犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山田風太郎著 『あと千回の晩飯』

2008-04-24 20:55:24 | 読書感想文
光市母子殺害事件の元少年は控訴審において、弥生さんを姦淫した理由について、「山田風太郎の『魔界転生』という小説で、精子を女性の中に入れて復活の儀式ができるという考えがあり、生き返ってほしいという思いがあった」と述べていた。山田風太郎(1922-2001)の小説の一節がこのような形で登場することは、非常に残念な話である。実際に元少年にそのような形で読まれてしまったのであれば不幸であり、弁護団による防御の手段として用いられたのであれば失礼である。

18歳で罪を犯した元少年は、初めて死刑を宣告され、現在は世界がどのように見えているのか。27歳にして初めて自己の死が現実のものとして迫り、周囲の風景は変わったのだろうか。「人間はガンを宣告されると、桜の花がそれまでと違って見える」というフレーズもある。元少年が山田風太郎の小説を好んでいるならば、自らの死が具体的なものになったことによって、その思索が深まっていくものと思いたい。本村氏に出した「命尽き果てるまで謝罪を続けていきたい」との手紙が本心からのものであれば、死刑が執行される瞬間まで、謝罪の意志を持ち続けることが筋となるはずである。


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★p.43より
 自分と他者の差は一歩だ。しかし人間は永遠に他者になることはできない。
 自分と死者の差は千歩だ。しかし人間は今の今、死者になることができる。

★p.115より
 「人生に密着した死に方」とは、死の瞬間までいままでの全人生を背負い込んでいる死に方という意味だ。自分の手がけた仕事のなりゆきから心離れず、自分とかかわり合った人々への思い去らず、自分の全生涯を圧縮したような死だ。

★p.130より
 死だけは中途半端ですむことではない。死こそは絶対である。生きているうちは人間はあらゆることを、しゃべりにしゃべるのだが、いったん死んだとなると徹底的に黙る、未来永劫に黙る。
 あるいは死ぬ事自体、人間最大の滑稽事かもしれない。

★p.230~232より 適当に抜粋
 NHKのテレビ番組「生きもの地球紀行」のたぐいをよく見る。そして地の果てに棲息している生物たちの生活や行動に驚嘆する。こんな番組でさまざまの生物の生態を見ると、彼らの世界は決して楽園でなく魔界であることを知る。その生態の奇怪さに驚くよりも戦慄する。
 彼らは遊びで空を飛んでいるのではない。また消化のために野を走っているのではない。彼らの関心は餌の採取と、テリトリーの防衛と、求愛行動と、営巣分娩と短期間の子育てでそれ以外には全然関心がない。これだけのことをするのに彼らは必死だ。特に海底の世界の死闘は黙示録的だ。私は無神論者だが、宇宙の無限とこれらの生物の奇怪ぶりには神らしきものの存在を思わないわけにはゆかない。
 個体保存、種族保存のため、それのみのため必死に千変万化の工夫をこらしている彼らをやすやすと釣ったり、鉄砲で撃ったりして、それどころかまだ生きているものを焼いたり三枚に下ろしたりしてムシャムシャ食ったりしているのは人類だけではないか。地球を魔界に変えるのは人間だ。

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