犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

田村裕著 『ホームレス中学生』

2007-10-31 12:41:26 | 読書感想文
お笑い芸人・麒麟の田村裕さんの自伝であり、大ベストセラーとなっている本である。自らは芸人本ブームに乗ったと謙遜しているが、この本の内容はそれに止まらない。扱われているのは人間の倫理の問題であり、生死の問題であり、そして倫理の問題が生死の問題と切り離せないことである。楽して金儲けをする方法論、簡単に幸せになるマニュアル本ばかりが目立つ中で、この本が大反響を巻き起こしているのを見ると、現代の日本も捨てたものではないという気持ちにさせられる。

田村さんは中学2年生にしてホームレス生活を強いられ、空腹に耐えかねて、コンビニでパンを盗もうかどうか悩んでいた。現在の価値基準であれば、多くの人がそのまま万引きを実行する状況であり、また多くの人がやむを得ないと言って理解を示すような状況でもある。ところが田村さんは、生死にかかわる空腹の状態でありながら、これを思いとどまった。その理由は、「そのときお母さんの顔が浮かんだ」「お母さんが止めてくれた」ということだけである。単純でありながら、これ以上説得力のある言葉はない。田村さんの母親は、田村さんが小学校5年生の時に亡くなっている。

死後の生があるか、来世はあるか、死者は地上を見ることができるのか、このような理屈は我々の思考を極めて不自由にする。田村さんが「もしお母さんが見ていて、そんなことをしようとしていると知ったら、どんな顔をするだろうか」と考えてパンを盗まなかったのであれば、それは端的にそれである。その瞬間には、それ以外の言語は存在していない。心理学の用語によるもっともらしい説明は、すべて後知恵である。少年法がどうの、規範意識がどうの、可塑性がどうの、専門家の小難しい理論よりも、田村さんの一言のほうがなぜか説得力がある。田村さんは「もしパンを盗んでいたら、僕の人生がどうなっていたかを考えると、ぞっとする」とも書いているが、これは実際にその可能性が高く、1つの分岐点であったのだろう。

田村さんがパンを盗まなかったのは、「盗んではいけない」という強制ではなく、「盗みたくない」という自由意思によるものであった。これは倫理の本質を突いている。そして、それが「お母さんが見ていてくれた」という現実から必然的にもたらされたことは、倫理の問題が生死の問題と切り離せないことを示している。死者が自分を見ているという表現は、現代の客観的な科学主義の下においては、非科学性を前提とした比喩としか受け取られないことが多い。しかしながら、そのような比喩的な言葉が語られる源泉のほうを見つめてみれば、これ以上正確な表現もないことがよくわかる。

田村さんは自ら文章力がないと謙遜しているが、実際には文章力は非常に高く、そもそも倫理や生死の問題は文章力の問題ではない。「いつかお母さんが帰ってきたときに喜んでもらえるように」「死んで、お母さんに会ったときに、褒めてもらえるような死に方をしたい」、これらの表現の中で語られないことによって語られていることをいかに読み取れるか、これは読む側の問題である。「何もかも当たり前であった。従って、当たり前だった事を当たり前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる」(小林秀雄著『感想』)。田村さんの文章は、小林秀雄の名文にも匹敵すると、私は思う。

被害者の意見陳述は「ガス抜き」である

2007-10-30 11:35:51 | 言語・論理・構造
平成12年の刑事訴訟法の改正によって、被害者が法廷で意見陳述ができるようになった。早くも7年になるが、裁判実務の現場では、この制度はどのような扱いを受けているのか。司法関係者の本音では、単なる被害者の「ガス抜き」である。良い悪いではなく、「ガス抜き」というメタファーがしっくり来てしまうということである。有罪か無罪か、量刑はどうするのかを決定する部分的言語ゲームの中において、被害者の陳述という異質なものは簡単に処理できない。これがシステムの恐ろしさである。

過失犯の処罰は、近代刑法においてはあくまでも例外と位置づけられており、旧過失論(結果予見義務中心)と新過失論(結果回避義務中心)の長々とした論争もあって、実務上も過失犯の扱いは非常に難しい。業務上過失致死罪も、自動車運転過失致死罪も、検察官にとってはその法的構成が大変である。ここでは、そもそも「何を過失とするか」という観点から公訴事実(訴因)を確定する作業が精密に行われることになる。これも、単なる抽象名詞にすぎない「過失」を実体化した挙句に人間が振り回されるという部分的言語ゲームの負の面である。そもそも「過失がある・ない」という文法は、物質的に語れるものではないが、司法関係者は、これが語れるものだと思い込んでしまう。そして、「直近過失の理論」というさらなる部分的言語ゲームを作り出して、迷宮にはまって行く。

車の運転手が、歩行者の発見が遅れてブレーキをかけたが間に合わず、轢いてしまったという単純な事故ですら、過失犯の理論は大変な問題を提起する。まず、「ブレーキをかけたこと」を過失だとすれば、その時点ではブレーキをかけるという最善を尽くしたことになり、避けられなかった以上は無罪だという話になってしまう。そこで「歩行者の発見が遅れた」ということを過失にしようとすると、これまた大騒ぎになる。車の破損状況と遺体の損傷状況から自動車の時速と歩行者の時速を推定し、加害者の供述とブレーキ痕から自動車工学的な空走距離と制動距離を推定し、無数の計算とシミュレーションをせざるを得なくなる。そして、「この時点で歩行者の発見は可能であり、その地点でブレーキを踏んでいれば事故は起きなかった」という数学的な因果関係が明確に法律用語に言語化されて、検察官はようやく公訴事実(訴因)が確定できることになる。

検察官がこのような過失犯の構成で悪戦苦闘し、煮詰まっているときに、遺族が検査庁に「悲しみの心情を聞いてほしい」と言って訪ねてきたらどうなるか。検察官としては、うるさい、邪魔だ、後にしてくれというのが偽らざる本音である。これは裁判の場でも同じである。裁判官が何よりも悩んでいるのは、近代刑法における過失犯処罰の例外性であり、その意味では鑑定書や実況見分調書の証拠価値に比べて、遺族の意見の証拠価値はゼロに等しい。検察官も儀式として早く終わらせたいと思っており、裁判官も判決に影響がないものは早く終わってほしいと思っているのが率直なところである。これは部分的言語ゲームのシステムの必然であり、検察官や裁判官個人の力ではどうにもならない。まずはこの絶望を絶望として見つめなければ先に進まない。「心のケア」で誤魔化してはならない。

岩崎武雄著 『哲学のすすめ』

2007-10-29 21:51:31 | 読書感想文
この本は、昭和41年に初版が発行され、現在まで76刷を数えている。今から42年前、昭和40年12月に書かれたまえがきを読んでみる。「現代の社会をながめると、わたくしはなんだか、社会全体がどうも『考える』ということを忘れつつあるのではないかという感じがしてなりません。テレビなどの普及によって、人々が受動的な態度にならされてしまって、自発的に『考える』ことをしないようになったのかも知れません。しかし何といってもいちばん大きな原因は、社会全体がただ直接実際に役立つもののみを求めて、どう生きるべきかという根本的なことがらを、それが直接役に立たないという理由で無視しているところに求められるのではないでしょうか」(p.3~)。

42年経って見てみると、この「テレビ」というところに妙に説得力がある。その時代に、テレビが人間に与える影響について実証的に論じた本は、今の時代では何の役にも立たない。ところが、岩崎氏の文の「テレビ」というところを「インターネット」「電子メール」「携帯電話」「ウェブサイト」「オンライン」に置き換えてみると、ますます説得力が上がる。「直接実際に役立つもの」というところにも、金儲けの話ばかりの現代社会から見てみれば、妙な説得力がある。これは先見の明などという次元ではない。哲学的思考は、時代から隔絶しているように見えて、なぜか常に時代の先端を走ってしまっていることがわかる。

憲法9条についても、岩崎氏は42年前にこのように書いている。「条文の解釈の相違は、もはや人々の立つ世界観の相違によるとしかいえないのではないでしょうか。われわれの解釈の幅にはむろん制限があります。しかしその一定の幅の中で、われわれの条文の解釈は事実相違しているのです。そしてこの相違は、世界観・哲学の相違によっているのではないか、と思われます」(p.147)。42年後も同じように条文の解釈をめぐって喧々諤々の議論をしている様子を見ると、岩崎氏の説明は非の打ちどころのないほど正しいことがわかる。そして、この間に生きていた人間はかなり恥ずかしいこともわかる。

社会学は「社会」を研究する学問であり、数学は「数」を研究する学問であるが、哲学は「哲」を研究する学問ではない(p.14)。すなわち、その内容は生きることそのものであって、生きている限りは自然に生じてくる。ここが、他の学問との質的相違である(p.20)。実証的な社会科学も、その根底においては、深く哲学と関係していることを免れない(p.148)。この点についても、42年前の経済学や法律学の本(特にマルクス主義に立脚したもの)がほとんどゴミになっていることと比してみれば明らかである。社会全体が『考える』ということを忘れているのであれば、単に『考える』ということを思い出せばいい。それだけの話である。

語りえぬものを語れない世界人権宣言

2007-10-28 23:33:07 | 言語・論理・構造
近代の自然権思想に基づく天賦人権論は、中世における神への信仰から脱却し、人間の尊厳に絶対的な価値を置いた。神の地位にとって代わったのは、人間の理性である。世界人権宣言第1条にも、次のように定められている。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」。

さて、この人間の理性というものは一体何なのか。理性とは、考えることであり、疑うことであり、信じないことである。すなわち理性の機能とは、「理性とは何か」ということ自体を理性によって考えることである。そして「人間は本当に理性と良心とを授けられているのか」ということを、信じずに疑うことである。そうだとすれば、条文において人間の理性を掲げ、それを絶対視することは、理性という機能それ自体において矛盾が生じる。

人間は理性と良心とを授けられているというのであれば、それを授けたのは一体誰なのか。ここで神であると言えないならば、人間自身であり、理性自身であるというしかない。しかしながら、理性が理性自身を裏付けていることは、それを明文化するや否や、理性とは対極にある信仰に陥る。理性とはそれ自体が否定の作用であり、条文において明文化されることを性質上拒むはずである。この点に自覚的でないならば、単に中身を神から人間の理性に入れ替えただけであって、近代は中世を見下せるほどのものではない。

語りえぬものを語ろうとする、それは理性以前のものを感知した理性が、理性の言語によってそれを語ろうとすることである。すなわち、理性とは「理性」という文字によっては語れず、理性の言語によって語られる言葉の、それが出てくる源のほうを感じたときに、初めて語らずに示されるものである。その意味で、いかなる条約も、憲法も、法律も、理性を語ることはできない。語ろうとすればするほど、それは示されにくくなる。

池田晶子著 『考える日々』 第Ⅰ章より

2007-10-27 00:32:24 | 読書感想文
第Ⅰ章「考える日々」・「空疎な言葉につき合う暇はない」より

池田晶子氏の死去後、再び『考える日々』シリーズが売れ始め、増刷が続いている。10年前の週刊誌の連載をまとめた本であるにもかかわらず、このような現象は流れの速い現在の日本において異例中の異例である。これは、池田氏の死去という契機ではあるが、万人において妥当する非人称の言葉の力がじわじわと浸透し始めた結果である。慶応義塾大学の斎藤慶典教授は、『哲学がはじまるとき』のあとがきの中で、池田氏の訃報に接したことを「よい」知らせであると述べているが、実際そのとおりであろう。

10年前の社会問題をめぐるその当時の評論家諸氏の激しい議論など、今となっては雲散霧消である。その中で、自ら時事ネタは苦手だと述べており、その当時には見向きもされなかった池田氏の文章が、その10年後に新鮮な驚きをもって迎えられている。時事ネタが苦手なゆえに末永く読まれる、これもごく当然の帰結である。裏を返せば、現在世間をにぎわせている時事ネタをめぐる議論は、10年後には跡形もないということである。朝青龍から時津風部屋、沢尻エリカから亀田大毅、白い恋人から赤福、姉歯建築士から遠藤建築士、世間を一色に染めた問題もすでに風化が始まっている。後世に教訓を残そうと思うのであれば、池田氏のような視点を持つしかないということでもある。

アカデミズムからは「ポスト構造主義すら古くなっている時代に今さらソクラテスで止まっていては話にならない」と揶揄され、世間からは「語調が傲慢で主張が幼稚だ」と非難されながら、池田氏はその中でもそうとしかできない自分の人生を淡々と生き続けた。やはり、「お前らとは覚悟が違う」ということだったのだろう。


p.124~ 抜粋

「日本の危機」と誰もが騒いでいる。しかし、この「誰もが」というのは、マスコミとその周辺の人々だけであって、本当に危機にある人々は、騒いでいる暇などない。必死で生きているはずである。また、マスコミとその周辺の人々が騒ぐと、「誰もが」騒いでいるように見える、ここにもまた陥穽がある。

論説委員とか大学教授とか、立派な肩書の人々が、「日本の危機」を憂えている。政治が悪い、教育が悪いと人を責め、ではどうするべきなのかという肝心のところにくると、「それは今後の課題である」「急ぎ解決が求められる」。それなら、なんのために、言葉なんかを語っているのか。自分がそれを語るのでないなら、なんのための言葉なのか。

で、ページを繰ると、その裏では、中年男女の不倫願望に関するアンケートなどがなされていたりするわけである。人を甘く見るでない。私は強くそう感じる。自分たちが人生を甘く見ていることに気づかないのは、自分たちが甘やかされたところに居るからで、いったいどの口から「日本の危機」なる言葉が出てくるのだ。

言語化されないものは存在しない

2007-10-26 11:36:05 | 言語・論理・構造
我が国は戦後50年もの間、犯罪被害者の存在を見落としてきた。現に目の前に被害者が存在するのに、どうして見落としたのか。見落とさないように努力できなかったのか。ついこのように言いたくなるが、これは無理である。言語化されないものは、そのように見えない。そのように見えないものは、この世に存在しない。

昭和30年代は、「交通戦争」という言葉が流行語となるほど、車による事故が急増した時代であった。戦後の華々しい経済発展とモータリゼーションの普及の負の側面として、歩行者は車に対して未だ無防備であり、一般社会の中で車と共存する社会生活様式にもなっていなかったからである。歩道や信号機の整備が十分でない中で、死者は歩行者が最も多く、それも多くが子どもであった。昭和45年には交通事故による死者数が1万6765人に達した。

この間も、昭和43年には刑法の改正によって業務上過失致死傷罪(刑法211条)の厳罰化が行われ、それまでは3年以下の禁錮刑であったものが、5年以下の懲役刑・禁錮刑に引き上げられた。にもかかわらず、現在から見れば、「我が国は戦後50年にもわたって犯罪被害者の存在を見落としてきた」「悪質な飲酒運転で人を殺しておいてたったの5年」との評価がなされる。これも、被害者遺族が法廷で加害者に直接問いただしたいという意志や、犯罪被害に遭遇することの不条理性の言語化が、社会の構造の中で共有されなかったことに基づく。

昭和35年には60年安保に伴う安保闘争によって国会前で樺美智子さんが死亡し、昭和43年前後には全共闘運動・大学闘争が盛んとなっていた。この頃の刑事裁判といえば公安事件のことであって、捜査官の取り調べに対して被疑者が黙秘権を行使して全面対決するという構図しか考えられなかった。その後も昭和58年には免田事件の無罪判決、昭和59年には財田川事件の無罪判決などが続き、それぞれの事件においても犯罪被害者は厳然と存在していながら、日本社会はこれを見落とすしかなかった。論点があまりに複雑に込み入って、処理できなくなることが明らかだったからである。

我が国が戦後50年もの間、犯罪被害者の存在を見落としてきたことについては、その当時の反省に基づいて、今後の制度設計をすべきであると語られがちである。しかしながら、そもそも反省できないことを反省しようとする限り、問題点への切り込みは鈍くなる。昭和43年の刑法改正当時には、平成12年の危険運転致死傷罪の新設と同じような激しい議論があったことは想像に難くない。その当時の人間の苦悩を後世の高みから論評するような理論は、さらなる後世の高みから論評されて消えるしかない。

八木秀次著 『反「人権」宣言』

2007-10-25 22:19:26 | 読書感想文
八木秀次氏は保守系の論客としてテレビにもよく登場している人物である。同氏が日本国憲法の条文に真っ向から逆らうような「反人権宣言」をなし得るのも、自分の中の違和感を手放さず、「社会はこうなっている」という形式の押し付けに流されていないからである。保守系と言えば、古い道徳を押し付けるだけの考え方だと捉えられやすい。しかしながら、古いものとは「古くて現在も残っているもの」であって、「古くて現在は消えたもの」は、そもそも古いものとして現在に現れることはない。その意味で、何でもかんでも現状否定を主張し、しかも自らの立場も将来的には古くなる事実を失念する革新系に比べれば、保守系のほうが哲学的には深みがある理論が多い。

イギリスで1628年に「権利の請願」を執筆したエドワード・コーク(1552-1634)は、次のように述べている。「我々はいわば昨日生まれた者に過ぎず、父祖から学んで光と知恵を与えられなければ、無知のままにとどまっていたであろう。往昔の日々、過ぎ去りし時を顧みれば、この地上における我らが日々など陰の如きものに過ぎない」。さらにイギリスの思想家エドマンド・バーク(1729-1797)は、「権利の請願」は抽象的な人間の権利を述べているわけではなく、祖先から引き継いだ相続財産について述べているのだと指摘している。これは、誰しも人間が自分の力でこの世に生まれてきたのではなく、祖先が存在しなければ自分も存在しなかったという単純な事実を忘れなければ、ごく当然の帰結だとして納得できる話である。あえて賛成や反対を表明するほどの話でもない。

フランス人権宣言によって確立された人権概念とは、超越的原理を想定せずに、人間がただ人間であるということのみに基づき、人間は尊厳性を有するというものであった。そこでは共同体も宗教もなく、歴史も伝統もなく、人間がそれ自体で尊厳のある存在であるとされている。すなわち、人間それ自体が自己目的であり、それ以外の理由を外部に求めることをしない。しかしながら、このような自己目的の理屈は、それを疑うことが許されなくなるため、必然的にその概念自体が一神教の教祖様となる。ここには、哲学的な深さなどない。かくして世俗化された人権概念は、容易に政治的な主義主張のための道具として用いられることになる。アメリカの思想家であるM・J・サンデル(1953-)は、自己決定権に基づく孤立した自我には、道徳的深みがなく、移ろいやすく、全体主義的衝動に駆られやすいと述べている。

本来、人権という概念には、実存や生命の重さを読み込むこともでき、哲学的な自問自答の契機にもなりうるものであった。しかしながら、自己決定権の名において政治的な主義主張がなされれば、それは原理主義同士の神学論争となるしかない。人間の尊厳を自己目的とする人権論が、いつの間にか社会全体を思想統制するようになり、ごく当たり前の違和感すら押しつぶす作用を有するようになっている。「あなたは人権感覚がない」、「あなたは人権意識が薄い」、面と向かってこのような批判を受けた場合のことを想像してみれば、その恐ろしさは容易にわかる。一方的に悪であるとレッテル貼りをされて、正義の人物からお説教を受けること、これがどうして「人間はそれ自体で尊厳のある存在である」との思想から演繹的に導き出せるのか。やはり実存や生命の重さを語るのであれば、端的にそれを捉えれば済む話であって、人権を経由してくることは無用なトラブルの原因となる。

法解釈と法適用

2007-10-24 22:39:42 | 言語・論理・構造
法律家の間で、しばしば見られる論争の形態がある。それは、条文の意味をどこまで拡張解釈したり類推解釈したりできるかという争いである。そこでは、現実の世の中の動きというものがあって、「古くなった法律をどこまで時代の要請に合わせて解釈できるか」という形で問題が出てくる。そして、「文字に拘泥して現実の社会を無視する法解釈をすべきではない」という意見と、「法解釈を行う者は立法論に踏み込んではいけない」という意見とが激しく争われてきた。これは、具体的妥当性と法的安定性の相克と言われる。

ウィトゲンシュタイン哲学からすれば、まずは「文字に拘泥して現実を無視する法解釈」という表現の誤解が指摘されなければならない。法は言葉であり、言葉そのものである。言葉のない法、言葉以前の法、言葉の外の法はあり得ない。言葉は人間において存在している。存在してしまっている。法における個々の条文も言葉であるが、「法」という語そのものも言葉である。法は言葉に内属し、言葉の存在を前提としている。言葉は法に先行する。法律の文法は、日常言語の文法に逆らうことはできない。

言葉と法がこのようなものである以上、「文字に拘泥して現実を無視する法解釈」という命題は、言語ゲームの階層性を承認してのみ、その意味が通ることになる。「文字」とは部分的言語ゲームの文字と現実であり、「現実」とは日常の言語ゲームの文字と現実である。このように考えなければ言葉の意味が通らず、言語が言語としての機能を果たすことができない。法解釈、法適用と言っても、その「解釈」「適用」といった語そのものが言葉だからである。この言語の網の目に自覚的でないならば、言葉を扱いつつ言葉を忘れるというパラドックスの罠にはまってしまうことになる。

法解釈とは規範の定立であり、法適用とは現実社会へのあてはめであるとされる。このような実体の存在をイメージしてしまうと、それは言葉の一言一句を重箱の隅を突くように扱いつつ、言葉が人間において存在してしまっている状況をスッポリと見落とす。科学主義、客観主義的な習慣をそのまま法律学に持ち込めば、「文字に拘泥して現実を無視する法解釈をすべきではない」という論争はいつまでも終わらない。それは、お互いに客観的な文字の意味を探る体裁を採っていながら、実はイデオロギーの主義主張をしているに過ぎない。

「規範」「定立」「適用」「あてはめ」「現実」「社会」、すべての抽象概念は、言葉であるところの抽象名詞によってしか表現できない。これを見落とした法律学は、条文の一言一句の解釈と新判例を追うことで忙しく、法律が言葉であることを見事に忘れる。高度な技術を追求すぎた理論は、条文の背後に壮大な体系を構築してしまい、その論理的整合性を維持するのに忙しくなる。しかしながら、一度始めてしまったものは容易にやめられない。かくして、法律が人間を苦しめるという本末転倒の現象が生じることになる。

養老孟司・玄侑宗久著 『脳と魂』

2007-10-23 21:22:30 | 読書感想文
西洋型の考え方は、あらかじめ神の視点を設定していることにより、必然的に息苦しくなってくる(p.105)。自由、民主主義、個人の尊重など、美しい概念がその美しさを強制する限り、それは息苦しさに直結する。「自由に反対する自由はない」、この命題は、唯一客観的な現実の存在を押し付ける信仰をもたらす。現代社会では、人間は何かを表現している限り表現の自由を享受していることになってしまうため、表現の自由に反対することは論理的に自己矛盾となる。しかし、何かを表現する上でこんなに不自由なことはない。人権は国家権力に対するものであって私人間には直接適用がないといったところで、公立学校の先生と私立学校の先生のストレス溜まり方が異なるわけでもない。

科学の思想は、便宜上数値的に無視してもいい部分は全体性から切り落として考える方法であるが、この「便宜上」という点を忘れると、様々なひずみを生む(p.265)。人間は脳である、遺伝子であると決め付ければ、途端に現実に目の前で生きている人間が見えなくなる。患者を見ずにパソコンの画面のデータしか見ない医師がその典型である。社会科学の実証主義は、この自然科学の欠点までも忠実に真似し、追従してしまった。「近代刑事裁判とは被告人の人権を保障する場である」と言ってしまえば、被害者の存在は全く目に入らなくなる。戦後60年にわたる被害者の見落としは単なる過失ではなく、完全な故意である。

近代国家における個人の尊重の思想は、理性的な人間の個の確立、すなわち個人の人格が変わらないものであることを大前提としている。それでは、殺人罪の刑期を終えて、15年ぶりに社会に戻ってきた人間が改善更生しているという理論はどこから出てくるのか(p.165)。個人の人格が変わらないならば、罪を償うなどといった行為はあり得ないのではないか。個人の人格が変わらないというならば、少年には可塑性があって、少年法の厳罰化は個人の尊重の理念に反するという理論はどこから出てくるのか。このような切り口で物事を捉えてみると、既成の考え方では何かが直感的に「変だなぁ」と感じられるところの源泉が見えてくる。養老氏や玄侑氏に人気があるのは、あくまでも自分の実感から自由に発想し、生のリアリティに着地しているからである(p.288)。

現代社会の個人の尊重の理論は、安楽死や尊厳死についてまで自己決定権の文脈で語ろうとするが、これも結局は何が何だかわからないことになる。人間について権利という概念が生じるのが生きている間に限られるのであれば、安楽死や尊厳死についての権利も、生きている間にしか生じない。しかしそれでは、一体何の権利なのか。人間は死んでしまえば自己決定権も糞もなく、遺言を書こうと書くまいと、葬式以降のことは本人にはどうしようもない(p.187)。自分の希望通りに安楽死できずに苦しんで死んだところで、もはや抗議はできない。安楽死や尊厳死の権利について大騒ぎする暇があれば、そもそもこの世に生まれない権利を主張したほうが手っ取り早いに決まっている。法律家が、日本人にはなかなか権利意識が広まらない、理想の人権大国の到来は遠いと嘆いているのであれば、養老氏と玄侑氏はその主犯格である。

で、どうすればいいのか。

2007-10-22 21:25:01 | 言語・論理・構造
犯罪被害者保護対策はどうすればいいのか。問題はどうすれば解決するのか。高度に専門化した社会科学は、ああでもない、こうでもないと苦し紛れの解答を出しているが、どれもこれも解決には程遠い。それでは、万学の祖である哲学からはどのように答えられるのか。哲学は、「そんなものわからない」という最強の答えを持っている。それだけに、わからないことを前提として、半分冗談で色々な解答を出すことができる。例えば、ソクラテスは「よく生きる」と述べているし、ハイデガーは「死を見つめる」と述べた。

もっとも、「よく生きることが犯罪被害者保護につながる」と言っても、普通はチンプンカンプンで何だかわからない。その意味では、犯罪被害者保護に直接につながる哲学論としては、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論が最強であろう。言語を厳密に定義して日常言語と一線を画そうとする法律学の手法は、言語ゲームの階層性を表している。逃れられない1次的言語ゲームの網の中で、1次的言語ゲームへの自己言及によって言語に囲まれつつ、部分的言語ゲームを人工的に作って閉じられた体系を完結しようとするのが法治国家である。このような説明を経てみると、犯罪被害者の疎外感に基づく二次的被害の発生原因が正確に捉えられる。

実際に罪を犯した者が否認をし、身の潔白を主張することは、近代刑法に基づく法治国家においては正当な権利である。憲法や条約で認められた正当な権利であるから、何ら後ろめたいことはない。堂々と無実を主張する権利がある。これが法律学を学んだ者の常識であり、法律を学んでいない者の非常識である。このような常識の相反が生じるのはなぜか。それは、その言語ゲームが部分的であるからに他ならない。実際に罪を犯した者における正しい行動とは、深く反省し、真実を語り、被害者に謝罪をすることである。これが我々にとってなぜか自然であり、腑に落ちる結論である。正義という語を用いるに相応しいとすれば、これが1次的言語ゲームにおける常識であろう。1次的言語ゲームの存在自体は、1次的言語ゲームでは語れない。

犯罪被害者保護にとって有用な視点は、法治国家の理論はあくまでも2次的言語ゲームであって、それを1次的言語ゲームに広げることができないという点である。閉じた体系が開いた体系を説明できるわけがない。近代刑法の理論においては、法廷で自己弁護を繰り返して被害者に責任を転嫁する者は、自らの行為を深く反省して謝罪する者よりも正しい行動を選択していると評価される。しかし、これは1次的言語ゲームにおいては正しくない。1次的言語ゲームの網の目の中に生きている人間において「正しくない」と感じられるならば、それは「正しくない」としか言いようがない。これに形而下的な実証性を求めるのは野暮である。

被告人の防御権は人類が過去の刑事裁判の歴史の中からその叡智をもって生み出した最重要の権利であり、どんな凶悪犯人であっても反省する義務などなく、それが人権思想に基づく近代刑法の大原則であり、条約や憲法でも保障されている。それはその通りである。しかし、哲学的にものを考えるという作用は、それ自体が否定の作用であって、自分の足元に足払いをかけるようなものであり、近代刑法の大原則を信じるような思想とは覚悟が違う。条約も憲法も、すべては部分的言語ゲームである。「犯人の謝罪の言葉を聞きたい」という被害者の言葉が譲歩するいわれはない。ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論からは、近代刑法の大原則など恐れるに足らない。