犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 19・ 死刑執行に際しての人権論と独我論

2008-04-11 18:13:02 | 言語・論理・構造
昨日は鳩山邦夫法務大臣の命令により、4人の死刑が執行された。鳩山法相による命令は3回目であり、合計10人の死刑が執行されたことになる。死刑廃止論からは、いつものように抗議声明がなされている。光市母子殺害事件の弁護人を務める安田好弘弁護士も、「確定6ヶ月以内に執行するとした刑訴法の規定に近づけようとしているのではないか。人の命に対する価値観をどんどん崩壊させている」と指摘した。ここで、光市事件の裁判と本村洋氏の戦いを考慮に入れるならば、どうしても違和感を覚えざるを得ないのが、安田弁護士の「人の命に対する価値観を崩壊させている」との指摘である。本村氏も安田弁護士も、お金の問題を度外視して、全人生を賭けて戦っている。そして両者とも、同じように人の命の重さを訴えている。それなのに、どうしてここまで正反対になっているのか。これも例によって、人権論が中途半端な「人生哲学」となり、独我論の驚きに始まる哲学と衝突していることに基づく。

人権論と独我論は、同じような問題意識からスタートしながら、その内実は恐ろしく異なっている。同じように人命の重さを訴え、真面目に人生に取り組んでいるだけに、その差異の大きさには驚くよりも笑うしかない。「『私』以外の人もすべて『私』なのだから、人間の数だけ『私』があるのに、どうして『私』は『この私』なのか」。この哲学的な問いは、人権論を基礎とする法律の専門家にはまず理解されない。一人一人には個性があるということになれば、管理教育反対、監視社会反対、住基ネット反対という方向に行ってしまい、典型的な人権論になるだけである。どんな人間でも価値があり、個性が尊重されるべきであり、弱者を守るのが人権であるのであれば、人を殺した者にも生きる権利があるということになる。こうなれば、当然ながら死刑廃止論以外に正解はない。

独我論の驚きに始まる哲学は、個性尊重、弱者救済といった結論には飛びつかない。疑うのが哲学であり、信じるのが人権論である。「『私』以外の人もすべて『私』なのだから、人間の数だけ『私』があるのに、どうして『私』は『この私』なのか」。この哲学的な問いに気付いてしまった者は、まず他人を殺そうとは思わない。この視点からは、論理的に殺人をすることができないからである。また、殺人を犯した後でこの問いに気付いてしまったら、積極的に自らの死刑を望むしかなくなるはずである。これが独我論の反転である。独我論であれば、自分以外のすべての人間を殺害しようと痛くもかゆくもないはずであるが、すべての人間に独我論が妥当することに気付いてしまえば、殺人という行為の意味が自分の人生全体を押しつぶすように襲ってくるはずだからである。ここには人権論の明るさはないが、人権論の堅苦しさもなく、驚きと謎だけがある。

独我論が反転するならば、これは人間のすべての行為において妥当する。「この私」が痛いのであれば、「他の私」も痛いだろう。ここにおける究極の大枠は、やはり生死をおいて他にない。「この私」が生まれて生きているのであれば、「他の私」も生まれて生きているだろう。そして、「他の私」が死んだのであれば、「この私」もいずれ死ぬだろう。ここでも、殺人を犯した者だけは、その特権的な地位において異質の問いを保有する。これは、「他の私」の独我論の引き受けである。「死」という自己と他者との同一性の手前に残された差異性が、差異性として切り離せなくなってしまうからである。これは瞬間的に驚愕をもたらすものであるが、あとは本人が気付くかどうかの問題である。「他人の身になって考えましょう」などといった人生哲学ではない。多くの殺人犯がこれに気付きたくないのは、気が狂う可能性を本能的に察知して逃避しているか、単に鈍感であるかのいずれかである。

殺人や死刑という問題は、現代ではあまりに法律的な人権論にその論点設定の地盤を奪われすぎた。社会契約論を前提とする近代法治国家においては、哲学的懐疑を保持することは難しい。人間の人生は一度きりであり、それゆえに人間の生命は何よりも素晴らしく、個人は尊重されなければならない、このような人権宣言を掲げるや否や、それは一神教の教典のような地位に納まるからである。今や自己決定権の理論は、ライフスタイルを超えて、安楽死や尊厳死にまで範囲を広げている。死者にも一定の範囲で権利が認められ、遺言に遺産分割を禁じる旨を書けば、死後5年間はその遺志が守られることになっている。そして、自己決定権の理論を進めすぎた結果、殺人の自由はどうなのか、自殺の自由はどうなのかということになり、慌てて公共の福祉論やパターナリズムを持ち出して苦労している。やはり、殺人や死刑の問題を法律論だけに預けておくのは危険である。

死刑を廃止する前提しては、当然ながら仮釈放のない終身刑の導入が問題となる。人権論からは、死刑が執行されないようになれば、とりあえずの目的は達成されることになる。これに対して、独我論における最大の難問はここから始まる。死刑にされる恐れもなく、外に出られる希望もないとなれば、拘置所の中で自分に向き合うことしかすることがない。ここで、すべての人間に独我論が妥当することに気付いてしまえば、殺人という行為の意味が自分の人生全体を押しつぶすように襲ってくるはずである。これは「生き恥さらし」に等しいが、拘置所の中で厳重に監視されていては、自殺すら許されない。人権論に基づく死刑廃止論が、この点まで考慮に入れているような形跡は見られない。「この私」も「他の私」も抽象的な世界の生き物であり、「他の私」には具体性がなく、「この私」の自意識だけが肥大して殺伐としている。死刑廃止論の抗議声明は、いつもそのような後味の悪い印象だけを残す。

光市母子殺害事件差戻審 18・ 修復的司法はなぜ沈黙せざるを得ないのか

2008-04-11 00:59:04 | 時間・生死・人生
1人称の死は絶対不可解であり、2人称の死は悲しみであり、3人称の死は無関心である。身内同士の殺し合いや心中は別として、光市母子殺害事件のように赤の他人によって殺人が行われた場合には、2人称の死と3人称の死とが対立する。加害者が心底から反省しているか否かは、人を殺したことの意味を問い詰め、その意味がわからないということがわかり、その前で苦しんでいるか否かが試金石になる。これは、3人称の死が2人称の死を飛び越え、1人称の死の前で立ちすくむことができるかということである。将来的な自らの死を捉えることにより、それは死一般に反転し、その一瞬において人称性は消失することになる。「人の命の重さ」などという手垢が付いた表現で満足しているのであれば、それは死の怖さから目を逸らしているにすぎない。

殺人事件となると、決まったように「遺族の赦し」がテーマとして掲げられ、修復的司法の可能性が探られる。しかしながら、本村洋氏のように非の打ち所がない正論で攻められた場合、修復的司法にはなす術がない。修復的司法は、「遺族の赦し」として、愛する人を奪われたことの固有の悲しみに対する赦しを捉えるのみである。しかしながら、これは生きている遺族の固有の赦しであって、2人称の死に対する赦しにすぎない。死の本質は、1人称の死である。そして、それは絶対不可解であり、修復不能である。遺族は死者自身の悔しさや無念を代理で主張できるのかという問いの立て方もあるが、これは例によって何親等かという民法の相続法の話となり、あまり意味がない。問題なのは、遺族の悲しみとは無関係に、殺人犯が被害者自身の死という絶対不可解の前に絶句できるかどうかである。2人称の遺族に赦しを請うよりも、1人称の死者に向かい合うほうが論理的に先だからである。

1人称の死は「無」であり、2人称の死は「不在」である。存在論的に区別すると、「不在」はその時間の長さを数えることができる。初七日、四十九日、一周忌、三回忌などと死後の長さを測っているのは、あくまでも生きている人間である。時の経過によって悲しみが和らぐこともあれば、逆に時を重ねるごとに悲しみが増すこともある。これが不在の期間である。修復的司法が扱っているのは、この2人称の死がもたらす悲しみの変化である。これに対して、「無」はその長さを測ることができない。無を捉えてしまったら、それは無ではないからである。これは、殺された人の身になってみればわかる。殺される直前の瞬間までは何とかその身になることができるが、その後はどうしてもその身になれない。その身になるということの意味すらわからない。無は絶対不可解であり、ゆえに1人称の死も絶対不可解であり、その論理性は修復というフィクションを厳しく拒絶する。

客観的・物理的世界観が浸透した現代社会では、自分自身の死も他者の死に近づけて理解されることが多い。自分自身の死は絶対的な「無」でありながら、他者の目を通して、永遠の「不在」として理解される。とりあえず現代社会では、遺言書や遺書を書くという行為も普及しており、この誤解は普通は特に問題が生じない。しかしながら、殺人事件においては、この誤解による軋轢が先鋭化する。無を修復しようとしても、そのようなものは初めから無理だからである。殺された人はどこへ行ってしまったのか、元少年にはこの難問を考えてもらわなければ話にならない。洋さんの中には「弥生さん」が生きている。それでは、弥生さんの中にいる「洋さん」はどこへ行ってしまったのか。遺族からここを厳しく問い詰められると、修復的司法はお手上げである。2人称の死の悲しみは修復できても、1人称の死の不可解性が消えることはないからである。