犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第8章「学問」より

2008-04-30 17:29:04 | 読書感想文
(青山学院大学・瀬尾佳美准教授のブログ発言について、『新・考えるヒント』の記述を適当にいじって、新しい文章を作ってみました)
 

第8章 学問 (p.115~)

瀬尾佳美准教授は、大阪大学理学部物理学科卒業、マサチューセッツ州クラーク大学修了、筑波大学社会工学研究科修了という輝かしい経歴の持ち主である。さらには、独立行政法人国立防災科学技術研究所客員研究員、および青山学院大学WTO研究センター研究員も務めており、我が国の知性を担う優秀な人材である。彼女は光市母子殺害事件の判決について、次のように語っている。「元少年が殺されれば、報復が果せた遺族はさっぱり幸せな思いに浸るに違いない。自分の血を吸った蚊をパチンとたたき殺したときみたいにね。それだけは喜んであげたい」。私は、我が目を疑い、もう一度最初から読んだ。しかし、輝かしい経歴を持ち、学問の府である大学の准教授を務めている方のブログには、確かにその通りに書いてあるのだった。

瀬尾氏には、『リスク理論入門 ― どれだけ安全なら充分なのか』という著書がある。いわく、我々はリスクをどうやって避けたらよいのか? 安全と便利のバランスは? リスク削減のコストは誰が負担すべきなのか? 自己責任か政府の責任か? そもそもリスクとは避けるべきものなのか?・・・ 言うまでもなく、これらは誘導尋問である。我が身にリスクが降りかかる恐怖、そしてリスクが降りかからない偶然を問うているならば、このような問いはあり得ない。すなわち、学問とは学説を身につけることではなく、学説を提げて人生に臨む態度である。この態度なり決心なりは、「リスク削減のコストは誰が負担するか」といった研究をしている学者には無縁のものだろう。そう言われても、彼女には何のことやらわかるまいが。

瀬尾氏はブログの中で次のようなことも書いている。「本村洋氏の意見陳述も、『死ね』という以外のメッセージは何もなく、同情はするが共感はしない」。これはまさに、瀬尾氏の研究業績そのものである。予期せぬ災害や事故は毎日のように発生しており、今や我々はゼロリスク神話から科学的思考へ移行しなければならず、ソフト型対策とリスクコミュニケーションを実施しなければならない。そして、環境経済学や環境リスク学の立場から、合理的なリスクの管理方法に指針を与えるのが「リスク論」であり、現代人はグローバルリスクへのアプローチをしなければならない。従って、ある程度の確率で殺人事件は起きるのだから、いちいち感情的に騒ぐのは愚の骨頂である。遺族も国民の1人として、殺人のリスクを負わなければならないのは当然であり、今回の場合には死刑というコストは大きすぎる。なるほど、実に筋が通っている。

リスクを確率論によって捉え、客観的に数値化したのは、専門家のひとつの功績である。しかし、実際に予期せぬ災害や事故のリスクを受けてしまった者の運命と苦悩、これはいったい何なのか。自分すなわち存在の謎を問い詰めてゆくなら、これ以上本質的な問いはあり得ないはずのこの問いを、彼らは所有していないことが多い。果たしてこの世に、数学的な確率論に依拠しながら災害や事故に遭遇している者がいるというのか。そんなことができると思っているのは、己の心を謎と感じたことのない偽物の学者だけである。人生に避けがたく降りかかるリスクという、人間について一番大切なことを説明しなければならない学問が、リスクの数値化の本質的な困難について何の呟きも現してない。どころか逆に、まさにそのことが学者たちを元気づけているとは奇怪なことだ。自らはリスクの外に立ち、リスクを受けた者を客体化して「同情はするが共感はしない」と言い放つ世界は、ちと居心地がよすぎる。

近代以降、制度として整備された大学は、覚悟という言葉の意味すら解さぬ愚者の楽園となり果てた。別に学問をしなくてもいいのだが、生活は保障されるからという理由で大学にいる者たちの言葉が、世間から侮られるのも当然である。我々はリスクをどうやって避けたらよいのか云々とうそぶく者たちの言を、私は全く信用していない。リスクという抽象概念を実体化した上でそれをマネジメントするという神話を信じる者だけが、科学的な「リスク論」を研究することができるからである。死刑の威嚇効果を殺人のリスクに対するコストと捉えるならば、被害者を数値化して「1.5人」「1.7人」といった形で計算することは、極めて科学的に優れた思考であり、グローバルリスクへのアプローチとしても有用である。しかしながら、人間がリスクを管理すべきであると態度は、その発想において最初から倒錯している。そして、リスクの発生頻度や影響度の実証的評価という身振りが、人間の生命や死の数値化という亡霊を生んだのである。