犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

この1年 (2)

2012-12-31 00:36:20 | その他

 人が組織の中で仕事をするとき、そこで生み出される事務的な書類の作成者は、その人自身ではなく、「その人の立場」「その人の役割」であると感じます。社会人が立場の使い分けを会得し、役割を演じることに長ければ長けるほど、その人自身の心底からの言葉は頭の中に溜まり、表に出ないままに失われるのが通常だと思います。さらには、これを何とか消えないように文字にすることは、「書きたい」「書かなければならない」という衝動とは裏腹に、言葉にしにくく、結構な疲労を伴う作業である思います。

 ある弁護士が、本業とは別に、エッセイを書いている現場を見たことがあります。いわゆる「○○の事件簿」という類の断片集です。仕事の上で他人のために書いている書面は、あくまでもルールに則って他人の言葉を述べているものであり、その合間に生ずる自分自身の言葉は、仕事を長く続ければ続けるほど溜まっていくものと思います。そして、言葉にならずに漏れてしまったものや、多忙に紛れてこぼれ落ちたものを拾い上げたいという念願は、人間の本能から湧き上がってくるものだと感じます。

 私は、そのエッセイの原稿を見せてもらったとき、「生き様と文章が正反対だ」との感を持ちました。弁護士の仕事は、多くは俗世間の欲望の中に入り込むことであり、人間の醜い部分に揉まれることです。従って、繊細な神経を保っていては潰れてしまうため、俗物に徹しなければならないところがあります。ところが、そのエッセイの文面は純粋かつ高潔であり、弁護士としての高い志にも満ちており、とても当人が書いたとは思えないものでした。私は、この言行不一致の矛盾によって、その弁護士の精神のバランスが図られていることを知りました。

 私のこのブログには立派な目的があるわけではなく、私は「書きたい」という欲求に従い、言葉が消える前にできるだけ文字にしておきたいとの意志のみで、グダグダと書き留めてきました。法律の仕事を続ける中で、法律というものに対して生じる疑問を手放さないことにより、自分に対して嘘をつかず、言行一致を図りたいという部分もありました。しかしながら、私もこのような言葉を書くことによって、逆に言行不一致を正当化する陥穽に落ちており、如何ともし難い状況であることに気付いているところです。

この1年 (1)

2012-12-31 00:03:05 | その他

 弁護士会からのDMやFAX、弁護士会の運営するメーリングリストにおいて、昨年は「被害者」の文字が従来の10倍は見られました。これは、「原発被害者相談」「原発被害者支援弁護団」などの事務連絡が連日行われていたためです。私は、今年はこの傾向がもっと顕著になるだろうと予想していました。震災そのものの風化が懸念される一方で、3月11日は「原発事故の日」となり、地震や津波によらない単独事故であるような扱われ方が増えるだろうと思われたからです。

 私は、このような傾向に心を痛めていました。それは、「被害者支援」「救済」「保護」という態度に付きまとう欺瞞性によるものでした。あの日のあの瞬間を境に住み慣れた家を突然追われ、人生が一変したことの呪詛や身を切るような絶望に対して、それ以外の者になし得ることは、畏敬の念を持ちつつ、寄り添って話を聞くことのみです。他方で、福島の被災者に憐憫の情を寄せることや、お金の支援のみを目的とすることは、不可避的に「支援してやる」との上から目線と、「感謝してほしい」との対価の要求を伴うことになるものと思われたからです。

 さらに、私が弁護士会による活動の傾向に対して心を痛めていたのは、それ以前の問題でした。すなわち、「福島県民の苦しみを知っていますか」「ノーモア・フクシマ」という定型句によって、福島県の方々は画一化されており、脱原発・原発ゼロの政治的主張と不可分一体になっていた点です。そこでは、福島県の方々と一緒になって東電に怒ること、原発政策を推進してきた政府に怒ること、さらには原発差し止め訴訟を却下してきた裁判所に対して怒ることが絶対的正義となっており、それ以外の正義はありませんでした。

 今年1年を振り返ってみて、私の予想はかなり外れました。原発被害者相談のやり取りは減り、DMやFAXの「被害者」の文字も昨年より減りました。代わりに入ってきたのが、計画が思い通りに行かないことに対する弁護士の焦りの声でした。福島県に赴いたある弁護士は、現地の方々から、「復興を妨げないでほしい」、「福島をフクシマと書くな」、「風評被害を拡大させないでほしい」、「福島を免罪符にするな」、「本当は支援など考えていないのではないか」、「電力不足で虐げられるのは弱者だ」などの厳しい苦情を浴びて帰ってきました。

 先般の衆議院議員選挙で、福島県では軒並み原発再稼働派の候補が圧勝したことも、被害者支援活動の意気消沈に拍車をかけたように見えます。「福島県民の苦しみを知っていますか」と言うならば、まず大事なことは何十年後の未来よりも今日の生活であり、現状の収拾であり、現在の苦しみからの脱却であり、補償・賠償・安全な住居の確保・経済的再生であり、目の前の消費税や社会保障の問題でした。そして、これらの要請は、脱原発の活動をしている弁護士の関心とは食い違っていました。このことも、支援活動の鈍りを招いた原因であるように感じられます。

河野裕子著 『うたの歳時記』 その2

2012-12-30 22:33:40 | 読書感想文

p.53~ 「年の暮」より


 風をもて天頂の時計巻き戻す 大つごもりの空が明るし (永井陽子『ふしぎな楽器』)

 人事は複雑多岐にうち過ぎてゆくが、四季の廻りは正しく同じ歩みと周期をくり返す。だから、1年の終わりに、天頂の時計を巻き戻すのである。天頂の時計とは、四季の廻りに統べられて運行する時間を測る時計のことであろう。名称はどのようであれ、その時計は必ず存在する。天頂の時計の巻き戻し可能なのは、大つごもりの日のみ。知的に傾きがちな発想を、詩情ゆたかに明晰な構図の中に歌い、他の大つごもりの歌とはひと味のちがいを見せる。


 しづかなる旋回ののち倒れたる 大つごもりの独楽を見て立つ (岡井隆『蒼穹の蜜』)

 広辞苑閉づれば一千万の文字 しづまる音す大年の夜を (高野公彦『天泣』)

 大晦日のことを、大つごもりとも大年ともいうが、右の2首は、1年最後の日を、いずれも「しづかなる」、「しづまる」と静かな感慨のもとに詠んでいる。1年間、独楽も広辞苑をそれぞれに奮闘をして来たのである。独楽と広辞苑に重なって作者のその1年の身の処し方が見えてくる。1年の最後の日に、ひとまずはそれに区切りをつけるのだ。2首共に、「大つごもり」や「大年の夜」を他のことばに置きかえることも可能だろう。しかし、「大つごもり」や「大年の夜」であることによって、これらの歌の示すニュアンスは全く変わったものになる筈である。


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 「大晦日」「大つごもり」「大年」という言葉はそれぞれ語感が異なり、クオリアという次元でしか説明できないような感慨を生じるものと思います。そして、それは自分の人生に対する感慨にも通じるものだと思います。但し、社会のグローバル化に対応して小学校から英語が必修化され、コミュニケーション能力を高める必要性が広く報じられている社会で生きていると、このような日本語の美しさへの感性そのものが無意味になっていると感じる瞬間がよくあります。

 今年1年間を振り返ってみると、人間としての規範や道徳のような形のないものは、誰かが破り始めると次々と堰を切ったように破られるという点が改めて思い浮かびます。しかも、今の時代は各々が自分自身のことで手一杯であり、上記の点について真剣に考える時間的・精神的余裕もないという現実にも直面します。弱肉強食の世知辛い社会の状況の下で、「大つごもり」「大年」の日本語の語感は、もう日本には必要ないものになってしまったとの感も持ちます。

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』より (3)

2012-12-28 00:04:15 | 読書感想文

名古屋地方裁判所への意見陳述より

 真実を知ることが親に出来る最後の役割だと思っても、被告からの連絡もなく、事故の経緯や情報を得る手段はありませんでした。辛く苦しく、悶々とした時間を過ごさなければなりませんでした。結局、被告の行動は、自分の不確定な想いには目を向けることなく、自分が『青』であるという偽りを、自己保身のためだけに、惜しまず努力しつづけたと言わざるを得ません。その行為に私達は耐えがたい苦悩の日々を過ごしているのです。

 人はいくら取り繕った言葉を発しようと、思いは伝わるものです。真の謝罪は何度も言葉にしなくとも伝わるものだと思っています。残念ながら被告からは、運が悪かった、私も被害者だという思いが、相変わらず伝わってきます。私達は、被告に対して、交通事故を起こした加害者への感情と言うよりも、事故後に起こしているさまざまな行動を、人の道として許す事が出来なくなったのです。

 人を憎んだり恨んだりしても、そこからは何も生まれてはきません。気持ちの優しかった有希が、望む事でもない。私達は事故自体をそのように捕らえていたのです。実際、警察の遺族聴取も一度目は、私達も運転する身ですのでといった寛容な内容の発言をしました。しかし、被告のあまりに不誠実な数々の行動に、私達の気持ちは変わり、厳罰に処して欲しいといった内容に調書を作成しなおしてもらったのです。

 もし、被告が、始めから真実を語っていてくれたならば、もし始めから自己保身ではなく、被害者、被害者家族にたいしての思いからの行動であったならば、そう思うと本当に残念でなりません。被告の父親は、私達に何度も言いました。「娘は4年間安全運転でした」と。それが何だと言うのでしょうか? 実際には、たった4年で一つの命を奪い、一人の少女に心と身体に大きな傷を与え、多くの被害者を生み出した事実があります。


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 新風舎の本を初めて手に取った日から、私も法律実務の世界でさらに揉まれ、人間の汚い部分を見せつけられてきました。この汚い部分は、他人の中に明確に見える時には自分の中にも漠然と存在し、逆もまた同じでした。私は多くの罵詈雑言を浴び、自分からも暴言を吐いてきました。

 世の中には表と裏があり、本音と建前があり、綺麗事の底には権謀が張り巡らされています。人間は保身のために長いものに巻かれ、自己弁護のために口裏を合わせます。そして、罪を免れて罰から逃れるためならば、人は可能な限りの屁理屈を使い、汚い手を使い、自分自身にも嘘をつきます。

 これらの人間の行動は、人間存在の弱さや悲しさの必然的な表れだと思います。そして、法制度は人間が弱い存在であることを前提として、人間が嘘をつくことを認め、犯した罪を否認する権利を認めています。また、法は、この弱さに基づく保身としての嘘を述べる行為に対し、正義の地位を保障します。

 しかしながら、娘を失った母親の側にある語り得ぬ沈黙の深さ、そしてそれが言葉にならないゆえに「それ」が「それ」である言葉の真実を前にすれば、法が人為的に認める正義の論理は太刀打ちできないものと思います。この沈黙の中から示される論理には、嘘が絶対に入り込まないからです。

(続きます。)

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』より (2)

2012-12-27 23:51:46 | 読書感想文

p.35~

 もっとたくさん、あんなこともしてあげたかった。こんなところへも連れて行きたかった。決して取り戻すことの出来ないこれから先の長い将来を、ただ悔やむことしか出来ない母。

 前向きに歩いていくことが、何よりも残されている私達のするべきことだと分かっていても、頭で分かっていても、娘が突然に逝ってしまったことは、あまりに理不尽で、どう思いあぐねても納得いくことができません。ただ深い悲しみとともに、心の中でぽっかりと空いてしまった穴を埋めることが出来ずにいるだけです。

 人は、何をもって人の死とするのだろうか? 呼吸をしなくなった有希の肉体とお別れをしなければならなかった3日間。気が狂いそうになり、何度も奇声をあげて暴れまわりたい衝動に駆られました。棺を霊柩車に乗せようとするときには、「やめてー」と叫んで阻止したかった。

 有希の横たわる身体は、もう二度と動くこともなく、呼吸をすることもない。全ての機能が停止してしまった肉体は、葬らなければいけないのか。いっそこのまま、一緒にいれたらいいのに。呼吸をしてなくとも、動かなくとも、ずっとずっと目の前に存在していて欲しい。この世に現象として存在して欲しい。本気でそう思っていました。

 ひと言それを、口に出せば、きっと気がおかしくなっていると思われるか、子供を亡くしているから、そう思っていたかもしれないと思われたでしょうか。人になんと思われようと、物言わなくなった有希と3日間一緒にいた私は、その肉体さえも、奪われることがどうしても納得がいかなかったのです。最大限に抵抗していたかった。阻止出来なかったこと、棺から手を放した自分のことを許せないでいました。


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 法律事務所の仕事で、自費出版をめぐるトラブルの案件を扱っており、現在の日本の出版業界の構造を色々と知らされています。私が持っている『ある交通事故死の真実』は新風舎のものですが、同社は平成20年1月に倒産し、現在は文芸社からの出版になっています。

 一般の書店ではいかにも軽薄な本が平積みにされ、「これ1冊で幸せになる本」や「これ1冊で夢が叶う本」が何百冊と並んでいる中で、これほどの渾身の手記を自費出版でなければ世に出せない出版業界は、人間の言葉を消耗品として扱っているのだという感を強くします。

 私は、自動車運転過失致死罪の裁判に数多く携わり、多数の公文書(公務所の作成)や公用文書(公務所の使用)を読んできました。検察官の論告要旨では「遺族の処罰感情は激烈である」という定型句が、弁護人の弁論要旨では「被告人は心から反省している」という定型句が、それぞれ使い回されています。

 これらの文書に比し、自費出版本は私用文書(権利・義務に関する文書)ですらなく、文書の法的価値は低く位置づけられています。しかし、「愛娘の生きてきた証を軌跡として形に残したい」という母親の言葉は、公務書の定型句の欺瞞性とは対照的に、言葉が本来語るべきところのもののみを語っているのは明らかだと感じます。

(続きます。)

河野裕子著 『うたの歳時記』より

2012-12-24 00:10:30 | 読書感想文

p.175~ 「冬至」より

 秋が過ぎ、いよいよ冬が近いと思われるのは日暮れが早くなっていくのを日々感じる頃からである。11月の半ば過ぎから日脚が短くなり、4時をすぎるとあたりが薄暗くなってくるのはもの寂しいものである。真夏なら5時でも日差しが強かったことなども思われ、季節の移りの早さの不思議のなかに暮らしているのだなあと思うのは毎年のことである。

 12月の22、3日頃が冬至にあたり、北半球にある日本では、この日は昼が1年中でもっとも短く、従って夜はもっとも長い。冬至の歌や俳句には日差しを詠んだものがやはり多い。冬に傾いていく日差しを私たちがいかに大切に思い、それを実感しているかを如実に反映している。


 病床の母を目守るは十二月 二十三日の日差しと我と (高野公彦 『雨月』)

 携帯の時刻表示にたしかむる 十六時三十三分太陽没す (小池光 『時のめぐりに』)

 日没の刹那の光はどぶ川の みづのおもてを照らしつくせり (同)


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 地球温暖化の影響で日本も亜熱帯化し、以前のような季節感がなくなったと言われます。私自身はむしろ、商業主義によって季節感が人工的に先取りされ、時間の流れがおかしくなっていると感じます。そして、河野氏が「冬に傾いていく日差しを私たちがいかに大切に思い、それを実感しているか」と述べているような部分は、季節感を繊細に綴る日本語力の衰退と連動しているように思います。

 以前、ある会合で「11月上旬からクリスマス商戦が始まるのは早すぎる」との感想を私がうっかり述べたところ、ビジネスの最前線にいる方々から、「クリスマス商戦は8月から準備が始まっているのだ」「出遅れたら取り返しがつかない」「業界の厳しさを知らない」との集中砲火を浴びました。これに懲りて、人前ではこのような本音を言わないことにしました。

衆院選投票率 戦後最低の記録更新 (2)

2012-12-22 00:16:22 | 国家・政治・刑罰

(1)から続きます。

 生身の人間が自分の力で対処できるのは、せいぜい半径数メートルの範囲ではないかと思います。一人ひとりの人生の問題は、その人の固有の問題であるがゆえに本人にも解決不能であり、ましてや他人には解決不能です。このような人間が、一気に社会や国家まで思考を広げるならば、物事は高度に抽象化し、複雑化して巨大になり、細部の考慮はいい加減にならざるを得ないと思います。他方で、その抽象化した論理や仕組みは、生身の人間の脳内で構築されるしかないものです。社会問題を解決するための貴重な1票と、一人ひとりの人生の難問とのつながりは、このようなものだと思います。

 選挙で誰に投票すべきか、どの党に投票すべきなのか、国民があらゆる争点に対して真剣に考えて投票所に向かうことが、民主主義社会の制度設計の前提です。特に政党が乱立し、争点が多岐に亘るような場合には、単純に争点ごとの賛成・反対ではなく、その争点が真に争点なのか、かなり面倒な思考を強いられるものと思います。そして、このような思考に頭を悩ませることができる者は、贅沢な悩みに浸かっている状態だと思います。人は、経済的に追い詰められ、精神的に限界に達し、生きるだけでも精一杯な状況においては、このような形で悩むことができないからです。

 国レベルでの選挙において、有権者が候補者に望むことは、「その国の人々の生活を守ってほしい」「そのためには、その国の国力を上げてほしい」という程度で十分だと思います。乱立する政党が争点を喧伝し、興味のない者に興味を持たせようとしても、聞かされる側には不快なだけだからです。過去最低の投票率を前にして、棄権や白票の中に民主主義社会における国民の責務の放棄を読み取っている限り、抽象的な社会問題と個々人の人生の問題は離れるばかりだろうと思います。今も昔も変わらないのは、天下の代議士になって地位と名誉と収入と権力を一挙に手に入れたいという候補者の欲望だけだと感じます。

衆院選投票率 戦後最低の記録更新 (1)

2012-12-21 23:39:19 | 国家・政治・刑罰

 今回の選挙の直前のニュースで、東日本大震災の被災地からの声を聞きました。被災地は政治に見捨てられ、むしろ被災地のような場所を見捨てるのが政治というものであり、従ってもう政治家には頼らず、頼りたくもないという強い悲鳴が私の心に残りました。これは、「既存の政治に頼らない」「自分で行動を起こす」という従来の政治不信とは質の違う絶望であり、その深さは人間の垂直性と対応しているように思われました。選挙や政治というものは、抽象的な仕組みを論じるものであり、震災による物理的な破壊には無力であるということです。

 「復興には政治の力が必要である」というのは、理屈ではその通りであるだけに、震災後1年9ヶ月の間に政治家になし得た現実を前にすると、無力感が際立ちます。今日の目の前のことだけで精一杯であり、遠い未来や改革など考えられない状況で、選挙演説など聞かされても不快で脱力するばかりなのは当然だと思います。候補者には「自らの当選のため」という究極の目的がある以上、どんなに美辞麗句を並べて声を張り上げたところで、聞く者の空虚さと冷ややかな視線は倍増するのみです。悲鳴を堪えているところに絶叫を聞かされるのは地獄です。

 被災地における「選挙どころではない」という悲痛な叫びは、民主主義を当然のこととして信奉する学者・実務家において、慄然すべき重大な真実として受け止められなければならないと思います。「人々が歴史の中で血を流して権力者から勝ち取ってきた貴重な選挙権」というストーリーが説得力を持たない原因を、国民の政治意識の低さへの非難によって穴埋めしたところで、どうにもならないからです。未曽有の大災害の後の初めての選挙において、問題が山積する中で投票率が過去最低になったということは、これが「政治」というものの本来の性質なのだろうと思います。

(続きます。)

橋本治著 『その未来はどうなの?』より

2012-12-19 23:10:45 | 読書感想文

p.191~

 言うまでもなく当たり前のことですが、民主主義はズルをします。どうしてかと言えば、「なんでも話し合いで決める」ということになっていて、話し合いで決められないことなんかいくらでもあるからです。考えてみれば、「なんでも話し合いで決める、話し合いで決められる」という前提自体がズルの温床です。

 話し合いで決める民主主義の世界でどうしてズルが横行するのかと言えば、話し合いをする人達が、その結論を「自分の有利になる方向」へ導こうとするからです。誰も「自分が損をするための議論」なんかしたいとは思いません。力による決着を封じはしても、民主主義は「言葉の戦いによって決着をつけるもの」であって、その「戦い」は「自分の有利になる方向を目指す」です。この目指し方だけは、凶悪な独裁者と変わりません。

 私がなぜ、「民主主義は民主主義のままで変わらないだろう――変わりようがないから」と言うのかといえば、「力で押さえ込む独裁者がいなくなった代わりに、国民の全部が王様や独裁者の性格を獲得して、自分の利益ばかりを追求するようになったから、収拾がつかなくなったため」です。民主主義が当たり前になって、どこからでも「民主主義は正しい」の支援の声が飛んで来るようになってしまったら、自分の利益を主張するさまざまな人間を「黙らせる」ということが出来ません。


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 私が結構偉い(と思っていた)学者から教え込まれた「正しい民主主義」とは、少数派の意見も尊重しつつ、とことんまで議論を尽くした民主主義であり、数の横暴は許されず、強行採決などもってのほかだというものでした。このような理論は非常にスッキリしており、民主主義の本質について自分が頭を悩ませることがない代わりに、現実の社会に対する不満が激しいという特徴を備えていたように思います。

 思い起こしてみれば、このような学者は全て強固な思想を持っており、議論の中身の「賛成・反対論」とシステムの「多数・少数論」が一体となっていたように記憶しています。そして、その学者の支持政党はいつも少数派であり、常に数の論理で押し切られるという憂き目を見ていたようです。このような思想が仮に多数派ともなれば、数の論理に変節することは容易に想像できますが、そのような機会もないため、理論はスッキリし続けていたのだと思います。

若林亜紀著 『国会議員に立候補する』より

2012-12-17 22:06:02 | 読書感想文

p.250~

「選挙うつでひきこもりに」より
 落選のショックはじわじわと後から襲ってきた。当選者の喜びの様子や初仕事の報道は、まぶしすぎて見るのが嫌になった。やがて政治ニュース全般を避けるようになり、ついにはテレビをつけたり新聞を開いたりすること自体が億劫になった。内にこもって頭に浮かぶのは、あの時こうしておけばよかったという、選挙の反省であり、自省であった。何をする気力も起きなくなり、身だしなみにもかまわなくなり、鬱々とした気分の日々が続いた。

「落選者の会が行われる」より
 元キャスターの真山氏も打ち明けた。「選挙に落ちたということは、自分が認めてもらえなかったということ。だから、家を一歩出ると、まわりの人が敵のように見えてしまい、外に出られなくなりました。もう引越したいほどです」。ほとんどの出席者が同調した。渡辺代表は、「それは選挙うつといいます。落選者は皆かかるんです。ですが、うつになる人はまともです。選挙躁というものあります。選挙の興奮状態が延々と続くんです。こちらのほうがやばい」と言った。


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 裁判において法の不備が問題となると、必ず「司法権は立法に踏み込むことができない」、「投票箱を通じて反映される民意に委ねられている」との論理で話が打ち切られます。例えば、危険運転致死傷罪の条文の抜け穴は大事故のたびに現前化しており、「制御が難しい高速度の運転」の文言が大まかすぎる点や、現場から逃げたほうが罪が軽くなる点の問題は明らかですが、長らく無策のままです。無免許、暴走行為、病気の無申告などによる事故についても、立法府が動いておらず先に進んでいません。

 法学的に「投票箱と民主政」「選挙を通じた主権者の意思」と言われるとき、その投票箱は抽象的であり、主権者も得体の知れない人々の集団です。この議論は、常に頭だけで考えられた原理原則論であり、生きた人間の息遣いは全く聞こえない種類のものです。他方で、実際に投票箱を通じて主権者の審判を仰いだ若林氏の「選挙うつ」の体験談は、このような机上の空論を拒んでいます。立法府の法改正が遅々として進まないことの苦悩は、こちらの意味の投票箱において捉えられなければならないと思います。