犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

香山リカ著 『知らずに他人を傷つける人たち』

2009-07-31 23:59:47 | 読書感想文
p.17~
最近では、上司と部下、先輩と後輩、といったはっきりした権力関係がないのに、一方が他方にひどいいやがらせや意地悪などのハラスメントをする、というケースが増えているのである。立場や権力の違いがなくても、いやがらせをする。これが、モラル・ハラスメントのひとつの特徴だ。モラハラをされ続けると、被害者は独特の心理状態に陥ってしまう。被害者の多くは、「悪いのは私のほうではないか」「私に問題があるから、こういういやがらせをされるのではないか」と思ってしまう。

p.87~
離婚を避ける理由が経済的な問題でないならば、やはり引っかかっているのは愛情か、と思ったこともあった。何だかんだ言いながら夫を愛しているからこそ、彼女たちは「別れたくない」と思っているのではないか。しかし、「私はいくら夫に無視されても、やっぱり彼が大好きなんです」という答えが返ってきたことは、ただの一度もなかった。彼女は「夫にニコニコしていろ、と言われたので、ニコニコできる方法を教えてほしい」という理由で診察室にやって来た。決して「困った夫をなんとかしてほしい」という相談ではないのだ。「悪いのは夫ではなくて、夫をそうしてしまった私のほう」と自分を責めるようになる。これが、実は最大のモラハラ被害なのだ。

p.166~
モラハラの司法的救済の試みは厄介なことになる。なぜならモラル・ハラスメントの違法性を明らかにするためには、繰り返された「些細な出来事」の主張・立証をいくつも積み上げなければならないが、それは「些細な出来事」であるだけに客観的な証拠が存しないばかりか、具体的な日時・場所・態様の特定さえ困難であることが少なくないからである。さらに、「些細な出来事」の積み重ねをもって裁判所が想像力豊かに被害の構造に思いを致し、不法行為その他の責任原因たり得るものと見てくれるか甚だ心許ない。


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モラル・ハラスメント(モラハラ)とは、「言葉や態度、文書や身振りなどによって、他人の尊厳や人格を傷つけたりすること。また、精神的または肉体的に傷つけ、その相手がどうしようもなく悩んでしまうような状況に追いやったり、相手の気分を害すること」と定義されています。これは、フランスの精神科医、マリー・フランス・イルゴイエンヌによって1999年に提唱された造語です。近年は似たような新語の誕生が著しく、セクハラとモラハラはどう違うのか、パワハラやDVとモラハラはどう違うのか、改めて問われると、なかなか専門家以外にはわかりにくい状況になっているようです。

ある行為がモラハラに該当するのかしないのか、個々の行為をあてはめてガイドラインを作ることは、言語使用の場においては不自然な方法であり、入口が逆転しているように思います。人間は、言葉を辞書で定義してから使っているわけではないからです。新たな単語が表れる瞬間には、何かモヤモヤした「その言葉によって言いたいこと」が先になければなりません。そして、その新語が広く共有されるためには、何よりもその言葉にならないモヤモヤが人々の間で広く共有されていることが必要となります。「なぜ、セクハラでもパワハラでもDVでもなく、モラハラと言わなければならなかったのか」。この問いを問うことなしに、学問的に「モラハラとは何か」という問いを立てても、香山氏が述べるところの「被害者の独特の心理状態」を直観的に掴むことは難しいように思われます。

水掛け論

2009-07-29 23:45:26 | 国家・政治・刑罰
朝日新聞 7/28朝刊 投書欄
「財政理由の時効存続論に疑問」  57歳 男性

「公訴時効を廃止すれば、数十年前の捜査のために直近の事件捜査が阻害され、警察負担ひいては国民負担が増し行財政改革的に不合理」という23日投稿に疑問を感じる。時効廃止は殺人など凶悪犯が時効で公訴を免れる不条理を是正するもので、数十年前の事件を直近事件と同じレベルで捜査しろということではない。

東京の女性教諭が実は同じ小学校の警備員に殺されていた事件は、犯人が時効後に自首した。区画整理で自宅敷地に隠した遺体が発見されるのを恐れての自己中心的な理由からだ。この場合、遺族をはじめ市民感情が、行財政改革を理由とする時効存続論に納得するとは思えない。

足利事件は今後、真犯人が分かっても公訴できないが、そのことを行財政改革の観点から妥当と言う人はいまい。冤罪の菅家利和さんが「(真犯人を)絶対許せない、時効になっても許さない」と語った。自分に対する冤罪が結果的に、真犯人に時効を迎えさせてしまったという悔しさが伝わってきた。時効廃止で凶悪犯が判明したら、何時でも公訴を可能にする改正に大賛成だ。

(23日の投稿は→ http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/d/20090724)

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私は、凶悪事件の時効撤廃に賛成する意見を聞くと、我が意を得たりという気分になります。他方で、時効撤廃に反対する意見を聞くと、なぜか非常に不快な気分になります。これは、私が時効撤廃に賛成していることが原因なのではなく、逆に、このように快・不快を区別しているということが、私が時効撤廃に賛成していることを示しているのだと思います。自分と同じ意見ならば少々の論理の飛躍は補えますが、自分と違う意見の論理の飛躍はいちいち気に障ります。また、自分と同じ意見の論拠はどれも説得力がありますが、自分と違う意見の論拠はどれも説得力がありません。そして私は、これは客観的な正義・不正義の問題であって、個人的な好き・嫌いの問題ではないと、自分を納得させようとしています。

私は、時効の存続を主張する23日の投書を読んで、「何か一言言ってやらずにはいられない」という気分になりました。しかし、この28日に掲載された方ほどの行動力はないため、世界の片隅の自分のブログに目立たないように書いただけでした。それでも、怒りで顔を真っ赤にして、政治的な意見を表明したくなった点は同じです。時効撤廃論が正しく、時効存続論は間違っていると思った時には、すべて「結論先にありき」で、理由は後付けです。異なった意見に接して、お互いの価値観を尊重し合って、議論の中で自らを鍛えるという意識など全くありませんでした。現に、刑法において殺人罪に時効の定めを置くか否かは、法制度として一方のみを選ぶしかないからです。意見を主張するのはそれが正義だからであり、それを裏付ける根拠を必死になってかき集めるのは、反対論を論破して間違いを認めさせるため以外ではありません。

私は、このような自分自身の心の方向性に気が付くたびに、「いつの間にか水掛け論に入り込んでしまったな」と苦笑します。そして、自分と違う意見を聞いて不快になった時よりも、自分と同じ意見を聞いて心地よい気分になった時に、この自己欺瞞に改めて気付かされます。一般に水掛け論とは、互いに根拠のないままに自らの思い込みを主張することによって起こるものであり、客観的な証拠に基づいて説得力のある議論を展開するならば、水掛け論には陥らないとも言われているようです。しかしながら、ネットの掲示板から国会論戦に至るまで、客観的な証拠に基づく説得力のある議論の展開が、より激しい水掛け論を呼び込んでいることは疑いないようにも思われます。私は、「殺された側に時効はない」という絶望の奥底から絞り出された言葉を、自らの快・不快の感情によって、凶悪事件の時効撤廃に賛成する政治的意見の論拠とする偽善に敏感でありたいと思います。

ある裁判官の苦悩

2009-07-27 00:10:29 | 実存・心理・宗教
その被告人は公判の間、一度も顔を上げることはなかった。傍聴席からの鋭い視線、すすり泣きの声を前にして、全身を震わせていた。これが演技ではないことは、彼の目にもすぐにわかった。検察官から被告人に対して問われた問題のすべては、恐らく被告人がすでに何度も自分自身に問うていて、それにも関わらず上手く答えが出ないものであると思われた。「なぜ人を轢いたとわかったのに、その場で車を降りて救急車を呼ばなかったのか」。この問いは、恐らく被告人自身によって何回も問われ、そのたびに「怖くなって逃げてしまった」との稚拙な回答しか絞り出せず、それを聞く者を苛立たせ、さらに被告人を絶望に追い込んでいるものと想像された。真剣に自分の犯した罪に向き合う者は、最後には同じ壁に当たって言葉を失う。すなわち、時間は戻らず、過去は変えられず、死者は帰らない。特例判事補になってまだ間がない彼にとって、担当してきた裁判は数えるほどしかなかったが、ここまでの自責の念によって絶句し、反省の弁も出ない被告人は初めてであった。

検察官は被告人に対し、懲役3年6月を求刑した。瀕死の被害者を置き去りにして逃走する悪質かつ卑劣な犯行であり、しかも公判廷において具体的な反省・謝罪の言葉が聞かれなかったというのがその理由である。死亡事故において検察官が懲役刑を求刑するか、禁固刑を求刑するかは、示談の有無や反省の程度などに応じて、大体の相場が決まっている。そして、懲役刑は刑務所の中で労働の義務を負うのに対して、禁固刑には労働の義務はない。現実問題としては、禁固刑の受刑者の9割は、鉄格子に向かって正座し続けることに耐えられず、懲役刑の受刑者とともに刑務作業をしているそうである。彼は、検察官の懲役刑の求刑を聞き、前例踏襲に縛られた官僚的な求刑だと思った。刑務作業をしていては、自分が奪った命の正面から向き合う機会が奪われてしまう。この被告人は、おそらく禁固刑受刑者の1割として、一日中鉄格子に向かって正座し、自分の人生に向き合うことを望むだろう。いや、望まなければならない。これは、裁判官という職業を離れた彼の人間的直観であり、人の命を奪った者に対しての最低限の期待であった。

判決の日が来た。彼が裁判官席に着席すると、傍聴席の真正面の遺影が目に入った。亡くなった人に判決を聞かせたい。実証主義を至上命題とする社会科学にとっては、これほど非合理的な人間の行動はないはずである。判決文に「死亡させた」と書いてあるならば、その者が判決を聞けるわけがない。逆に、判決文に「死亡させた」と書いてなければ、写真ではなく本人が法廷に来ればいい。彼は、この現実から目を逸らし、慰めの対象として被害者を捉える欺瞞的な視線が耐えられなかった。そして、自分は法律家としてこの視線に染まることなく、遺影の視線に正面から向き合うことを決意した。彼は、被告人に向かうと同時に、その真後ろにある遺影に向かう覚悟で、判決を読み上げた。「被告人を禁固2年に処する」。彼は判決の最後に、被告人に対する説諭を行った。「あなたは、遺族の方が『すぐに救急車を呼んでくれれば命はあったと思います』と述べた時、最も激しく顔を歪めました。さらに、弁護人が『被害者は即死です』と異議を述べようとしたのを、後ろを向いて制しました。その気持ちを一生忘れることなく、自分自身の人生に向き合って下さい。そして、亡くなった方の人生に向き合い続けて下さい……」

彼が裁判官室に戻って数時間後、書記官が真っ青な顔をして飛び込んできた。「大変です。判決に過誤がありました。禁固刑は選択できません」。書記官の話を聞くうちに、彼の全身からは脂汗が出てきた。道路交通法72条1項前段により、交通事故があったときは、運転者は直ちに車両の運転を停止して、負傷者を救護しなければならない。そして、道路交通法117条1項により、救護義務違反を犯した者は5年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処せられ、さらに117条2項により、人の死傷が当該運転者の運転に起因するときには、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられる。他方で、刑法211条2項前段により、自動車の運転上必要な注意を怠って人を死傷させた者は、7年以下の懲役もしくは禁錮又は100万円以下の罰金に処せられる。そして、刑法45条・47条本文により、併合罪のうちの2個以上の罪について有期の懲役又は禁固に処するときは、その最も重い罪について定めた刑の長期にその2分の1を加えたものを長期としなければならない。すなわち、この事件については、条文には禁固刑が定められていても、実際には禁固刑を言い渡すことができなかった。人の命を奪う罪よりも、人の命を奪わない罪のほうが刑が重いということである。

その数分後より、彼のデスクの電話は鳴りっぱなしになり、廊下もドタバタと騒がしくなってきた。すでに判決の訂正はできないため、検察側によって高等裁判所への控訴が行われた。また、弁護人が連絡したのか、マスコミまで駆けつけ、地方裁判所所長は「司法に対する国民の信頼を揺るがす問題だ。あってはならないことで、再発防止に努めたい」とのコメントを出した。部総括裁判官は、彼を激しく叱責した。「法律のプロである裁判官が条文も使いこなせないなんて、言語道断だろう。恥ずかしくないのか。俺の顔を潰す気か。いい加減にしてくれ」。初歩的なミス。出世レースでの致命的な汚点。気の緩み。エリートコースより早くも脱落。彼の周りで飛び交う単語の真ん中で、まるで台風の目の中に逃げ込むように、彼の心は全く別の場所に飛んでいた。高等裁判所の裁判官は、あの被告人に対して、裁判所のミスを深く謝罪するだろう。不安定な身分である未決勾留が続き、被告人の人身の自由を侵害したことについて、平身低頭の限りを尽くすだろう。果たして被告人は、その後でも、あの判決の時のような気持ちで亡くなった方の人生に向き合い続けられるだろうか……。しかしながら、被告人に対する人権侵害を第一次的に謝罪しなければならない立場の彼にとっては、そのような悩みを持つこと自体、分不相応かつ不謹慎であった。


(フィクションです。)

小浜逸郎著 『言葉はなぜ通じないのか』

2009-07-26 22:48:49 | 読書感想文
p.96~

言語の特性の3番目として、言葉というのはものごとを必ず抽象化し、一般化して捉えます。これは多くの場合、意思疎通の難しさ、制約としてあらわれます。言語的にもっとも抽象化しにくい感覚は嗅覚です。たとえば、塩素の匂いを言葉で表現してみろと言われると、私たちはハタと困ってしまいます。「くさい」とか「刺激臭」とか言ってみても、経験のない人にはさっぱり実感がもてません。「プールの消毒薬の匂い」と表現してみたとしても、これも経験の共有に訴えているわけで、プールに行ったことがない人には実感としての認識が得られません。この抽象化、概念化ということは、言語の本質にかかわることですから、嗅覚に限らず、あらゆる経験の伝達にとって阻害要因となります。

この事実は、やはり意思疎通にとって制約としてあらわれることがあります。というのは、言語行為は主体の生きた活動なので、それを現実に使用する主体によって、ある語彙に込めた概念が異なることがしばしば起きるからです。ある人がある語彙を使ったために、受け取る側がそれを聞きとがめて、「それはおかしい」と感じることがあります。こうした食い違いが生じるのは、言葉の正しい使用とか誤用といった捉え方を超えていて、正しい概念に従って正しく言葉を用いれば避けられるといった解決策に収まるものではありません。また、それぞれの主体の抽象作用の違いは、その主体の生活史に依存しています。ある語彙をこれこれの概念で使ったつもりなのに相手がそう受け取らなかったという場合、そこにはそれぞれの生活史の違いが反映されているわけです。

いま民主主義社会の政党は、どの政党も「国民」という言葉を濫発して、対立政党の政治理念を「国民のためになっていない」といって批判しますが、これって聞いていてなんだかとても虚しい感じがしませんか。どの政党も「国民」という言葉が何か確かな実体であるかのように使っていますが、「国民」なんてどこにいるの? 私? あなた? と聞きたくなります。「国民」というのは、ただの集合名詞であり、抽象概念であって、しかもその外延があまりに多岐にわたりすぎます。政党は、こんな概念をやたら振りまわすべきではなく、同時に私たち一人ひとりも、「政治家はわれわれ国民のことをほんとうに考えているのか」などと、陳腐な言葉遣いをなるべくしないようにすべきですね。


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自民党の細田幹事長は24日、毎日新聞などとのインタビューで、「報道機関は麻生首相が『字が読めない』『ぶれた』と言って楽しんでいるが、たいしたことはない。そのことの方が皆、面白いんだ。日本国の程度を表している。国民の程度かもしれない」と語った。細田氏はインタビュー終了後、「誤解を招く表現だった。謝罪します」と述べ、発言を撤回した。

民主党の鳩山代表は25日、細田幹事長の発言について、大変けしからん発言だ。自民党は心の中で、自分たちが偉くて国民の程度が低いという思いで、政治を今日までやっていたのではないか。民主主義にもとる、絶対に政治家が言ってはならない言葉だ」と厳しく批判した。岡田幹事長も神戸市内で記者団に「自民党の体質を表している」と指摘した。

聞いていて、小浜氏の述べるとおり、「国民の皆さま」のうちの1人として、何だかとても虚しい感じがしました。

現実性を踏まえた冷静な議論

2009-07-24 23:50:31 | 国家・政治・刑罰
朝日新聞 7/23朝刊 投書欄
「時効廃止は国民負担考えて」  34歳 男性

法務省の勉強会が、凶悪・重大事件の公訴時効を廃止または延長するのが相当とする最終報告をまとめた。被害者やその家族の心情を考えれば、廃止論も理解できる。しかし、時効がなくなれば、捜査機関が取り扱うべき事件が半永久的に増加する。従って、捜査や証拠の管理を担当する、主に刑事部門の警察官も増員しなければならず、公務員の人件費増大への対処が問題となる。

行財政改革という観点から、警察官の定員は現状を維持するとすればどうなるか。その場合、数十年前の事件の捜査に人員を割けば、直近の犯罪の捜査が手薄になるし、逆に、直近の捜査に人員を割けば、数十年前の捜査が手薄になり、時効を廃止した意味がなくなる。そもそも、警察官を大幅に増員するのなら、交番勤務やパトロールなどを担当する、地域部門や交通部門を手厚くする方が、よほど犯罪抑止効果が高まるのではないか。

時効廃止は、理念としてはよくても、実際に行うとなれば様々な国民負担を伴いうるという点で、私たちの覚悟が問われる。現実性を踏まえた、冷静な議論を求めたい。


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この投書をした人は、とても頭が良い人だと思います。恐らく、根拠を提示して主張を裏付けるタイプの議論には強いのでしょう。文章の組み立てにも穴がなく、筋もわかりやすく、論理的思考力も抜群です。最後に「現実性を踏まえた冷静な議論」という、誰にも反論のできない万人に正しいキーワードで文章を締めくくっているところなど、読み手を説得する技術にも長けているようです。最初のほうでは、被害者やその家族の心情に対する配慮も払っていて、とても優秀な人だと思わされます。どこに問題があるのか、文句があるなら根拠を挙げて反論せよと言われても、特に反論できません。時効がなくなれば、捜査機関が取り扱うべき事件が半永久的に増加し、その負担が大変なことになると言われれば、全くその通りだと思います。

しかし、読めば読むほど、何とも言いようのない気持ち悪さが残ります。それは、この投書をした人が、そもそも公訴時効の廃止が求められた根本のところの問いを所有していないからだと思われます。その問いとは、「罪を犯したにもかかわらず、なぜ償いをしなくてよいのか」という根本的な問いです。ここは、「罰」ではなく「償い」でなければなりません。そして、この「償い」の概念は、「現実性を踏まえた冷静な議論」とは相性が悪いところがあります。「罪を犯した者はその罪を償わなければならない」という命題にとって重要なことは、犯人が逮捕されて裁きを受ける確率が0%ではないではないということです。捜査官の動員の限界、遺留品や目撃者の乏しさなどを考えれば、現実問題としては、1%以下も0%も大して変わらないということになるのでしょう。しかしながら、「償い」の命題にとって何より大切なことは、犯人は公訴時効が廃止されれば、生涯にわたって、心のどこか奥底で、いつ捕まるのか怯えながら生きて行かねばならなくなるということです。

上記の投書をした人は、半永久的な捜査の増大を問題にしていることからもわかるように、自首の可能性を最初から除いています。もちろん「現実性を踏まえた冷静な議論」からすれば、捕まれば死刑確実の犯人が自首することに期待するような議論は、稚拙すぎて論じるにも値しないということになるのでしょう。しかしながら、「罪を犯したにもかかわらず、なぜ償いをしなくてよいのか」という根本的な問いが存する限り、この議論を切り捨てることは、核心のところを全て取り逃がすことのように思います。自首しないという覚悟を決めた犯人は、人に言えない過去を抱え、時には自分自身の心を偽り、自首しない人生を全て自分自身で引き受けざるを得なくなります。それは、「罪を犯した者はその罪を償わなければならない」という命題に逆らい続ける人生から逃れられないということです。そして、時効が存在していれば25年間逃げ続ければ済んだものが、時効が廃止されれば死ぬまで逃げられないことになります。この恐るべき現実は、紛れもない「現実性を踏まえた冷静な議論」だと思います。

世論を二分する問題

2009-07-23 22:55:13 | 国家・政治・刑罰
今月13日、臓器移植法改正案が参議院本会議で採決され、3法案のうち、脳死を一般的な人の死とする「A案」が可決・成立しました。これによって、15歳未満の子どもの臓器提供を禁じた現行法の年齢制限が撤廃され、脳死が初めて法律で「人の死」と位置づけられることになりました。私はこれまで、身内や友人が臓器の病気で苦しみ、移植でしか助かる道はない状況に直面しつつ、法の壁に阻まれて悔しい思いをしたことはありません。逆に、身内が脳死状態となり、心が整理できない中で臓器提供を求められ、最期の看取りの時間が持てずに苦しんだこともありません。その意味では、公平・中立な立場におります。そして、私自身、どちらかと言えば臓器移植には反対する気持ちが上回っています。心の中を無理に数字にしてみれば、60対40くらいで反対論のほうが勝っています。この理由は、自分でもわかりません。もちろん、自分自身や自分の周囲に臓器移植に関する問題が起きれば、このような数字はあっという間に変わるものだと思います。

世論を二分する問題というのは、多かれ少なかれ、公平・中立な立場にある者における、この心の微妙なバランスの問題であると思われます。ある者は70対30、またある者は51対49というように、自らの心の中で、賛否両論が闘っているのだと思います。しかしながら、他者に向けた政治的な議論というものは、この微妙な内心の闘いを表明するには向いていないようです。公正・中立というものが、全くの50対50であるならば、それは単なる無関心であると思います。そして、ある問題について、自分の人生に関わりがあるものとして真剣に考える限り、人は50対50の地点に立つのは困難なようです。自らの心の揺れを観察してみれば、ある時には50.001対49.999になり、またある時には49.999対50.001になっているのかも知れません。政治的な議論に火がつくのは、そもそも政治的な議論がこの繊細なところが記述できず、しかもその鈍感さが人間を苛立たせるため、さらに政治的な議論を呼ぶからだと思います。他者を説得するためには、自らの51対49の心中を吐露しては議論に負けてしまうので、100対0の価値観を表明しなくてはなりません。そして、これに対抗するには、0対100の価値観を表明しなければ潰されてしまいます。

私は臓器移植法改正案のニュースにおける双方のコメントを聞き、最初は60対40であった心が激しく揺れました。我が子の命を助けるためにずっと移植を待ち望んでいる方、移植が受けられなかったばかりに我が子を失い、この法案の成立に我が子の生命の意味を託している方のコメントを聞くと、反対論の60の数字が徐々に下がり始め、賛成論の40の数字が徐々に上がり始めました。我が子に対する張り裂けそうな思いが阻まれる悔しさ、もどかしさ、そしてこの法案に賭けている人生が震える全身から伝わってきたからです。私の心の中の数字は、51対49を通過し、50対50に限りなく近付いて行きました。他方で、我が子が脳死状態にある中でずっと看病されている方、我が子の臓器提供を承諾した後で自らの選択に苦しみ続けている方のコメントを聞いても、反対論の60の数字は上がりませんでした。そして不思議なことに、その数字は下がり、50に近付いていきました。生死に関する繊細な問題を100対0で考えざるを得ない運命に圧倒され、その運命を生きていない自分にはその数字を語る資格がないことを悟り、数字が逆に動いたのかも知れません。結局私の心は、いずれのコメントを聞いても、限りなく50対50に近付いて行きました。

しかし、私の心の中のこの数字が逆転することはありませんでした。その理由はわかりません。気が付いたときには、自分の心はそれ以外ではありませんでした。いずれにしても、人の生死、生命倫理に関する問題は、人の心の奥深くの説明できないところの勝負になるのではないかと思います。経験のない人でも、自分のこととして真面目に考えれば考えるほど、必然的にこの過程を経ることになるようです。それがある人にとっては50.001対49.999になり、またある人にとっては49.999対50.001の勝負になるのでしょう。民主主義社会においては、広く多角的な意見に触れ、対立する者との間で議論を重ねながら、自分の価値観を形成してゆくことに重きが置かれています。しかし、上記のような内心の勝負を維持したまま、重層的に他者との議論をするとなれば、普通は自分の心がもたないでしょう。私は、自分の内心に向き合うときには60対40の数字が51対49に近付きましたが、ニュースで政治的な意見を聞くときには、その数字が一瞬にして100対0になりました。なぜなら、私は政治的に分類されれば、「臓器移植反対派」であり、51が49に勝っていることを証明して足元を安定させるには、他者に対しては100の正当性を主張するしかないからです。

衆議院の解散の直前に、駆け込みで臓器移植法改正案が可決・成立したのは、人の死を法律の条文に定義するという行為において、非常に象徴的なことだと思います。

離婚弁護士

2009-07-22 23:51:39 | 言語・論理・構造
その1

彼女は弁護士に尋ねた。「私は結婚してまだ3ヶ月なんですが、価値観の不一致はどうしようもなくて、夫と別居しています。完全に離婚したいという気持ちが強いですが、もう一度やり直したいという気持ちも残っています。夫のほうの気持ちはわかりません。私はどうすればいいのでしょうか」

弁護士は誠実そうな笑みを浮かべて言った。「そのようなときは、自分の心に正直になることです。離婚届に判を押して、郵便で夫に送りつけて下さい。もし、彼のほうに離婚する意思があれば、判を押して送り返してくるでしょう。彼に離婚する意思がなければ、丸めてゴミ箱に捨てるでしょう」

彼女は弁護士に従って、離婚届に判を押して夫に送った。ほどなく、夫から連絡が来た。「私はあなたと絶対に別れたくありません。あなたの冷たい仕打ちに傷つきました。あなたがどうしても別れたいと言うのであれば仕方ありませんが、それなりの誠意は見せてください。解決金として、50万円でいかがでしょうか。それ未満であれば、私は判を押しません」

彼女は友人と親戚から50万円をかき集め、夫から離婚届に判を押してもらい、無事に離婚が成立した。弁護士は彼女の報告を聞き、再び誠実そうな笑みを浮かべて言った。「何はともあれ、目的が達成できて良かったですね。お金のほうは大変でしょうから、こちらの支払いは最初の相談料と実費だけで結構ですよ」


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その2

彼は弁護士に尋ねた。「私は結婚してまだ3ヶ月なんですが、価値観の不一致はどうしようもなくて、妻と別居しています。完全に離婚したいという気持ちが強いですが、もう一度やり直したいという気持ちも残っています。妻のほうの気持ちはわかりません。私はどうすればいいのでしょうか」

弁護士は鋭い笑みを浮かべて言った。「そのようなときは、正直に行動してはいけません。相手の出方を慎重に見極めることです。もし、彼女のほうに離婚する意思があれば、離婚届に自分の判を押して送ってくるでしょう。その時がチャンスですよ」

彼女は弁護士に従って、妻のほうの動きを待った。ほどなく、妻から判を押した離婚届が郵送されて来た。彼はここぞとばかりに連絡した。「私はあなたと絶対に別れたくありません。あなたの冷たい仕打ちに傷つきました。あなたがどうしても別れたいと言うのであれば仕方ありませんが、それなりの誠意は見せてください。解決金として、50万円でいかがでしょうか。それ未満であれば、私は判を押しません」

彼は妻から50万円を受け取り、離婚届に判を押し、無事に離婚が成立した。弁護士は彼の報告を聞き、再び鋭い笑みを浮かべて言った。「上手く行きましたね。成功報酬のほうは、困難な事案が早期に解決したということで、50万円の4割が基準となりますので、20万円を頂きます」

ある警察官の苦悩

2009-07-20 21:42:38 | 実存・心理・宗教
「おい、また来たぞ」。彼は上司から突然呼ばれて、目の前の仕事を中断せざるを得なかった。また来たというのは、いつもの女性である。彼女の娘が男からストーカー被害に遭っており、待ち伏せされたり、拉致されそうになったりして、身の危険を感じるということであった。上司は彼に向かって言った。「おい、アポ無しで来させるなって言っただろう? お前の責任で対処しろよ」。もちろん女性からは、娘の命が危ないという緊急事態であり、一刻の猶予も許されず、電話で予約する余裕はないと言われるに決まっていた。そして、彼女が何回も警察署を訪れているのも、彼がこれまで絶対に告訴状を受け取らなかったからである。彼はつくづく損な役回りを押し付けられていると思った。彼は何度も、告訴状を受理して捜査を開始するように上司に訴えたが、決裁は通らなかった。そして、署において告訴状を受理しない方針が固まっているのに、彼の一存で受理してしまっては、それこそ大変なことになる。答えは最初から決まっていた。

彼が相談室に入ると、彼女は机の上に告訴状を置き、これを渡すまでは絶対に帰らないという殺気立った表情で、彼をにらみつけてきた。彼も心を決めた。いつまでもダラダラしていてはらちが開かない。この相談で時間を取られては、今日も深夜まで残業だろう。一刻も早く自分のデスクに戻り、溜まっている捜査報告書を仕上げなければならない。時間は有限だからである。俺の体力と精神力にも限界がある。この女性には、二度と警察署に来ないように、完全に諦めさせた上で帰ってもらわなければならない。これは職務命令だ。俺は本当は、告訴状を受理した上で捜査を開始すべきだと思っているが、そんなことは彼女の前では口が裂けても言えない。うっかり言ってしまっては、言質を取られて攻撃されるからである。やる気のないお役所仕事、正義感も公徳心もないと責めるなら責めればいい。「民事不介入」とは「仕事を増やしたくない」の別名だと揶揄するなら揶揄すればいい。全くその通りだからである。誰に俺の気持ちがわかるというのか。彼女には、机の上に置かれた告訴状をバッグにしまって帰ってもらわなければならない。

「あの後も嫌がらせメールが来るんです。見て下さい。『○月○日にどこで殺す』って書いてあるでしょう?」と言って、彼女は携帯電話を差し出した。彼はそれをはねのけるように、語気を強めて言った。「こんなものは証拠になりませんよ。犯罪にもなりません。『殺す』なんて、誰でもメールで書いてるでしょう? いちいち捜査できるわけないじゃないですか。自分の都合の言いようにメールを読まないで下さいよ。私はあなたとここで議論する気はないですから」。彼の大きな声と立派な体格は、このような場面では大いに役立った。もちろん上司は、彼のそのようなキャラクターを利用して、告訴に来た人の追い返し役に彼を抜擢していたのであった。同じことを言うのでも、体格と声量によって明らかに説得力が違うからである。そして、最後に温厚そうな同僚が出てきて、怒っている彼をなだめた上で、怯えている相手に対して優しくお引き取りを求める。これは、良く知られた作戦であった。彼はこの方法によって、これまで何人も追い返すことに成功していた。彼は、このような作戦に自分が利用されるのは不快であったが、職務命令に逆らうわけには行かなかった。

彼女は一方的に彼の迫力に押される中で、泣きそうな顔をしながら言った。「私と娘の会社まで電話がかかってきて、気がおかしくなりそうなんです」。彼は最後まで聞き終わらないうちに、彼女の言葉を遮って言った。「そんなこと、口で言われてもわからないでしょう。何月何日の何時何分、会社の誰が電話を取ったか、何を言われたか、それを一覧表にして、会社の人の上申書も付けてもらわないと、こちらとしては話になりませんよ。そうでしょう。その上で最低限、電話は全部テープに録音して、それをあなたのほうで全部文字にして持ってきてもらわないと、こちらは当然受け取れないわけですけどね。そうでしょう」。彼は、いつもの決まり文句をスラスラと言いながら、自分は段々と自身の言葉に酔うようになってきたなと思った。自分の口から立て板に水で言葉が飛び出すようになれば、それ自体が圧倒的な自己肯定感をもたらし、言葉の内容の真偽はいちいち検証されなくなる。彼はさらに、彼女に口を挟ませないように、いつもの台詞を続けた。「国民の税金は、あなたの個人的なことに無駄遣いできませんからね。当然のことながら、わかって頂いてますよね」。彼は、ある種の良心の呵責が鈍感さを帯びる過程は、独特の恍惚感を伴うものだと思った。

彼女は、信じられないと言った表情で涙を流しながら、彼にすがるように訴えた。「ですから、あの男の家を捜索して、そういう証拠を差し押さえて、あの男を逮捕するのが警察の仕事じゃないですか?」。これも彼にとって想定内の質問であった。「あなたね、捜索とか逮捕とか言いますけど、そう簡単にできるものではないんです。捜索は住居権の侵害、逮捕は人身の自由の侵害です。憲法に定められた人権の重大な侵害なんです。人一人の人権を公権力によって侵害するのは、それほど恐ろしいことなんです。日本は法治国家ですからね、この辺はわかって頂かないと全くお話になりませんよ」。彼はこれまで、自分が権力を振るっているという認識はなかった。この追い返し役ですら、一般の会社と同じ組織の論理において、サラリーマンとしてやっているだけである。仕事だから仕方ない、上司の命令には逆らえないという意味においては、公権力は何の関係もない。しかしながら、このような文脈において「権力の危険性」を論じることができるのであれば、やはり自分は権力の恩恵を受けていざるを得ないのではないか。その意味で、権力とは「力」ではなく、「気」のようなものではないか。彼は、無力感に打ちひしがれている彼女の顔を見ながら思った。


(フィクションです。)

殺人罪の時効廃止へ 法務省が報告書 その2

2009-07-18 23:00:20 | 国家・政治・刑罰
ある方のブログ記事より(一部編集)


私は、自分が少しでも楽に思えると、罪悪感でいっぱいになります。だから苦しい方を選びたくなります。我が子が死んでも、自分が代わってやれず生きているという罪(罪ではないのでしょうが)に似たものを、償えないことが分かっていても、償いたいが為に・・・。美味しいものが食べたいのではなく、出来たら食べないほうを選びたいのです。楽がしたいのではなく、出来たらしんどいほうを選びたいのです。楽を感じることには、意味とか理由を付けられず、それは時に我が子を喪った痛みを忘れてのうのうと生きているようにも思えてとても苦しくなります。

その方が23年間、夜テレビをつけずには過ごせないこと・・・・ 23年・・・・ たぶんこれからもでしょう。やはり心の回復などないと思いました。(痛みの出かたは、人により違うと思いますが) 23年・・世間はその事実を化石のように・・・ または、過ぎ去った古い歴史のように思うのでしょうか。いえ、そこまでの意識すら無く、23年というだけで、産まれたのも死んだのも同列の出来事くらいか、無かったも同然のように扱われるのでしょう。そこに湧いてくる思いは、自分の心の痛みを解ってもらえない無念ではないように思います。他人には我が子を喪うなんて殆ど解らないのでしょうし、同じように子を亡くした人でも、その苦しみに似たものはあっても同じものはありません。

時が経てば経つほど、理解の諦めは深まります。何が哀しいかといえば・・・・ 我が子の存在が無いものとして扱われたことのように思います。生きている子と同じ・・いえ、比べることは出来ませんが、本当はそれ以上の特殊な存在のようにも思えます。世間に対する苦しみもまた、我が子の短い命を思えば、自分だけの中に小さく消えてゆきます。虚しいです。その代わりに「大丈夫だよ、かあさんが居るよ。」と、何度も何度も死ぬほど我が子に言ってやらねば・・・と思うのです。

死んで何年・・・とは、世間では何かを薄れさせる年月なのかもしれません。ですが、子を喪った親にとっては、我が子が、生きるはずなのに生きられない年数です。親は、休みなくその無念を味わって喪い続けているのです。長く生きるほど、喪うということをもっともっと知ってしまうように思います。


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子を亡くしたという事で、私は自分が犯罪者になった気持ちになりました。私は自分が悪くないとはどうしても思えないのです。悪いのです。だから、そんな思いを抱えて人と交わる気持ちになれないのも本当なのです。よく考えてみれば、我が子が居なくなって辛いからとか、人から安易な慰めを貰いたくないからというだけではなかったのでした。まさに、犯罪者の気持ちだったのだと今頃気が付きました。

我が子を死なせた・・・・ 他人から言えば「我が子を殺した。」 これがあまりに正しすぎて口に出す事が出来ません。色々な思いを掘り下げて、たどり着くのはいつもここです。ここから逃げるつもりもありません。どう思い方を変えてみたって、我が子が帰って来ないのですから、私の場合、犯罪者の気持ちが晴れることはありません。そして・・・・これをどれほど背負って生きたって、そんなことは、我が子が命を失ったことに比べたらまだまだ軽すぎます。だから・・ 我が子が居ないことは、どうしたって耐え切れないことであっても、私自身の苦しみなんて「耐えられない」などと言う気がしなくなります。そんなことをもしも思うなら、また別の罪が重くなるだけです。


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このような文章を読んだ後で、「時効の意義は容疑者が逮捕されずに生活していた間の状況や人間関係(家庭、職場など)を保護するためにある」といった意見を聞くと、心底ガッカリさせられます。また、「時効の意義は、逃亡中いつ逮捕されるか分からないという精神的苦痛から容疑者を解放するためにある」といった意見を聞かされると、その気楽さにウンザリするところもあります。法律などでは決められない、人の生死に漠然とした畏れを抱き、悼む気持ちが少しでもある限り、それを脇に置いて殺人者のその後の人間関係、あるいは精神的苦痛の存在を論じることには、強烈な違和感が生じるはずです。

日弁連は6月に、時効の撤廃に反対する意見書を出しています。その中では、「廃止や延長により被害者や遺族が得られる利益と、容疑者・被告人が被る不利益や捜査資源の配分問題とを比較考慮すべきだ」、「被害者遺族に関しては、むしろ公訴時効の廃止ではなく、刑事警察の捜査能力の向上、同時に経済的・精神的な支援の具体的な施策や措置がなされることが必要だ」と述べられています。最初に引用した文章、すなわち絶望の中から絞り出された文章の後で、このような「比較考慮」「経済的・精神的な支援」の文章を読むと、やはり脱力するところがあります。ここまで平面的な正義を振りかざし、イデオロギー的な情念で自らを固めることができる人は、とても幸福だと思います。

「時効が廃止されれば、犯罪者はいつ逮捕されるがわからない精神的苦痛に一生苦しめられることになる」という事実は、全くその通りです。しかしながら、我が子を失った人における、「私は犯罪者の気持ちが晴れることはありません。そして、これをどれほど背負って生きたって、そんなことは、我が子が命を失ったことに比べたらまだまだ軽すぎます」という事実に比べれば、その精神的苦痛は冗談のようなものだと思います。また、「経済的・精神的な支援の具体的な施策や措置がなされることが必要だ」と言われたところで、「死んで何年・・・とは、世間では何かを薄れさせる年月なのかもしれません。ですが、子を喪った親にとっては、我が子が、生きるはずなのに生きられない年数です」という絶望的な真実が存在する限り、そのような施策や措置に効果はありません。

殺人罪の時効廃止へ 法務省が報告書 その1

2009-07-17 23:34:25 | 国家・政治・刑罰
ある方のブログ記事より(一部編集)


雑踏の中で、たくさんの人を見ながら思った、生きること自体が一番大事なことなのかってこと。たとえば、生きられなかった命を思えば・・・という理由は本当だろうか? その理由だけで、無条件に、生きることが一番だということになるだろうか? 

我が子の命には何よりの願いであることは間違いない。ただただその生命が脈打ってさえくれれば・・と思う。でもそれですら、生きられなかった命の上に、感謝や有り難味を感じたり、意味を見出していいのだろうか? それは少々傲慢に思えて仕方ない。

命は誰の「分」も生きることができないはずではないか。喪った命が、見知らぬ命ではなく、自分にとってかけがえの無い命であればあるほど、代わりや分を生きることができないことを身をもって知る。自分の命を超えた存在を感じたとき、初めて「自分」が生きること自体を「一番」と言うことに疑問がわいてくる。その場に及んでまで、とにかく生きる事が一番なのだと言われれば、逆に虚しくて生きてはいられない。

私は今でも我が子と変わってあげたいばかりで、この思いを死ぬまで手放すわけにはいかない。もしも願いが叶うなら、ほんとうに今すぐ差し出せる命を願い叶わぬまま生きるとは、どういうことか・・・。それを考えないで、ただ生きることを一番にすれば私の命は無駄に生きたも同然になる。答えは見つからない。・・・正確に言うなら、私には人に納得してもらえる答えが見つからない。

私は答えの出る前から既にそれを生き始めていたように思う。今から思えば我が子が居なくなった瞬間から・・・。「生きることが一番ではない。」 私は、命(人間)以上に「母」である。あろうとするのではなく、どうやっても、どうやっても、そうあってしまう。生きようが死のうが、母であることが私の一番でなくて他に何があろう。


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長い喪の道を真に歩んだ方は・・・ 世間でいう幸せとか楽しみとかの世界は超越しているんじゃないだろうか。そんなものは、いくら沢山あっても、もう自分を満足させられないんじゃないんだろうか。だから、どうして自分がこんな不幸なめに・・とか、楽しいことをしたいとか全く思わない。願いは、「あの子に生きてもらいたかった。」以外にない。

死んだ人間が生き返らないと同時に、残された人間も、もう戻れない。喪った部分が一番大切だから、喪ったままのその世界に引き寄せられる。夏が暑いように、冬が寒いように、そこが苦しいのは自然なんだ・・・。


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法務省の勉強会は17日、人の命を奪った罪のうち、殺人罪・強盗殺人罪などで公訴時効を廃止し、他の罪の時効期間も延長する方向での最終報告書をまとめました。ニュース記事としては、「『被害者家族の気持ちに時効はない』というメッセージが大きなうねりとなり、世論の後押しを受け、異例の早さで国を動かした」という表現になるのでしょう。しかし、この政治記事のような軽い言い回しには、私には耐えれられないところがあります。「大きなうねり」「世論の後押し」「異例の早さ」「国を動かす」という表現が必然的に伴うところの政治的な臭いが気になるかどうか。これは一種の生得的な体質や嗅覚の問題であり、どちらが正しいか間違っているかを論じても仕方がない話だとは思います。しかしながら、この嗅覚が鈍い人が「被害者家族の気持ちに時効はない」という言葉を聞いても、その意味するところ(意味したいところ)を掴むことは難しいとも思います。

「被害者家族の気持ちに時効はない」という言葉は、比喩的であるがゆえに、その言葉が出てくるほうを読むことができれば、その意味は非常に正確に伝わると思います。これに対して、時効撤廃の賛成論・反対論を前提として、賛成論の論拠としてこの言葉が読まれてしまえば、恐らくその意味が正確に伝わることはないでしょう。最近の議論を受けて、時効の存在意義が項目分けをされて、その根拠と合理性が分析的に語られているようです。すなわち、(1)社会や遺族の処罰感情が薄れる、(2)時間の経過で証拠が散逸し公正な裁判ができない、(3)犯人も長い逃走生活で苦労して報いを受ける、といった項目分けです。このような分析による実証的な検証は、社会科学的には正しい態度なのかも知れませんが、ひとたび実存の深淵に落ちてしまえば、何の役にも立たないだろうとも思います。

「被害者家族の気持ちに時効はない」というときの「時効」とは、学者が興味の対象として研究している時効ではなく、あるいは政治的な賛成・反対論が争点としている条文の文言ではなく、そのような意味として社会制度として存在している時効が、自分の人生にとって避けようのない必然的なものとして再構成され、それによって自分がこの世に否応なく存在させられていることが初めて確認されるような、そのような意味の「時効」だと思います。このような意味の「時効」を比喩的に語り、あるいは比喩を拒絶して語ることは、いずれにしても絶望であり、自分の身を削る作業であり、もはや苦悩から逃れる道は皆無であるとも思われます。法律は時と場所によって変わりうる相対的なものに過ぎないのであれば、法制度にとって最も不幸なことは、正義やイデオロギーを叫ぶ余裕がある人によって、自分が理解できる世界まで引きずり下ろされて理解されることではないかとも思います。