犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

三島由紀夫著 『新恋愛講座』 「おわりの美学」より

2008-04-27 20:53:54 | 読書感想文
硫化水素による自殺が全国各地で相次いでいる。今回は、周辺の住民が体調を崩したり、避難を強いられるなどの巻き添えのほうが問題となっており、「命の重さ」という抽象概念の出番すらない。周囲に迷惑をかける身勝手な行為については、2ちゃんねるなどの掲示板で「死ね」と叩かれるのが近年のお約束であるが、本人が死んでいるのだから笑い話にもならない。「自殺するときはせめて周囲に迷惑をかけないようにしてくれ」という本音が見え隠れする限り、「1つしかない命を大切にしましょう」という呼びかけは偽善となる。

ネットの掲示板などでは、「硫化水素が充満しています」「ガス発生中・入るな危険」などの貼り紙をするように指南されているらしいが、死に臨む態度としてはどうにも考えが浅い。形而上の「死」と、形而下の「近隣への迷惑」のギャップについて突き詰めて考える限り、このような死に方はできないはずである。死とは世界の終わりであり、必然的に近隣住民の消失をもたらすからである。死を選ぶという行為の定義において、そのような貼り紙をすることは背理である。また、そのような貼り紙をするという行為の定義において、死を選ぶことは背理である。

下記の文章は、昭和41年8月に三島由紀夫によって書かれたものであるが、生死に関する洞察である限り、平成20年においてもそのまま該当する。国電がJRになっても、電車は毎日毎日同じように走っている。自殺の防止にとって最も効果的なことは、逃げずに死を見つめることである。そして、周囲が生きているのに自分だけ死んでゆくことのバカバカしさを見つめることである。そうすれば、陸上自衛隊駐屯地で人質を取って籠城し、檄文を撒いて演説した後に割腹でもしない限り、人間は簡単に自殺などできなくなる。


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「おわりの美学」・「世界のおわり」 より p.234~

「世界のおわり」というのは永遠に魅力的な夢であります。死を宣告された癌患者にとって最高最大の夢は、自分の死ぬ時と世界のおわる時が偶然符合することにちがいない。もともと人間はみんな死すべき生物ですから、人間の最高最大の夢は、自分の死ぬ時と、世界がおわりになる時とが同時に起るということにちがいない。

それこそ公平なことだ、と彼には思われる。なぜなら、自分が死んだあとも、世界はこのまま変りなく、国電や地下鉄は毎朝満員の勤め人をのせて走り、東京タワーは東京タワーのあるべきところに立ち、パチンコ屋ではあいかわらずチンジャラジャラとやっていると思うと、ひどく不公平な気がするからです。みんなが生きているのに自分だけ死んでゆくのは、いかにもバカげている。

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