があり、その死は無であり、その無は存在しない以上、正気を貫徹した先に狂気があり、個々の水玉は正気のバランスを取るための血の固まりだと直感します。

 「誰が神様ですか」という質問に草間彌生が「私」と答えている場面がありましたが、ここは非常に誤解を受けやすく、既成の宗教からも唯物論的無神論からも理解されない部分だと思います。「誰が神か」という問いに正確に答えようとすれば、自分がこの自分であることが説明できなければならず、しかも人生が過酷であればあるほど教団も教理も役に立たないという事実を直視したうえで、死について主体的である自分の全存在に責任を持たなければならず、「私」と答えるしかないと感じます。

 他人から求められた仕事ではなく、自分の死に責任を負う自分の声のみに従わざるを得ない権利と義務を持つ者の関心は、絶対的な自分でしかあり得ないと思います。すなわち、他人の目を気にした上での相対的な自分というものは存在し得ないはずです。作品に破格の値段がつくという部分が目を引くため、世俗的な注目が集まるところも決まっており、ここも固定観念による解釈が多いと思います。「有名になりたい」「後世に名を残したい」といった世俗的な欲望がある者であれば、これだけ社会的に成功した上で毎日自殺の恐怖に苛まれることは不可能です。

 以下は、自分の仕事に引き付けた強引な推論ですが、「何かをやっていないと死んでしまう」という悲痛な狂気を伴って裁判をしている人は多いと感じます。そして、その自殺と隣り合わせの狂気はほぼ間違いなく誤解され、「苦しく長い裁判を闘っている」と表現され、ある時には「精神的苦痛を金に換える裁判」「負けることが解っていて腹いせのために起こした濫訴」と誹謗されているように感じます。憲法13条が個人の尊厳と生命尊重を第一としているならば、「裁判をしないと死んでしまう」という言葉をもう少し深く捉えるべきだと思います。

東野圭吾著 『怪笑小説』より

2012-09-29 00:06:21 | 読書感想文

「逆転同窓会」より p.103~
(教師の同窓会に昔の生徒達がゲストとして呼ばれた場面です。)

 生徒たちの同窓会に教師が呼ばれるのと、元教師たちの集まりにかつての生徒が呼ばれるのとは本質的に違うのだ。生徒たちの同窓会は、現在に生きる仲間たちが、ふと昔を懐かしむために集まるのだ。いわば現在の中に、過去を持ち込むわけだ。そして「過去」の代表として教師が招かれる。だが今回の催しは、それとは逆だった。過去の中に現在を持ち込んでしまったのだ。

 教え子たちはその後もしばらく、経営が悪化している会社の事例などを中心に、ぼそぼそと会話を続けた。その間、元教師たちは黙って彼等のやりとりを聞いているだけだった。内容が把握できないし、言葉も知らないものばかりだった。元教師たちは、すっかり元気をなくしていた。この企画が失敗であることを認めざるをえなかった。自分たちは大変な勘違いをしていたと思った。


***************************************************

 過去と未来が矛盾するところに現在が生じる、あるいは過去も未来も現在において存在するという哲学的思考は、時間が過去から未来に流れるという比喩とは相容れない部分があると思います。しかしながら、哲学研究者という肩書きではなく、人間としてその時間性の中に生きていれば、時間は過去から未来に流れるがゆえに、その不可解さに直面するという哲学的思考の生じ方があるように思います。

 「過ぎたことは過ぎたことではない」という直感や、「終わったことは終わったことではない」という切実感は、「時間とは何か」「過去はどこにあるのか」といった問題を外側から考える場合には生じようがないものです。過去は現在において存在することの説明に苦しむ者よりも、その自明の前提ゆえに「過去を過去にしたくない」と全身で感じる者のほうが、人間の時間性について自覚的なのだと思います。

内田樹著 『街場のメディア論』 より (2)

2012-09-27 00:02:55 | 国家・政治・刑罰

p.29~

 いま支配的な教育観は「自分ひとりのため」に努力する人間のほうが「人のため」に働く人よりも、競争的環境では勝ち抜くチャンスが高いという判断の上に成り立っています。私利私欲を追求するとき人間はその資質を最大化する。隣人に配慮したり、「公共の福利」のために行動しようとすると、パフォーマンスは有意に低下する(嫌々やらされているから)。それが現代日本において支配的な人間観です。

 だから、子どもたちの能力を上げようとしたら、とにかく苛烈な競争の中に叩き込めばいいと教育行政の人たちは考えている。でも、やってみたら、そうはならなかった。人間がその才能を爆発的に開花させるのは、「他人のため」に働くときだからです。人の役に立ちたいと願うときにこそ、人間の能力は伸びる。ピンポイントで、他ならぬ私が、余人を以ては代え難いものとして、召喚されたという事実が人間を覚醒に導くのです。


p.187~

 無償で読む無数の読者たちの中から、ある日、そのテクストを「自分宛ての贈り物」だと思う人が出てくる。そのときはじめて著作物は価値を持つ。そのような人が出てくるまで、ものを書く人間は待たなければならない。書物の価値は即自的に内在するのでなく、時間の経過の中でゆっくりと堆積し、醸成されてゆくものだと僕は思っています。

 けれども、商取引モデルで書籍を論じる人は「待つ」ということができない。それは「待つ」ことは「損すること」だと教えられているからです。ビジネスマンの理想は「無時間モデル」です。商品の引き渡しと代金の支払いの間のタイムラグがゼロであること、それがビジネスマンの夢です。贈り物が何人かの手を経巡って、何巡目かで「これは贈り物だ」と思う人に出会うまで待つ、というような理路は彼らには理解不能です。


p.63~

 「まず被害者の立場を先取する」というのは、90年代くらいから日本社会で一般的となったマナーです。「被害者=政治的に正しい立場」というのは、もともと左翼の政治思想に固有のものですから、フェミニズムやポスト・コロニアリズムの文脈で、そういうマナーが出てくるのはわかるのです。でも、それはあくまで「マイノリティの立場」「弱者の立場」であることが前提です。

 社会的な資源の分配において、あきらかにフェアではないかたちで差別されている人々が「被害者」性を前面に立てて、「被害補償」を「正義の実現」として主張するのは合理的なふるまいです。でも、自力でトラブルを回避できるだけの十分な市民的権利や能力を備えていながら、「資源分配のときに有利になるかもしれないから」とりあえず被害者のような顔をしてみせるというマナーが「ふつうの市民」にまで蔓延したのは、かなり近年になってからのことです。それがいわゆる「クレーマー」というものです。


***************************************************

 犯罪に対し日本の世論が厳罰化に向かっている、あるいは裁判員制度が導入されて重罰化が進んだといった論評は、大衆化を前提とした右傾化という現状認識に基づいているものと思います。国家権力からの自由保障機能を論じる法律学では、このような左右の二元論の枠組みに拠らなければ、そもそも議論に乗れないところがあります。これに対し、そのような枠のない思想家の内田氏の分析は、より現状を正確に捉えていると思います。

 「被害者=政治的に正しい立場」という思考が左翼の政治思想に固有であるとすれば、裁判において被害者を踏みつけて加害者の味方をする左翼の政治思想は、この場面では逆を向いているものと思います。すなわち、犯罪の場面における被害者は、「被害者=政治的に正しい立場」ではあり得ません。「被害者」「遺族」という肩書きを強制されて真に絶望せざるを得ないとき、人は政治的に正しいも正しくないもないはずだと思います。

 損害賠償請求の民事訴訟を起こす被害者や遺族に対して、匿名のネットでバッシングが向けられる場面を目にします。「結局は金が目的なのか」「クレーマーだ」というような内容であり、私はそのような文字を見ると全身から力が抜けます。大衆化を前提とした右傾化という現状認識だけでは、この状況は説明がつかないと思います。ここでの右傾化は、「被害者=政治的に正しい立場」という左翼的思考が拒否され、「私は被害者です」という被害者性が叩かれているのだと思います。

内田樹著 『街場のメディア論』 より (1)

2012-09-26 23:33:45 | 読書感想文

p.94~
 
 「どうしてもこれだけは言っておきたい」という言葉は決して「暴走」したりはしません。暴走したくても、自分の生身の身体を「担保」に差し出しているから、制御がかかってしまう。真に個人的な言葉には制御がかかる。だって、外圧で潰されてしまったら、あるいは耳障りだからというので聴く人が耳を塞いでしまったら、もうその言葉はどこにも届かないからです。

 だから、ほんとうに「どうしても言っておきたいことがある」という人は、言葉を選ぶ。情理を尽くして賛同者を集めない限り、それを理解し、共感し、同意してくれる人はまだいないからです。自分がいなくても、自分が黙っても、誰かが自分の代わりに言ってくれるあてがあるなら、それは定義上「自分はどうしてもこれだけは言っておきたい言葉」ではない。「真に個人的な言葉」というのは、ここで語る機会を逸したら、ここで聞き届けられ機会を逸したら、もう誰にも届かず、空中に消えてしまう言葉のことです。そのような言葉だけが語るに値する、聴くに値する言葉だと僕は思います。

 逆から言えば、仮に自分が口を噤んでも、同じことを言う人間がいくらでもいる言葉については、人は語るに際して、それほど情理を尽くす必要がないということになる。言い方を誤っても、論理が破綻しても、言葉づかいが汚くても、どうせ誰かが同じようなことを言ってくれる言葉であれば、そんなことを気にする必要はない。「暴走する言説」というのは、そのような「誰でも言いそうな言葉」のことです。

 ネット上に氾濫する口汚い罵倒の言葉はその典型です。そこで行き交う言葉の特徴は、「個体識別できない」ということです。同じことがメディアの言葉についても言えると僕は思っています。メディアが急速に力を失っている理由は、固有名と、血の通った身体を持った個人の「どうしても言いたいこと」ではなく、「誰でも言いそうなこと」だけを選択的に語っているうちに、そのようなものなら存在しなくなっても誰も困らないという平明な事実に人々が気づいてしまった、そういうことではないかと思うのです。


***************************************************

 テレビを見ていると、「語られるべき言葉が語られていない」という感じがしますが、それも慣れれば当たり前となるように思います。このような入口での微妙な違和感は、「語られるべき言葉」と何なのかを形にすることもできず、いつの間にか消えてしまうものです。また、メディアの特質として、視聴者に「自分のほうが世間からずれている」という焦りを生じさせる点も大きいと思います。

 一般の視聴者がテレビ番組に対して何を言っても批判だけであり、生産性がなく、「お前が代わりに番組を作れば視聴率が取れるのか」と言われれば退散するしかないと思います。そのような中でも、「語られるべき言葉が語られている」と感じることがありますが、これは理屈ではなく私の直観です。ネット上の言葉も同じことであり、玉石混交の中の貴重な玉を見つけたと感じるときには、氾濫する口汚い言葉のほうは眼中から排除される気がします。

兵庫県川西市いじめ自殺事件

2012-09-23 23:56:50 | 時間・生死・人生

9月22日 読売新聞ニュースより

 兵庫・川西市でいじめを受けていた高校生が自殺した問題で、この高校の教諭が20日の授業中に、生徒に対して「遺族は学校を潰そうとしている」などと発言していたことがわかった。

 関係者の話によると、2年の男子生徒が自殺した川西市内の県立高校で、生徒指導部長を務める男性教諭が20日の授業中、生徒に対して、「遺族は学校を潰そうとしている」「体育祭や修学旅行があるが、それもどうなるかわからない」「遺族には申し訳ないが、同情する気はない」といった発言をしたという。

 男性教諭はNNNの取材に対し、この発言をしたことを認めており、「生徒が動揺しているので、通常の学校生活に戻したいという思いで話した」と答えている。


***************************************************

 「遺族が学校を潰そうとしている」のは、人としてごく当たり前のことだと思います。我が子が存在せず、我が子を死に追いやった人々だけが所属している学校は、遺族にとってそのような意味しか持たないからです。実際のところ、我が子をこのような形で突然失った両親にとって潰れて欲しいものは、学校どころか人類や地球でなければならないと思います。人間の絶望のエネルギーは、物理的な形にはなりませんが、言語で形容すれば確かにこのようになるはずです。

 人が社会に出て働き、組織に属し、「現実」に向き合うようになるという点では、会社員も自営業者も学校教師も同様だと思います。そこでは、現実の力が全身に浸み込んで、その現実が常識になり、子供の頃に不思議に思っていたことが忘れられます。その最大のものが「死」です。社会の現実を前にし、なお純粋な死の疑問を提示するならば、それは単に人生経験が足りない空想論であり、社会に通用しないものとして捨て置かれるものと思います。教師において、命を預かっていた生徒を死なせてしまった敗北感が前面に出ないのは、このような「現実」の力が大きいのだと思います。

 社会である程度揉まれた者であれば、「教師はこのようなことを内心でも思ってはいけない」という非難の念は起きにくいものと思います。教師の偽らざる本音としては、学校そのものが悪者扱いされ、通っている無関係な生徒にまで多大な影響が及んでいる状況は、いかにも理不尽であるはずです。「通常の学校生活に戻したい」というのは、現場の悲鳴を端的に示した言葉でしょうし、いきなり乗り込んできたマスコミや無関係な人々が正義を振りかざし、それまで積み上げてきた全てを否定することに伴う現場の疲弊は、それこそ1人の人間を死に追いやるだけの力を持つものと思います。

 人の集まりに過ぎない抽象名詞である「社会」や「組織」がこのような動きを示す中で、ある言葉を語ることが許されるか否かを決める1つの要素が、捨て置かれた「死」の問題が人間の意識の片隅に生じた場合の倫理ではないかと思います。教師の発言をマスコミに流した生徒の品格が疑われるべきことは当然ですが、このような本音を内心に留められるか否かが、教師の社会性の有無を示しているように感じます。この社会とは、どんなに理不尽でも黙って耐えなければならない時がある場所であり、いかに偽りの演技を強いられようと、「その場面では言ってはいけない言葉」があるものと思います。

 法治国家とは、つまるところ証拠によって過去の事実を認定し、訴訟で勝ち負けを決めるというルールしか認められない場所です。裁判は生産性のない争いであり、怒りや恨みの持続は疲労と消耗をもたらし、死者は帰りません。そして、人間の作る制度は相対的ですが、「死」は絶対的です。「遺族には申し訳ないが同情する気はない」といった発言は、言葉尻を捉えているきらいがあるにせよ、社会内で非難されなければなりませんし、これが支持されるような社会における人間の倫理観は、本来の場所から変質してしまっているように感じます。

古賀茂明著 『官僚の責任』

2012-09-22 23:28:00 | 読書感想文

p.120~「霞が関は人材の墓場」より

 国家公務員は国民の税金で生活しているのであり、その代わりとして、国民のために奉仕する義務がある。国民の生活を第一義に考えるべきなのは当然だ。そう考えれば、守るべきは公務員どうしで助け合うためのシステムであるわけがない。

 国家公務員採用試験に合格し、官僚になった当初は、ほとんどの人間が「国のために働く」という志を胸に抱いていたはずなのだ。若手官僚のなかには、まだまだやる気にあふれた優秀な人材がいるのは事実である。

 ところが、そういう官僚たちも、いつしか初心を忘れて、しだいに内向きになっていく。国益より省益を第一に考えるようになっていく。国家公務員試験という難関を突破した優秀なはずの人材が、いつしか国を食いつぶすだけの存在に堕していくのである。


***************************************************

 私が以前に働いていたのは、いわゆる霞が関とは別の霞が関であり、私はただの木っ端役人でした。そんな組織であっても、郷に入って郷に従っているうちに、色々と感じることはあったように思います。「国家公務員は国民の税金で生活している」「国民のために奉仕する義務がある」といった言葉は、事あるごとに訓示のように聞かれ、私や同僚においても当然の規範として身に付けられていたと記憶しています。ところが、その職務倫理は、なぜかそのままの形で、公務員同士で助け合うためのシステムに直結していました。

 「国のために働く」という初心はいかにも青二才であり、組織人として現実に妥協することはやむを得ませんが、同時に「国民のために奉仕する義務がある」という原則は、多くの同僚において忘れられていなかったと思います。ところが、そのことがそのまま「国民のために奉仕する義務がある組織」の職務倫理を守ることになり、必然的に内向きになっていくという現実がありました。ここは言葉にすると微妙なところで、「国のために働く」という初心を忘れるという表現は不正確だと思います。

 1人の人間の人生というものは、誰しもこの体の中に閉じ込められており、大局観という錯覚を信じたふりをするのは非常に困難なことだと思います。鳥瞰的な視点が自身の体を突き抜け国家に至る場合には、組織で揉まれずにいわゆるセカイ系に至るか、あるいは組織に突き当たって屈折して国に至るか、両極端の思考に流されがちだと思います。

重松清著 『せんせい。』より

2012-09-18 23:47:11 | 読書感想文

p.86~ (保健室の先生と生徒の会話です)

 「先生、なんで最初にわかったんですか? わたしがみんなから意地悪されていること」
 「うーん?」
 「だって、わたし、なにも言ってなかったのに」
 先生は、「頭とおなかが同時に痛くなる子は、たいがいそうだよ」と言った。
 へえ、そういうものなんだ、とうなずくと、先生はベッドのほうを見て、つづけた。

 「あとね、あんたね、なんで意地悪っていうの? そういうときの言い方は知ってるでしょ、5年生なんだから」
 胸がどくんと鳴った。おろしたての白いシャツに、カレーとかラーメンのスープとかの染みが散ったとき、みたいに。
 いじめ ―― なんだ。わたしは、みんなからいじめられているんだ。
 鬼ごっこの鬼につかまった。ずっと必死に逃げてきたのに、追いつかれた。

 いじめは伝染病だ。しかも、かかった子ではなく、かからなかった子のほうが苦しめられる。サイテーの伝染病で、センプク期間も、何日で治るかも、特効薬も、なにもわからない。
 「意地悪されてるって思ってたほうがいいの?」
 「だって……」
 いじめに遭うのは、だめな子だと思っていた。弱くて、とろくて、負けてる子がいじめに遭う ―― だから、わたしじゃない。
 認めなさい、と言われたらどうしよう。あんたはほんとうな弱くて、とろくて、負けてるから、いじめに遭ってるんだよ、と言われたら、どうしよう。
 でも、先生はそれ以上はなにも言わなかった。


***************************************************

 子供の世界と大人の世界の違いは、子供の論理と大人の論理の違いだと思います。大人の世界の決まりごととは、責任の所在を明らかにし、証拠に基づいて物事を判断し、事実と推測を分け、単語を定義してから議論し、不用意に謝罪せず、善意が仇になる危険に注意を払い、ある時には毅然とした態度を取り、ある時にはお金の力を借り、いたずらに話を大きくしないこと等です。もっとも、人々の自己主張が強くなり、クレーマー対応で疲弊するようになると、大人の世界の論理も幼児化を免れないものと思います。

 人間が社会に出るまでに教育が必要な理由は、どんなに大人の論理が幼児化しても、それは子供の論理とは一線を画していることの理由と同じだと思います。子供の論理は、非論理的であり、なおかつ複雑であり、他方でそれを語るだけの語彙が少なく、しかも繊細であり、大人の世界の論理とは正反対の性質を多く有しています。その上、大人は誰しも子供の時代を通っているにもかかわらず、なぜかその世界の決まりごとを忘れ、どうしても思い出せないという悩ましいことになっています。

 学校がいじめの事実を確認したかどうか、いじめと自殺の因果関係はあったのか、このような問題の定立は、大人の世界の論理を前提としたものです。子供の世界で起きている出来事を大人が解釈し、それを子供の世界の論理に適用しようとしても、例によって派生的な問題が生じるだけだと思います。証拠によって事実を確定し、法的な責任の所在を明らかにするというルールは、あくまでも集団的に生きる際の方便です。大人になる前に人生を終えた子供を前にした場合には、誰が何を言っているのか良くわからないと感じます。

池田晶子著 『あたりまえなことばかり』より

2012-09-16 23:24:30 | 読書感想文

p.198~

 人類における葬式・葬送の儀式とは、理解できないものとしての他者の死を、理解するための方策に他ならない。肉体の消滅をもって死とし、そこに文化的社会的なけじめを与えるのでなければ、われわれは、「その人は死んだ」と言うことが決してできない。なぜなら、死は存在せず、死は言葉としてしか存在していないからである。

 いつの世も、世界の事実に驚くのは常に子供である。子供は、他者の死という事実の意味が、わからない。必ずこう問うはずである。「おじいちゃんはどうしたの?」。賢しらな大人は答える。「死んだのよ」。しかし、これは答えになっていない。その「死んだ」ということの意味こそが、ここで問われているそのことだからである。

 「死ぬってどういうこと?」。なお問われて、大人はこう答えるかも知れない。「いなくなることよ」。むろん、これも答えにはなっていない。その、「いなくなる」とは、どういうことなのか。子供には、いた人がいなくなるということが不思議でたまらないのだ。「いなくなった」と言われて、次には必ずこう問うはずである。「今どこにいるの?」。

 肉体の消滅をもって死とするわれわれの方便が、無効になるのがここである。なるほど、その人の肉体は消滅したが、「その人そのもの」はどうなったのか。そう問われて、大人はもはや答える術を知らない。いなくなるということは無になるということなのよ、そう答えたくても、自分でも何を言っているのかよくわからない。そこで、苦しまぎれに、「お空にいるのよ」「天国にいるのよ」と答えてしまう。

 存在の事実に驚いた子供も、やがては賢しらな大人になり、人が死ぬということはどういうことなのか理解しているように思いこむに至るだろう。しかし、それがどういうことなのか、じつは全く理解していないにもかかわらず、「死んだ人はお空にいるのよ」という納得の仕方は、多くの人は大人になっても、基本的には変わってはいないのである。


***************************************************

 仕事で骨肉の相続争いを数多く見ていると、そもそもの発端が、社会的儀礼であるところの葬儀に対する価値観の違いである場合が多いことに気がつきます。そして、お布施や香典といった具体的な対立点が出てしまえば、問題は行き着くとこまで行きます。

 「自分が死んだら葬式などしなくてもいい」といった遺言書があるばかりに、体面や世間体を重んじる親族の間で争いが起きる事例も目にします。骨肉の争いの不幸とは、「死とは何か」という哲学的問いから逃げる人間の幸福の一種なのではないかと感じることがあります。

秋葉原殺傷事件控訴審判決とAKB48

2012-09-14 00:02:58 | 国家・政治・刑罰

東京高裁控訴棄却(死刑)判決を受けた記者会見より

(9/12 東京新聞ニュース)
 判決後、加藤智大被告にナイフで刺され重傷を負った東京都江東区のタクシー運転手、湯浅洋さん(58)が記者会見した。これまで加藤被告に5通の手紙を出し、この日を含め、一審から裁判の傍聴を続けてきた。「事件が二度と起きないように真相を加藤被告から引き出すのが生き残った者の使命」との考えからだ。

(9/12 NHKニュースWEB)
 加藤被告にナイフで刺されて、一時意識不明の重体になったタクシー運転手の湯浅洋さん(58)は、「思ったとおりの判決だが、結局、なぜ加藤被告が事件を起こしたのか分からなかった。7人が亡くなり、私も死にかけたが、事件が甘えた身勝手な男の犯行と片づけられて風化していくのは、生き残ったものとしてつらい」と話していた。


***************************************************

 AKBという名前を私が初めて聞いたのは、秋葉原通り魔事件の少し後だったと思います。AKBの人気が出始めて、マスコミに取り上げられてきた頃でした。通り魔事件の衝撃の覚めやらぬ頃であり、私は反射的に「嫌な名前だな」と思いました。加藤智大被告がなぜ秋葉原を選んだかについては、本人も「秋葉原の歩行者天国が思い浮かんだ」程度のことしか語っておらず、憶測ばかりが語られていたように思います。それだけに、社会が秋葉原事件を置き去りにしたまま、秋葉原の象徴であるAKBに染められて行く様子を見て、私はゴマメの歯軋りをしていました。

 7人が死亡し、10人が負傷した秋葉原事件の東京地裁の公判では、負傷した10人全員が法廷に出頭させられました。これは、「人生で最もショックを受けたその日に引き戻される」「筆舌に尽くし難い場面を詳細に聞き出される」「亡くなった被害者に対し生き残った者として複雑で苦しい」といった言葉に象徴されるような、極度のうつ状態やフラッシュバックの発生が確実でありながら、弁護側が供述調書の採用に同意しなかったことに基づきます。「厳罰よりも被害者の心のケアが大事なのだ」という人権論の言葉が上滑りする中で、この事件はAKB人気と反比例するように数年で風化しました。

 日本はどこを見てもAKBばかりとなりましたが、AKB商法が問題視されたり、メンバーの母親が東京都青少年健全育成条例違反容疑で逮捕された事実が話題になるなど、日本人の道徳観に与えた影響は大きいと思います。他方で、東日本大震災に関する義援金プロジェクトでは、これまでに12億5000万円以上が集まり、寄付されたとのことです。社会全体(人の集まり)の仕組みは、お金を1円も動かさずに心を痛める人よりも、できるだけ多くのお金を動かす者を要求するのだという事実を、社会全体(1人1人の人間)が思い知らされたように思います。

 少しでも事件を思い出させるような言葉に触れたくない被害者の方々が、どう足掻いてもAKBから逃れられない現在の日本でどう生きているのか、私にはわかりません。少なくとも、このような訴えが社会的に認められることはないでしょうし、「勝手に耳を塞いでいればいい」と言われることが目に見えているため、そのような声が表に出ることはないと思います。事件の風化という抗い難い現実を前にして、人は(私も含め)他人の適当な不幸が大好きですが、本当の不幸からは目を逸らすのだと改めて感じます。「AKB総選挙」と言えば日本は動きますが、「秋葉原事件を考える」と言っても日本は動きません。

橋下徹・堺屋太一著 『体制維新――大阪都』より

2012-09-12 00:02:26 | 読書感想文

p.74~ 橋下徹「体制の変更は政治家の使命」より

 僕は知事になったとき、現行の体制を変えることが使命だと考えました。それが政治家にとって、一番大事な役割と考えたのです。政策は専門家でもつくれる、むしろそのほうがいい政策が出てきます。行政を進めるのは役人。しかし、国であろうと地方であろうと、政治行政の仕組みすなわち体制、システムを変えるのは政治家にしかできません。

 体制の変更とは、既得権益を剥がしていくことです。いまの権力構造を変えて、権力の再配置をする。これはもう戦争です。新聞は、もっと話し合いをしろ、議論を尽くせと書きます。もちろん議論すべき問題は議論を尽くすべきだと思います。しかし権力の再配置に関しては、話し合いでは絶対に決着がつきません。

 議会についてもそうです。外から見ている有識者やテレビのコメンテーターの認識とは、大きなギャップがあります。有識者は議会を冷静な議論ができる場だと考えているようですが、大いなる誤解です。議会はいわば、選挙で勝ち残った武将の集まり。敵意や嫉妬はうずまき、人間の最もすさまじい闘争本能が凝縮した場なのです。

 まして権力の再配置の議論となれば、自分たちの既得権益に関わる話です。議会も役所も、敵意むきだしの負の感情がうずまくことになります。合理的判断をするのがむずかしくなり、議員も役人もひたすら現状維持がいいということになる。冷静な議論など、望むべくもありません。

 民主主義の政治にとって、話し合い、議論は大切ですが、最後は選挙によって決着をつけなければニッチもサッチもいかない、そういう局面がやってきます。僕は政策も大事だが、それよりも体制、システムの変革こそ政治の仕事と考えて、これまで知事の仕事をやってきました。


***************************************************

 「体制」「装置」「システム」「仕組み」「構造」といった単語は、いずれも五感で認識できない抽象名詞です。そして、言葉は存在しないものを存在させてしまうという性質を痛いほど知り抜いているのは、その存在しないはずの幻想によって苦しめられてきた現場の最前線の人間であると思います。そこでは、言葉を動かすのも言葉であるとの洞察があり、この意味での言葉は断じて「議論」ではないとの経験則があるものと思います。

 憲法の統治機構は権力の暴走を抑制するためにあり、これによって個人の人権を守ることが目的であるとの立憲主義の大原則からすれば、橋下氏は「憲法の基礎もわかっていない独裁者」とされるのが当然の帰結です。そして、橋下氏に対するこのような批判は、それを主張する側からは問題点が噛み合っており、橋下氏の側からは問題点が噛み合っていないのだと思います。これは、「憲法」「統治機構」「権力」も抽象名詞であり、五感で認識できない幻想であることによります。

 情報化社会における政治家の好き嫌いの選別は、今や芸能人に対するそれに類似しているように感じます。ここに本来的なイデオロギーによる正義と不正義の概念が結び付けられれば、ある政治家を支持するかしないかは、生理的な細胞レベルにまで至るのではないかと思います。私は、政治の難しい話はよくわかりませんが、個人的に橋下氏は「好き」のほうに入っています。これは、橋下氏が光市母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求を呼びかけていたことに端を発しています。

 人は自分の狭い経験からものを考えるしかありませんが、私の忘れ難い経験として、同窓会で久しぶりに会った同級生の変貌ぶりがあります。議員になった同級生は、目つきや語り口が昔とは別人のようになっており、どこから見ても政治家でした。官庁に勤めた同級生は、人格が完全に変わっており、完璧な役人となっていました。このような強烈な記憶から、私は個人的に憲法学者が述べる「権力の抑制」よりも、橋下氏が述べる「権力の再配置」のほうに迫真性を感じています。