犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東京都議会のセクハラやじ問題

2014-07-01 23:36:17 | 言語・論理・構造

平成26年6月25日 MSN産経ニュースより

 東京都議会のセクハラやじ問題で、塩村文夏都議(35)が6月24日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で会見した。23日に鈴木章浩都議(51)=都議会自民党会派を離脱=が一部のやじを認めたものの、別のやじ発言者は不明のままで、このまま名乗り出ない場合、名誉毀損罪などで告訴する考えを示した。

 108人の外国メディアが出席した会見。その中で、男性ジャーナリストから名誉毀損罪や侮辱罪での告訴を考えているか問われ、塩村氏は「(発言者は)1人ではなかったので、名乗り出てきてほしい」とした上で「(法的対応を)排除はしない。最終手段と思っている」とし、名乗り出てこない場合には告訴も辞さない考えを示した。やじについては「早く結婚しろ」と発言した鈴木氏のほか、「子供を産めないのか」などがあったと指摘されている。


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 人が男女差別に敏感であるという場合、その敏感さには大きく分けて2種類のものがあると思います。その1つは、「人間は自分が生まれて来るときに人種も性別も選べない」という諦念から発するものであり、存在の謎の前には謙虚であらざるを得ないという確信から生じるものです。私自身は哲学的な思考の癖を持っていることもあり、この意味の差別については非常に敏感です。あらゆる差別は不条理であり、あってはならないと思っています。

 男女差別への敏感さのもう1つは、差別発言への敏感さです。この文脈では、「現代社会は女性の権利が侵害され続けており、男性全体の意識改革を要する」という主張をよく耳にします。私自身は男性ですので、このように言われると正直非常に苦しいです。男性に生まれてしまった者は、好むと好まざると女性を差別する地位に置かれており、ただ生きているだけで罪を犯しているという苦しさです。これは、単純な自責の念には収まりません。

 私はこれまでの就学先や職業柄、周囲には「女性の権利の尊重を標榜する男性」が数多くいました。私はその方々から「あなたは女性に対する人権感覚が鈍すぎる」「同じ男性として恥ずかしい」等との叱責を受けて、釈然としなかったことを覚えています。その先輩の論理が、あまりに「男性である自分を責める自虐の恍惚感」に満ちており、それが他の男性を責める正義感に転化していることに対し、宗教的な原罪の欺瞞性を感じたからでした。

 私は、第1の意味の差別に敏感ですので、「子供を作る・作らない」という議論自体にも違和感を覚えています。このような視点は親の側の一方的な論理であり、生まれてくる子供の側の論理をここまで無視できるのかと驚く気持ちが大きいからです。結局、差別や平等という概念を論じる時には、「人間は自分が生まれる時には何も選べない」という単純な真実から離れてしまえば、話は例によって政治的な主義主張で終わるのみだと思います。

高校野球のエースの連投について

2014-03-22 22:46:13 | 言語・論理・構造

 近年、高校野球を巡るニュースでは、主戦投手(エース)が連投して肩や肘を壊すことの問題点が多く論じられていると思います。そして、近時の我が国のブラック企業との類似性について指摘される意見も耳にすることがあり、私は妙に納得させられています。これは、論者の分析の鋭さによって初めて気付かされるというのではなく、人間の精神の構造や日本文化の体質に対する洞察の深さに驚くというのでもなく、理屈を言う前に単に結論が先にあって、端的に両者が似ているということです。

 現実問題として、目の前に勝ちがあり、是が非でも勝ちたい、負けたら何もかも終わりである、頼むから勝たせてくれという切羽詰まった状況のとき、その場を支配する権力を持つ人物が採る行動は、ほぼ決まっていると思います。すなわち、権力において劣り、かつ実力において秀でている者に対して命令し、かつその場を任せて頼り切ることです。勝利に全ての価値があり、敗戦には価値もない勝負の世界において、勝つ目的のための最善の行動を採らないなど意味がわからないからです。

 目の前の勝ちがあるというのに何故わざわざ負けを選ぶ奴があるか、お前は何をしに球場に来ているのか、つべこべ言わずに言われたことをやれ、寝言は寝て言えという絶対的な論理は、権力者の独断ではなく、戦う集団の一致した意志だと思います。上位進出のためにエースを温存したがために初戦で足を掬われるなど本末転倒であり、いったい何のために何をやっているのか、勝つために野球をやらないなら何の目的で野球をやっているのかと問われれば、この論理に対抗できる論理はないと思われます。

 高校野球をブラック企業になぞらえることは、汗を流してひたむきに1個のボールを追いかける球児に失礼だという意見も耳にしますが、これもその通りだと思います。両者を科学的に比較して分析することは無意味です。ただ、本当に無理な連投して肩や肘を壊し、野球人生に悪影響を残してしまうエースが非常に気の毒だと思うのみです。そして、「投げないことは許されない」という形の論理で、誰が許したり許さなかったりするのかが不明のまま、受動態の命令が示されることの絶対的な力を恐れるのみです。

「正しい」ということについて

2013-03-01 22:23:05 | 言語・論理・構造

 1月19日~20日に行われた大学入試センター試験において、国語の平均点が過去最低となり、小林秀雄の難解な文章が出題されたせいではないかとの分析が見られました。私も昔にセンター試験を受けた者として、最近感じていることも含め、考えるところが色々ありました。

 知的エリートの陥穽として言い古されていることは、マークシート方式の問いでは「正しいもの」をマークする技術を身につけていれば、必ず点数が取れるということです。対策をすれば点数が取れ、しなければ取れないという簡単な法則です。そこでは、採点する側の身になり、出題者の意図に応えることが必要になります。これは、限られた時間内で勝負が決まるルールの枠に従うということです。

 ここで求められることは、「自分はこう思う」という意志を排して、「ここでの正解はこちらだろう」という見極めを行い、出題者に媚を売るということです。決められたルールに従って正解を選ぶ作業のすべては、義務や強制ではなく、自由意志に基づくものです。読解力がありすぎる者ほど、ここでは正解が出しにくくなります。ゆえに、この矛盾が気にならない能力とは、競争社会で生き残る能力に類似するものと思います。

 私が法律に携わる仕事に就いて気がついたことは、資格試験の難関を突破した者が有している独特の「正義」の感覚でした。すなわち、正解を選び取る能力に長けた人物が有しているところの「正しい」という概念からの派生です。法の正義の起点は、各人の「正しさ」の捉え方に左右されるからです。そして、論理によって選び取られた正義は、悪を断罪します。客観性のある理由付けを伴って、「あなたは正しく理解していない」という批判が可能になるということです。

 しかしながら、人生における真に深刻な問題は、正解のない問題です。これを解こうとするということは、過酷な運命を生きつつ、人生そのものの生き様において問題に立ち向かい、倒され、あるいは最初から立ち向かえずにいることです。このような人生の難問を抱えた者と、「正しさ」に対して確信のある司法エリートが会話をする場面は、非常にちぐはぐになります。正しさの内容が問われないまま、「正義」という形式だけが自信満々に主張されるからです。

弁護士における「正義」

2012-11-07 23:11:24 | 言語・論理・構造

 弁護士法1条には「社会正義を実現することを使命とする」と書かれており、弁護士の仕事は「正義」という概念に親和的です。他方で、この単語はあくまでも形式的な抽象名詞であり、個々の具体的な紛争の場面において、何が正義に適うのかを指し示すものではありません。実際の仕事の場面では、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の授業のように議論を深めている暇はなく、自問自答している暇もなく、弁護士は既に正義を実現することを使命としてしまっているというのが実際のところだと思います。

 私が色々な立場を通じて得た印象では、弁護士は常に正義の立場にあります。「正義」という概念を味方に付けることによって、正義の味方になるということです。よって、相手方は自動的に不正義となります。そして、これでは弁護士と弁護士の間で正義と正義が対立してしまうという懸念は、実務上はあまり考えなくてもよいと思います。民事の紛争の当事者の双方に弁護士が就く場合には、お互いに常識的な配慮が働くからです。弁護士会内部での狭い人間関係、仕事の斡旋、委員会の役職などを考えると、あまり非常識なことは言えず、厳しい非難や罵倒もできないということです。

 これに対して、民事の紛争の一方のみに弁護士が就く場合には、法律の素人である他方当事者は苦しい立場に追い込まれることになります。弁護士の側の依頼者は無条件で絶対的に正義であり、その相手方が不正義となるからです。頭が良く、弁が立ち、知識もある弁護士が依頼者のために全力を尽くし、その正義を理路整然と述べたならば、対立する素人は圧倒されるばかりです。そして、そのまま「正義は勝つ」という結論になるのが物事の道理です。個々の弁護士によって程度差はあると思いますが、依頼者を通じて弁護士自身の正義感を満たすという側面は避けられないと思います。

 近時、各地の弁護士会が積極的に推進している「法教育」は、市民が法律的な素養を持つための啓発活動という触れ込みですが、私は個人的に賛成する気分になれません。ここで教育されるところの正義が、人権・差別・平等といった概念と結びついて揺るぎないのに対し、「あまり素人が勉強しすぎて弁護士を頼まなくなったら困る」「対等に弁護士に反論する能力を身に付けられても困る」という本音は変わっていないと感じるからです。正義感の強さによる恍惚感と、不正義の側に置かれる絶望感との落差は、法教育によっては解消しないと感じます。

山形大生死亡 損害賠償訴訟

2012-08-27 00:04:06 | 言語・論理・構造

8月24日 毎日新聞より
「山形大生死亡: 母『救急車来ていれば』」

 昨年11月、山形大理学部2年の大久保祐映さん(当時19歳)が山形市の自宅アパートで遺体で見つかった。祐映さんは発見の9日前、体調不良で自ら119番していたが、市消防本部はタクシーを勧め、救急車は来なかった。全国的に救急出動が激増する中で、救急の現場は患者の緊急度の判定という重い役割を担わされ、市に損害賠償を求め提訴した母親は「なぜ来てくれなかったのか」という問いを繰り返す。

 祐映さんは埼玉県熊谷市で生まれた長男。両親は幼い頃に離婚し、母親が女手一つで育てた。弱音を吐かず、優しい子供だった。生物学に興味を持ち、中学3年の頃には「将来は研究者か理科の教員に」と夢を語った。医師の所見では「病死の疑い」としか分からなかった。死亡したのは119番の翌日ごろという。「なぜ救急車は来てくれなかったの」。翌10日、119番の音声記録を山形市に開示請求した。

 「運が悪かった」と納得しようと努力もした。だが「もし救急車が来ていれば」との思いが消えない。今年6月、「死んだのは救急車が来なかったから」と市に1000万円の賠償を求め提訴した。母親は新盆を終え、訴訟に臨む。「祐映のような思いをする人が二度と現れないよう救急体制のあり方を見直してほしい」。


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 このような裁判の記事を読む際に私が必ず感じることは、政治経済その他のニュースに比して、あるフィルターが掛かっているということです。それは、語りたいことの核心が言語にならず、それゆえに記者及び読者と被害者の家族は対等ではなく、語った言葉に騙されているような感じを受けるということです。人は、起きた出来事を理解して整理するため、必ず理由をつけようとします。しかしながら、語れないことは語れません。

 言葉が語ることは嘘であり、沈黙が語らずに示すところを見ようとしない限り、その報道を聞く者は単に「都合の良い理屈に飛びつく」状態になるものと思います。こうなってしまうと、物事はそのようにしか見えなくなります。言語によって構成される法律、そして言語によって運営される裁判も同様です。現在の社会が用意する裁判という制度を利用するしかないことによる二次的被害は、このような部分から発生しているものと思います。

 このような事故や裁判の報道では、次の4つの要素がテンプレート化しており、もはや語れないことは強引に語り得る形にするよう決まっているものと思います。
 (1) 亡くなった人を褒める。生前の人柄や将来の夢。事件の悲劇性。
 (2) 起こった事実を隠さずに明らかにして欲しいという家族の願い。
 (3) 二度と同じことが起きないよう、死を無駄にしないことの意義。
 (4) 社会問題としての原因の探求。構造の分析。裁判の勝敗の予測。

 そして、このような形に変形された家族の思いは、匿名のネットにおいて、「裁判に訴えること」が嫌いな人々から以下のような罵詈雑言を浴びるのが実情だと思います。
 (1) 死んだ人の夢に何の意味があるのか。聞かされるだけ不愉快である。
 (2) 何でも他人のせいにして訴えるのはモラルの低下、クレーマーである。
 (3) 起きたことは変えられない。逆恨みせず、前向きに生きたほうがいい。
 (4) 金が目的としか考えられない。命を金に替えるな。恐らく敗訴である。

 また、被告側の現場の実情を知る者からは、裁判に訴えられたことに対する以下のような非難の声が上がり、それが表に出てしまうのも匿名のネットの弊害だと思います。
 (1) 事件と無関係の感情論は誤りを誘発する。こちらを悪者扱いするな。
 (2) 訴えられる危険があれば、現場は萎縮する。それで困るのは国民だ。
 (3) 二度と起きないということはあり得ない。リスク管理の問題である。
 (4) 個人的な恨みのために裁判を使うな。弁護士が煽っているはずだ。

 これらの(1)~(4)の非難を受ける二次的被害は、もともとのテンプレートである(1)~(4)が苦し紛れの整理ないし理由付けのため、的を外しています。そして、的外れであるがゆえに、このような言葉をぶつけられる二次的被害の不条理は破壊的だと思います。

「がんばろう日本」と「頑張れニッポン」

2012-08-06 00:04:46 | 言語・論理・構造

 「がんばろう日本」は言うまでもなく大震災の後に流布された言い回しであり、「頑張れニッポン」は言うまでもなくオリンピックの際に流布されている言い回しです。「頑張ろう」と「頑張れ」は似て非なるものですが、それぞれの言葉を洪水のように浴びせられて、私自身の感覚としては、それぞれの言葉の使い分けの場面の約束事が身に付けてしまっているような感じです。

 日本に限らず、国家というものは人間の観念による抽象名詞であり、目で見たり手で触ったりできる人間は皆無のはずです。逆に言えば、「がんばろう日本」「頑張れニッポン」と連呼する場所に、初めて日本という国が実体として発生するように思います。また、震災後の「頑張ろう」も五輪の「頑張れ」も、国威の発揚とは無縁であり、特定の敵国が存在するわけでもなく、とかく右と左の対立になりがちなナショナリズムの観念とも結びついていないように思います。

 私は「頑張れニッポン」と声援を送るとき、日本という国家を客体化しています。これは非常に気楽な状況だと思います。自分が帰属するところの集団において、肉体的・精神的な超人である選手に自分の存在意義を託しているのであり、日本が勝てば自分まで偉くなったような気がするからです。但し、存在意義の仮託が行き過ぎると、日本が負けることによって憤慨し、個人的に何の関係もない選手に怒りを覚えるという無意味な事態が生じるように思います。

 他方、私は今でも「がんばろう日本」という言葉が上手く受け止められません。「頑張れ」という命令形ではない自発的な連帯の形において、人々が国家の一員であることはわかるのですが、その言葉の意味とは逆に、日本という国家が他人事になっているとの印象を受けるからです。「頑張れニッポン」は紛れもない本音であり、気楽な状況で自発的に使われるのに対し、「がんばろう日本」のほうは心底からの欲求ではなく、かなり無理をしているような感じもします。また、その内容も空虚であるとの印象を持ちます。

 「がんばろう日本」という言い回しは、「被災地に向かって頑張れと命令しないでほしい」との過去の教訓を受けて、自然に定まってきたものと思います。それだけにこの言葉は、日本という国家を客体化しながら、日本という国家の一員である主体性を語っている不自然さを帯びているように思います。日本という国家は抽象的にすぎ、遠くにありすぎ、1人の人間の手の届く範囲にはありません。「頑張れニッポン」の正直さの前に、無理を重ねた「がんばろう日本」は後退を免れないと思います。

今年(去年)の漢字「絆」 その4

2012-01-08 00:05:29 | 言語・論理・構造

1月8日  朝日新聞朝刊 読者投稿欄
「『絆』をたやすく使わないで」 (埼玉県・69歳・主婦)


 民主党を離党した国会議員が「新党きづな」を結成したが、「絆」という言葉を安直に使っていないか。選挙では「国民の絆のために……」と熱弁をふるうのだろうか。

 私は昨年から「絆」の連呼にうんざりしている。大切な絆を大震災で失った人だけでなく、病に倒れ、事故に遭い、事故に巻き込まれ、絆をなくした人たちのことを思えば、安易に使ってほしくない言葉だからだ。(中略)私は夫と娘を病で亡くしたが、失意の私を救ってくれたのは同じような体験をした仲間たちだった。その絆は簡単には表現できないほど強い。

 (中略)本当の絆がいかに大切かを知った人の言葉は、その表情とまなざしで他人の心に届く。しかし新党きづなの記者会見から「絆」の重みは感じられなかった。


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 去年の4月、友人の知人が地元の議会に立候補しました。私は面識がなかったのですが、仕事上の付き合いでメルマガやDMの送付を受け、リアルタイムで選挙戦の様子を知ることができました。

 彼は4年前から準備を進め、地元の会合に地道に顔を出して票固めをしていたようです。そして、満を持してラストスパートに入り、いざ浮動票獲得の最後の勝負に出るというところで、東日本大震災が起きました。4年間、選挙の日に焦点を合わせてきたのに、彼にとっては最悪のタイミングでした。選挙運動にとっては不運で余計な出来事であり、事務所には地面の揺れ以上の激震が走っていたようです。

 それからは、予定外の資金を投じて急遽チラシを刷り直し、被災者へのお見舞いの言葉を加えるとともに、有権者への訴えを防災対策にシフトしました。彼は、地元にも直下型地震がいつ来るかわからないのに、現在の長と議会は無策である旨を強く批判していました。しかしながら、明らかに取って付けたような主張であり、地元の不安を煽り立てるばかりか、他の候補と横並びとなってしまったようです。また、4年間主張し続けてきた得意分野も後回しになり、逆に組織票が読めなくなっていました。

 彼を苛立たせていたのは、選挙運動の自粛ムードでした。出陣式や決起大会も取りやめとなりました。告示後も周りの様子を見ながらの選挙戦とならざるを得ず、特に駅立ちの時間短縮や選挙カーの自粛は、浮動票頼みの新人にとっては非常に痛かったようです。彼はついに痺れを切らし、最後は選挙カーを走らせ、名前を連呼していました。後日のメルマガには、「震災からの復興のあり方を有権者に向けて訴えかけるのが正しい政治である」「震災で民主主義まで滅びてはならない」と書かれていました。

 昨年末、「今年の漢字」が発表された数日後、4年後の選挙での初当選を目指す彼から送られてきたDMには、特大の「絆」の文字がありました。

今年の漢字「絆」 その3

2011-12-27 23:30:08 | 言語・論理・構造
震災4日後のあるメールより

各位
平成23年3月15日

 この度の東日本大震災で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、亡くなられた皆様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 震災の影響により、当局から修了祝賀会の開催の自粛を強く要請されたことに伴い、現状を勘案し、他機関の動向にも配慮し、残念ながら3月22日に開催を予定しておりました祝賀会を控えさせて頂くこととしました。

 同期生の絆を深めるまたとない機会であり、関係各位のご落胆は如何ばかりかと存じますが、何とぞご理解の程お願い申し上げる次第です。


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 物資の買い占めが起こり、被災地の農作物の風評被害が続き、がれきの受け入れが拒否され、節電が忘れられる中で、「絆」を初めとする希望的な言葉が目立ちました。建前と本音、総論賛成各論反対、自分が同じ目に遭わなければわからない等々、私はこの「絆」から色々な意味を感じ取りました。

 建前の「絆」ばかりの中で、私が見た唯一の本音の「絆」が上のメールでした。絆という言葉が正当に使用できる範囲を示しているように思います。やはり、阪神大震災の年の漢字が「震」であったことに比すると、現在はそれだけ事態を正視する余裕がなくなっており、「絆」は事態の深刻さを物語っているように感じます。

今年の漢字「絆」 その2

2011-12-25 00:01:27 | 言語・論理・構造
12月25日  朝日新聞朝刊 読者投稿欄  
「『絆』は苦難乗り越える根拠」 (東京都・53歳・会社員)
  

 「今年の漢字『絆』に思い複雑」(19日)を読み違和感を覚えた。「絆」が選ばれたことに「痛いところから目を背け、口当たりのよい言葉を追いかけた結果」というが、果たしてそうだろうか。

 3月11日には、首都圏でも多くの人が身をもって大震災の恐怖を体験し、家族や仲間の安否を確認することに躍起となった。それを経験したからこそ、「絆」の大切さに気づき、力を合わせて苦難を乗り切っていくためのよりどころとして、この言葉を選んだのではないか。

 痛いところから目を背け、口当たりのよい言葉を追いかけているのは私たち生活者ではなく、政府や役人、それに東京電力だと思う。


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 ある人が「違和感を覚える」というとき、それに対して論理的に反論する方法はないと思います。「『あなたが違和感を覚える』ということに私は違和感を覚える」となり、違和感の応酬となるからです。違和感を覚えてしまったものに「覚えるな」と強制することも不可能であり、それが政治的な意見の形を取って正義・不正義の問題となれば、収拾がつかないものと思います。

 今年の漢字ということではなく、人と人との「絆」が良いか悪いかと問われれば、これは良いに決まっています。問題は、この場面における問いの問い方であり、答えの側でなく問いの側を共有しなければ、争っても虚しいばかりです。福岡県に住む投稿者が死者と行方不明者に思いを馳せ、東京都に住む投稿者が自分の経験から結論を出しているのであれば、そもそも議論になっていないと感じます。

 今年の4月22日、日本の7歳の女の子がイタリアのテレビ番組でローマ法王に対し、「なぜこのような怖くて悲しい思いをしなければならないのか」と質問したことを思い出します。これは、大人が封印している問いであり、しかも逃げている問いです。神が存在すればこんな悲しいことは起こさないでしょうし、少なくとも震災が起きる前に教えてくれるはずでしょうし、震災が起きてから冥福を祈るような神は不要だからです。

 ローマ法王ベネディクト16世の答えは、「私も自問しており、答えはないかもしれない」「私は苦しむ日本のすべての子どもたちのために祈る」というものでした。ローマ法王が自問し、答えがないというのであれば、「絆」が苦難を乗り越える根拠であるはずがないだろうと思います。人が何に対しどのように違和感を覚えるかという点は、生死に関する日常からの思索の深さによって異なっており、震災の受け止め方の問題ではないとも感じます。

今年の漢字「絆」

2011-12-23 00:06:18 | 言語・論理・構造
12月19日  朝日新聞朝刊 読者投稿欄  
「今年の漢字『絆』に思い複雑」 (福岡県・27歳・医師)
  

 今年の漢字は「絆」。日本漢字能力検定協会の恒例の公募で、東日本大震災やなでしこジャパンの勝利などから連想されたという。

 予想はしていたものの、私は少し違和感がある。東日本大震災の大津波で1万5千人を超える命が奪われ、約3500人がまだ行方不明だ。(中略) 1年間の世相として、「絆」の字を選んだことは、痛いところから目を背け、口当たりのよい言葉を追いかけた結果ではないだろうか。

 今年の漢字が始まったのは阪神大震災が起きた1995年だ。その時選ばれた字は「震」だった。1月に起こった大震災がみんなの脳裏から離れなかったのだと、今も思う。あれから16年。この国は弱く、軽くなったように感じられてならない。


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 被災地のドキュメンタリー番組で、子どもを亡くした親や、行方不明の子どもを捜し続ける親の姿を目にします。実際に亡くなった人数に比べれば、テレビでの放映自体が少ないですが、それでもそのような親の姿を目にしてしまえば、私は言葉を失います。そして、自分の心を正直に記述してみれば、私は一瞬「見ていられない」「目を逸らしたい」と思います。世間的な反応としては、チャンネルを変える人も多く、視聴率は上がらないというところだろうと思います。

 「絆」という単語が本来の位置に収まるとすれば、それは死を受け入れないことによって絆が証明され、行方不明者を捜し続けることの中に絆がある、と言うしかないと思います。このように考えることによって、初めて偽善性が消失するからです。街が復興したとしても、その街にいるべき人がいなければ何もかもが虚しいと感じるとき、それが人の絆の証明です。間違っても、天国から復興を見守っているのが絆だ、といった生易しい話ではありません。

 今年の漢字として選ばれた「絆」は、その周辺で語られる言葉を聞く限り、マスコミの空気によって作られた出来レースの結果であり、軽い意味しか込められていないように感じます。もちろん、漢字そのものには良いも悪いもなく、「絆」という単語に恐ろしい意味を読み取ることも可能ですが、明るくポジティブな解釈が与えられてしまえば、国民としては逆らいようがないように思います。

 痛いところから目を背けないとすれば、今年の漢字としては、「滅」「壊」「消」「流」「失」「潰」「倒」などの候補が沢山あります。このような漢字を選べなかったことが、この国が弱く軽くなったことを表わしているように思います。投稿者に同感です。