犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

岩田靖夫著 『いま哲学とはなにか』  第Ⅰ章「人はいかに生きるべきか」

2008-10-31 23:08:20 | 読書感想文
p.22~

「人はいかに生きるべきか」という問題は、他者といかに関わるべきか、という問題へと発展してゆく。この場合、他者との関わりは、2つの局面に分かれる。1つは、単独の、かけがえのない他者との関わり、すなわち、愛の関わりであり、他は、多数の、平等な他者との関わり、すなわち、社会における正義の関わりである。

フィリアー(愛)はアリストテレスによれば3つの成立根拠をもっている。その1つは「有益なもの」であり、もう1つは「快いもの」であり、そして、最後に「善いもの」である。利益や快楽に基づく愛は、第1に、自分自身の利益や快楽の尊重で相手自身の尊重ではないこと、第2に、そのような利益や快楽を生み出す相手の美質は安定性を欠くあまりに移ろいやすい陽炎であるという点に問題がある。それゆえ、利益と快楽に基づく愛は、本来、愛の名に値しない。これらの交わりにおいては、人は相手の人を愛しているのではなく、自分の利益や快楽を愛しているからである。それはエゴイズムの一形態なのである。

そこで、愛は、残る1つの成立根拠、すなわち「善」に基づく愛でしかありえない。なぜ、そうなのか。なぜなら、相手自身を愛するとは、相手のもつ様々な性質や能力を愛することではなく、相手の人格を愛することであり、人間の人格は善(徳)に基づいてしか成立しえないからである。どのように魅力的な性質や能力も時間の中で老化と衰弱へと運命づけられている。もしも、人と人との交わりがこれらの属性に依存していたのなら、交わりもまた早晩衰弱し消滅せざるをえないだろう。

しかし、善に基づいて形成された人間の「在り方」としての徳は、人間のもつ様々な在り方のうちで、もっとも恒常的であり、安定的であり、したがって、信頼に値する、とアリストテレスは言う(『ニコマコス倫理学』)。いったん確立された徳は、いわば時間と老化とあらゆる加害を超えて存続する人格の基礎として、生きている限り、決して滅亡することのない恒常的存在である。それゆえ、善い人と善い人の間にのみ、真の愛が成立する。自分が利益や快楽を血眼になって欲求するエゴイストであれば、決して、他者に人格として近づくことはできない。

アリストテレスのフィリアー論においては、私と他者の交わり、すなわち、私と他者との真実の愛の実現とは、私と他者との善に基づく自己同一の実現である。このことは、人間の愛が、母子愛、兄弟愛、同族愛など血のつながりに基礎をもち、そこにもっとも強固な連帯の土台をもちながら、生物的連帯の希薄な他者へと漸次拡大するという事実から、十分の説得力をもつだろう。


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結論1: 現在の日本で語られている「愛」の多くは「善」ではない。

結論2: 死者に対する「愛」は、利益や快楽に基づく愛ではありえず、必然的に「善」に基づく愛となる。従って、生きている者に対する愛よりも深い。

結論3: 被害者遺族における最大の感情は、「善」に基づく愛である。「心のケアによって厳罰感情を和らげる」というパラダイムは入口が逆である。

池田清彦著 『正しく生きるとはどういうことか』

2008-10-30 21:00:29 | 読書感想文
自由競争と市場原理のみの社会においては、貧富の差は必然的に拡大する。すなわち、制度の適用における「機会の平等」が「結果の不平等」を帰結する。この矛盾の調整が、正義論の最大の問題である(p.154)。社会主義の崩壊以降、法哲学の世界では、この正義論が精密かつ実証的に論じられてきた。「機会の平等」と「結果の平等」に関する研究の進展は著しい。それでは、これらの研究は、現実の格差社会の解消、勝ち組と負け組の二極分化の是正、ワーキングプア対策に役立っているのか。これは一見してわかるように、ほとんど使い物になってない。理論の抽象度が高すぎて、理論を実社会に適用しようとする間に、実社会が先に進んでしまうからである。

憲法における平等論は、人権論から派生する原理原則論である。しかしながら、人間はすべて平等であるという思想もごく最近のものであり、時代を超えた普遍性はない(p.141)。このフィクション性を見落とした憲法論は、やはり抽象論の世界に昇ってしまい、地上に帰ってこられなくなる。法の下の平等を規定するのは憲法14条であるが、同条に関する重要判例といえば、十年一日のように議員定数不均衡訴訟、昭和女子大事件(政治運動に伴う退学処分)、日産自動車事件(女性社員の定年)などが挙げられている。しかし、投票率が50パーセントも満たず、大学生の政治運動は消滅し、社員のリストラどころか会社の倒産が当たり前の現在において、この問題意識のピントは合っていない。

現代の多くの日本人にとって、最も懸案事項である平等・不平等の問題は、憲法論のそれとは見事にずれている。憲法14条1項は「人種、信条、性別、社会的身分、門地」を列挙しているが、多くの人々にとってはどうでもよい。我々の自尊心を絶えず揺さぶり、優越感と劣等感の間で人生の大問題を引き起こすのは、生まれつきの能力の問題である。その中でも、特に容姿の美しさの差異、異性にもてるかもてないかの差異は、現代社会の平等・不平等の問題において、その関心のほとんどを占めている。いくら憲法が個人の尊厳を保障し、人間であるだけで価値があるのだといっても、そのような建前は木っ端微塵である。現代社会では、容貌の優れた者は様々な欲望を実現することができるが、そうでない者にとっては非常に苦しい(p.60)。世の中はそのようにできている。

資本主義における欲望は、すべて他人と差異をつけること、他人との差異を埋めることに収斂してくる。資本主義下の大衆民主主義の社会では、身分の差がないぶん、金持ちは羨望と嫉妬の的となる(p.69)。この差異化の過程は、さらに人々の欲望を均一化させ、資本主義を加速度的に駆動させ、どうにも止まらなくなる。古典的には、自由と平等は原理的に対立するものとされ、法哲学者はその研究に頭を悩ませてきた。しかし、現在の日本では、思わぬ方向で答えが出てしまっている。すなわち自由も平等も、資本主義がその上位概念となり、両者がその中に飲み込まれてしまった。自由とは金儲けをする自由であり、不平等とは勝ち組と負け組の差である。理論と実務の融合を目指すと、このように身も蓋もないことになる。

東京都立墨東病院・妊婦死亡事件

2008-10-28 18:17:22 | 国家・政治・刑罰
東京都内で今月4日、脳内出血を起こした妊婦(36)が8病院に受け入れを拒否されて都立墨東病院で死亡した問題では、今日まで様々な人が、それぞれの立場から意見を述べている。22日には東京都と病院が記者会見をし、「当直医は当初、脳内出血だとわからなかった。わかっていれば最初から受け入れたはずだ」と説明した。その上で、一連の判断は妥当だと主張し、医療過誤ではないとの認識を示すとともに、都内でも慢性化している深刻な医師不足の現状などを訴えた。これに対して、墨東病院に受け入れを依頼した妊婦のかかりつけ医は、脳内出血が疑われる症状を伝えていたことを強調しており、双方の食い違いが浮き彫りになっている。さらに、24日には責任の所在をめぐり、舛添要一厚労相が東京都を、石原慎太郎知事が国をそれぞれ痛烈に批判した。

政治的な対立は、立場が変われば主張が変わる。国に属する者は国自身を批判することはなく、東京都に属する者は東京都自身を批判することはない。これは、あってはならない現状を否定し、あるべき将来を実現するために、熱くなって他者に対する要求をお互いに繰り広げる行為である。これに対して、立場の変わりようがない状態に置かれた者の言葉は、実に静かである。あってはならない現状を否定することができず、あるべき将来も実現できないため、熱くなって他者に対する要求する事柄もない。ただ、恐るべき現実を強制的に受け入れさせられるのみである。これを運命、もしくは宿命と呼ぶ。思考は内へ内へと沈潜し、問いは他者ではなく自己に向かう。そして、その言葉は激しい政治的な攻撃ではなく、静かな祈りに似てくる。

27日に記者会見した妊婦の夫(36)は、時に言葉を詰まらせながら、妻の死を無駄にしないよう懸命に医療の改善への願いを語り続けた。「やりきれない気持ちでいっぱいです。なぜ、こんなに文明や医療の発展した都会で、死にそうに痛がっている人を誰も助けてくれないんだろう。もし代われるのであれば、代わってあげたい」。「おなかに赤ちゃんがいるお母さんが、安心して子供を産めるような社会になることを祈っています」。夫は、このように自らの願いを語る一方で、特定の誰かを責めることは一度もなかった。「医師や看護師は本当に良くしてくれた」。「墨東病院では、妻が死ぬ日に、妻の腕に子供を抱かせてくれました。2、30分くらいだったかもしれないが、本当に温かい配慮をしていただけた」。「病院の責任を追及したり、責めようとは思わない。ただ、事実を明らかにして現状を変えてほしい」。

現代の民主主義社会は、あまりに問題解決型の議論に慣れすぎてしまった。何は間違っている、何をどうすべきだ、このような顔を真っ赤にした政治的な主義主張である。今回の問題にしても、ひとたび「真の問題点探し」が始まるならば、元凶と名指しされた者の反論によって、事態はあっという間に泥仕合となる。そして、誰もが遺族の無念を晴らすために、死を無駄にしないために、正義を主張して悪を排除し、世の中を変えようとする。ここに言われているような正義は、恐らく妊婦の夫の「安心して子供を産めるような社会になることを祈っています」という願いとはどれも一致しない。立場が変われば主張が変わるような意見は、他人の名を借りた自分自身のための主張だからである。本来、経験者でない者が経験者のためにできることは、絶句したまま静かに寄り添って、共に涙を流すことだけである。

木田元著 『なにもかも小林秀雄に教わった』

2008-10-26 16:52:12 | 読書感想文
p.199~

問題は、この間、1960年の東京移住のあたりで、私の本の読み方が変わったということであった。どう言えばその変化をうまく言い当てられるのかよく分からないが、このころから本の読み方がプロフェッショナルになったということだろうか。もっとも、これを「職業的」と訳しても「専門家的」と訳しても、少し違うような気がする。別に講義をしたり論文を書いたりするのに必要な本ばかり読むようになったわけでもないし、読み方が杜撰になったわけでもないからだ。

どうもこういうことらしい。つまり、自分の精神の形成期――「精神」というのが目ざわりなら、「人格」でも「思想」でもいいのだが――に、それを読みながら精神なり思想を形成していくというかたちで読んだものと、いちおう精神なり思想なりの骨格ができあがってから読んだものとでは、心に刻みこまれる度合いが決定的に違う。自分がどこにいるのかよく分からず、それを読みながら手さぐりで進む方法を探し求めた本と、いちおう見通しが立ってから、その道筋に適当に配置しながら読んだ本との違いということになるのだろうか。


p.239~

昭和20年代後半から30年代前半にかけては、唐木順三の『詩とデカダンス』や『中世の文学』、山本健吉の『古典と現代文学』や『芭蕉』、福田恒存の『人間・この劇的なるもの』、河上徹太郎の『日本のアウトサイダー』などを結構夢中になって読んだ。あのころはこうした文芸評論家たちが、あれがいい、これが面白いと、殊に古典についていろいろと教えてくれるものだった。私にとっては、そうしたお師匠さんたちのいわば総元締のような感じだったのが小林秀雄なのであり、だからこそ、何もかもこの人に教わったような気がするのだろう。

もう1つ、あの時代の特質は、ハイデガーやサルトル、メルロ=ポンティといった、まさしく時代をリードする哲学者たちが、詩や小説や絵画について積極的に発言していたということであろう。それも、いわば哲学の余技として芸術も論じたということではなく、この人たちはもともと近代理性主義の限界を見たところから出発しているので、われわれの感性的経験のうちに、殊にその感性的経験の秘密をいわば拡大して見せてくれる芸術家たちの感性的経験のうちに、なにか根源的なものをもとめて芸術に問いかけるのである。


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日本のハイデガー研究の第一人者である木田元・中央大学名誉教授は、実に波乱万丈の人生を送っている。3歳から16歳までを満州で過ごし、終戦時は江田島の海軍兵学校に在籍していた。その後、シベリアに抑留された父親が戻ってくるまで、戦後の混乱の中で闇屋をやって食いつないでいたが、ハイデガーの『存在と時間』を原語で読みたいとの一心で、東北大学文学部哲学科に進学する。さらにそこから、ハイデガーの本が書けるようになるまでに33年の歳月を要している。

現在の日本は、長い出版不況から抜け出せない。本が売れないため出版点数を増やし、それによって本の質が低下している。良書は売れないため、考えなくても読める本、すなわち「簡単に幸福が手に入る」自己啓発本ばかりが店頭に並ぶ。それによって本はますます売れなくなり、出版社は出版点数を増やして売上を確保しようとするため、また本が売れなくなる。これは見事な悪循環である。木田氏の生き様を見せられると、この悪循環の原因がよくわかる。

“成功哲学”の発想

2008-10-25 14:36:05 | 実存・心理・宗教
ある法科大学院・弁護士の講演会より

「私は司法試験に7回落ち、8回目でようやく合格しました。私は、1~2回で簡単に合格しなくて良かったと思っています。なぜなら、何度も落ちてどん底から這い上がったことによって、自分を信じることの大切さ、念じ続ければ夢は必ず叶うということ、あきらめなければ何かが起きるということを知ったからです。夢を叶えるためには、まずイマジネーションが大切です。その上で、夢を現実にできるだけの行動力が必要なのです。人生の勝者になるためには、この2つが絶対に必要です。夢を現実に変えていくには、やはそれなりの信念が必要で、自分を信じる気持ちを常に持ち続けつつ、自分は夢を実現した瞬間の状態を常に想像することが大切です。その思いが強ければ強いほど、夢が現実になるのは早いはずです。

弁護士は犯罪者の代理人として、被害者や遺族の自宅に伺って謝罪し、粘り強く示談交渉を取り付けなければなりません。犯罪者の弁護をしているというだけで、私もよく罵倒されます。自分自身が悪いことをしたわけでもないのに、何で大声で怒鳴られなければならないのか、土下座までしなければならないのか、辛い思いをすることもあります。そんな時に自分を支えてくれるのは、7回の不合格から立ち直ったことと、8回目でようやく合格をつかんだ執念です。あきらめなければ夢は必ず叶うという信念があるるからこそ、私は絶対に示談を成立させてやるとの確信を持つことができるのです。私は、被害者との示談交渉を成立させた後の自分になり切って、夢がすでに叶えられたという思いで、成功のイメージを持ち続けています。私は自分を信じているからこそ、何度も何度も被害者の家に押し掛けたり、断られても断られても土下座を続けることができるのです」


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現代の法治国家の構造において、犯罪を取り扱う地位にあるのは、裁判官・検察官・弁護士の法曹三者である。すなわち、いわゆる成功者、人生の勝ち組のグループである。そこには、一流大学の法学部や政経学部を卒業し、なおかつ最難関の国家試験を突破したことの余裕と実績がある。そこから、「犯罪被害者を取り扱う」「遺族をなだめる」といった対象化の視点が生まれてくる。現代の法治国家の構造において、犯罪被害に遭うということは、このような構造の中に巻き込まれるということである。時間は戻らず、死者は帰らない。死んだ人を返してほしい、元通りに戻してほしいと願い続けても、そのような夢は実現しない。被害者遺族が断腸の思いで締結する示談とは、この残酷な現実の先にあるものである。その意味では、「誠意を見せ続ければ示談は必ず成立する」といった捉え方は、論理が完全に逆立ちしている。誠意を見せれば見せるほど、本来ならば、示談など論理的に成立しないものであることに気付かれなければならないからである。

犯罪被害者との示談交渉に最も適任なのは、8回目の司法試験で念願の合格を果たして弁護士になった人物ではない。8回目の司法試験でも不合格になり、自分を信じても裏切られ、念じ続けても夢は叶わないということを知り尽くした人物である。20代の青春を司法試験に費やし、挙句の果てに弁護士になれず、それどころか貯金も就職もなく、絶望の前で立ち尽くしている人物である。ところが、法治国家においては、このような人物は犯罪被害者の示談交渉にあたってはならない。弁護士法72条の非弁行為として、法的紛争の交渉は厳重に禁止されているからである。講演を行った弁護士は、次のようなことも述べている。「受験生は、合格者の成功体験談を聞いて、勝ちグセをつけなければならない。そして、不合格者に近付いてはならない。人生の敗者には負のオーラが漂っているからである」。“成功哲学”の発想は、弱さと不安の裏返しであって、1つつまづくと非常に脆弱なものである。

大阪難波・個室ビデオ店放火殺人事件

2008-10-23 18:29:06 | 実存・心理・宗教
16人が死亡した大阪・難波の個室ビデオ店放火殺人事件で、大阪地検は22日、殺人と放火などの罪で小川和弘被告(46歳)を起訴した。小川被告は、逮捕時の弁解録取においては、「死にたいと思いバッグに火をつけた。人が死ぬかもしれないことはわかっていた」と供述していた。さらには、「生活保護を受けるような生活が惨めで、家族と別れて情けない。個室で死のうと決めた。ライターでティッシュに火を付け、バッグの新聞を燃やした」との具体的な供述をし、経済的困窮や家庭崩壊から自暴自棄になった自らの人生に真摯に向き合い始めていた。ところが、弁護士との接見を重ねるうちに、同被告の供述は180度変遷することになる。現在では、「火を付けた記憶もない。DVDを見て、たばこを5本くらい吸って寝た。煙と臭いで気が付いた。自殺する気はなかった。たばこの不始末しか考えられない」と主張しているという。

このような展開を辿る刑事事件は非常に多い。そして、裁判ではどのようなことが行われるのか、これも目に見えている。人間社会における哲学的な罪と罰、絶望に追い込まれた人間の実存の叫び、無差別の他者に矛先を向けたくなる自我の肥大、そして起きてしまった現実の残酷さ、このようなものは全く議論の対象にならない。警察官・検察官の面前における自白調書と、法廷における否認の供述のどちらが信用できるか、刑事訴訟法322条に関する争いを展開するのが裁判所という場である。法廷には、取調べを担当した刑事と検事が呼ばれて、弁護団と丁々発止を繰り広げる。最初の犯罪それ自体とは遠く離れて、取調べの状況が1分1秒単位で細かく争われる。この裁判においても、大阪地裁では「裁判は犯罪被害者遺族のために存在するのではない」との命題が嫌というほど実証されることになる。

小川被告の当初の自白は、実に多くの貴重な論点を提示していた。もし人間が他者の犯罪から何かを学び、何らかの社会的な意義を見出し、生産性のある議論をし、二度とこのような事件が起きないように決意するならば、これらの論点をそのまま深く掘り下げる以外に採るべき行動はない。借金やギャンブルにはまり込む人間心理、それでもお金を貸し続ける消費者金融の商法、生活保護費までギャンブルに注ぎ込む人間の弱さ。社会全体の歪みに責任を押し付けることができない自己評価の失墜と自損感情、病気で働けない自らの運命への呪詛、さらには支援施設の世話になることに基づく人間の誇りの喪失。ネットカフェや個室ビデオ店で寝泊まりを続けることによって生じる心の荒廃。16人もの命を奪った人間には、これらの論点に人生を賭けて立ち向かうべき義務がある。また、拘置所の中で労働の義務を免除され、国民の税金で衣食住を保障された被告人には、これらの論点に人生を賭けて立ち向かう権利がある。

小川被告は逮捕された当初、「これまでの人生を振り返って、このまま生きていても面白くないと思い、焼け死んでやろうと思った。自分としては1人で死ぬつもりだったが、煙で苦しくて、我慢できなくなり部屋から出てしまった」と述べていた。事件の直後、宇宙の中でたった1人で立って自分自身と向き合い、それによって他者と向き合う。自己の犯した罪と向き合い、それによって他者の蒙った被害と向き合う。小川被告は、誰に指示されるわけでもなく、確かに人間の倫理が指し示す唯一の道を自然と歩き始めていた。しかし、例によって、弁護士との接見を重ねるうちに「自分の素直な気持ち」に気付いてしまった。被疑者国選弁護制度のメリットとデメリットは色々あるが、最大のデメリットは、人間が自らの内心を深く掘り下げなくなること、それによって議論のレベルが浅くなることである。犯罪被害者遺族の救済がこの深さの中にあるとすれば、心のケアはますます難しくなる。

専業主婦と兼業主婦

2008-10-22 20:57:26 | 実存・心理・宗教
いつの世でも絶えず争いが続き、急に盛り上がっては沈静化したりして、永久に決着がつかない問題というものがある。例えば、専業主婦と兼業主婦の対立である。これは、「男性vs女性(未婚者vs既婚者(専業主婦vs兼業主婦))」という形をしている。決着がつかない問題というものは、実はすでに正解が出ている。すなわち、どちらも正解である。専業主婦は専業主婦の生活を肯定していればよく、兼業主婦は兼業主婦の生活を肯定していればよい。人にはそれぞれ色々な事情があり、人生観があり、様々な考え方がある。何もムキになって他者の人生観を否定する必要もないし、お互いに他人の生き方に干渉する権利もない。それにもかかわらず、この種の問題提起はいつまでも消えることがない。それは、個人の人生設計の問題に社会の制度設計の問題を持ち込むからである。これは人間の実存不安に基づく行動であり、完全に避けることができないが、不毛な水掛け論になってきたらすぐに手を引くことは可能である。

専業主婦は趣味や余暇に割く時間があり、自分のペースで生活できるが、家事労働は一度始めると無限に忙しくなるし、社会から取り残されるという漠然とした不安感も生じてくる。他方、兼業主婦は経済的には安定し、働くことに生きがいを見出すこともできるが、仕事と家事の両立の負担は大きく、何よりも自由な時間が少ない。どちらにもメリットとデメリットがあり、一長一短である。これはあくまでも、個人の人生設計の話である。1人の専業主婦がある日仕事を始めたところで、社会には何の影響もない。また、1人の兼業主婦がある日仕事を辞めたところで、日本経済はびくともしない。特定の専業主婦に向かって専業主婦一般への非難を浴びせることもできないし、逆もまた同じである。ところが、人間は自己の立場を正当化しようとすると、なぜかその対概念を否定せずにはいられなくなってくる。これが実存不安の発現であり、自己の存在証明でもある。そして、社会内の文脈において自らの人生設計の正しさを確認しようとすると、それまで「人それぞれ」で対立していなかった専業主婦と兼業主婦とが、突然対立する概念となる。

一段上の天下国家の視点に立つと、相対主義は突如として絶対主義になる。社会制度は客観的に存在するものとなり、法律も客観的に存在するものとなるからである。こうなると、兼業主婦から専業主婦への批判が始まる。「労働能力のある人がなぜ家にいなければならないのでしょうか? 専業主婦は社会に役立っておらず、税収にも年金にも貢献していません。兼業主婦は、国民年金第3号被保険者の専業主婦の分まで保険料を払わされているのです。あなたは労働や納税の義務について、どのように考えているのですか? 見ず知らずの他者に依存して生きていることに、少しは後ろめたさを感じて下さい」。もちろん、専業主婦からの激しい反論もある。「今やニートやフリーターが社会問題となっています。専業主婦が労働を始めたらどうなるでしょうか? 主婦のせいで雇用枠が減少し、新卒の学生が就職難となり、さらに低賃金で働かされることになります。あなたはそこまで考えてものを言っているのですか? 単に専業主婦が羨ましいだけではありませんか? 仕事を辞めるのはあなたの自由です」。

このような神学論争になってしまったら、すぐに手を引くことが賢明である。社会貢献や税収というのは、個人の問題でなく、政治の問題である。どんなに天下国家や社会を論じたところで、一個人の力で社会がどうなるものでもない。税収が増えて失業率が下がれば国家にとって都合がよいだけであり、個々人が心の奥底で抱えている問題とは何の関係もない。このような争いが生じるのは、人生設計の問題が社会構造の話に変わっても、やはり最後は人生設計の問題だからである。従って、専業主婦は意地でも「税金も保険料も払わないで後ろめたいです」とは言えないし、兼業主婦は意地でも「働かないでも済む人が羨ましいです」とは言えない。そして、お互いにそのような状況にあるからこそ、無限ループに陥る。「世界に1人しかいないこの私」同士が戦っている以上、決着はつかない。従って、見切りをつけるのが何よりの得策である。やはり、人にはそれぞれ色々な事情があり、人生観があり、様々な考え方がある。すべては突き詰めれば、人生は一度きりであり、いずれ老いて死ぬという実存不安の問題である。哲学的な問題は、国民年金第3号被保険者の制度論によって語ることができない。

五木寛之著 『大河の一滴』

2008-10-20 18:32:17 | 読書感想文
これはちょうど10年前の本であるが、見事に現在を予言する内容である。格差社会、ワーキングプア、ネットカフェ難民などが社会問題となり、再び憲法25条の生存権が叫ばれる状況となってきた。しかしながら、これらの主張は、社会思想ではあっても哲学にはなり得ない。あくまでも動物的な生存・生活の話であり、人間の実存・存在の話ではないからである。憲法がどんなに国民の健康で文化的な生活を保障しても、それは個人の心の悩みや、「生老病死」の問題に対しては無力である。人間の一生とは、本来、苦しみの連続である(p.18)。いつまでもルネサンス時代の人間謳歌では、必ず行き詰まる。プラス思考とは、絶望の底で光を見た人間の全身での驚きのことである(p.41)。

市場原理とは、できる限り個を無視するところから成立する発想である(p.77)。従って、中世の封建主義を脱して近代市民社会において成立した人権思想も、市民の権利という集団を尊重することにより、逆に個を無視してしまう。本来、人間は市場原理だけで暮らしているわけではなく、もっと複雑な存在である(p.69)。従って、市民の権利を尊重する人権論が、皮肉にも個の命の軽さをもたらすことになる。そして、社会全体から、命の手応えや重さ、命の尊さに対する実感が失われていくことになる。この行き着く先が、毎年毎年3万人以上の自殺者を生む現代社会である(p.92)。

科学的かつ合理的なアプローチだけで人間の心をどうこうしようという試みは、まず中途で挫折する(p.310)。民主的な近代社会は、理性を無条件に信頼し、感情を目の敵にしてきた。しかし、感情のない人間は、単に無機質なロボットである(p.144)。喜びや悲しみ、笑いに寂しさ、これらの豊かな感情は、人間が人間であるために必要な最低限の条件である。心のケア、ヒーリングに必要なものも、小手先の技術ではない。治療する側が、「自分も必ず死ぬのだ」という自覚を持つことである(p.207)。自分はやがて死すべき存在であるとの気持ちが、心の交流を生み、時には科学の常識を超えた治癒をもたらすことになる。

民主主義の思想は、自己実現と自己統治の価値を有する表現の自由をその中核に置く。しかしながら、本当の人生の悲しみや苦しい記憶を骨の髄まで抱えている人は、そのことを語らない(p.245)。静かな微笑みの間の沈黙においてこそ、多くのことが語られている。近代市民社会は、言葉を手段として万能に使いこなそうとする。しかし、言葉による表現には限界があり、語り得ぬものには沈黙しなければならない(p.248)。人間は、ただ肉体として生きるだけではなく、人間関係の中に生きている。従って、人間的な死を考えずに科学的・生理的な死のみによって死者を取り扱えば、生きている人間の命まで軽くなる(p.109)。すなわち、法律の条文が犯罪を増やすという皮肉である。

三浦和義元社長の自殺について

2008-10-19 00:08:52 | 実存・心理・宗教
いわゆるロス疑惑の三浦和義元社長がロサンゼルス市警本部の独居房で死亡しているのが発見されてから、ちょうど1週間が経過した。その間、三浦氏の周辺の人物からは、それぞれの立場からの発言が繰り返された。マーク・ゲラゴス弁護士は、遺書が発見されておらず、三浦氏が精神的に落ち込んでもいる状況もなかったとして、自殺の兆候はなかった旨を繰り返し強調した。その上で、「事務所の人間が三浦元社長と自殺の4時間前に会いました。三浦氏は非常にやる気で、闘う準備ができていることを示していました。私はこの裁判で、無罪を勝ち取るのはひと月もかからないと思っていました」等と語り、さらなる調査を求めていく考えを示した。また、日本の裁判で三浦氏の弁護を担当した弘中惇一郎弁護士は、「今一番必要なのは真相究明だと思っています。仮に自殺だったにせよ、他殺だったにせよ、誰が三浦元社長を殺したのか、きちんとした調査がなされていくべきだと思っています」と語り、真相究明の必要性を強調した。

自殺か他殺か。自殺か不慮の事故か。この区別が争われることは多い。最近では、昨年2月、インフルエンザ治療薬「タミフル」を服用した人が相次いで異常行動をし、マンションから転落死したことがあった。厚生労働省は当初、タミフルの服用と異常行動との因果関係は明らかではないとの見解を示し続け、事実上自殺であるとの主張をしたため、世論から大きな非難を浴びた。結局のところ、これは生きている側の利害関係によって決まるということである。裁判において文献としてよく用いられる『精神保健研究第16号・自殺学特集』においても、「ある死亡が自殺であったのかどうかの判定も含めて、自殺とは何かについての正確な定義は、これまでの自殺研究の中でも最も難しい問題で主要な課題の1つと考えられてきた」などと書かれており、要するにお手上げという結論に至っている。これは、死んだ人には話を聞くことができず、生きている人は死んだことがないという単純な事実に基づいている。人は生死の一回性に逆らうことができず、人の生死は繰り返すことがない以上、これは実証科学の手法によれば当然に行き詰まる。この問題に正面から向かい合えるのは、形而上学しかない。

「三浦氏の自殺によって、ロス疑惑の真相が永久にわからなくなったのが残念である」。「三浦氏の死の真相を究明することによって、ロス疑惑の真相も解明されるはずだ」。日米の両弁護士や識者からはこのような見解も示されていたが、これは完全に逆立ちしている。自殺の動機というものは、実証科学によっては絶対にわからない。どんなに詳細な遺書が残っていても、「実は本心とは違うことを書いたのではないか」と突っ込んでしまえば終わりだからである。これは、どんな明確な目撃証言を前にしても「見間違えではないか」、どんな科学的な鑑定結果を前にしても「信用性がない」、どんな物証が出てきても「偽造ではないか」といって、何でも疑ってかかる刑事弁護人の得意とするところでもある。人生が一度きりである限り、生きている者は他者の死について自殺か不慮の事故かに明確な線を引くことはできず、自殺者の動機を知ることはできない。そして、これを争わなければならないのは、生きている側の都合である。典型的な場面は、保険金の支払いである。保険金を払いたくない側にとっては、その死は自殺であってもらわなければ困るというだけの話であり、故人の遺志の推測は単なるポーズとしてなされている。

三浦氏の死の真相究明という作業は、故人の遺志の推測ではなく、生きている側の解釈を示す。これは生きている側の都合であり、利害関係である以上、それに対する意見の表明は「語るに落ちる」という状況をもたらしてしまう。そもそものロス疑惑の真相究明とは、「真犯人か冤罪か」という単純なものである。そして、この事件の拘置中に自殺したとなれば、「身の潔白を証明するための抗議の自殺」か、「嘘をつき続ける偽りの人生に疲れた」か、パターンはこの2つに集約されてくる。弁護人が真に三浦氏の無実を争っているならば、遺書があろうとなかろうと、論理的には「身の潔白を証明するための抗議の自殺」の方向で主張を展開するのが筋である。事故や他殺が疑われようとも、正義の殉死のストーリーを書いたほうが、その本来的な主張に論理的に合致するからである。弁護人がこのような主張をしないのであれば、自分の弁護活動が実は三浦氏を苦しめており、かえって三浦氏を死に追い込んだことに対して自分自身を責める気持ちがありながら、弁護人の職務とは何なのかを自らに対して根本的に疑うことが怖いため、外部に向かって叫んでいるのだろうと勘繰られても仕方がない。

ディベートとダイアローグ

2008-10-18 14:34:14 | 国家・政治・刑罰
国会は国権の最高機関であり、唯一の立法機関である(憲法41条)。そこは、民主主義社会における最高のディベートの場である。しかしながら、国会の風景といえば、今も昔も野次と居眠りと私語である。ディベート(debate)、ディスカッション(discussion)、プレゼンテーション(presentation)という単語は、日本でも非常によく聞かれる。それぞれ「討論」「討議」「説明」の意である。国際化時代を迎えて、最近では教育界にディベートへの関心が広がり、ディベートに授業を取り入れようという動きも活発になってきた。個人の価値観が多様化してきた現代社会、グローバル国際化社会においては、日本的な以心伝心では到底通用せず、ディベートのスキルを磨かなければ生き残れないといった言説も多い。ディベートの効用としては、客観的・批判的・多角的な視点が身に付く、論理だった思考ができるようになる、自分の考えを筋道立てて人前で堂々と主張できるようになる、情報収集・整理・処理能力が身に付く、コミュニケーション能力が向上するといった諸点が挙げられている。

これに対して、ダイアローグ(dialogue)という概念がある。これは、「対話」「問答」「会話」の意であり、ソクラテスとプラトンが実行していた哲学の王道として知られている。ダイアローグは、表面上は他者との間での問答の形式を採っているが、その他者も自我である事実が相互に共有されているため、自分一人で行われる内なる思考の実践と変わることがない。自分すなわち世界が存在することの謎、すなわち本当のことを知りたいという動機を同じくする限り、これは1人で考えても複数で考えても同じだからである。ここにおいては、自分において発せられた言葉か、他者において発せられた言葉かということは、ほとんど意味を持たない。自己は他者であり、他者は自己であり、これが自己と他者において同時に実現しているからである。ここでは、野次が飛ぶこともなく、私語や居眠りをしていることはあり得ない。

ディベートは、自分の意見が正しいことを前提としている。すなわち、相手に対して決してあきらめないという強い心構えで臨み、腹をくくって堂々と主張しなければならない。これに対して、ダイアローグは、「正しいという語が正しいという意味を表していること」を前提としている。すなわち、自分の意見が正しいことは前提としていない。また、ディベートは自分が「わかっている」ことを前提としているが、ダイアローグは自分が「わかっていない」ことを前提としている。近代的自我が確立された社会においては、自分が自分であることは疑いがないため、ディベートの方式が社会の隅々まで行き渡り、ダイアローグの方式は社会にそぐわなくなった。そして、議論は相手を言い負かすために仕掛けられるものとなる。これは、独善同士が「お前は独善だ」と我を張り合っている状態であり、技術論ばかりが細かくなってなかなか勝負がつかない。

裁判員制度の開始が迫ってきたが、裁判はディベートの典型である。弁論術に長けた者同士が、公平な立場の裁判官の前で勝ち負けを競う、これは一般的には紛争の解決に相応しい方式である。悪徳商法の損害賠償請求の裁判において、詐欺になるか、出資法違反になるかを争う際には、ディベートの方式は有用である。これに対して、医療過誤、交通死亡事故、労働災害などにおける損害賠償訴訟においては、この方式をされてはたまらない。原告側は、何もお金が欲しいのではなく、誠意を見せてほしい。そして真実が知りたい。このような要求に対しては、被告側も本来はダイアローグで応えるしかない。ところが、どんなに原告側が生命の重さを提示しても、被告側は示談交渉を駆け引きとして捉えようとする。そして、このような駆け引きはビジネスの1つとなり、被告側は交渉で勝つことを目的とし、攻めに転じるか守りの交渉をするかの機を見極め、いかに「手ごわい相手だ」と思わせるかに腐心し、常に戦う姿勢を示し続けることになる。そして原告側は、被告側のあまりの誠意のなさにがっかりし、さらに心を傷つけられる。これはディベートの非常に悪い側面である。