犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

韓国旅客船沈没事故について その2

2014-04-22 23:21:39 | 国家・政治・刑罰

 国レベルの外交問題について、その国家に守られた一般庶民が自分の意見を持ったところで、ほとんどの場合は的を外すことになると思います。マスコミの断片的な情報だけを元にして、外交交渉の複雑な裏側や汚い駆け引きも知らず、現場の切迫した状況とは無縁の場所で頭をひねったとしても、単なる評論家気取りの域を出ないからです。今回の事故が何らかの外交カードとして利用されるのか、思わぬ形で韓国の反日世論の高揚に結び付けられてしまうのか、私にはよくわかりません。

 ただ、私が一般庶民として肌で感じたことは、今回の大事故によって、竹島の領有権、従軍慰安婦問題、歴史認識、靖国参拝といった数々の議論が一瞬飛んでしまい、韓国のほうが一方的に休戦状態に入らざるを得なくなったということです。しばらくすれば元に戻るのでしょうが、この長年の問題が一瞬でも中断したということは、目の前で起きた大事件のほうが強い力を持つ事実を表していたものと思います。国内の厳しい問題は、国外に敵を作って批判したところで解決しないからです。

 今回の有事に直面して私が感じたことは、ここ数年来の反日と嫌韓によるギクシャクした状況は、ある種の平和な状態の具現化であったということです。およそ平和という話になれば、日本が過去を反省し、平和憲法を守り、軍国主義の復活を防止するという論理の流れがあまり強力だと思います。しかしながら、過去から現在に至る正しい歴史認識を有しているというならば、現在の有事に直面して歴史認識を論じる余裕がなくなるはずもなく、歴史に足を掬われることもあり得ないと思います。

 歴史とは何かという点について、小林秀雄は「歴史とは子を失った母親の悲しみである」と述べていたと思います。今回の事故も人類の歴史に組み込まれることを想起するとき、この言葉は歴史について非常に当を得た指摘であると再認識させられます。また、国家間の歴史認識なるものは永久に決着が付かない種類の話ですが、「何か突然の事態が起きた時に備えて隣の国とは仲良くしておいたほうがいい」という認識については、日韓の庶民レベルで広く共有されたことは確かだと思います。

韓国旅客船沈没事故について その1

2014-04-21 23:27:00 | 国家・政治・刑罰

 子を思う親の気持ちは万国共通であり、このような事故状況で人間の焦燥感やもどかしさが頂点に達することについては、日本と韓国の間に寸分の違いもないと思います。「必ず生きて帰って来ると信じている」という親の信念が純粋に否定できない点も全く同じです。また、人は死者となった瞬間にその内心が想像されなくなることや、必死の捜索に従事する者の使命感にはスポットが当たらないこと、行き場を失った数々の思いは責任者探しや美談に飛びつきやすいことなど、両国の間に差は全く存しないとの感を持ちます。

 ここ数年の日韓関係については周知のとおりですが、今回の厳しい事故に接して1人の人間として心を痛めない日本人がいるならば、それは正当な愛国者でも保守派でもないと思います。嫌韓の流れで韓国政府や船長のみを非難し、修学旅行生を被害者の地位に置くことは簡単ですが、この事故についてのみ善悪の線を引き直すことは、あまりにご都合主義だと感じます。現に、亡くなった修学旅行生の中にも反日の生徒は多くいたでしょうし、逆に嫌韓の感情は韓国国民に一人残らず向けられるはずのものだからです。

 日本で愛国心を語ればあらぬ議論に引っ張られますが、人が自らの国に対する親近感を持つことは至極自然のことと思います。人は誰しも生まれる国を選べない以上、あえて愛国心なるものを持つ必要もありませんが、逆に自分の帰属する国を嫌悪して批判を浴びせることは、相当にひねくれた心情だと思うからです。日本と韓国を論じる場合にも、「A国」「B国」という匿名に置き換えて互換性がなければ、普遍性を欠くことは当然です。「ある国が一方的に別の国の右傾化を懸念する」という理屈の筋が通ることもないと思います。

 国は人間の集まりの別名にすぎず、人は極限の状態に置かれた時ほど普遍的な論理を自身の中に求める結果、国の違いなど無意味になるのだと思います。これは、「宇宙からは国境は見えない」「人類皆兄弟」といった面倒な話でもなく、理想の世界の建設に向けた希望でもなく、現に「国家」なるものは個人の脳内にしか存在しないという事実の表れだと思います。私は、「仲良くしようぜ」というプラカードからは偽善臭しか感じない者ですが、今回の事故の報に接して直観的に心が痛まない日本人は言語道断だと感じる者です。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その9

2014-04-01 23:39:46 | 国家・政治・刑罰

 今回のような訴訟が提起され、かつ原告側の敗訴となった件について、当事者の関係者以外の法律家は基本的に無関心だと思います。これは、全国の弁護士会が熱くなって会長声明を出すような裁判とは非常に対照的です。証拠から事実を推論する民事訴訟の構造からは、恐らく原告の敗訴になるだろうという予想を有しつつ、そのようなシステムを主宰していることに心を痛めることがありません。そして、これを期待しても虚しいことは、私が自分自身の心情を観察して深く知り抜いていることでもあります。

 法律家の得意分野は、ロゴスではなくロジックです。重箱の隅を突いて揚げ足を取ることは得意ですが、天災の論理の前では肩書きなどは役に立たず、狼狽するのみだと思います。「社会に問題提起したい」と言っても敗訴すれば逆効果となる危険があり、勝訴の先には「裁判に勝っても死者は帰らない」という絶望がある以上、従来の法律の理論とはポイントが合いません。逆に、双方に訴訟代理人が就くが故の容赦ない人格の非難合戦を生じさせ、争いを泥沼に陥らせるのが法律の常態であるとも感じます。

 最後は私自身の無責任な願望ですが、このような訴訟では双方の弁護士が通常の論理を切り替えて、天災を前にすれば法律は所詮はこの世のルールに過ぎず、法律の白黒を超えた「謎」「真実」が存在し、被害者の死ではなく自らの死を捉えつつ普遍的な論理を語る契機があれば、死者の上に敗訴判決が上乗せされる絶望は避けられたものと思います。「千年後の未来の子供達」どころか僅か3年で風化が指摘される社会状況において、このような決裂を避けるべきことが法律家の役割であると思うからです。