犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

京都・舞鶴高1殺害捜査検証

2014-08-16 23:34:31 | 国家・政治・刑罰

平成26年8月14日 京都新聞ニュース『状況証拠、なぜ崩壊 京都・舞鶴高1殺害捜査検証』より


 京都府舞鶴市で2008年5月、東舞鶴高浮島分校1年の小杉美穂さん=当時(15)=の遺体が見つかった事件で、殺人などの罪に問われた男性(65)の無罪が確定した。最高裁は「男性と被害者を見た」とする目撃証言など京都府警の積み重ねた状況証拠を否定した。なぜ立証は崩れたのか。当時の捜査員への追跡取材や記者の取材メモを基に捜査を検証した。

 ある捜査員は捜査時期が司法制度改革の過渡期だった点を指摘する。「昔は心証を得るため面割りの前に1枚だけ見せることもあった。証拠開示請求の仕組みが整ったからこそ、弁護側が証言の変遷に気付いた」。逮捕された男性は取り調べで美穂さんのポーチの色や形を詳述し、府警は「秘密の暴露」とみて状況証拠と据えた。しかし、最高裁は捜査員の誘導や示唆があったと判断した。

 府警幹部は、男性の取り調べを振り返り「供述の矛盾を突いて有罪に持ち込めると考えていた」と打ち明ける。弁護側は逮捕直後、取り調べの可視化を求めていた。別の幹部は「当時、否認事件は録音録画していなかった。裁判で誘導と認定されたことは厳粛に受け止めねばならない。ただ、誘導の有無を後に検証するために録音録画は必要だった」と話した。「やるべき捜査はやり尽くした」。そう語る捜査員は多い。だが司法は捜査に疑問を呈した。


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 現代の刑事司法のシステムにおいて、死者を除き論理的に考え得る最大の犠牲者は、「冤罪事件の被害者遺族」だと思います。これは、刑事裁判が被害者やその家族のために存在するのではなく、被害者は刑事裁判の当事者ではないことからの帰結です。自らの意思を差し挟める立場になく、かつ蚊帳の外に押し出され、自分の人生の全てが他者に翻弄されて狂わされるという意味で、システムが生み出した最大の犠牲者であることは明らかだと思います。

 冤罪事件において、その責任者や悪者を探す努力は徒労に終わるものと思います。誰も殊更に無実の者を陥れようと画策したわけではなく、捜査官が被告人に個人的に恨みがあったわけでもありません。それぞれが与えられた職務に取り組み、これを誠実に履行した末の合成の誤謬です。警察や検察、被告人や弁護人、裁判所にはそれぞれの立場や都合があり、論理があります。このぶつかり合いの部分が、冤罪事件の厳しい事後処理を生じさせています。

 これらに対して、裁判の当事者に含まれない「冤罪事件の被害者遺族」には、そもそも立場というものがなく、都合も論理もなく、自由意思による選択の場面がありません。予めシステムで定められた他者に翻弄され続け、右往左往するだけです。そして、ひとたび「適正な裁判をお願いしたい」との希望を述べるや否や、「被害感情によって適正な裁判が損なわれてはならない」という論理が刑事司法の主宰者の側から飛んできます。これは、完全な見下しの視線です。

 そもそも民主主義における国民は、一人一人が法制度や社会制度のあり方を考え、疑問を持ち、勉強すべきものです。しかしながら、刑事司法制度が被害者に求めてきたことは、この国民の普遍的な権利の行使すら妨げ、「必要なのは心のケアである」として勉強や疑問を封じ、参政権に基づく社会運動を感情論であると断じ、愚民化政策と同根の視線を向けることでした。そうであれば、その蚊帳の外の者に対しては、最後まで責任を負うのが筋だと思います。

裁判員裁判判決、最高裁で破棄 大阪寝屋川女児虐待事件

2014-08-01 22:16:18 | 国家・政治・刑罰

平成26年7月24日・25日 MSN産経ニュースより

 大阪府寝屋川市で平成22年、当時1歳の三女に暴行を加えて死亡させたとして傷害致死罪に問われ、いずれも検察側求刑(懲役10年)の1.5倍にあたる懲役15年とされた父親の岸本憲(31)と母親の美杏(32)両被告の上告審判決で、最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)は24日、裁判員裁判による1審大阪地裁判決を支持した2審大阪高裁を破棄、憲被告に懲役10年、美杏被告に同8年を言い渡した。

 「量刑は直感によって決めれば良いのではない」。女児への傷害致死罪に問われた両親の上告審で、求刑の1.5倍の懲役15年とした裁判員裁判の結論を破棄した7月24日の最高裁判決。裁判長を務めた白木勇裁判官は補足意見で、評議の前提として量刑傾向の意義を裁判員に理解してもらう重要性を指摘し、「直感的」評議を戒めた。裁判員の「求刑超え」判決が増える中、厳罰化への一定の歯止めともなりそうだ。

 「1審の判決は感情的なものだとしか思えなかった。法律家としては見直されて当然だと思う」。判決後、岸本美杏被告の弁護人は、量刑を懲役15年から同8年に減刑した最高裁の判断をこう評価。別の弁護人も「市民感覚が反映されるのは想定の範囲内だが、量刑判断にあたって何の基準もないわけではない」と話した。


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 裁判員の責任と言えば、「人を裁くことの重さ」「被告人の人生を左右することの重さ」ばかりが強調されますが、これは法律実務家の鈍った感覚からの結論です。本当の重さは、被告人側のみではありません。この事件に即して言えば、1歳8ヶ月で一生を終えた女の子の人生の意味、その存在の重さがあります。これは、多数の事件の裁判を経て免疫の生じた法律実務家には、職業病として見えなくなってしまう部分です。

 人が社会人として世の中に出て、ひとたび組織の論理に従うようになれば、肩書き・役割・立場・建前といった束縛から自由に思考することは困難です。その意味で、今の時代、分別のある社会人が費用対効果やら予算の制約やらに捕われることなく「命とは何か」「罪とは何か」といった哲学的問題と真摯に向き合うことができる場面は、この裁判員制度がほとんど唯一のものなのではないかとの感を持ちます。

 裁判所がその責任において審査し、候補者の中から選んだ裁判員には、人格や倫理観への信頼が担保されているはずです。そして、この悲惨な事件を前にして、人間の欲望や業、さらには子供は親を選べないという不条理な真実をも含め、裁判員の方々は恐らく人生を賭けて悩み、考えに考え抜いて、求刑の1.5倍という決断を下したものと思います。このような決断は、生半可な覚悟でできるものではありません。

 もちろん、このような裁判員の決断は、従来の裁判のあり方や権威主義への批判を含むものです。しかしながら、このような視点自体が専門家の職業病からの一つの解釈であり、裁判員制度の意義を無にしてしまうものと思います。今回の最高裁判決が結果的に同じものだったとしても、裁判員の判断に「直感的」とのレッテル貼りをする裁判官の補足意見に対しては、最高裁の言葉はこの程度のものかと思います。

北海道小樽市 ひき逃げ死亡事故 その2

2014-07-21 22:08:16 | 国家・政治・刑罰

平成26年7月20日 毎日新聞ニュースより

 北海道小樽市で女性4人が飲酒運転のレジャー用多目的車(RV)にひき逃げされ、3人が死亡、1人が重傷を負った事件から20日で1週間がたった。繰り返された飲酒ひき逃げ事故の悲劇。2003年に次男を亡くし、事故撲滅と厳罰化を求める運動に取り組んできた北海道江別市の主婦、高石洋子さん(52)は「またしても尊い命が失われた。海水浴場では運転前にアルコール検査するなどの対策を図るべきだ」と訴えている。

 高校1年だった高石さんの次男拓那(たくな)さん(当時16歳)は03年2月12日午前4時50分ごろ、新聞配達中にRVにひき逃げされ死亡した。道警の捜査で、運転していた男は飲酒していたことが判明したが、逃走後の逮捕だったためアルコールが検知されず、飲酒運転が立証されなかった。道交法違反(ひき逃げ)罪などで起訴された男の判決は、懲役4年の求刑に対し懲役2年10月だった。「人を車で殺害してなぜこんなに罪が軽いのか」。高石さんは絶望感に襲われた。

 法体系に疑問を抱いた高石さんは「飲酒・ひき逃げ事犯に厳罰を求める遺族・関係者全国連絡協議会」の共同代表に就任し、署名運動や講演に取り組んできた。運動が実を結び、客に酒を提供する行為も処罰対象となり、今年5月には悪質な運転の罰則を強化した「自動車運転処罰法」が施行された。危険運転致死傷罪の適用範囲も拡大。飲酒などの発覚を妨げる行為への罰則も盛り込まれた。しかし、悲劇は再び起きてしまった。

 「自分たちが活動を続け新法も施行されたのに、いまだに飲酒事故がなくならない。悲しくてしょうがない」と高石さんは肩を落とす。だが「軽い気持ちで飲酒運転をするドライバーは、突然、理不尽に家族を失うつらさを考えてほしい。今回の事故で失われた命と未来のために、飲酒事故の悲惨さを決して風化させてはならない」と力を込めた。


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(その1からの続きです。) 

 人の命の重さには右も左もありません。しかし、国家刑罰権を積極的に発動し、罰を重くする考え方は、リベラルな思想の対局に置かれます。そして、保守派による権力に対抗する単語は、「命を守れ」に決まっています。かくして、「命」という単語はリベラルな有識者の側に置かれ、これに対抗する者は「命」という単語を構造的に奪われ、厳罰派として右側に誘導されます。

 「厳罰化という言葉ではなく適正化と言ってほしい」との被害者からの真摯な訴えは、私もこれまで何十回も耳にしました。私も昔からそう思っています。しかし、この声がマスコミに届くことはなく、被害者遺族はあくまで厳罰を求め、冷静な有識者がこれを諌めるという構造は変わりません。ここでは、単語の印象を含めた一種の印象操作が行われているとの感を強くします。

 保守とリベラルの対立構造、国家権力と国民の人権との対立構造において、犯罪被害者は構造的な谷間に落ちています。リベラルな思想からすれば、厳罰の要求は右寄りですので、「命を守れ」と言われてもこれに与することができません。ゆえに、マイナスイメージのある「厳罰化」という単語をあえて使わなければならなくなります。これは、裏返しのステマのようなものです。

 遵法意識とは、正確に言えば「法律を守る意識」ではなく、「法律があろうとなかろうと自らの行為の結果を想像でき、結果的に法律を守っている意識」だと思います。そして、この逆の意識は逆の結果を生みます。マスコミには、「適正化」という単語が無理なのであれば、せめて「重罪化」に改めてほしいと思います。罰の厳しさではなく、命を奪う罪の重さが問題だからです。

北海道小樽市 ひき逃げ死亡事故 その1

2014-07-16 23:03:00 | 国家・政治・刑罰

平成26年7月14日 朝日新聞デジタルニュースより

 北海道小樽市銭函3丁目の市道で、女性4人がひき逃げされ死傷した事件で、小樽署は7月14日、札幌市西区発寒11条4丁目、飲食店従業員海津雅英容疑者(31)を道交法違反(ひき逃げ、酒気帯び運転)と自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致死傷)の疑いで逮捕し、発表した。「酒を飲んで運転し、人をはねて逃走した」と容疑を認めているという。

 「朝からビーチにいた。ビーチで酒を飲んだ」。札幌近郊にある人気のビーチ近くで女性4人がひき逃げされ、3人が死亡し、1人が重傷を負った。北海道警小樽署が道交法違反(ひき逃げ)などの疑いで逮捕状を請求した札幌市の30代の男は、調べに対し、そう話しているという。現場は、最寄り駅や国道からビーチへ向かう狭い通り道だった。


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 「飲酒運転をしてはならない」ということは、法律の規定がいかなるものであろうと、人間ならば当然理解できるはずのことです。飲酒運転をしてはならないのは、当たり前ですが、法律で禁止されているからではなくて、事故を起こして人の命が奪われてしまうからです。この基本の部分は、法制度や社会政策を論じるうえで、いかに強調してもし過ぎることはないと思います。

 言葉は抽象的な概念を実体化し、構造を作ります。特に、マスコミで繰り返し述べられている言葉は、特定の意志を帯びて一人歩きせざるを得ません。「厳罰化」という単語がどのように一般化したかは定かではありませんが、この単語は「罪と罰」「法律要件と法律効果」のうちの後者にのみ言及されています。罪の軽重の話はそのままに、罰を重くするという意味を与えられます。

 罪の重さを語らずに罰の重さを語ることは、自らの行為そのものの善悪ではなく、行為の結果としての損得の論理に流れます。事故で人の命を奪う危険が高まるからではなく、法律で罰せられるから飲酒運転を控えるということです。この論理は、「ばれなければいい」「事故を起こさなければいい」という方向に必ず流れます。こうなると、何のための法律なのか論旨不明になります。

 そして、「厳罰化を求める被害者遺族」という報道のされ方は、すでに善悪ではなく損得の論理に覆われている場所では、特定の政治的主張であるとの解釈を受けざるを得なくなります。すなわち、事態は元に戻らないにもかかわらず、報復感情の充足としての復讐の欲求が語られているという解釈のされ方です。ここでは、「厳罰化」という用語の印象が非常に大きいと思います。

(続きます。)

池袋脱法ハーブ暴走事故

2014-07-08 21:27:10 | 国家・政治・刑罰

平成26年6月24日 MSN産経ニュースより

 6月24日午後8時前、東京都豊島区西池袋1丁目の路上で、乗用車が歩道に突っ込んで暴走し、歩行者を次々とはねた。警視庁池袋署によると、7人が負傷しそのうち20代の女性が死亡、女性2人、男性1人がそれぞれ重傷を負った。池袋署は同日、自動車運転処罰法違反(過失傷害)の疑いで、埼玉県吉川市高久の飲食店経営、名倉佳司容疑者(37)を現行犯逮捕した。

 池袋署によると、「脱法ハーブを吸ってすぐ後に車を運転して人をはねけがをさせたことに間違いありません」と容疑を認めている。同署は正常な運転ができない状態だったとみて詳しい経緯を調べる。車は歩道を数十メートル走行し、ポストをなぎ倒しながら人をはね、電話ボックスに衝突して停車した。近くの交番の警察官が駆け付けると、意識がもうろうとした状態だったという。


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 刑法理論において「合法・違法・脱法」の区別は最重要であり、脱法行為はあくまで違法ではありません。近代刑法の大原則である罪刑法定主義により、あらかじめ法で規制されていない薬物を使用しただけでは犯罪にならず、国民は国家権力による刑罰権の濫用に怯えることなく、安心して脱法ハーブ等の薬物を使うことが可能となります。これが刑法の自由保障機能の帰結でもあります。

 刑法の謙抑性の要請は、ある程度の数の被害者が発生することを黙認せざるを得ません。すなわち、社会全体にとってやむを得ない犠牲だということです。権力を監視すべき国民は、刑罰によって犯罪が抑止される点に安心するのではなく、脱法行為によっては逮捕・起訴されない点に安心すべきだという理論です。ここは国民の実感とずれており、かなり目線が高いと思います。

 「脱法ドラッグ」の名称は「危険ドラッグ」に変わるとのことですが、遅きに失したとは言え、意味のある施策だと思います。そもそも最初の名称が「脱法ハーブ」に収まっていたのは、法の網を巧妙に潜り抜けていることを明確にしてしまっており、刑法の自由保障機能が裏返っています。すなわち、一般庶民ではなく、法の抜け穴を意識的に探す者が相手方になっています。

 薬物犯罪はもとより「被害者なき犯罪」と称され、個人の愚行権・堕落の自由の保障の問題とも相まって、反権力の理論が強いところだと思います。ここでは、「被害者なき」と言いながら被害者が生じる可能性について、当然予期されつつ切り捨てられています。人の命が失われる可能性が当然予期されながら、それが黙認されたことにより、被害者は法に見殺しにされたのだと思います。

石原環境相の「金目」発言 その2

2014-06-27 23:51:45 | 国家・政治・刑罰

(その1からの続きです。)

 国民の代表である政治家や大臣が「結局は金目である」という本音をうっかりこぼしたことについて、この不道徳性への怒りの世論を喚起しようとする心情に対しては、私自身は何とも言えない偽善臭を感じます。権力者の言葉を一般庶民のそれと異なる地位に置き、これに本気で怒る絶対的な正義は、純粋な社会的弱者を装い、あるいはこれを利用し、本物の絶望を直視していないと感じるからです。

 あまり大きな声では言えませんが、「最後は金目である」という言い回しは、法律問題を処理する場所では日常的に飛び交っています。事故や事件の賠償の案件において、大前提として、加害者側の弁護士と被害者側の弁護士が純粋な意味で相互に戦うことはありません。代理人はあくまで代理人であり、本人ではないからです。すなわち、「お金に換算することなど不可能な気持ち」は持ち合わせていません。

 交渉事の現場では、対案のない要求はルール違反であり、「具体的な金額の話が出てきたらゴールは近い」と言われます。金額のすり合わせの話は、その即物的な性質ゆえに汚い大人の交渉とならざるを得ません。最大限に自分の立場を主張しつつ、落としどころを探りながら、いきなり譲歩するという変わり身の早さです。そこでは、有利な証言や証拠を得るために、更にお金が動くことになります。

 ある種の問題発言について、一方では純粋な怒りが政治的意見として声高に叫ばれ、他方では社会の垢で真っ黒になった実務的な理論が制度を動かすとき、いずれにしても「お金を払ったら終わり」であり、終わったことは過去のことになります。あくまでも金銭賠償は作り話であり、過去は戻らず、金銭による修復はあり得ず、この答えのない問いの前で苦しむ姿勢の共有だけが可能なのだと思います。

石原環境相の「金目」発言 その1

2014-06-24 21:43:39 | 国家・政治・刑罰

平成26年6月23日 MSN産経ニュースより

 石原伸晃環境相は6月23日午前、東京電力福島第1原発事故で出た除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の候補地、福島県大熊町の渡辺利綱町長に会い、施設をめぐる交渉について「最後は金目でしょ」と述べた発言を謝罪する。

 石原氏は会津若松市内に移転している大熊町の役場を訪問。午後には、同じく候補地である双葉町の伊沢史朗町長に役場移転先のいわき市で、夕方には福島県庁で佐藤雄平知事に会う。石原氏は16日、中間貯蔵施設に関する住民説明会が15日に終了したことなどを、官邸で菅義偉官房長官に報告。その後の記者団の取材に対し「最後は金目」と発言した。

 佐藤知事が「住民のふるさとを思う気持ちを踏みにじる」と述べるなど、福島県側から批判が高まり、石原氏は17日の記者会見で陳謝。19日の参院環境委員会で「品位を欠いた発言で誤解を招いた。おわびして撤回する」と述べた。


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 貨幣とは価値の尺度であること、そして貨幣は価値を媒介する交換手段であることの残酷さについて、いくら机上で理屈を学んだところで、その本当のところはわからないものと思います。「お金に色を付けても色は付かない」という事実について、私が身に染みて理解させられたのは、精神的苦痛の慰謝料の支払いの現場での受け渡しや振り込みの業務に日常的に従事するようになってからのことでした。

 「最後は金目である」という論理の破壊力は、お金の獲得を目的にする意思が毛頭なく、その何かを金銭に換算する思考を唾棄すべき時に、否応なく入り込んで来るものと思います。お金を支払う側は、その損失ないし苦痛の負担が制度趣旨である以上、「払えばいいんだろう」という精神の動きを免れません。そして、経済は議論の過程ではなく結果によって動き、世の中のシステムが回り始めます。

 貨幣は価値の尺度であるが故に、大金を手にする者に対しては、それがいかなる名目であっても、必ず羨望の視線は向けられるものと思います。「焼け太り」なる概念は、嫉妬心以外の感情が生み出すものではありません。そして、「誠意がない」との直観が「金額が安すぎる」という実利的な形を強いられた瞬間、あらゆる観念はこの色のない構造の中に入れられ、出られなくなるものと思います。

 何物かの補填として高い賠償金を得ることは、社会的には「金銭欲が満たされて満足だろう」という判断を向けられざるを得ません。他方で、低い賠償金しか得られないとなれば、人生をお金に換算される惨めさを強いられることになり、いずれにしても損失の修復は不可能です。紛争解決の落としどころが「最後は金目である」ということは、いかなる意味でも正しく、そして残酷なことだと思います。

(続きます。)

韓国旅客船沈没事故について その2

2014-04-22 23:21:39 | 国家・政治・刑罰

 国レベルの外交問題について、その国家に守られた一般庶民が自分の意見を持ったところで、ほとんどの場合は的を外すことになると思います。マスコミの断片的な情報だけを元にして、外交交渉の複雑な裏側や汚い駆け引きも知らず、現場の切迫した状況とは無縁の場所で頭をひねったとしても、単なる評論家気取りの域を出ないからです。今回の事故が何らかの外交カードとして利用されるのか、思わぬ形で韓国の反日世論の高揚に結び付けられてしまうのか、私にはよくわかりません。

 ただ、私が一般庶民として肌で感じたことは、今回の大事故によって、竹島の領有権、従軍慰安婦問題、歴史認識、靖国参拝といった数々の議論が一瞬飛んでしまい、韓国のほうが一方的に休戦状態に入らざるを得なくなったということです。しばらくすれば元に戻るのでしょうが、この長年の問題が一瞬でも中断したということは、目の前で起きた大事件のほうが強い力を持つ事実を表していたものと思います。国内の厳しい問題は、国外に敵を作って批判したところで解決しないからです。

 今回の有事に直面して私が感じたことは、ここ数年来の反日と嫌韓によるギクシャクした状況は、ある種の平和な状態の具現化であったということです。およそ平和という話になれば、日本が過去を反省し、平和憲法を守り、軍国主義の復活を防止するという論理の流れがあまり強力だと思います。しかしながら、過去から現在に至る正しい歴史認識を有しているというならば、現在の有事に直面して歴史認識を論じる余裕がなくなるはずもなく、歴史に足を掬われることもあり得ないと思います。

 歴史とは何かという点について、小林秀雄は「歴史とは子を失った母親の悲しみである」と述べていたと思います。今回の事故も人類の歴史に組み込まれることを想起するとき、この言葉は歴史について非常に当を得た指摘であると再認識させられます。また、国家間の歴史認識なるものは永久に決着が付かない種類の話ですが、「何か突然の事態が起きた時に備えて隣の国とは仲良くしておいたほうがいい」という認識については、日韓の庶民レベルで広く共有されたことは確かだと思います。

韓国旅客船沈没事故について その1

2014-04-21 23:27:00 | 国家・政治・刑罰

 子を思う親の気持ちは万国共通であり、このような事故状況で人間の焦燥感やもどかしさが頂点に達することについては、日本と韓国の間に寸分の違いもないと思います。「必ず生きて帰って来ると信じている」という親の信念が純粋に否定できない点も全く同じです。また、人は死者となった瞬間にその内心が想像されなくなることや、必死の捜索に従事する者の使命感にはスポットが当たらないこと、行き場を失った数々の思いは責任者探しや美談に飛びつきやすいことなど、両国の間に差は全く存しないとの感を持ちます。

 ここ数年の日韓関係については周知のとおりですが、今回の厳しい事故に接して1人の人間として心を痛めない日本人がいるならば、それは正当な愛国者でも保守派でもないと思います。嫌韓の流れで韓国政府や船長のみを非難し、修学旅行生を被害者の地位に置くことは簡単ですが、この事故についてのみ善悪の線を引き直すことは、あまりにご都合主義だと感じます。現に、亡くなった修学旅行生の中にも反日の生徒は多くいたでしょうし、逆に嫌韓の感情は韓国国民に一人残らず向けられるはずのものだからです。

 日本で愛国心を語ればあらぬ議論に引っ張られますが、人が自らの国に対する親近感を持つことは至極自然のことと思います。人は誰しも生まれる国を選べない以上、あえて愛国心なるものを持つ必要もありませんが、逆に自分の帰属する国を嫌悪して批判を浴びせることは、相当にひねくれた心情だと思うからです。日本と韓国を論じる場合にも、「A国」「B国」という匿名に置き換えて互換性がなければ、普遍性を欠くことは当然です。「ある国が一方的に別の国の右傾化を懸念する」という理屈の筋が通ることもないと思います。

 国は人間の集まりの別名にすぎず、人は極限の状態に置かれた時ほど普遍的な論理を自身の中に求める結果、国の違いなど無意味になるのだと思います。これは、「宇宙からは国境は見えない」「人類皆兄弟」といった面倒な話でもなく、理想の世界の建設に向けた希望でもなく、現に「国家」なるものは個人の脳内にしか存在しないという事実の表れだと思います。私は、「仲良くしようぜ」というプラカードからは偽善臭しか感じない者ですが、今回の事故の報に接して直観的に心が痛まない日本人は言語道断だと感じる者です。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その9

2014-04-01 23:39:46 | 国家・政治・刑罰

 今回のような訴訟が提起され、かつ原告側の敗訴となった件について、当事者の関係者以外の法律家は基本的に無関心だと思います。これは、全国の弁護士会が熱くなって会長声明を出すような裁判とは非常に対照的です。証拠から事実を推論する民事訴訟の構造からは、恐らく原告の敗訴になるだろうという予想を有しつつ、そのようなシステムを主宰していることに心を痛めることがありません。そして、これを期待しても虚しいことは、私が自分自身の心情を観察して深く知り抜いていることでもあります。

 法律家の得意分野は、ロゴスではなくロジックです。重箱の隅を突いて揚げ足を取ることは得意ですが、天災の論理の前では肩書きなどは役に立たず、狼狽するのみだと思います。「社会に問題提起したい」と言っても敗訴すれば逆効果となる危険があり、勝訴の先には「裁判に勝っても死者は帰らない」という絶望がある以上、従来の法律の理論とはポイントが合いません。逆に、双方に訴訟代理人が就くが故の容赦ない人格の非難合戦を生じさせ、争いを泥沼に陥らせるのが法律の常態であるとも感じます。

 最後は私自身の無責任な願望ですが、このような訴訟では双方の弁護士が通常の論理を切り替えて、天災を前にすれば法律は所詮はこの世のルールに過ぎず、法律の白黒を超えた「謎」「真実」が存在し、被害者の死ではなく自らの死を捉えつつ普遍的な論理を語る契機があれば、死者の上に敗訴判決が上乗せされる絶望は避けられたものと思います。「千年後の未来の子供達」どころか僅か3年で風化が指摘される社会状況において、このような決裂を避けるべきことが法律家の役割であると思うからです。