犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

京都・舞鶴高1殺害捜査検証

2014-08-16 23:34:31 | 国家・政治・刑罰

平成26年8月14日 京都新聞ニュース『状況証拠、なぜ崩壊 京都・舞鶴高1殺害捜査検証』より


 京都府舞鶴市で2008年5月、東舞鶴高浮島分校1年の小杉美穂さん=当時(15)=の遺体が見つかった事件で、殺人などの罪に問われた男性(65)の無罪が確定した。最高裁は「男性と被害者を見た」とする目撃証言など京都府警の積み重ねた状況証拠を否定した。なぜ立証は崩れたのか。当時の捜査員への追跡取材や記者の取材メモを基に捜査を検証した。

 ある捜査員は捜査時期が司法制度改革の過渡期だった点を指摘する。「昔は心証を得るため面割りの前に1枚だけ見せることもあった。証拠開示請求の仕組みが整ったからこそ、弁護側が証言の変遷に気付いた」。逮捕された男性は取り調べで美穂さんのポーチの色や形を詳述し、府警は「秘密の暴露」とみて状況証拠と据えた。しかし、最高裁は捜査員の誘導や示唆があったと判断した。

 府警幹部は、男性の取り調べを振り返り「供述の矛盾を突いて有罪に持ち込めると考えていた」と打ち明ける。弁護側は逮捕直後、取り調べの可視化を求めていた。別の幹部は「当時、否認事件は録音録画していなかった。裁判で誘導と認定されたことは厳粛に受け止めねばならない。ただ、誘導の有無を後に検証するために録音録画は必要だった」と話した。「やるべき捜査はやり尽くした」。そう語る捜査員は多い。だが司法は捜査に疑問を呈した。


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 現代の刑事司法のシステムにおいて、死者を除き論理的に考え得る最大の犠牲者は、「冤罪事件の被害者遺族」だと思います。これは、刑事裁判が被害者やその家族のために存在するのではなく、被害者は刑事裁判の当事者ではないことからの帰結です。自らの意思を差し挟める立場になく、かつ蚊帳の外に押し出され、自分の人生の全てが他者に翻弄されて狂わされるという意味で、システムが生み出した最大の犠牲者であることは明らかだと思います。

 冤罪事件において、その責任者や悪者を探す努力は徒労に終わるものと思います。誰も殊更に無実の者を陥れようと画策したわけではなく、捜査官が被告人に個人的に恨みがあったわけでもありません。それぞれが与えられた職務に取り組み、これを誠実に履行した末の合成の誤謬です。警察や検察、被告人や弁護人、裁判所にはそれぞれの立場や都合があり、論理があります。このぶつかり合いの部分が、冤罪事件の厳しい事後処理を生じさせています。

 これらに対して、裁判の当事者に含まれない「冤罪事件の被害者遺族」には、そもそも立場というものがなく、都合も論理もなく、自由意思による選択の場面がありません。予めシステムで定められた他者に翻弄され続け、右往左往するだけです。そして、ひとたび「適正な裁判をお願いしたい」との希望を述べるや否や、「被害感情によって適正な裁判が損なわれてはならない」という論理が刑事司法の主宰者の側から飛んできます。これは、完全な見下しの視線です。

 そもそも民主主義における国民は、一人一人が法制度や社会制度のあり方を考え、疑問を持ち、勉強すべきものです。しかしながら、刑事司法制度が被害者に求めてきたことは、この国民の普遍的な権利の行使すら妨げ、「必要なのは心のケアである」として勉強や疑問を封じ、参政権に基づく社会運動を感情論であると断じ、愚民化政策と同根の視線を向けることでした。そうであれば、その蚊帳の外の者に対しては、最後まで責任を負うのが筋だと思います。

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