犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

土井隆義著 『友だち地獄』

2008-07-30 21:50:21 | 読書感想文
現代の子供達は、人間関係のサバイバルで疲れ果てているようである。携帯メールにはすぐに返事を出さなければならず、グループ内で浮くことを何よりも恐れているらしい。筆者は、この状態を「友だち地獄」と呼ぶ。友達付き合いから脱落すれば、その先には孤立というさらなる地獄が待っている。これでは、友達という本来の役割を逸脱しており、一種の依存症である。自分らしさや個性尊重という理念は、抽象的なレベルでは何の問題もなかったが、具体的な場面では子供達の自我の肥大をもたらした。そして、この自我同士の衝突を避けるとなると、相互に自己防衛するしかなくなり、肥大した自我が逆に透明になることを強制されてしまった。これは、逆向きの人間不在である。人間は誰でもないからこそ誰でもあるという“Nobody”ではなく、個性的な“Somebody”であるが故に、それが衝突し、“Nobody”を仮構して自分を守るという状態をもたらしてしまった。

「友だち地獄」の元凶はいったい何か。それは友達であるが故に、自分である。すなわち、友達であるところの自分である。例えば、単純なモデルとしてA・B・C・Dという4人のグループを考えると、AにとってはB・C・Dが友達である。同じように、BにとってはA・C・Dが、CにとってはA・B・Dが、DにとってはA・B・Cが友達である。こうして見ると、4人のグループにおいては、誰にとっても自分である割合が1/4であり、友達である割合が3/4である。すなわち、友達である割合のほうが大きい。かくして、地獄を作っている友達は自分であり、自分自身が他者の地獄となる。誰もが孤独を恐れ、自尊心を確認するためには他者に頼らなければならない。しかしながら、そこでは同時に自分が全能でなければならず、そのために他者を利用することになる。これを相互にやっていれば、当然システムは破綻する。

「KY」という略語は、その頭文字を見る限り、「空気が読める(可能)」でもあり得るし、「空気を読まない(否定)」でもあり得た。この略語が「空気が読めない(可能の否定)」の意として定着したことは象徴的である。相互の自我の際限ない肥大を抑制し、すべての自我がすべての他者に依存し合うシステムを保つには、空気が読めない者が最も忌むべき存在である。自分以外は敵でありつつ承認するという微妙な状況を維持するためには、空気が読めない者は排除されなければならない。誰もがそれを知るからこそ、小学生も大学生も自らの生存を賭けて場の空気を読もうとする。この酸素でも窒素でもない比喩としての「空気」という表現は、自我の肥大による反転的な保身が作り出した人間の要請を実感的に表現している。空気が読めない奴だとしてクラス全員からいじめの対象となれば、その空気の流れには誰も逆らえなくなる。そして、いじめられた者は自ら死を選ぶ。

先ほどの例で見ると、AにとってはB・C・Dが空気であり、BにとってはA・C・Dが空気である。同じように、CにとってはA・B・Dが、DにとってはA・B・Cが空気である。すなわち、4人とも知らず知らずのうちに空気の役割を演じており、しかもそれは共犯関係である。自分とは、他者の他者であり、友達の友達である。このような自らを客観視するまなざしは、主観を突き詰めた結果として反転し、自らが誰でもない“Nobody”であることを知ることによって初めて可能になる。現代社会では、大人のほうが市場経済に適合したコミュニケーション能力の習得を求められ、腹を割って話すよりも場の空気を読んでビジネスの交渉を有利に進める能力の習得に躍起になっているため、大人が子供を指導するのはますます難しくなっている。大人が子供の手本となるべきだという古典的なモデルが破綻したのは、現代の高度資本主義社会と情報化社会が大人の自我の肥大をももたらしたからである。

秋葉原殺傷事件の献花台撤去

2008-07-29 23:38:41 | 時間・生死・人生
東京都千代田区は昨日、秋葉原の無差別殺傷事件の発生から四十九日の喪があけたとして、現場近くの献花台を撤去した。今後は歩行者天国の再開が問題となるが、同区長によれば、「再開するかどうかはお盆明けに第三者を交えた検討会を設置して検討したい」とのことである。もちろん、いつまでも献花台を置いておくわけにもいかない。四十九日という1つの区切りは、その数字の妙と合わせて、人類の積み重ねてきた知恵を見事に表している。しかしながら、「安心して歩ける明るい街の復活」「秋葉原のオタク文化の復興」だけではあまりにも空しい。日本人はなぜ、戦後60年にわたって、毎年8月6日、9日、15日に戦没者を追悼しているのか。1月17日、3月20日、4月25日などに慰霊祭をしているのはなぜか。単なる復興や立ち直りというだけでは、大災害も大事故も語り継ぐ理由がない。絶対に忘れない、風化させないという決意は、単なる未来志向ではなく、現世利益を第一とする功利主義でもない。

4月25日は、平成17年のJR福知山線脱線事故の日である。この時には、約2ヶ月後に運転が再開されたが、時期尚早ではないかという激しい議論があった。事故原因の究明・再発防止の点よりも、犠牲者の家族や負傷者の心情という面が難しい問題として日本社会に迫ってきた。107人の犠牲者の家族にとっては、あの事故の瞬間で時間は止まったままである。そんなに早く運転を再開されてしまったら、あの事故はいったい何だったのか。そもそも事故を既成の事実として過去に追いやり、運転再開の時期を検討すること自体が論外なのではないか。そのような思いが抑えがたく生じてくる。しかし、現代の客観的世界観からすれば、時間は止まっていない。通勤の足としてJRを利用していた人からは、いつまでも不通のままでは不便だとの声が上がり、運転再開の要望も強くなってくる。現代の功利主義・実利主義からこのように言われてしまえば、心の整理といった実存的な概念は非常に弱い。そして、運転再開によって日常が取り戻され、再び現実の世界が日常に埋め尽くされる。死者の不存在は、生きている者によって埋め尽くされてゆく。

無差別殺傷事件の連続に伴い、日本社会はそのたびに現状認識を新たにし、様々な教訓を得てきた。その代表的なものが、「今や日本では安心して街を歩けない」「いつ殺されるかわからない」といった形で犯罪不安をあおる理論である。我々はここから、犯罪被害について考え、犠牲者の死を無駄にしてはならないとの教訓を得てきた。しかし、これは日常から死を遠ざける現代社会の悪い点である。「あなたも明日通り魔で殺されるかも知れません」という命題が脅し文句となるのは、来るべき死を忘れて、いつまでも生きているつもりになっているからである。このような教訓は明らかに方向性が違う。生死を考える際の問題の核心は、人間は通り魔で殺されなくても、生まれた限り必ずいつかは死ぬということである。今現在地球に生きている人は、百数十年後には、誰一人としてこの地球上にいない。この基本から逃げていては何も始まらない。この基本を手放さないことによって、追悼や慰霊、風化の防止のための語り継ぎの意義も初めて明らかになってくる。

現代の科学技術は、物理的な意味での霊の存在を否定した。それにもかかわらず、人間はどういうわけか慰霊祭をせざるを得ない。また、死者に生物学的な意味での肉体や意識がないことは、現代社会では常識である。ところが生きている人間はどういうわけか、死者の無念に思いを致し、安らかに眠ってほしいと願う。これらの事実は、紛れもない人間存在の深い真実を示している。同じように、現代の社会制度は、高度な生命保険のシステムを確立した。生命保険だけで話が済んでいるならば、人間にとって非科学的な献花台など不要であり、そのようなものを設けても誰も来ないはずである。ところが実際には、秋葉原の献花台には約8000の花束や約1万1000本の飲み物などが供えられたそうである。これも人間存在の真実である。哲学的な難題には唯一の解答がない代わりに、このような形で解答が自然と示されている。風評被害による経済的損害の回復、一日も早いイメージダウンからの復活、街の再生という理論だけでは、人間が人間として生きることはできない。人間は人間であるために、時には経済効率に反する行為を選択する。

無差別殺人に直面して問わざるを得ない問い

2008-07-27 19:00:00 | 実存・心理・宗教
7月22日に起きた京王八王子駅ビルの殺傷事件で、菅野昭一容疑者(33)の供述が少しずつ明らかになってきている。「仕事関係で2、3日前からむしゃくしゃしていた」。「仕事や職場の人間関係について両親に相談しようとしたが、相手にされなかった」。「大きな事件を起こせば自分の名前がマスコミに出ると思った」。そして、菅野容疑者は事件前の約1週間、市内の旅館などを転々とし、前日は自宅に泊まっていた等の事実も明らかになった。しかしながら、例によって、事件の原因らしい原因は何も明らかになっていない。何が彼を暴走させたのか、その原因を突き止めて、このような事件が起きないようにしなければならない。このような事件直後のマスコミや世論の論調からすると、原因の究明には程遠い。

6月8日の秋葉原の無差別殺傷事件からは、すでに1ヶ月半が経っており、加藤智大被告(25)の取調べはかなり進んでいる。しかしながら、やはり例によって、事件の原因らしい原因は何も明らかになっていない。加藤被告は事件直後、「人生のうっぷんのようなものがたまり嫌になった」「誰でもいいからかまってほしかった」「自分の存在を気づかせるため、どうせなら大きな事件をと思った」などと述べているが、もはやこれ以上のものは出てこないようである。徐々に「後悔している」との供述も出ているようだが、取調べが進めば進むほど、動機が薄っぺらで、何も出てこない事実のほうが明らかになってしまった。何が彼を暴走させたのか、その原因を突き止めなければならないと力んでいたマスコミもお手上げである。

事件の原因を突き止めるためには、犯人の動機を解明しなければならない。根拠によって理論を裏付ける実証主義の近代社会は、このパラダイムで突き進んできた。そして、この役割は刑事裁判に委ねられた。しかし、これまでの数々の大事件を見てみても、刑事裁判はその役割を果たしていない。まずは責任能力の有無が問題となり、精神鑑定に多大な時間が割かれる。また、重箱の隅を突くような事実認定のために何回も公判が開かれる。数年後の判決の頃には、「そう言えばそんな事件もあったなあ」といった状況である。真相を明らかにしなければならない、二度とこのような事件が起きないように原因を突き止めなければならないといった当初の意気込みは、はるか遠く色あせている。そして、量刑が死刑となっても無期懲役となっても、過去の判例との整合性や量刑相場をめぐって専門的な論争が起きる。日本の刑事裁判は、ずっとこの繰り返しをしてきた。

このような方向性の問いによっては、絶対に明らかにならない問いがある。なぜ無差別による殺人によって、「他でもないその人」が殺されたのか、その理不尽さである。八王子の事件では、なぜ他の誰でもなく、中央大学4年生の斉木愛さん(22)が殺されたのか。幼いころからピアノや吹奏楽を習い、中学校の合唱部に属してクラスの練習をリードし、大学のゼミでは同級生15人のまとめ役として誰からも好かれていた斉木さんその人でなければならなかったのか。このように問われれば、どんなに菅野容疑者の動機を追及したところで、何の解答も出てこない。秋葉原の事件も同じである。なぜ殺された7人のうちの1人が、携帯電話から110番通報をしている最中の東京芸大4年の武藤舞さん(21)だったのか。電子オルガンの演奏が得意で、以前から音楽の道を目指して熱心に努力し、就職も決まっていた武藤さんでなければならなかったのか。このような問いには、加藤被告自身も答えることができない。

なぜ、他の誰でもなく、「その人」が殺されたのか。これは法律の問いではなく、哲学の問いである。従って、刑事裁判はこの問いを明らかにしようとする場ではない。しかしながら、いずれは死ぬべき人間が殺人事件に直面して、心底から湧き上がってくる問いの中心は、このような問いでしかあり得ない。哲学の問いは思考過程が大切であり、結果のほうは重要ではない。言い換えれば、問いを立てることそのものが大事であり、その問いの中に答えが含まれている。科学主義に慣れた現代人は、心理学や社会学によって、何でもわかりやすい因果関係で結び付けたがる。「社会格差が広がっているのが真の問題点である」、「ワーキングプアが増えているのが根本的な問題である」、「小泉構造改革の名の下に進められた変化がこういう犯罪を産み出している」といった説明は、無限に可能である。このような説明は、何十回と同じような事件が全国で起きても、そのたびに繰り返すことができる。しかしそこには、誰しも一度きりの人生を生きているという緊張感がない。

「犯罪被害者の人権論」の難しさ

2008-07-26 21:07:07 | 国家・政治・刑罰
某市教育委員会のパンフレット「人権について考えよう」より

●障害者の人権
障害のある人は、障害があることを理由に、さまざまな差別・不利益を受けることがあります。障害のある人にやさしい社会は、あらゆる人にやさしい社会のはずです。障害のある人もない人も、お互いに支え合い、共に生活し、活動できる社会の実現をめざしましょう。

●患者の人権
エイズ患者・HIV感染者やハンセン病患者・元患者、難病患者など、病気についての知識の不足や誤解から、偏見や差別が生じ、患者や元患者だけでなく家族も精神的苦痛や不利益を受けてきました。こうした偏見や差別をなくすため、病気についての正しい知識の普及や患者等の立場に立って考えることが大切です。

●外国籍の人の人権
言語・宗教・習慣等への理解不足から外国籍の人たちへの偏見や差別意識により、さまざまな人権問題が生じています。一人一人が多様な文化や民族の違いを理解し、真の国際感覚を身につけることにより、多文化共生社会の実現をめざしましょう。

●その他の人権問題
「特定の職業に従事する人」「刑を終えて出所した人」への偏見や差別意識、「性同一障害」「身体的特徴」を理由とする偏見や差別意識があります。これらの問題にも理解を深め、解決に向けて取り組むことが大切です。

●犯罪被害者の人権
犯罪に遭遇した被害者やその家族は、それまでの平穏な生活を破壊され、生命・身体・財産に対する侵害のほか精神面でも日常生活に支障をきたしている例が少なくありません。犯罪被害者等の精神的立ち直りを支援するとともに、犯罪被害者等への理解を深めることが大切です。


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今はどこの自治体にもこのようなパンフレットが置いてあり、様々な人権問題が列挙されている。そして、最近は「犯罪被害者の人権」についても掲載されるようになった。しかし、伝統的に列挙されてきた人権と比べてみると、その論理構成が微妙に異なっている。犯罪被害者の人権以外の人権問題については、「差別や偏見を許してはならない」「人々の間の差別意識や偏見をなくすべきだ」という方向性が明確である。これに対して、犯罪被害者の人権のパラダイムは、このような方向性に基づくものではない。人権問題としては異質である。

伝統的な人権問題の守備範囲である差別意識や偏見は、人間の優越感と劣等感が交錯するところに生じている。「理解を深めましょう」という活動がなされればなされるほど、その揚げ足をとり、相手が嫌がっているところを想像して楽しむ愉快犯の発生も免れない。これが根強い差別と偏見の構造である。このような問題は本来政治的であり、人権論のパラダイムに馴染む。政治的な主義主張とは、間違っている現実を正そうとし、理想的な社会を作ろうとするものだからである。

これに対して、犯罪被害者の人権論は、このようなパラダイムに馴染まない。加害者やその家族には差別意識や偏見が向けられることが多いが、被害者やその家族に対してはそのようなことは稀である。興味本位のワイドショー的報道、プライバシー侵害なども、差別や偏見によるものではなく、従来の人権論で捉えるには異質である。「被害者への理解を深めましょう」「一人一人が意識改革をしましょう」と言われても、何だかピンと来ない。「被害者は生命・身体・財産に対する侵害のほか精神面でも日常生活に支障をきたしています」と言われても、どうにも心に響かない。

犯罪被害者の人権論とその他の伝統的な人権論の差異は、どちらの問題が大きいか、より重要かということでない。視角の取り方の問題である。差別や偏見は他者との比較の問題であり、平等や公平といったいわば水平的な問題である。これに対し、犯罪被害の苦しみは、いわば垂直的な問題である。そこで求められるものは、政治的な主義主張の実現ではなく、心の底から響く言葉である。朝日新聞夕刊コラム、「素粒子」の「死に神」問題における新聞社の回答がどうにも歯がゆいのも、恐らくこのあたりに原因がある。

修復的司法の問題点 その3

2008-07-24 20:01:39 | 実存・心理・宗教
「息子を返せ」。「娘を返せ」。修復的司法の理論からは、このような両親の言葉には積極的な評価が与えられない。いわく、「いつまで犯人を恨み続けるのでしょうか」。「厳罰に処されれば、それで済むのでしょうか」。「犯人をずっと憎み続けて、あなたは幸せになれますか」。修復的司法はこのような問いを立てて、遺された家族の復讐心の呪縛からの解放をテーマとし、その支援体制の確立を目指してきた。ここでは、子どもを奪われた親において「息子を返せ」「娘を返せ」という要求をしなくなることが前進であり、立ち直りであり、幸福であるとされている。

それでは、この幸福と不幸は、いったい誰を基準としているのか。修復的司法の理論からは、それはもちろん遺された家族の幸福と不幸であるとされる。ここに1つの大きな転倒がある。子どもを奪われた親が、「息子を返せ」「娘を返せ」と問う。現にそのように問うたということは、問わないよりも問うたほうが幸福だからである。現代の科学的な常識を前提とした上でも、やはり自分の心の奥底を見つめてみれば、帰ってきてほしいという気持ちは抑えられない。これは現実である。そして、返してもらうように要求する相手は、当然それを奪った者である。これも現実である。そうであれば、抑えがたい「息子を返せ」「娘を返せ」との問いを無理に抑え込むことが、果たして本人にとって幸福であるのか。あるいは、そのような問いは事件直後の異様な心理状態におけるものであって、いずれ解消される問いであるとの理論が、果たして本人を幸福にするものなのか。

「息子を返せ」「娘を返せ」という問いが生じなくなることによって、何よりも幸福になるのは、その周囲の人間である。このような答えのない問いを聞かされることは苦しい。従って周囲は、「いつまでも悲しんでいると死んだ子が浮かばれない」などといった慰め方をする。これによって何よりも利益を得るのは、周囲のほうである。腫れ物に触らないで済むからである。科学主義の客観性を前提とする修復的司法も同様である。両親における「息子を返せ」「娘を返せ」という問いが生じざるを得ないという論理の正しさに耐えられず、あるいは沈黙の深さに耐えられず、この問いに被害感情というマイナスのレッテルを貼って抑えようとする。これによって何よりも利益を得るのは、厳罰を免れる被告人と、刑法の厳罰化に反対する主張を持った人々である。子どもを奪われた親自身の利益は、本人の意志にかかわらず押し付けられるしかない。

「なぜ彼(彼女)は死ななければならなかったのか」という問いがある。他方で、「憎しみの連鎖からいかに遺族を解放すべきか」という問いがある。この2つの問いを比較してみれば、その鋭さの差は明瞭である。前者の問いは自分自身を向いているが、後者の問いは他人を向いている。また、前者は抑えがたく沸き上がってくる問いであり、言語道断の自己洞察を経ているが、後者は一定の結論を前提として問いが逆算されており、それ自体がソフトな理論武装となっている。人間の直観は、このような問いの差を見抜けないほど弱くはない。恨みから癒しへ、悲しみから立ち直りへ。人生をこのような単純なモデルに誘導しようとする理論に対しては、言葉で上手く表現できなくても、人間は何とも言えない気持ち悪さを感じるはずである。

「息子を返せ」。「娘を返せ」。修復的司法においては、両親がそのような問いの呪縛から抜けられないうちは不幸であり、抜けられれば幸福になるとされる。しかしながら、幸福や不幸は、他人に決めてもらうものではない。このような問いが消えることによって、遺された両親は立ち直ることができるのだという結論は、あくまでも修復的司法の学者におけるわかり方である。実証科学は自分自身を抜かすことによって客観性を獲得したが、これを自分自身に戻されると説明が付かないという欠点を持っている。「息子を返せ」「娘を返せ」という両親の言葉が聞きたくないのは、あくまでも修復的司法の学者の主観である。また、遺された家族が犯人に厳罰を求めれば未だ立ち直っておらず、犯人を赦したならば家族は見事に立ち直ったという評価も、そのように評価したいという学者の主観である。

京王八王子駅ビル通り魔事件

2008-07-23 22:57:58 | 言語・論理・構造
逮捕後、男は「世の中が嫌になった。誰でもよかった」と供述したという。だが、その言葉から、殺人へ至る理由は見いだし難い。たとえ世の中に絶望したとしても、なぜ通りすがりの人を殺さねばならないのか。男の中で膨らんだ殺意は身勝手としか言いようがない。今の日本社会に閉塞感が漂うといわれて久しい。だが、それは決して他人を攻撃する理由にはならない。

今後の捜査や裁判を通じて、できる限り真相に迫ってもらいたいが、それだけでは足りない。一見平穏なこの社会のどこかに若者を暴走させるものがあるとすれば、それを探って、何とかしなければならない。そうでなければ、巻き込まれた人たちの「なぜ自分に刃物が向けられたのか」という疑問や無念さに答えることにもならないからだ。


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この文章は、昨日の京王八王子駅ビルの事件を述べたものではない。秋葉原通り魔事件の翌日、6月10日の朝日新聞の社説である。この1ヶ月半の間、二度とこのような事件が起きてはならない、何とか原因を探らなければならない、社会全体で真剣に取り組まなければならないといった専門家の議論はにぎやかであった。しかし、その仮説が検証されて完璧な理論が完成するまでに、いったい何人の人が殺されなければならないのか。今回はあろうことか、専門家が秋葉原の事件と八王子の事件との共通点を解説している。いわく、キーワードは「派遣」と「無職」であり、これは格差社会のせいである。2人の加害者は、いずれも収入が不安定であり、将来の不安からストレスを募らせていた。いずれの加害者も、自分が上手く行かない理由を社会に転嫁しており、身勝手な甘え型の犯行である。そのように説明されれば、全くその通りである。しかし、その説明によって、一体何を説明したことになるのか。

事件の一報を聞いた瞬間の絶句と沈黙は、時の経過に従って、徐々に後知恵の解釈によって埋め尽くされる。科学主義・実証主義の世の中では、時間の経過に従って、段々と事件の真相が明らかになってくるものと信じられている。しかし、実際のところは逆である。「許せない」。「信じられない」。「犯人を殺してやりたい」。「怖かっただろう」。「痛かっただろう」。「やりきれない」。「いかなる理由があっても殺人は許されない」。そして、言葉にならない号泣。これらは科学的ではなく、客観的でもない。しかし、どんな専門家による科学的で客観的な理屈よりも、多くのことを語る。事件から数日が経てば、犯罪の動機や背景に関する新たな情報が続出してくる。それによって、実証的な意味での真相は徐々に明らかになり、多くの批評的な言葉が飛び交うようになる。その反面として、事件の瞬間から遠ざかれば遠ざかるほど、その絶句の深さと新鮮さは失われてゆく。これは、つい1ヶ月半前に、秋葉原の事件の報道において多くの日本人が経験したところである。

何とかしなければならない、二度とこのような事件が起きてはならないと言うならば、最も有効な方法は、事件直後の第一報を聞いた瞬間の絶句と沈黙を維持し続けることである。実証的な仮説と検証の方法は、「なぜ殺したのか」という能動態の問いを好む。何となく追究していけば答えが出そうだからである。しかし、いずれにしても答えが出ないのであれば、「なぜ殺されなければならなかったのか」という受動態の問いを問う方がはるかに賢い。被害者の側から見てみれば、「無差別殺人」などという行為が存在し得ないこともわかる。従来、被害者側からの視点は、専門家や評論家の間では劣ったものとして軽視されていた。そして、マスコミは市民の処罰感情をいたずらに煽っており、被害者感情を重視しすぎて公平性を欠いているといった批判が主流であった。しかしながら、このような事件が起きない社会を目指すならば、公平性を欠いてでも、被害者側からの視点の報道を増やすほうが有効である。「いかなる理由があっても殺人は絶対に許せない」のであれば、加害者の動機を掘り下げて報道することは、むしろ逆効果だからである。

生命のメッセージ展 in ぐんま県庁

2008-07-21 18:56:19 | その他
生命のメッセージ展の会場に、1枚の大きな写真パネルがあった。犠牲者の等身大のパネルが森の中にいくつも立っている。生命のメッセージ展のホームページで何回も見ているが、このような大きな写真の目の前に立つのは初めてである。一瞬ギョッとした。見つめられている気がしたからである。そして、なぜか自分が車の運転免許を取った日のことを急に思い出した。

警視庁の府中運転免許試験場は、東京都立多磨霊園のすぐ隣にある。私は、無事に免許が取れたことを祖父母の墓前に報告しようと思った。しかし、墓地の中をしばらく歩いていて、急に恐ろしい気分になった。無数の墓石が自分を見つめている。いつも彼岸の頃には沢山止まっている車は1台もなく、いつもは大勢の人で賑わう広場にも人っ子一人いない。平日の昼間にここに来たのは初めてであった。無数の死者に囲まれて、自分だけがぽつんと生きている。突然この事実に直面し、私は足がすくんでしまった。

少し広い所に出たとき、フッと風が吹いて木々の枝が揺れた。もう一度、爽やかな風がサーッと吹き抜けて、全身がひんやりとした。そのとき、なぜか恐怖心が一瞬で消えた。奇跡でも超常現象でも何でもなく、自分が死者に守られているような気がしたからである。なぜその瞬間だったのかわからないが、風は吹いたのではなく、吹き渡っているという感じであった。死者の目が怖いと言っても、そもそも自分は祖父母の墓前に報告に行くのではなかったのか。いずれ自分もそこに入るのではないか。私は苦笑しながら祖父母の墓前に行き、もらったばかりの免許証を置いて、一生涯の安全運転を固く誓った。

この日の出来事は、10年以上もずっと忘れていた。しかし、生命のメッセージ展の会場のパネルを見たとき、その日の記憶と全身の感覚が一瞬で甦ってきた。パネルには、『千の風になって』の歌詞が大きく書かれていた。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって 
あの大きな空を 吹きわたっています

そういうことだったのか。10年以上前の記憶と、2年前の大ヒット曲が、なぜか生命のメッセージ展の会場で結びついた。犠牲者の等身大のパネルに自分が守られているような気がした。

埼玉県川口市 父親殺害事件

2008-07-20 00:17:48 | 実存・心理・宗教
昨日の未明、埼玉県川口市で、中学3年生の娘が46歳の父親を刺殺する事件があった。近年では子供が親を殺す事件が珍しくない。東京都板橋区で15歳の息子が父母を鉄アレイで殴って殺害した事件、奈良県田原本町で16歳の息子が自宅に放火して母親らを殺害した事件、京都府京田辺市で16歳の娘が父親を斧で殺害した事件などが社会を震撼させた。しかし、これらの事件も、もはや記憶に新しいとは言えない。今回の事件の報道も、これまでの事件と非常によく似ており、すぐに人々の記憶から忘れ去られるはずである。加害者は礼儀正しい子であり、学校の成績も上位だった。仲の良い父と娘であり、ケンカもなく、前の日にはカレーライスを作った。関係者の間にも「信じられない」「なぜ」との当惑が広がっている。しかし肝心の本人は、2回刺した後のことは「気が動転して覚えていない」。そして、例によって精神鑑定が行われて、ありきたりの解釈で終わる。麻原彰晃や宮崎勤の裁判と同じく、長々と手続きを尽くした割には何も明らかにならず、脱力感だけが残るといういつものパターンである。

子供が親を殺した事件の罪名は、殺人罪(刑法199条)である。以前は、尊属殺人罪(旧刑法200条)という特別な罪があった。現在も刑法200条は欠番扱いである。この条文については、法の下の平等(憲法14条)に反するとして、昭和48年に最高裁で違憲判決が出された。尊属殺人罪の刑は無期懲役と死刑しかなく、明らかに親が暴力的であった場合などの個々の事情に対応できなかったからである。その後、刑を下げるか、それとも条文そのものを削除するかで論争があったが、結局平成7年に条文が削除された。人権論の下では親であろうと子であろうと一人の人間として平等であり、敬愛や報恩という社会道徳を法律で押し付けるべきではなく、戦前の家父長制度の悪弊は民主主義に反するというのがその理由である。戦後民主主義に基づく刑法改正は、これによって一件落着した。立法論としてはこれで十分であり、今さら尊属殺人罪の復活を唱える意見は少ない。しかしながら、現実に父親殺し、母親殺しの犯罪がこの世から消えたわけではない。少年審判や刑事裁判で問われるのは、まさに戦後民主主義の理論のその先である。

通り魔的な無差別の殺人事件が「悲劇」であれば、肉親同士の殺人事件は「地獄」である。父親を殺した娘にとっては、時間が経てば経つほど、世界に一人しかいない自分の父親の死という現実が迫ってくる。父親がこの世に存在しなければ、自分もこの世にこのような形で生まれてこなかった。ところが、その父親はもはやこの世にはおらず、しかもその原因を作ったのは自分自身である。生き返って欲しい、もう一度会いたいとほんの少しでも思ってしまえば、その矛先はすべて自分自身に向かってくる。この自己言及の存在形式をそのまま生きることの言語道断は、他人には想像が不可能である。これに対して、殺された父親のほうは、最期の瞬間に何を考えていたのか。もし自分が娘をこの世に誕生させなかったならば、自分はこのようなような形で命を落とすことはなかった。自分は何のために娘を育ててきたのか。自分の人生とは何だったのか。さらには、その他の肉親にとっては、一瞬にして身内の1人が殺人罪の加害者となり、もう1人が殺人罪の被害者となる。時間は戻らない。特に残された母親にとっては、まさにこの世の地獄というより表現する方法がない。結婚から出産、すべての過去の記憶が崩れる。行き場を失った言葉はカレーライスに逃げる。

尊属殺人罪の規定が削除されてから十数年が経ったが、このような事件が起きるたびに、問題はそんなに簡単ではなかったことがわかる。この論争が行われていた当時、廃止派は存置派に対して、単純なレッテルを貼っていた。頭が固い、時代に合わない、憲法の趣旨に合わないといったものである。ちょうど、夫婦別姓の議論が盛り上がり、子どもの権利条約の批准に向けて動き出していた時期とも一致する。戦前の家制度の名残りを解体し、すべての人間を1人の人間として尊重すれば、家庭内の問題も解決するはずであった。しかし、その後十数年が経ってみて、現実は理屈どおりに行かなかったことがわかる。人間の存在形式における人称性、とりわけ2人称の生死の観点を全く欠落させていたからである。法の下の平等(憲法14条)の理念を社会の隅々まで演繹すれば、親と子、子と親という独特の関係まで、すべてが平板化してしまう。確かに、刑法は敬愛や報恩という社会道徳を押し付けるべきではなく、刑法200条は過去の遺物である。しかし、子供が親を殺す事件がなくならない限り、それは問題の終わりではない。

取調べの可視化で問題は解決するか

2008-07-19 20:46:31 | 言語・論理・構造
供述調書とは、被疑者が捜査官に向かって述べた話し言葉(パロール)を書き言葉(エクリチュール)に変換したものである。ある出来事を言葉にしようとするとき、それは1つの物語を創作することになる。人間は、脳が紡ぎ出す言葉の世界において対象に命名し、その論理空間を切り開いているからである。そして、法律は部分的言語ゲームであるから、定型詩を書く能力がある者によって書かれなければ、それは供述調書にならない。その意味で、被疑者本人は供述調書を書くことができない。そして、捜査官の作る定型詩は、被疑者本人とは脳が別である以上、その情景のイメージは絶対に一致することがない。

規範定立の後にあてはめを行うという法律の定型詩においては、事実を法律の中に収めるため、主観的構成要件の枠組みから現実の故意を逆算する。そして、さらに動機を故意の先に位置づける。従って、取調べとは、このような定型詩を完成させるための作業となる。そもそも、このような形になるように聞かなければ取調べにならない。カツ丼を食べて世間話をして終わりでは済まない。その意味で、供述調書とは、被疑者と捜査官の共同作業による物語の創作である。捜査官が怒鳴ったから自白の強制があり、その意に反する供述があったというような簡単な話ではない。会話がキャッチボールであることは、取調べの場面でも同様である。

被疑者にしてみれば、動機など無限に語れる。思い返してみれば、あれもそうかも知れないし、これもそうかも知れない。人を殺してみたいという気持ちがどこかにあったのではないかと言われれば、そんな気もする。刑務所に入りたいという気持ちがあったのかと言われれば、なかったとも言えない。死刑になりたいが自殺する勇気がなかったのだろうと問われれば、それも否定できない。一体何が動機なのか。たまたま語られた動機を額面どおりに受け取っていいのか。どんなに被疑者が懸命に動機を語ろうとしても、それは全く言葉にならず、もしくは無限に言葉になる。これでは支離滅裂であり、裁判にならない以上、捜査官とで共著の物語を合作しなければ話が進まない。

日常の常識的なわかりやすい言葉において、犯罪に際しての故意や動機を語らせようとするのが供述調書である。しかしそもそも、犯罪とは非日常的であり、非常識な行為である。従って、それを常識的な言語で語らせることは、必然的に矛盾を生じる。被疑者によって語られたものは、犯罪の実体でも何でもなく、しかも記憶された部分のみの言語化である。人間が言葉の世界に生きて対象に命名し、その論理空間を切り開いている以上、言語化できる物語はいくつもある。これを法治国家で使い物になるようにするには、捜査官における形式的な部分的言語ゲームにおいて、物語を編纂するしかない。以上のような言語の特質は、取調べの可視化によっても何の影響も受けない。

池田晶子著 『考える日々』 第Ⅰ章より

2008-07-18 00:01:28 | 読書感想文
第Ⅰ章「考える日々」・「無いものを教えようとしても」より (p.109~)


先日、NHKの教育で、各地の小中学校で、「死の教育」の試みが始まったという番組をやっていた。「命の大切さ」がわからなくなっている現代の子供たちに、命の大切さを教えるためにこそ、かつてはタブーだった「死」を教えようという動きが出てきたという。

しかし、逆に、私は、先生方にこそ、お訊ねしたい。それでは、死とは、何ですか。あなたが、そうして子供に教えようとしているところのその死とは、一体何なのですか。答えは、だいたい予想できる。「なくなること」「いなくなること」「それきりになること」。だから、それはいったいどういうことなのか、そのことこそが、ここで問われているそのことなのだから、これは答えになっていない。子供たちが納得できないのも道理である。教師側に欠落しているのは、じつは自分にもまったくわかっていないということへの自覚である。自分にもわかっていないことについて教えようとしているのだから、教えて教えられないのも道理である。

自分でもわかっていないことを、人に教えることは決してできない。しかし、わかっていないということはわかっている、このことなら、教えることができる。いや、このことを教える以外、死について教える仕方はあり得ない。むろん、「命を大切にしよう」というお題目を復唱させることならできる。しかし、そんなことが、望まれているそのことなのではないはずだ。命の「大切さ」を教えるより、命の「不思議さ」を感じさせるほうが先だ。命の不思議さとは、言うまでもなく生と死、すなわち「存在と無」の不思議である。生きて死ぬこと、存在することしないこと、この当たり前の不思議に驚くところにしか、それを「大切にする」という感覚は出てこない。


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「1人称の死」は絶対不可解の恐怖が中心であり、「2人称の死」は死別の悲しみが中心である。しかし、すべては1人称の生からの派生である以上、2人称の死にも絶対不可解の問いはつきまとう。愛する人はどこへ行ったのか。なぜ帰ってこないのか。なぜ会えないのか。このような絶対不可解の問いが抑えがたく発生するならば、それは紛れもない現実である。人間存在は、どういうわけだか、このようにできている。人類が宇宙に行くこの時代、物質的な意味での「天国」や「あの世」の存在は幻想にすぎない。しかしながら、ある人間が「天国」「あの世」と言語化するや否や、なぜかそれは言語によって存在するものとなる。死別の苦しさと絶対不可解が人間存在における自然の摂理であるならば、その問いへの解答を探るよりも、自らがその問いをそのまま生きていることに気づくほうが先である。

人は誰でも必ず死ぬものだと言われれば、これは疑いようもなく正しい。不条理が不条理として腑に落ちる。しかしながら、不条理が不条理としても腑に落ちないならば、やはりそれも道理である。人間存在は、どういうわけだか、このようにできている。2人称の死の絶対不可解さは、遺された者の遺され方において非常に大きな差がある。まず、一般的な死よりも、自殺や天災のほうが不可解さは大きい。また、不可解さが最も大きいのが、犯罪による死である。加害者のほうがなぜか生きているからである。年齢については、若ければ若いほど、その不可解さは大きくなる。特に、逆縁はこの世で最大の存在論的不可解である。なぜ最大なのかと理由を求められても、人間はすでにそのような存在の形式を生きてしまっているとしか言いようがない。

2人称の死の絶対不可解さは、悲しみではなく、問いである。周囲の人々は、その純粋な良心から、遺された者の悲しみを癒そうとする。しかしながら、問いは癒せない。問いは問うものであって、癒すものではないからである。もし、遺された者の問いが癒せるというならば、まずは「人生とは何か」「人はなぜ生きるのか」「人はなぜ死ぬのか」といった問いに答えを出すのが論理的に先である。これに答え出せないのであれば、癒しといった方向で問題を解消するのは無理だと認めたほうが正直である。生死が不思議であり、命が重いからこそ、人間は死を悲しむ。死が悲しまれなければ、その命は軽くなる。