犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

横山秀夫著 『深追い』

2010-07-31 00:09:13 | 読書感想文
p.192~

 幼稚園の時から3つの塾に通わされた。厳格な父。溺愛する母。名門中学での執拗ないじめ。キャリアになった。警視にもなった。だが、勇躍赴任した捜査二課の部屋は針の筵だった。無視。あるいは好奇の視線。猛獣の檻の中に放り込まれた小動物のように日々怯えていた。仲間は1人もいない。誰も助けてはくれない。それでもキャリアは威厳を保ち、常に優秀であり続けなければならない。

 なぜ警察庁に入ったのか。滝沢は疑問を森下に投げかけた。国家公務員試験のⅠ種合格者。どこでも行きたい省庁を選べたはずだった。森下はすっかり考え込んでしまった。しばらくして、「権力というものを手にしてみたかった」と答え、またしばらくして、「ただ強くなりたかった」と言い直した。


p.185~

 「警察官って職業は、大里さんが思っているようなものではないですよ。やっている私が言うんだから間違いない」。その場に大里を置き去りにして、滝沢は玄関に向かった。自己嫌悪を承知で言い放った。向けるべき相手に向けられない怒りを、無防備で人畜無害の大里にぶつけた。弱い人間の、そのまた一番の急所を突くことで発散した。

 建物を出た滝沢は天を仰いだ。自分が見下されているから、人を見下そうとするのだ。見下されない高さにまで上り詰めるしかないのだ。そう腹で言いつつ、滝沢は自分という人間を粉々に砕いてしまいたい衝動に駆られた。


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 横山秀夫氏の警察小説には、組織と個人、公と私、建前と本音といった狭間での人間の葛藤が精緻に書かれており、どの話にも読み応えがあります。私も仕事で警察署の中に何度も入ったことがあり、いつも張り詰めた独特の空気に息苦しくなりながら、警察官はこの空気が心地よいのかと思ったりします。しかしながら、横山氏の小説を読むと、そのような空気の感じ方では考えが浅いのだと気付かされます。

 法曹界や法律論は、どうしても警察=警察権力=国家権力という図式を基礎に置いており、抽象的な組織ではない人間一人一人がそれぞれの人生を生きている点については、平面的な捉え方をしているように思います。権力と闘うことによって人権が守られ、それによって偏見や差別が解消され、人間が人間として尊重される。このような思考の順序によって人間の尊厳が語られ、一人一人の人生が語られる場合、横山氏が立ち止まって苦しんでいるその部分が、一瞬で飛び越えられてしまっているように感じられます。

池田晶子・陸田真志著 『死と生きる・獄中哲学対話』 「陸田真志 10通目の手紙」より

2010-07-28 23:58:42 | 読書感想文
「陸田真志 10通目の手紙」より

p.149~153より抜粋

 今、この手紙を書いている時にも私の中にはやはり「怒り」があります。ただ以前と少し違うのは、それが私個人の怒りだけではなく、その怒りが(正確には悲しみが)、私が殺した被害者を含む全ての精神にとってのそれとして感じられるのです。いつから理性的な事は、何か人間にとって「現実的」なものとは違うものであるかのように言われだしたのでしょうか。いつから「難解」である事が、それを理解できない人間の頭の悪さではなく、その書物なり考えなりの「悪さ」になってしまったのでしょうか。

 今も起こる多くの殺人事件などを報道で見る度、「これも俺の罪だ」と痛切に思うのです。これらの考えを増やし被害者を殺したのは、そうやって人を殺した者の考えを正さずにそのままにしていた俺の罪でもある、全ての人の罪は俺の(そして皆の)罪だ。売春を続ける女達についても、彼女達の考えを正そうともせず、それを経済的には当然の事、あまつさえ賢い事とまで言ってた私の為にその生き方を選んだ者は何百人居るのだろう。この「春を売る」という言葉もどこから湧いて出たのか知りませんが、「売身」ではダメなのでしょうか。

 宗教団体は、一体何の為にあるのでしょうか。自分の信者、自分の教団が増え、繁栄すればよいのでしょうか。そうやって自分の保身ばかり気にする教祖さえあがめられたら、よいというのでしょうか。そんな人間に神(仏)を語れるはずがないと思うのです。その考えを広めるのが民衆の為なら、その為に金銭が必要なら、その立派な建物や仏像や広大な土地や美しい衣装を売り払って、それを布教に使えと私は思うのです。でも考えてみれば、やはり私にも責任はあるのです。その事に気付く可能性があったのに、それをしなかったのですから。


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 平成20年6月17日、陸田真志元死刑囚や宮崎勤元死刑囚に死刑が執行されてから2年以上が経ちました。千葉法相下で初めての今回の死刑執行に際し、同法相は「国民的な議論の契機にしたい」と語り、新聞やテレビでも専門家が議論を戦わせていました。そして、熱い議論の裏面を示すかのように、陸田真志元死刑囚や宮崎勤元死刑囚の存在はほとんど忘れ去られていたようです。

 死刑制度の存置・廃止で熱くなる死刑存廃論は、執行されてしまった死刑囚のことなど忘れ、いつまでも覚えている暇はないという特徴を有するように思います。それは、人の生死をイデオロギー的に論じることによって、実際に論じているのは人の生死ではないということです。死刑廃止論が殺された被害者の存在を忘れることと、刑を執行された死刑囚の存在を忘れることには深い共通点があると感じます。

遺影 その2

2010-07-26 23:54:48 | 時間・生死・人生
(その1からの続きです。)

 被害者の母親は、裁判官が母親の存在に困っているのではなく、息子の存在に困っているのであれば、いくら母親を説得しても話がすれ違うのは当然だと語った。そして、自分は裁判官を困らせるつもりはなく、裁判官のほうで勝手に困っているのであれば、すでに答えは出ているはずだと述べた。また、最終的に残されている問題は、命を奪った犯人がここにいるのに対し、命を奪われた息子がここにいないのは何故かということであり、犯人がその問題に正面から取り組める場所は、今の社会のルールの下では裁判の法廷だけであるとも語った。母親の言葉を聞くうちに、彼は、このような言葉は形式論理では他者に伝達ができず、書記官が裁判官に伝達するという行為そのものの限界を知った。
 果たして、主任書記官は、露骨に腕時計に目をやりながら、「どうしても遺影を法廷に持ち込まなければならない理由は何ですか」と聞いた。母親はその質問に対し、写真を持ち込みたいのではなく、被告人に息子の姿を見せつけたいのでもないと答えた。さらに、裁判の光景や被告人の様子を息子に見せなければならないのだと語り、その上で、この写真の目が裁判を見ることができないのは当然のことであり、自分は何かの宗教を信じているわけではないとも強調した。主任書記官はますます困惑し、苛立ちを含んだ声で、「ここはそのようなお話をお聞きする場ではありません」と言った。
 母親は、裁判は単なる儀式にすぎず、1時間程度の法廷では、加害者の一生涯をかけた反省の念の有無などわかる訳がないと語った。他方で、自分が持っている遺影もただの儀式にすぎず、自分が息子の死を受け入れることはあり得ないと言った。そして、この遺影も裁判も儀式であるならば、この写真が遺影であると名付けられており、その名付けられた原因がこの加害者の行為である限り、遺影の目は裁判を見ないで他に何を見ればよいのかと冷徹に語った。現在の社会制度において、加害者が裁かれ、事故の内容が明らかにされ、加害者が反省したりしなかったりする場所は、裁判の法廷をおいて他に存在しないからである。

 彼は、母親と主任書記官との会話に噛み合う余地が皆無であることを思い知らされ、両者のやり取りを黙って聞いていた。主任は、母親の言葉が途切れた一瞬の隙を突く方法により、話を有利に進めていた。主任が伝えていたことは、次の3つだけである。第1に、遺影が持ち込めないのは裁判官の絶対的な判断であること。第2に、書記官は裁判官の判断にすべて従うべきこと。第3に、当事者は直接裁判官と話すことができず、すべて書記官が話を聞いて伝えるということ。主任は、この3つの論理の中だけでグルグルと話を回しており、全くブレることがなかった。
 彼は、この主任の論理は絶対に論破されないことを知っていた。主任は、なぜ自分がこの論理を持ち出して目の前の母親を説得しなければならないのか、自分自身の言葉で語ることができないし、語ってはいけない。それが職場というものであり、複雑な制度を運営する社会人の義務でもある。特に国民の税金から給料を得ている国家公務員は、前例がないことは、上級官庁の通達を待たずに勝手にしてはならない。仕事場において、人間はそれぞれの役割を演じ、仮面を被る。このような人間の口から出た言葉は、人が全人生を賭けて考え抜き、ギリギリまで突き詰め、絞り出した言葉ではあり得ない。
 他方で、この母親が1つ1つ噛みしめて語る言葉には、彼女の全人生が載っており、仮面を被る余地がない。彼は、仮面を被ったまま沈黙している自分自身がもどかしくなり、自然と遺影の視線に向き合う形になった。もしも、死んだのが自分であれば、俺の母親はどうするだろうか。この母親のように、俺に裁判を見せなければならないと思い、その思いだけで命をつなぐだろうか。当たり前である。そうでなければ俺の母親ではない。いや、俺の母親ではなく、母親というものではない。公私混同を愚直に非難できる者は鈍感である。人間にできることは、すでに混同している公私を前にして、必死に抗うことのみではないか。

 被害者の母親はもう一度、「写真が裁判を見ることはできないなんて、そんなことは言われなくてもわかっています」と穏やかに語った。その上で、どうして息子が法廷にいないのに裁判など開けるものか、その論理矛盾を指摘した。彼にはその問いの意味が理解できた。もし、この写真の中の男性が俺であったなら、俺は裁判の結果を見届けたいと思うに決まっている。俺の死に意味があり、翻って俺の一生に意味があったと言うためには、突然殺された理由を知らされなければ話にならない。そして、それを俺に知らせてくれない母親は、俺の母親ではない。遺影の顔は彼の顔でもあり、目の前の母親の顔は彼の母親の顔でもある。
 主任書記官が沈黙していると、目の前の母親は、さらに話を続けた。加害者が裁判を受けられるということは、人生をいくらでもやり直すことができるということだ。これに対して、息子は、人生のやり直しが効かない。加害者が遺影によって影響を受けるということは、生きているからこそ影響を受けることも可能だということであり、その現実が絶望の正体である。加害者がこの絶望に直面せず、息子がいない法廷で謝罪したとして、一体誰に謝っていることになるのか。もちろん、私に謝ってほしいのではない。息子が法廷にいるのであれば、私はいなくてもいい。
 主任書記官は、母親にひとしきり話させた。彼の周りでは、これを「ガス抜き」と呼んでいた。経験則上、人は激情に駆られたとき、集中的に怒りを誰かにぶつけて鬱憤を晴らすと、気が晴れて大人しくなることを、窓口の職員は保身術として知っているからである。被害者の母親は言葉が尽き、写真は鞄にしまうことで合意し、法廷に向かった。そして、遺影の顔は彼の顔ではなくなった。その間、彼は一言も口を開かなかった。刑事裁判は、被告人の更生に意味を認める。他方で、死者の人生に意味があったと認めたいという思いは、意味を与えるという形でしか捉えられていない。当たり前ではないか。現実を見よ。だからこそ、被害者の母親は、「写真が裁判を見ることができないのは当然だ」と言ったのではないか。

 法廷が終わると、主任書記官は、彼に感謝の言葉を述べた。あのような場面では、1人ではなく2人で説得に行ったほうが効果的である。しかも、話が拡散しないように、1人は黙っているほうが効果的である。彼は、妙な褒められ方をして居心地が悪かった。主任書記官は、心の奥底では、犯罪被害者遺族が法廷で遺影を掲げる権利を認めるべきだと考えていることを彼は知っている。あの場所において、頭の中では母親に共感しておきながら、実際には一度も口を開けなかった彼自身が最大の卑怯者だろう。組織の結束という大義名分の下で、保身の欺瞞に鈍感になるのが「大人」の行動だとすれば、彼は子供からも大人からも逃げている。
 主任書記官とは、様々な立場の人々の利害関係が交錯する中心に位置する官職であり、典型的な中間管理職である。職務上の過誤の恐怖から来る心労に耐え切れなくなる者も多い。彼の上司の主任は出世が遅く、40歳を過ぎてから初めて主任書記官となった人である。その理由は彼にも良くわかる。1つ1つの事件に丁寧に向き合い、当事者の心情に寄り添う者は、そのうちに身が持たなくなる。適当に力を入れたり抜いたり、上手く自分の良心を誤魔化す技術を身に着けなければ、主任書記官の激務は務まらない。そして、彼の上司の主任は、他人の心情を思いやる性格を無理に押さえつけ、鈍感の仮面を被り続けることにより、主任の役割を演じている。それだけに、その仮面は簡単には外れることがない。
 主任は彼に対し、自分は20代、30代と力を十分に溜めてきたことにより、40代で主任になれたのだと言った。そして、今日のような経験は必ず将来に生きるものであり、20代は下積みの時期に鍛えられることが非常に大切なのだと言った。彼は、適当に返事をしながら、遺影の中の彼自身を思った。20代が下積みの時期たり得るのは、40代まで生きた場合に初めて可能となるものであり、20代を生きている今この瞬間は、下積みの時期ではあり得ない。少なくとも、20代での死がすぐ明日に迫っているかも知れないことの確実性に比べれば、40代まで生きることの確実性など、比較にならないほど弱いものである。裁判に携わる者は、「傍聴席の遺影は適正な裁判に影響を与えるか否か」という問題を解く心の構えでいる限り、仮面を被った人間同士が演技をしていることを忘れる。

 その日の彼の最後の仕事は、報告書を作成し、裁判官の決裁に上げることだった。彼は、「裁判官が遺影の持ち込みを禁じた」という部分を、「傍聴人が法廷の秩序を害する恐れがあった」と訂正するように命じられた。おまけに、報告書は正確に記載するよう、裁判官からこっぴどく叱られた。

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フィクションです。

小松真一著 『虜人日記』

2010-07-25 00:01:48 | 読書感想文
(太平洋戦争の従軍日記です。)

p.166~
 平地で生活していた頃は、荀子の人間性悪説等を聞いてもアマノジャク式の説と思っていた。ところが山の生活で各人が生きる為には性格も一変して他人の事等一切かまわず、戦友も殺しその肉まで食べるという様なところまで見せつけられた。そして殺人、強盗等あらゆる非人間的な行為を平気でやる様になり、良心の呵責さえないようになった。こんな現実を見るにつけ聞くにつけ、人間必ずしも性善にあらずという感を深めた。戦争も勝ち戦や、短期戦なら訓練された精兵が戦うので人間の弱点を余り暴露せずに済んだが、負け戦となり困難な生活が続けばどうしても人間本来の性格を出すようになるものか。

P.212~
 セブの戦闘で邦人婦女子を連れて山に入ったその時、敵に包囲され、子供は足手まといになり、部隊の行動が敵に知れるおそれがあるというので、赤子や子供を毒殺したり、刺し殺したりした。将校にしても上からの命令か、状況上止むを得なかったのか知らんが、時局がこう落ちついてみれば、やはり良心的には大分苦慮していたところなので、その後すっかりやつれてしまった。この事件が米軍に知れ、彼は戦争犯罪者として連れて行かれた。

p.239~
 実力のなき者、人格のなき者は月日がたつにつれ、段々うとんぜられ、階級章が米兵のお土産となるため煙草と交換され尽くした頃には、階級を振り回す者は、余程の馬鹿以外なくなった。一方下級者の中には、階級がなくなった事は自分が偉くなったものと思い違いして、威張り出す大馬鹿者も沢山いた。そして、一時は混沌として来たが、時のたつにつれ、色々の事件、仕事を通して、人徳のすぐれた人、社会的に実力のある人、腕力のある人等が段々尊敬されてきた。

p.268~
 トラックはマニラホテルの角を右に曲がって、海岸通りを南に走り出した。沿道に土民が沢山いる。「バカ野郎」「ドロボー」「コラー」「コノヤロー」「人殺し」「こんちくしょう、ぶっ殺してやる」等々、憎悪に満ちた表情で罵り、首を切るまねをしたり、石を投げ、木切れがとんでくる。パチンコさえ打ってくる。隣の人の頭に石が当り、血が出た。大東亜共栄圏の末路、日本人の猛省を要する時だ。いくら罵倒されても腹も立たない。1年半の間に、こうも民情が変わるものかと思うと、恐ろしいようだ。


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 戦後の平和な日本に生まれた私には、戦争体験のある方々の人生には絶対に敵わないという思いがあります。それは、実際に太平洋戦争の現場を見ていない私にはそれを語り継ぐ資格などありませんし、過ちを繰り返さない自覚も全くないということです。さらには、戦争の苦しみと比べれば現代の我々の苦しみなど取るに足らないとは思えず、21世紀に生きる者は21世紀の苦しみが最大の苦しみであるということです。

 一般的に、人間が大局的かつ多面的に物事を見られるのは余裕がある時であり、生死のかかった極限状況では近視眼的になるように思われています。しかしながら、人間は余裕を与えられれば考えが抽象的になってイデオロギーに堕するのに対し、極限状況では考えが凝縮し、どの時代にも共通する人間の姿を見抜く力が与えられるというのが実際のところだと思います。

西原理恵子著 『この世でいちばん大事な「カネ」の話』

2010-07-24 00:07:50 | 読書感想文
p.155~
 もし、一千万円分の紙幣を目の前に積まれたら、誰だって「これは自分の大切なカネなんだから、誰にもとられないよう、どこかにしまっておこう」って思うんじゃないかな。ところが、同じ一千万円でも、インターネットの画面上の数字になっちゃうと、あたりまえになきゃいけないそんな感覚が、どっかで簡単に麻痺しちゃう。
 手で触ることのできない、ただの情報みたいに見えてしまう「カネ」と、そういう匂いや手触りのある「カネ」とでは、何がどうちがうんだろう? わたしは、やっぱり、「カネの重み」「カネのありがたみ」ってものがちがってくるんじゃないかと思う。
 自分で努力しないで手に入れたお金のことを「あぶく銭」っていうでしょ。自分が汗水流して稼いだ「カネ」じゃないから、湯水のように使おうが、痛くもかゆくもない。手で触れる「カネ」にくらべると、手で触れない「カネ」、数字の羅列に見える「カネ」の世界って、そういう「あぶく銭」の感覚と、すごく近いと思った。

p.214~
 気が遠くなるくらい昔から、何百年も前から、社会の最底辺で生きることを強いられてきた人たちがいる。いつまで経っても貧乏から抜け出せるわけがない。それで何代も何代も、貧しさがとぎれることなく、ずーっとつづいていく。
 そうなると、人ってね、人生の早い段階で、「考える」ということをやめてしまう。「やめてしまう」というか、人は「貧しさ」によって、何事かを考えようという気力を、よってたかって奪われてしまうんだよ。貧困の底で、人は「どうにかしてここを抜け出したい」「今よりもましな生活をしたい」という「希望」を持つことさえもつらくなって、ほとんどの人が、その劣悪な環境を諦めて受け入れてしまう。
 考えることを諦めてしまうなんて、人が人であることを諦めてしまうにも、等しい。だけど、それが、あまりにも過酷な環境をしのいでいくための唯一の教えになってしまう。


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 形而上の問題を扱う哲学は、人間の実生活とはとことん相性が悪く、何も役に立たない抽象論であると言われます。しかしながら、人間の「考え」によって貨幣に価値が与えられるのだとすれば、お金よりも「考え」が先にあるのは当然のことであり、その「考え」が形而下の貨幣経済を司っている限り、哲学はそこまで役立たずではないでしょう。インターネットの画面上の数字の羅列の危険性を述べる西原氏は、この辺りの感覚が非常に鋭いと思います。

 一般的に、お金がないと生きられないという場合の「生きる」とは、生活や生存の意味であって、実存や存在の意味ではありません。そして、前者は「食べる」ことの象徴であり、後者は「考える」ことの象徴であり、ここに哲学と実生活との相性が悪い原因があるように思います。西原氏は、人はお金がなければ生きられないという論理の途中に「考えようとする気力」を入れており、ここにおいて「食べる」と「考える」が上手く結ばれているように感じられます。人間の「考え」によって貨幣に価値が与えられるのだとすれば、まさにその考えに覆われた社会の中で貨幣を持たないことは、考える気力を奪われるという結論に至ると思います。

俵万智著 『魔法の杖』

2010-07-22 00:04:29 | 読書感想文
p.17~
 なんにも書いてなかったら、短歌の主語は“私”なんですね。だから、短歌という詩の形は、宿命的に日記的になりがちな面を持っている。身の上話を聞いてもらうために歌を作っているわけではありませんし、表現としての自覚を、特に持っていないと非常に危険です。

p.43~
 前川佐美雄さんのやり方は、自分の力だけでは歌はできない、歌の神様が自分についてくれないとできない、歌の神様はどうやったら自分についてきてくれるか、そのために勉強もするし、神様に気に入れらるように神様がつきやすい状態をつくる。それには、ふだん自分の自己主張みないなものに凝り固まっているわけだけど、それをできるだけ排除していって、自分は巫女さんみたいに、神様の言うことを書くぞという状態にいくまで待っているというやり方を、前川さんはなさっている。自分が書いただけだと、せいぜい自分と等身大の作品、自分より小さい作品ができてしまう。

p.190~
 すごい写実は、写実に徹していながらもちろん飛躍というのを含んでいる。それによって世界が大きくなったり、深くなったりする。


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 自分が表現したいものを表現するのではなく、巫女が神の言うことを聞いて書くという姿勢は、すべての芸術に共通するものだと思います。しかも、ここで言う神が信仰の対象としての神ではないとすれば、その神とは自分自身であり、さらにそれを表現するのが自分自身ではないとすれば、その先は狂気だと感じられます。

 自己主張、自己実現のために芸術という手段を借りるのであれば、それは生きることと表現することが別々の何かであり、たとえ表現を止めても死ぬことはないでしょう。これに対し、手段を借りているのではない極限の芸術は、表現せずにはいられないという苦しみであり、生きることと表現することが一致している逃げ場のない状態だと思います。

遺影 その1

2010-07-18 00:02:44 | 時間・生死・人生
 裁判所では、予想外の出来事が突然起きることがある。刑事裁判の法廷のスケジュールは10分単位で一杯に組まれており、それに合わせて拘置所から被告人が護送されてくる以上、直前に動かすことなどできない。裁判所書記官にとって、突発的な出来事に対する偽らざる第一印象は、「面倒だ」「早く済ませたい」である。
 特定の職員へのストーカー的な当事者を追い返すことや、窓口で理屈をわめき立てるクレーマーに屁理屈で毅然と対抗することは、神経をすり減らすものではあっても、ある意味単純な職務と言ってよい。それは、外側から相手の不正義を叩き潰し、自らは正義を守り抜く過程である。これに対し、自らの内側において、どうにも名付けられない複雑で嫌な感情が残ることがある。
 このような感情が上手く処理できなければ、頭の中は分裂して爆発しそうになる。これを避けるためには、「大人」にならなければならない。ここで言う大人とは、理性によって冷静かつ適格な判断を下せる者のことではない。大人とは、「重い職責」「社会人の責任」などの理由によって、自らの本心を誤魔化して正当化する処世術を身に付けた者のことである。

 廷吏からの報告は、被害者の母親が法廷に遺影を持ち込もうとしたので止めたところ、さらに懇願されて困っているというものであった。検察庁に問い合わせても、「そんな話は事前に聞いていない」の一点張りで埒があかなかった。法廷への遺影の持ち込みについては、認められる裁判所が多くなってきたものの、最終的な判断は裁判官の訴訟指揮権によっている。そして、彼(裁判所書記官)の所属する刑事部の裁判官は、法廷の秩序を非常に重視しており、遺影の持ち込みを絶対に認めないという考えであった。
 以前の自動車運転過失致死罪の裁判でも、母親が風呂敷に包んで胸に抱えているものが遺影であるとわかると、裁判官は激怒し、すぐにしまうように命じた。母親が戸惑ってすぐに指示に従えないでいると、裁判官は容赦なく退廷を命じた。ハンカチで顔を押さえて法廷から出た母親は、その後の法廷にも二度と姿を見せることはなかった。判決の日、彼はやり切れない気持ちを抱えていたが、その日の飲み会の席で、裁判官は彼女の行動への怒りを書記官にぶつけてきた。
 法廷は遺族の自己満足のためにあるのではない。証拠によって罪を認定して罰を言い渡す厳格な刑事裁判と、被害者の救済とは全く別の話であり、混同する素人が多すぎる。こんなことを認める裁判官が増えてきたのは由々しき事態だ。神聖な法廷の権威を汚す気なのか。何を勘違いしているのか。刑事裁判の厳しさが何も分かっていない。書記官一同は、裁判官の生真面目な矜持に押されて、ひたすら相槌を打つだけであった。

 彼はその日も、念のため、裁判官に指示を仰ぎに行った。そして、答えは予想通りであった。「誰のための裁判だと思ってるんだ」という裁判官の怒号は、被害者の母親に向けられた言葉でもあり、同時に彼の認識を叱責するものでもあった。彼の背中に向かって、裁判官はなおも怒っていた。「死んだ人の無念が何だかんだって、死んだ人は死んでるんだから本人が無念な訳がないじゃないか? 死んだ人が無念だと思っている人間が、自分で勝手にそう思ってるだけの話だろう? 検察官も何で説得できないんだ?」
 時間は15分しかない。主任書記官は、彼と一緒に母親の説得に向かうと言った。この主任書記官は、裁判官の腰巾着であり、自分の勤務評定を高めるためだけの行動に覚えた。しかし、この主任書記官には、ガンで30代で亡くなった同僚の葬儀に参列した際、その遺影に釘付けとなり、しばらく涙していたという一面もある。人は、組織の中では誰しも仮面を被るものだ。そのうち、素顔と仮面の区別が付かなくなり、人生全般のものの考え方が規定されるようになる。
 彼は、主任とは別に庶務課に走り、法廷の近くの会議室を特別に開けてもらった。本来であれば、課長の決裁がなければ開けることはできないが、その場にいた係長が全てを呑み込んだ上でOKを出してくれたのである。不祥事を怖れ、融通の利かない職員ばかりの中で、このような人物が1人でもいると非常に助かる。

 会議室の中では、主任書記官の前に、遺影を胸に大事そうに抱えた女性が座っていた。遺影の中の男性は20代半ばと思われ、彼と同じくらいの年齢であった。被害者の目は、彼を一直線に見つめていた。同じ頃にこの地球上に生まれ落ちた人間が、どういうわけだか1人は生きており、もう1人は生きていない。これは単なる偶然であり、彼が努力していたわけでもなく、被害者の努力が足りなかったわけでもない。
 遺影を抱えた母親も、彼の母親と同じくらいの年齢であった。彼は、その現実をできる限り意識しないようにした。裁判はこの世のルールであり、あの世のことには太刀打ちできない。罪に対する判断はできるが、死に対する判断はできない。「死んだ人はどこにいるのか」という問いをぶつけられれば、裁判官は答えに詰まる。それゆえ、厳格な刑事裁判の威厳を保つためには、そのような問いの価値を低めておき、予め答えるに値しない問いだとしておく必要がある。
 主任書記官は、まず被害者の母親に対し、本当に起訴状に記載された被害者の母親であるのか、免許証や保険証などで「本人確認」をしたいと言った。その瞬間、血の気が引いていた母親の顔が、さらに強張ったように見えた。公的機関における証明の手段としては、免許証の写真には絶対的な価値があり、遺影の写真には価値がない。しかし、免許証によって被害者の母親であるという確認ができなければ、それは彼女にとってどんなに幸せなことだろう。

(続きます)

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フィクションです。

弁護士には犯罪被害者が「壁」と感じられる理由

2010-07-16 00:04:20 | 実存・心理・宗教
 被告人の妻は、この1ヶ月間、まともに眠れていないと言った。警察からの電話を受けた瞬間から、あまりに色々な出来事が一度に集中し、頭の情報処理が追いつかないとも言った。夫に対しては、裏切られたという感情や、今でも信じたくないという気持ちが錯綜して、心の整理がつかないようである。彼(弁護士)は、一方的に彼女の話を聞き、ただ頷くだけであった。夫の身柄勾留は1ヶ月に及んでいる。
 彼女は、犯罪者の妻として、被害者の方に申し訳ないという気持ちは非常に強いと語り、この言葉に偽りはないと言う。しかし、夫に裏切られたという感情も同じ程度に強く、犯罪の連帯責任を取るべき加害者の位置に自分が収まることに対しては、本能的な違和感があるとも語った。そして、今の自分の心情は一言では表現できないけれども、自分は「加害者」か「被害者」かと問われれば、どちらかと言えば「被害者」のほうを選ぶと述べた。
 彼は、上手く返答ができなかった。「あなたは被害者です」とも「加害者です」とも言えない。しかも、「あなたは被害者ではありません」とも「加害者ではありません」とも言えない。彼の頭の中では、「被害者」という言葉の意味が揺らいでいた。

 被告人の妻は、疲労が深く滲んだ顔で、被害者に示談金を受け取ってもらえないことについて、遠回しに苛立ちを見せた。1日も早く解決に結びつけばと思い、恥を忍んで実家にまで頼み込んで大金を用立てて、半月前に弁護士に預けたのである。しかし、示談交渉に全く進展がないのであれば、「一刻も早く」との思いで走り回った意味がないではないか。
 彼女は、被害者に対する交渉の方法について直接に不満を述べることはなく、無理におどけた調子で「今なら先生が私のお金を使い込んでいてもわかりませんよね」と言って笑った。彼は、その底意地の悪い笑いに怯えながらも、筋の通った言い分を聞くしかなかった。そうかと言って、この話は、弁護士の腕が悪いから示談に至らないという種類の問題ではない。
 彼は、ほとんど定型的なフレーズのように、「被害者の方の厳罰感情が強いようで、示談金を受け取る気になれないのでしょう」と語った。手続きが滞っている原因は、しかるべき示談金を受け取らない頑固な被害者のほうにある。古今東西の弁護士は、この言葉の威力によって、どれほど依頼者の信頼をつなぎ止め、救われて来たことだろうか。「共通の敵」を作り、その敵に原因を押し付けることは、窮地において恐るべき威力を発揮する。

 その1週間後、彼は車で被害者の自宅近くの喫茶店に向かっていた。示談金を受け取るかどうかは解らないが、とにかく弁護士の話を詳しく聞きたいとの連絡があったからである。このような被害者を事務所に呼ぶわけには行かず、彼のほうから出向くしかない。移動時間と滞在時間を入れれば、最低半日はかかる。しかも、この1日だけでは済まない。
 彼には、この時間が「拘束」と感じられた。その間、他の仕事は全くできなくなる。事務所に電話が入っても出られず、その間に書類の山は積み上がる一方で、当初予定していた仕事も後回しである。もしも、被害者がさっさと示談金を受け取ってくれさえいれば……。彼の思考は、不謹慎であるとは解っていても、どうしてもその方向に引っ張られる。
 限られた時間内に仕事がスムーズに進まないと、気持ちに余裕がなくなってくる。1つ1つの受け答えに身が入らない。依頼者の話の筋を強引に曲げて、結論に突っ走ろうとしてしまう。こんなことになっているのは、一体誰のせいなのだ? 彼の頭の中では、いつの間にか被害者とは攻略すべき「壁」となっていた。何の成果も挙げられずに帰ってしまっては、被告人の妻に合わせる顔もない。交通費だけを請求するならば、さらなるトラブルの種となる。

 彼は、被害者の待つ喫茶店に入る前、弁護士会の犯罪被害者保護研修のレジュメに目を通した。そして、被害者の救済活動に精力的に取り組んでいる弁護士の言葉を思い出していた。いかに弁護士が犯罪者を支援する仕事だとは言っても、被害者を軽視する者は誰一人としていない。誰もが口を揃えて、被害者保護の必要性を語っている。
 しかし、弁護士が語る犯罪被害者保護は、ある一点において、避け難い欺瞞を含んでいる。それは、彼の善悪の判断の自己欺瞞とも一致していた。彼にとって、この示談が成立し、被害者に示談金を受け取ってもらえることは善であり、その逆は悪である。これは、彼の生活に密着した善悪の判断である。その際、被害者の心の中にお金を受け取ってしまったことの後悔が生じたとしても、それは悪ではない。多数の事件を並行的に処理しなければならない者は、効率や費用対効果の問題に思考を占拠されているからである。
 弁護士会のレジュメには、被害者に対する心のケア、精神的な立ち直りについて、詳細な記述がある。しかし、いつまでも心がケアされなくては困る、早く精神的に立ち直ってもらわなければ困るという目的が、その記述の裏側にはある。このような犯罪被害者保護活動は、詰まるところは、「壁」を低くする技術の習得にすぎない。彼は、自分がしていることは被害者保護ではなく、二次的被害への加担であることだけは忘れるまいと思いながら、喫茶店に入った。


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フィクションです。

鈴木謙介著 『サブカル・ニッポンの新自由主義』

2010-07-14 23:44:00 | 読書感想文
p.9~
 本書で私は、新自由主義を政治体制や社会的イデオロギーとしてのみならず、私たちが共有した価値判断のモードとして分析するという立場を採る。その上で、現在生じている「新自由主義批判」なるものも、よくよく見てみれば、その主張が実は新自由主義的であるという事態が散見される、ということも明らかにしたい。それほどまでに新自由主義的な価値判断のモードは、私たちの中に深く入り込んでいる。
 特にその代表的な例として取り上げられるのが「既得権批判」のロジックだ。既得権批判とは、私の現在の不遇な状況は、どこかで不当に利益を抱え込んで手放さない既得権者がいるからで、彼らを取り除けば問題は解決する、というタイプの思考法を指す。それは、90年代には郵政族などの官僚や、特定の業界の大企業のことを意味していたが、現在では、企業に勤める正社員、大学教員、果ては「普通に暮らす人々」一般まで、その対象を拡大しつつある。

p.73~
 もう後戻りはできない、とよく言われる。いまこの時代に適応しなければ未来はないのだと。それは若者だけに向けられるのではない。社会人になっても、自己鍛錬と最新の動向へのキャッチアップは常に求められる。そしてそれはいつも、「かつてあった暖かく甘い時代への郷愁を断ち切れ」というメッセージとともに、私たちに向けられる。
 しかし、そのことはどこかで変化すること、以前と違う状態であることを自己目的化してしまう。「『変わらなきゃ』も変わらなきゃ」というキャッチコピーがかつてあったが、私たちはいつの間にか、カイカク、カイゼンと言い続けているうちに、目標なき「差異化のための変革」のサイクルに取り込まれつつあるのかも知れない。


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 選挙の前後になると、「投票に行かなかった人間が政治を批判する資格はない」という論調が目立ちますが、ねじれ国会の批判に関しては、別の見方ができると思います。
 昨年の衆議院議員選挙で民主党に投票し、今年の参議院議員選挙で自民党に投票した人に比べれば、どちらも投票に行かなかった人のほうが、ねじれ国会を批判する資格があるように思われます。鈴木氏の分析を読んで、ふと考えつきました。

奥田英朗著 『最悪』より その2

2010-07-12 23:57:41 | 読書感想文
p.649~ 池上冬樹氏の解説

 本書『最悪』は、日本の犯罪小説の歴史を考えるとき、ひとつのエポック・メイキングとして記憶されるべき作品である。単行本の帯には「この1冊が、日本の犯罪小説を変えた」とあり、これだけを抽出すれば大げさに聞こえるかもしれないが、本書を読めばそれが少しも誇張ではないことがわかるはずだ。
 とにかくリアリスティックな筆致が素晴らしい。それぞれが追いつめられていくプロセスを完全に描ききっている。作者が人形を操るかのように人物を捉えているのではなく、登場人物の人生によりそうようにして、人物の心理、すなわちたえず変化する状況にあわせて揺れ動く心理を、さざ波をたてる内面の動きを、ひとつひとつ丁寧に拾っていくのだ。

 国産のエンターテインメントでは、なるべく早く事件を提示することをむねとする小説がほとんどだ。要するに最初に事件ありきなのである。ひとつの事件を中心に、その周辺を描くのが主流だけど、奥田英朗は逆である。複数の人物の先に事件がある。奥田英朗にとってはまず人物ありきなのである。
 いったい人はどう動くのか、逃れない状況に追い込まれたら人はどう行動するのかをじっくり見せてくれる。おそらく読者は物語に引き込まれつつも、真綿で首を絞められるような息苦しさを覚えるだろう。人物とともに理不尽さに驚き、怒り、そして絶望していく。


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 これも私の裁判所勤務時代の狭い経験に過ぎないのですが、刑事部の事務官や書記官の間では、犯罪小説はよく読まれていました。回し読みもしましたが、まだ読んでいない人、読んでいる途中の人、読み終わった人の微妙な会話が入り混じる書記官室は面白い空間でした。私自身、目の前の本物の法廷よりも、小説の中の法廷のほうから多くを学んでいたように思います。
 他方で、刑事部の裁判官は、犯罪小説などほとんど読んでいませんでした。もちろん、大量の事件を処理するのに忙しい、専門書や判例集を読むほうが面白いという理由もあったと思います。しかしながら、多くの刑事部の書記官は、その最大の理由を直観的に知っていました。それは、裁判官が犯罪小説などに引き込まれてしまうと、仕事に差し障る恐れがあるということです。従って、雑談の中であっても、書記官は裁判官に犯罪小説を薦めることを自然と避けていました。

 法律のプロである裁判官は、人間の心の奥底にある怒りや絶望などという要素は、ひとまず情状にかかわる事実として、横に置いておかなければなりません。客観的構成要件から主観的構成要件へという法的判断のルールは、法に則って罪を裁く者にとっては基礎中の基礎であり、これができない者はプロとして失格だからです。このプロのスキルは、エリート養成施設である司法研修所で叩き込まれるものです。ところが、人生の理不尽を克明に描く犯罪小説は、このスキルを破壊しようとします。
 証拠から事実を推論し、絶対に誤判を生じさせてはならないという職責を担っている裁判官にとって、奥田氏のような小説家が描く登場人物の内心の揺れ動きは、明らかに職務に対する障害となります。そうだとすれば、いかなる事実をも法律要件と法律効果に変換する能力を常に備えていなければならない法律のプロは、真綿で首を絞められるような息苦しさを覚えてはならないということになります。