犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

岡山駅ホーム突き落とし事件

2008-03-31 16:33:26 | 言語・論理・構造
3月25日、JR岡山駅の山陽線ホームにおいて、県職員の假谷国明さん(38歳)が18歳の少年に突き落とされ、電車にはねられて亡くなった。28日の葬儀では、父親の要さん(70歳)は、「このような事件が二度と起きないように」との趣旨で、假谷さんの小学1年生の長女の手紙を報道陣の方に向かって読み上げた。
「とうさんへ いつもおしごとがんばってくれてありがとう でも、じこにあって つらいめにあったとおもうけど みんなとうさんをしんぱいしていて わたしは学校からかえってきて とうさんがしんだときいて とてもかなしくなりました。でも とうさんがいなくても学校はがんばります」。

この事件に関しては、テレビのニュースを片っ端から見てコメンテーターの意見も聞いたし、新聞の社説も読んだ。色々なブログも片っ端から見た。しかし、この小学1年生の長女の手紙以上の言葉はどこにも存在しないようである。マスコミは必死になって事件を大きく伝え、知りうる限りの詳細を報じている。そして、事件の悲惨さを伝え、再発防止を訴えている。これはこれで最善を尽くしていると言えるが、これまでに起きた事件の時と何ら変わりがない。真実を伝えようとするならば、それはやはり沈黙の中に示されるしかない。この長女の言葉は、どんなマスコミの言葉にも勝る力を持っている以上、マスコミが余計な形容詞や副詞を連発すれば、皮肉にも真実の報道からは遠ざかる。

一人息子を亡くした父親の要さんは、自宅の前では、「本当ならたたき殺してやりたいくらいに、はらわたが煮えくり返っている」と語った後、「しかし、日本は法治国家なので罪を償い、早く更生して世の中に役立つようになってほしい」と表情を押さえ、唇をかみしめていた。絶句の中から絞り出される言葉はここまで残酷なのか。これは、聞く者を選ぶ言葉である。「更生して世の中に役立て」という要求は、「死刑になれ」という要求よりも残酷である。ただ、聞くだけの力量がなければ、その底抜けの残酷さには気付かない。感情を内に秘め、怒りの嵐が通り過ぎるのを待つ、これが凄まじき怒りの本質である。修復的司法のマニュアルなど木っ端微塵である。

せめてもの救いは、少年の父親がマスコミの前に謝罪に現れたことである。今までは同じような事件があっても、このような光景を見ることは少なかった。父親は、およそ言葉にできる限りでの陳謝の意を表していたようであり、我が子が憎いとも語っていたとのことである。少年の複雑な胸中は父親にも理解できないであろうが、現時点で人間としてなしうる限りの謝罪をしているとは言えるだろう。日本は法治国家である以上、罪を償い、早く更生して世の中の役に立たなければならない。これは地獄である。假谷国明さんの人生と合わせて、2人分の人生を生きなければならない。人を殺したことは、自らが死ぬまでついて回る。その恐るべき事実を片時も忘れないことが「更生」である。その意味で、假谷要さんの述べる「更生」の意味は、少年法の厳罰化反対派の述べるそれとは逆である。

「とうさんへ。いつもおしごとがんばってくれてありがとう」。その通りだろう。「わたしは学校からかえってきて、とうさんがしんだときいて、とてもかなしくなりました」。その通りだろう。「でも、とうさんがいなくても学校はがんばります」。その通りだろう。

岸本佐知子著 『ねにもつタイプ』

2008-03-30 16:39:05 | 読書感想文
「むしゃくしゃして」より

前々から気になっていたのだが、なぜ報じられる放火の動機は判で押したように「むしゃくしゃして」なのであろうか。放火だけではない。痴漢の動機は決まって「仕事でストレスが溜まって」だし、虐待は「しつけのため」だし、未成年のひったくりは「遊ぶ金ほしさ」だし、人を包丁で刺すのは「カッとなって」だ。たまには遊ぶ金ほしさに放火したり、カッとなって痴漢したり、むしゃくしゃしてひったくりするようなことがあってもよさそうなものなのに、そのような話は一向に聞かない。

刑事 「なぜ火をつけたのだ」

犯人 「モヤモヤしていたからです」

刑事 「つまり、むしゃくしゃしていたわけだな?」

犯人 「いや、“むしゃくしゃ”はちょっと違うな。自分的には“モヤモヤ”が一番ぴったりくるんですけど」

―― 刑事、“むしゃくしゃしてやった”と記入。

犯人 (それを覗き込んで)「ちょっと待ってください。“むしゃくしゃ”じゃ私のあの時の微妙な心理は表現しきれません。“モヤモヤ”に訂正してください」

刑事 「大して変わらないだろう」

犯人 「いや、全然ちがいます。私は私の心に忠実でありたい。あなたは私の表現の自由を奪うのか」

―― 刑事、“むしゃくしゃしてやった”を二本線で消し、“訳のわからないことを供述”と記入。

“訳のわからないこと”として片づけられてしまった無数の名もない供述、それを集めた本があったら読んでみたいと思うのはいけない欲望だろうか。そこには純度100パーセントの、それゆえに底無しにヤバい、本物の文学があるような気がする。

(p.142~146より)


結論1: 取調べの可視化を完全に実現したところで、世の中には見えないことのほうが多い。
結論2: 供述調書が刑事の作文であることをやめれば、それは純文学になる。

土浦市連続殺傷事件

2008-03-28 10:15:06 | 実存・心理・宗教
土浦市の連続殺傷事件では、指名手配中の金川真大容疑者を取り逃がしたことについて、茨城県警に批判が集まっている。県警は、JR常磐線荒川沖駅改札の内側と通路側に私服警官を配置し、駅構外を含め計8人を配置していたものの、変装した金川容疑者を発見できず、二次犯罪を未然に防ぐことができなかった。犯行を防げたのに防げなかったという一連の流れが見えるだけに、非常にもどかしい。細かいところでは意見の相違があるとはいえ、県警に対する批判が起きるのは当たり前のことであり、人間としてごく当然の感覚である。

このような警察への批判は、従来よく見られたパターンの批判とは明らかに異なっている。まず、典型的な警察権力の濫用への危惧を表すものではない。また、内部の汚職や不祥事に対して職務倫理の向上を求めるものでもない。端的に、二次的犯罪の防止のため、より適切な捜査をすべきだったとの批判である。すなわち、もっと捜査員の人数を増やすべきであった、制服姿の捜査員を配置すべきだったとの批判であり、警察権力の積極的な発動を求めるものである。これは、人命尊重を第一に考えるならば、ごく当然の要求である。人命が失われてからでは、取り返しがつかないからである。

犯人が変装している状況では、手配写真と似ている人物がいれば積極的に職務質問をする必要がある。また、凶器を所持している疑いが濃厚であれば、所持品検査も積極的にしなければならない。ここでは、犯人だけをピンポイントで捕らえることは無理である以上、無関係な人にも広く影響が及ぶことにもなる。単に背格好や顔が似ているというだけで、何の関係もない人のプライバシーを詮索し、職務質問と所持品検査に協力させるということである。それにもかかわらず、国民が県警に対して捜査の不備を感じ、より積極的な捜査をすべきであったとの感情を抱くならば、それは人間の生命の重さが示すものに他ならない。

立憲主義においては、警察官の従うべき基準は明確である。憲法は国家権力への歯止めの役割を果たすものであり、その具体化である刑事訴訟法を見てみれば、警察権力が市民のプライバシーを侵害することの危険性に主眼が置かれていることが一目瞭然である。これは、警察比例の原則、捜査比例の原則などと言われるものである。従って、人権論としては、「二次犯罪の防止」が声高に叫ばれることは好ましくない。見込み捜査が誤認逮捕を生み、冤罪を生むことの危険性を何よりも重視するからである。それでは、今回のように実際に二次犯罪が起きてしまったとき、伝統的な人権論はどのように考えるのか。筋を通すならば、大声では言えないにせよ、「デュープロセスを守るためには犠牲者の1人や2人増えても大した問題ではない」と考えるしかないだろう。

刑事訴訟法の捜査に関する重要判例には、常識的に見て非常もどかしいものが多い。米子銀行強盗事件と言われる事件では、どう見ても銀行強盗の2人組を路上に発見し、猟銃とナイフを所持していることが明らかであったが、警察官がバッグのチャックを開けた行為は違法で無罪であるとして最高裁まで長々と争われた。ここでは、凶器による二次犯罪の防止という視点は採られていない。また、飲酒運転の自動車の発進を止めるため、警察官が車の窓から手を入れてエンジンキーを回したという事件でも、捜査は違法で無罪だとして最高裁まで長々と争われた。ここでも、飲酒運転による死亡事故の発生の危険性という視点は全く採られていない。刑事訴訟法の原則では、何よりもデュープロセスが重視され、二次犯罪の発生はある程度やむを得ないものとされているからである。

消極的な捜査によれば二次犯罪は防止しにくく、積極的な捜査によれば二次犯罪は防止しやすい。ここで、「起こらなかった犯罪」「防止できた犯罪」はなかなか見えにくい以上、積極的な職務質問や所持品検査をすれば、伝統的な人権論からは警察権力の濫用に対して危惧が表明される。しかしながら、犯罪被害者の人権というパラダイムの転換を経てみるならば、何よりも新たな被害者を発生させないことにも積極的な価値が見出されなければならない。従来の人権論は、「殺された生命」に対してあまりにも冷たかったと同時に、「殺されなかった生命」の存在を見落としていたところがある。今回も人権派の方々は、人々が事件の悲惨さを忘れるまで沈黙を保つのだろうか。

中島義道著 『ぐれる!』

2008-03-27 01:40:22 | 読書感想文
3章 「さまざまなぐれ方」
二 「男のぐれ方」 より

近代社会は、男たちをさらに過酷な状況に追いつめている。結論から言いますと、男の子すべては自分の生まれながらの力だけをもって、フェアに戦わなければならないのです。

暴力的事件を起こすのは圧倒的に男の子なのです。ニュースを聞いても、むしゃくしゃしていたから、だれでもいいから通行人を刃物で刺したとか、親をバットで殴り殺したとか、電車の中で注意されたからそいつを息の絶えるまで足蹴にした、という女の子はほとんどいない。これはもうだれが何と言おうと、男の子と女の子の生物学的違いにもとづいているとしか言いようがない。

男の子の性衝動は即物的・爆発的なもので、そのことが容易に社会的規制を打ち破って犯罪を呼び起こす。しかも、後期近代社会は暴力が大嫌いと来ている。この社会の残酷さは、もともと暴力を不発弾のようにかかえている男の子が「暴力禁止」という劣悪な条件のもとに生きなければならないことです。

こうして、じつは近代社会とは知的なものを過度に重視する偏った社会でありながら、あらゆる男の子はそこでフェアに戦わなければならないと教えられる。しかし個人の生得の能力や生まれつきの環境は、ため息が出るほど(鳥肌が立つほど)不平等ですから、ここに各人間の不平等がさらに拡大される。勝ち組にとってはなかなか居心地のいい社会であり、負け組にとっては徹底的に住みにくい社会です。

(p.88~92より)


このようなことは、法律の本にはまず書いていない。そして、裁判官を初めとする法律家も、このようなものの考え方はしない。刑事訴訟法は憲法31条から40条の具体化であって、近代社会における裁判は、何よりも憲法の大原則に則って行われなければならないからである。そして、日本国憲法には、個人の尊厳(13条)、法の下の平等(14条)、男女の平等(24条)が規定されている。これは、アメリカ独立宣言からフランス人権宣言に取り入れられ、各国の憲法の柱となった思想である。すなわち、人はみな生まれながらに等しく、侵されることのない権利を持っており、一人一人がかけがえのない個人として大切にされなければならない。犯罪を扱う刑事裁判のあり方は、ここから演繹的に定められなければならない。

このような動かぬ憲法論からすれば、近代社会の現実を茶化して暴こうとする哲学者・中島氏の視点は、とても受け入れられるものではない。しかし、哲学論と法学論のどちらが現実を上手く説明しているか、現実問題として当たっているかは別の問題である。むしゃくしゃしていたから火をつけた、人を殺したかったから誰でもいいから通行人を刃物で刺した、このような事件が起きるたびに、近代刑事裁判はお決まりの構図にはまる。すなわち、「被告人は犯行当時心神耗弱であり、善悪を判断する能力がなく、責任能力がない」。このような強固なパラダイムにはまってしまえば、人間はその枠組みでしか物事が捉えられなくなる。この当為概念がひずみを生じ、現実との軋轢をもたらす。これも学問としての法律学が、哲学への優位性を確保したことに伴うものである。

犯罪被害者保険制度の可能性

2008-03-26 18:03:44 | 時間・生死・人生
人類は生命保険というシステムを発明すると同時に、保険金殺人という形態があることにも気付いてしまった。先進国では、生老病死に対するあらゆる不安が保険という名の商品によって填補されようとしている。そこでは、不明確なものを明確にしようとするあまり、偶然が必然に置き換えられる。和歌山毒物カレー事件は、この負の面の象徴であった。どんなに事前の審査を厳しくしても、生命保険というシステムそのものに伴う問題点は絶対に消えない。高い保険料を払えば高い保険金がもらえるという命題と、人間の生命に値段をつけているという命題は、切っても切り離されるものではないからである。

生命保険という制度を維持していくためには、保険会社が多額の保険料を集めることが至上命題となる。そして、そのために最も手っ取り早い方法は、人々の不安を煽ることである。本当にこのままで大丈夫なのですか。老後が不安ではありませんか。突然の事故が不安ではありませんか。このように繰り返されれば、不安にならないほうがおかしい。こうして、保険金の不払いという不祥事を恒常的に抱えながらも、現代において保険というシステムは欠かせないものとなっている。特に社会保険庁の不祥事で公的年金が信用できないとなると、国に頼らずに自分の身は自分で守らなければならないという気にもなってくる。

それでは、犯罪被害について、このようなシステムは導入できるか。理屈としては導入できるが、現実には非常に危険である。犯罪被害に対する不安を煽ろうとすれば、いくらでも煽れるからである。本来、人間が生きる上で最低限必要な衣食住、教育、医療などは、金銭による商品化にはなじまない。このような人間の根本的な事項を過度の自由競争に任せるならば、すべてはサービスという美名の裏で商品化され、金銭による序列がつけられてしまうからである。そして、犯罪被害による生老病死の苦しみは、さらに商品化とは無縁のものであり、本来的にリスクを分散して担保するというシステムになじむものではない。どんなに国家の社会保障制度が信用できなくても、ここだけは国家による補償によらなければならない道理である。

現在でも、交通事故による被害者は自賠責保険の請求で苦労しており、保険会社からの値切り交渉で心身をすり減らしている。これも広い意味での二次的被害である。保険会社の契約書は、読む人を拒むように薄く小さな字をびっしりと列挙し、しかも大切なことを極力わかりにくく書いている。これは営利を追求する企業としては常識であるとしても、これを犯罪被害一般にまで広げられてはたまらない。本来、国家の社会保障制度が整っているならば、遺族にとって生命保険金は必要ない。この原則は古典的ではあるが、論理的に否定することができない。そして、犯罪被害については、本質的にこの大原則からはみ出してはならない。すなわち、国家による給付金制度の拡充以外に方策はない。

第四の権力

2008-03-24 01:05:08 | 言語・論理・構造
近代国家の三権とは、立法権(国会)、行政権(内閣)、司法権(裁判所)である。このような機構の分散によって権力の集中を避け、絶対君主のような人物の誕生を防ぎ、権力の濫用に歯止めをかけ、国民の人権を保障するのが近代国家である。一時期、テレビ局や新聞社などのマスコミが「第四の権力」であると言われるようになり、三権をも凌ぐ存在であると言われていたが、最近はこの表現が聞かれなくなってきた。これは一体どのような現象なのか。

憲法学からすれば、このような「第四権」なる造語は、一笑に付されるべきものである。なぜなら、憲法の条文に書いていないからである。そして、マスコミは国家でも地方自治体でもなく、公権力ではないからである。そもそも、立法権と行政権の均衡のシステムには議院内閣制と大統領制があり、司法権は法の支配を実現する法原理機関であるという壮大な体系には、「第四権」など入り込む余地がない。あえて第四権と言えば、通常の司法裁判所に違憲立法審査権を与え、しかも(付随的でなく)抽象的に違憲審査を認める際に問題とされるような話である。マスコミの影響力については、あくまでも表現の自由(報道の自由と取材の自由)、そして国民の知る権利の文脈において、人権論において登場するに過ぎない。

それでは、実際にこのようなパラダイムは、現状を上手く捉えているのか。答えは、一見して否である。国家権力の濫用から市民の人権を守る、市民の表現の自由を守るという旧態依然とした構造は、小泉元首相の「小泉劇場」「刺客選挙」による自民党の大勝あたりから完全に崩れてきたことがわかる。21世紀の人類にとっては、今や核兵器よりも情報のほうが現実的な脅威である。そして、自由主義と民主主義という建前が正当なものとして成立していることを前提としつつ、世論はマスコミによって作られ、メディアによって国民の意志が左右される。ねじれ国会という民意の混乱が生じたことも、情報化社会を抜きにしては語れない。

こうしてみると、マスコミは今や「第四権」ではなく、三権を含んだ上位に位置している。選挙に当選するか否かもマスコミ次第、内閣支持率の上下もマスコミに左右され、裁判員制度の普及もマスコミの力によるところが大きい。ここで、古典的な枠組み、すなわち国家権力の濫用から市民の表現の自由を守るという説明が、広く支持を集めるわけがない。これは、何をどうしろという政策論としての制度設計の問題ではない。今この瞬間に、現実をどれだけ言語によって正確に写像しているか、論理空間を言語によって切り分けているか、そのパラダイムの巧拙の問題である。

米原万里著 『真昼の星空』

2008-03-23 17:02:42 | 読書感想文
●ロシアの小咄(p.91)
ガガーリンが人類初の宇宙訪問から帰ってくると、すぐに共産党書記長から電話がかかってきた。「頼むから、神様に会ったことだけは内緒にしておいてくれ」。
受話器を置くや、また電話がけたたましく鳴る。ヴァチカンの法王からだった。「頼むから、神様はいなかったってことだけは、黙っていてくれ」。

●中国とソ連の実話?(p.64)
1960年代末から70年代にかけて中ソ国境紛争が一触即発状態になったときのことである。19世紀後半に帝政ロシアが清国に押し付けた一連の不平等条約によって、150万平方キロ以上もの領土をソ連は不当に領有していると詰め寄る中国側に対して、ソ連側交渉当時者は言い放ったのだった。「そんなに過去の取り決めにこだわるなら、もっとさかのぼって、貴国の北端は万里の長城ってことで手を打ちませんかね」。
この発言に中国代表団の面々は、しばし絶句したと伝えられている。

●日本の実話(p.87)
会社と自宅の往復に毎日4時間かかる友人Tが嘆いた。「あーあ、オレの一生は、毎朝2時間もかけて行く価値もない会社に通い、毎晩2時間もかけて帰る価値もない家庭に戻ることを繰り返すうちに終わっちまうのかなあ」。
そのTが一念発起して、職場から30分ほどのところに家を購入した。「ずいぶん、時間に余裕ができたでしょう」と水を向けると、それがそうでもないのだと言う。
「最近は本を読む時間が捻出しにくくなっちまってね」。思えば通勤2時間の電車のなかは、勤め人としての義務にも、家庭人としての義務にも縛られない自分だけの自由な時間だった。「それに、疲れたときなど、一眠りするのに、ほど良い時間だった。あの電車のなかの一睡ほど甘美な眠りはなかったね。そこへいくと、今の通勤時間は短すぎて何もできやしない」。


●結論
大真面目な行動は笑いをもたらす。
笑いは絶句である。絶句の中に真実が現れる。
笑おうとすると笑えなくなり、笑ってはならない状況では笑うしかない。
怒りを鎮めるのは笑いである。世界平和のために必要なのは不真面目さである。

視線の二重性

2008-03-23 01:51:09 | 時間・生死・人生
犯罪とは、考えようによっては、最も法律用語によっては表現しにくい種類のものである。この不可解な人間存在の欲望の発現について、専門用語で分析的に記述し尽くせるわけがない。もちろん定型的な客観的構成要件を仮構し、そこから故意や動機といった内心を派生的に位置づければ、形而下的なルールとしては簡単に済む。しかし、どんなにそのように済ませようとしても、加害者や被害者の全人格的な問題を消すことはできない。

人間は個別の身体において生きるしかない以上、世界を内的に理解するしかない。人間は自分の生から抜けられないからである。人間は、世界を内的に理解しつつ、外面において自己対象化的な観点を保有する。これをバタイユ(Georges Albert Maurice Victor Bataille、1897-1962)は「実存の孤独」と呼ぶ。人間は常に二重の視線によって物事を見ているしかない。これは視線の二重性と呼ばれる。

犯罪とは、人間存在における究極的に不可解な現象である。この不可解さは、加害者側の二重視線よりも、被害者側からの二重視線によって捉えるほうがはるかに真実味を帯びてくる。人間の生は、実証主義的観点、客観的・科学主義に還元できるものではない。法律や裁判は、あくまでも犯罪における一側面を取り扱うことができるのみである。裁判とは被害者保護のためにあるのではなく、加害者の刑罰を決めるためにあるのだという説明は、その意味でこの上なく正しい。

加害者にとっては、法廷内において、柵の中の被告人席に座らされていることそのものが問題である。被害者にとっては、法廷内において、柵の外の傍聴席に座らされていることそのものが問題である。これは法律問題ではない。自己対象化的な観点は、客観的・科学主義による唯一絶対的な視線の変更を促す。視線の二重性は、人間による世界観の多数性を再認識させ、法律は形而下的な世界における関係的な共通了解の1つでしかないことを明らかにする。

犯罪という不条理で不可解な現象は、本来は法律用語によっては表現しにくい。ところが、法治国家にどっぷりと浸かってしまうと、犯罪とは規範に反するものであり、その規範においては法と道徳を峻別しなければならないとの常識で固まってしまう。加害者側から被害者側へのコペルニクス的転回とは、このような二重視線の位置の変更である。これは、客観化・構造化のパラダイムと、実存的・現象学的なパラダイムの相克の問題でもある。

高橋シズヱ著 『ここにいること 地下鉄サリン事件の遺族として』

2008-03-22 17:33:20 | 読書感想文

 「私はすぐ後に、初めての証言が控えていた。教団でサリンの生成方法を開発し作った土谷正実被告の裁判だった。・・・この日の証言は、亡くなった主人と、家族のためにもと考えていたからだろう、私は非常に冷静で、あがることもなく答えることができた。被告人の量刑について聞かれたときも、この間の裁判傍聴から人間性を何も感じなかった被告人に対して、明確に極刑を要求した。・・・弁護人は、あなたが死刑と言ったら、被告人の親も息子も悲しむことになりますけど、それでいいんですか、と聞いた。それになんと答えたか正確に覚えていないが、私は『違う。殺されるのと罪を償うために死ぬのとは違う』と言ったと思う」(p.84より)。


 私は地下鉄サリン事件の前日、1995年3月19日(日曜日)、地下鉄千代田線で霞ヶ関駅を通っている。新御茶ノ水駅の近くにある会場で、司法試験の答案練習会が開催されていたからである。前年の10月から商法、訴訟法と進み、年明けは憲法、民法に移り、3月の科目は刑法であった。受験生であった私は、阪神淡路大震災のボランティアに行くこともなく、論証ブロックカードの暗記に没頭していた。

 「甲がAのコーヒーに致死量の毒を入れたところ、たまたま乙も意思の連絡なくしてAのコーヒーに致死量の毒を入れており、Aはそれを飲んで死亡した。甲、乙に殺人既遂罪は成立するか。思うに刑法上の因果関係とは・・・」。現実の殺人事件と、刑法の教科書における殺人罪は、全くの別世界の話であった。私はサリン事件の6日後の3月26日(日曜日)も、霞ヶ関駅を通って司法試験の答案練習会に行き、殺人罪だか何だかの答案作成に頭を悩ませていた。


 「2001年5月10日、松本智津夫被告の裁判に、私は証人として出廷した。・・・検察側から、傍聴を続けている動機や気持ちを聞かれ、どうして主人が亡くなったのかを知りたい、被告人に拘置所で死んでもらっては困る、傍聴に来て、生きていることを確認していると答え、刑罰については、死刑にしてほしいし、それを見届けたいと答えた。弁護人の反対尋問は、だいたい予想していたことを聞かれた。・・・被告人が死刑になっても遺族の心が満たされることはないのがわかっているのか、という質問には、『そんなことはない。私の復讐心は収まると思う。それでも主人を殺されたという思いは私が死ぬまであるが、松本被告が生き長らえたら、もっともっと私の人生は辛いものになる』と答えた」(p.170より)。

司法エリートの思考の枠組み

2008-03-20 20:26:13 | 言語・論理・構造
平成16年度 司法試験・論文式試験問題  憲法・第1問

13歳未満の子供の親権者が請求した場合には、国は、子供に対する一定の性的犯罪を常習的に犯して有罪判決が確定した者で、請求者の居住する市町村内に住むものの氏名、住所及び顔写真を、請求者に開示しなければならないという趣旨の法律が制定されたとする。この法律に含まれる憲法上の問題点を論ぜよ。
http://www.moj.go.jp/SHIKEN/h16ronbun.html


予備校や受験団体による解説を見ると、概ね次のようなことが書いてある。問題となる人権はプライバシー権(憲法13条)であり、「宴のあと」事件判例(東京地裁 昭和39年9月28日)の正確な理解が不可欠である。この判例における3要件、すなわち①私生活上の事実であること、②知られることを欲しないという秘匿性、③未だ知られていないという非公知性を暗記していることは、受験生としての最低条件である。その上で、結論としては、このような法律は違憲無効と考えたほうが法律家としての資質を示せる。なぜならば、「二重の基準」における「厳格な合理性の基準」によって判断するならば、対象として刑務所で完全に反省した者まで含まれてしまうこと、情報化社会では請求者を絞ったところで全世界に漏れてしまうこと、氏名や顔写真を知ったところで犯罪を予防できないことを考えると、立法目的と手段との間には実質的関連性がなく、プライバシー権の侵害に該当するからである。

法曹界は、なぜ加害者のことばかり考えて、被害者のことは全く考えようとしないのか。上記の司法試験の問題、それに対する解説を見てみると、その理由が非常によくわかる。法曹界には法律を扱う人々が集まっており、このような問題を作る人も、解く人も、採点する人も、解説する人も、すべてある特定の視点で固まっている。まずは条文、そして判例の規範であり、文字通り「自分の頭で考えた答案」では永久に受からない。大前提として、人権論としてのプライバシー権の方向から見なければ憲法の答案にならず、性犯罪の被害を受けた女の子の心の傷の方向から見てしまえば、形式的に門前払いである。性犯罪の前科がある者に対する個人的な感情、倫理観はともかくとして、受験生は試験委員に対してリーガルマインドをアピールしなければならない。このような思考の枠組みに向いている人は合格して法曹界に入り、向いていない人はすぐに受験から撤退する(この私のことである)。

上記の司法試験の問題は、現在でも難問かつ良問であるとの評価が高い。いい答案を書くことが難しい。憲法学的にも非常に難しい。この難しさは、興味深い難しさ、悩むのが楽しい難しさであって、性犯罪を防止する難しさとは異なり、ましてや性犯罪被害者の心の傷の難しさとは異なる。人間を扱う法がいつの間にか人間から離れ、専門家のエリート集団が大多数の庶民を軽視する、これは犯罪被害者の見落としの構造と同じものである。国民がその真摯な倫理観から加害者を重く罰することを望み、被害者を救済することを望んでも、そのための法律を作るとなると、必ず司法エリートからダメ出しを食らってしまう。いわく、知識のない素人の戯言に付き合っている暇はない。法曹界はなぜ加害者の味方をして被害者に冷たいのか、このような問いを突き詰めて見るならば、答えはこの辺りの思考の強固な枠組みに求められる。