犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 3・ 死刑について先哲は何を言っているか

2008-04-02 21:59:47 | 時間・生死・人生
死刑という究極の制度に関して、世界の偉人はどのように考えてきたのか。誰がどのような言葉を残しているのか。法律学においては、まずイタリアの法学者であるベッカリーア(Cesare Bonesana Beccaria、1738-1794)の名が挙げられる。近代国家の死刑廃止論は、ベッカリーアの主著『犯罪と刑罰』から始まっているからである。彼は「犯罪は明確な刑罰によってのみ裁かれるべきである」との罪刑法定主義を主張し、社会契約論に基づいた体系的な理論は、現在に至るまで多くの影響を与えている。すなわち、「国家は国民の権利を譲渡した権利の集合体であるため、国家による死刑は自殺と同義である」というのが彼の考えであり、死刑廃止論においては金科玉条のように扱われてきた。

哲学的に見ると、もっと前に、もっと激しいことを言っている人にぶつかる。フランスの数学者・哲学者のパスカル(Blaise Pascal、1623-1662)は、「人間は考える葦である」のフレーズによって有名であるが、その主著『パンセ』の中には次のような記述もある。「死より確実なものはなく、死期より不確実なものはない。多数の人々が鎖につながれ、死刑を宣告されているさまを想像しよう。幾人かが日ごとに眼前で絞め殺され、残った者は、自分たちも同じ運命をたどることを悟り、悲しみと絶望の中で互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態なのである」。要するに、すべての人は必ず死ななければならない。従って、人間は生まれながらの死刑囚であるということである。

もちろんパスカルの言う「死刑」とは、国家権力による刑罰としての死刑のことではなく、単なる比喩である。しかし、そこでパスカルの指摘を一笑に付してベッカリーアに戻るか、それともパスカルにこだわるかが、死刑論議においては大きな分岐点となる。なぜならば、現代社会における死刑とは、少なくとも他者の生命を奪った者において執行されるものであり、問題の核心は、パスカルの言う一段上の「死刑」にあるからである。伝統的な死刑論議は、独裁的な権力者が反抗する者を恣意的に粛清する危険性に端を発しているが、現代社会にはあまりフィットしていない感が強い。光市母子殺害事件においても同様である。現に元少年は2人の生命を奪っていること、あくまでもここが出発点である。

すべての人は生まれた瞬間に、長くても100年余りのうちに死刑を宣告されることに決められている。それが、この世に生まれるということである。その意味では、死ぬことが残酷なのではなく、生まれたことが残酷である。人間が生きているということは、全く身に覚えがないのに逮捕され、有罪判決を受け、死刑を待っているということ以外ではない。しかも、その時期も方法も教えてもらえない。さらに虚しいことには、自分が死んだあと、数十億年もすれば、ほぼ確実に地球上のすべての人が同じように死んでしまう。死刑を廃止しようがしまいが、いずれ人類は全滅し、地球は滅亡する。永久などというものはない。これが、パスカルが述べるところの絶望的な「死刑」である。このような絶望を経た上で戻ってきているか否かを考えると、やはりパスカルの言葉は、ベッカリーアの言葉とは比較にならないほど深い。そして、光市の事件においても、パスカルの言葉は人間の倫理の核心を指し示す。

光市母子殺害事件差戻審 2・ 奪われた未来はどこへ行ったのか

2008-04-02 12:05:48 | 時間・生死・人生
少年であろうと成人であろうと、人を殺した経験がある者とない者との間には、本質的な差異が生じる。人種が違ってしまったと言っても過言ではない。これは、一度きりの人生を生きなければならない人間存在の必然的な形式である。人を殺すとはどのようなことか、殺人の経験がない圧倒的多数の者にはわからない。経験者だけが物事を正確に語れるということ、経験した者でなければ物事はわからないということも、人間存在の必然的な形式である。人間は自分の人生を生きるしかなく、他人の人生を生きることができないからである。その意味で、人を殺した経験がある人には、死刑判決を受けるか否かの大前提として、人を殺すとはどのようなことか、その意味をわかってもらわなければ話が始まらない。

死とは、時間性の喪失である。生きている者が刻一刻とその存在を明滅するならば、死者においては時間がなく、その存在は永遠かつ無である。平均寿命を超えて天寿を全うした人の死については、「未来が奪われた」という感はない。また、若くして命を落とした場合であっても、それが本人自身の病気や自然災害であったならば、「未来が奪われた」という感情は起こりにくい。そのような感情は、病魔や自然といった抽象的なものに対して成立するのみである。これに対して、犯罪による死だけは、実際に未来を奪った人間が具体的に存在している。人間が人間の時間を奪うとはどのようなことか。人間が人間の未来を奪うとはどのようなことか。これに答える権利があり、義務がある者は、その殺人者本人をおいて他にはない。

奪った未来の時間はどこへ行ったのか。それは、殺した者が持っているとしか言いようがない。奪うということは、そのような意味である。物理的な物質でない時間について、果たして奪うという行為が成立するのか、実証的に捉えればここで行き止まりである。そして、具体的な証拠による事実認定を技術的に進めることに議論が移ってしまう。しかしながら、法律的にはこれが正論であるとしても、人間の倫理は、何か大切なものを論じることを忘れているのではないかという直観を呼び起こす。生き残った者の現実において、「殺された者は未来を奪われた」という感じがするのであれば、それは実際にその通りだとしか言いようがないからである。人間は時間性の中にしか生きられず、それゆえに年を取る。生きることと老いることは同義である。人を殺すということは、その実現されなかった可能性を含めて、他者の時間性を自己の時間性において引き受けるということである。

ここにおいて、人間は初めて正当に問いうる。他者の時間性を奪い、それを自らにおいて引き受けるということは、死をもって償うということか。それとも、殺された人数分の時間性を生きるということか。ここでも、安易な言説が哲学的思考の邪魔をする。いわく、「死刑に処せられるよりも、罪を背負って生きてゆくことのほうが苦しい。死刑よりも、終身刑のほうが苦しい」。このような言説は、時間性において、突き詰め方がいかにも不十分である。終身刑になったところで、その犯人もいずれは病気か何かで死ぬ。そして、50歳でガンで死ぬか、90歳で老衰で死ぬかは、その犯人の健康次第である。さて、殺された人間の奪われた時間の長さは、その犯人の健康状態なるものによって左右されてしまうのか。犯人が殺した人数分の時間性を生きるということならば、答えは必然的にそのようになるはずである。