犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

鈴木謙介著 『カーニヴァル化する社会』

2012-05-30 00:04:58 | 読書感想文

p.172~

 文科系の学問で論文を書くときには、いつも最初に「問題点の所在」から書き始めなさい、という指導をされるわけだが、私自身「社会問題など存在するのだろうか」と、ずっと戸惑っていた。少なくとも実感のレベルで、身を切られるほどの痛みが、社会へと接続される、したがって社会的に解決されるべき問題として認知されたことは、私自身にはほとんどなかった。

 あるいは周囲の人間が、本当はまったく「社会問題」の所在を信じていないにもかかわらず、卒論や修論を書かなければ、という具体的な理由から、どうにかして「社会問題」をひねり出してくるのに苦労するのを見るにつけ、そもそも「社会問題の存在」そのものが、そして社会問題へと向けられる学者の側の動機こそが、問題にされなければならないのではないかと思っていた。


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 年間3万人以上が自殺に追い込まれている現代の日本社会において、「社会問題」を正当に語り得る者は、自殺直前の者をおいて他にないと感じます。貧困、失業、パワハラ、いじめなど、社会の病理を他人事としてではなく、自己の心の奥底から湧き上がってくる感情と論理で捉え、その破壊的衝動が極点に達する人間の行動様式の前には、どんな高名な学者の肩書きも霞まざるを得ないと思います。

 社会は人間の集まりの別名である以上、社会問題とは人間の問題であるしかないと思います。そして、「この社会の他人は問題ではない」「この自分の人生の問題だ」という内向的な力が強いほど、その力は普遍に反転するものと思います。ところが、自ら命を絶った者のその直前の瞬間は言語化できず、この種の文字を残せる者はこの世に存在しません。「社会問題の存在」から始まる論文に迫真性を欠けることの裏返しだと思います。

東京弁護士会労働法制特別委員会編 『ケーススタディ労働審判』より

2012-05-27 23:45:44 | 読書感想文

「はじめに」より

 労働審判制度は、平成18年4月1日にスタートし、初年度の申立件数は877件でしたが、その後年々増加して、同21年度は3468件となりました。今後も大幅に増える勢いを示しています。評価が高い理由の1つは、迅速性の確保にあります。

 労使の評価も概ね好評です。労働審判手続に精通することは、弁護士などの法律専門家、人事担当者などの企業関係者、働く人や労働組合の役員などにとって、必須の課題となっています。本書が、多くの関係者に利用され、個別的労使関係紛争の一助となることを期待してやみません。


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 一口に「労働問題」と言っても、一方では低賃金が問題の元凶であるとされ、他方では人件費の削減が根本的な問題だとされれば、最初から話が噛み合わないことになります。労働問題の委任を受けている弁護士において、従業員側から依頼を受けた案件と会社側から依頼を受けた案件とでは、そこで主張する理屈は正反対です。しかも、それぞれの案件においてその理屈は正義であり、それが並立している矛盾について内省がなされることは皆無に近いと思います。

 従業員側からパワハラやサービス残業の相談を受けた弁護士にとって、何よりも重要なことは、証拠物件を集める前に会社を辞めないよう指示することです。会社を辞めた後でどんなに悔しい思いをしても、退職者は社内に入れないからです。その意味で、発作的に机を蹴って辞表を叩きつける者は損をします。会社を辞める前には、こっそりと必要な書類のコピーを取り、必要な会話は内緒で録音したうえで、満を持して辞表を出すのが賢い辞め方です。

 こうして従業員から「労働問題」を突きつけられ、弁護士に相談に来た会社の担当者は、通常は怒り心頭に発しています。本来、そのような理由で辞める社員は心身の限界に追い込まれているはずなのに、なぜか技巧的な臭いと余裕を感じるからです。仕事を中途で投げ出すからには、組織人としてそれなりの責任を果たすべきところ、引継書も書かずに会社の備品を使って証拠集めをしていたのかという驚きは、社員に裏切られたという感情を生みます。

 日本の裁判所では、平成18年に労働審判の制度が設けられましたが、申立時に争点に関する証拠をすべて提出する決まりになっています。また、審判がまとまらなければ通常訴訟に移行しますが、ここでは争いのある事実を認定する際には必ず証拠によらなければなりません(弁論主義の第3テーゼ)。そのため、弁護士に相談されて裁判所で議論される労働問題は、単に証拠による事実認定の問題となり、人間の内心の苦悩からは話が離れるように思います。

 私は、労働問題における実存的苦悩は、常に従業員側に発するとの印象を受けています。仕事のやりがいや職責を果たすことへの誇りが人間の生きがいをもたらし、単に生活の手段として賃金を稼ぐに止まらないという論理を従業員側が有しているとき、それを経営者側が断ち切る場面が最も残酷だからです。仕事への献身が宙に浮いた場面で、弁護士から「証拠を集める」という新たな仕事を与えられた瞬間の相談者の生気のみなぎりは、証拠裁判主義がもたらすルサンチマンだと思います。

映画 『ニーチェの馬』

2012-05-26 23:44:07 | その他

 人間の内心は映像化できませんが、その映像を見た者の内心に生じた状況によって、映像が人間の内心を示すことは可能だろうと思います。文章にも読解力を要するものと要しないものとが存在するように、映像についても作り手がそれだけの要素を凝縮していれば、これを見る際には読解力が試されます。但し、ほとんどの映像が印象操作の道具であるような環境に置かれていると、一義的であることが論理の限界だと信じる癖がついてしまうため、その逆が論理の限界であると認識するのは困難だと思います。

 ニーチェが1889年にトリノの広場で昏倒したという歴史的事実については、その原因が「諸説ある」と言われているとおり、一種の逸話・寓話となっているようです。「鞭打たれる馬に駆け寄って守った」との説明もあれば、「疲弊した馬を見て哀れみ馬にすがりついて泣いた」との説明もあり、あるいは「トリノの往来で騒動を引き起して警察官の厄介になった」とも言われ、どれも本当でどれも嘘だと思います。哲人であろうと凡人であろうと、人の心の内は謎であり、発狂の理由など本人もわからないと思います。

 この映画を見た私個人の感想ですが、「ニーチェの馬」というのは、苦しみでしかない単調な人生を超越すること(超人)の限界を具象化しているとの印象を持ちました。ニーチェの言葉を格言として何かを得ようとするならば、本来であれば、心が引き裂かれるような狂気に直面しなければ嘘だと思います。ニーチェが21世紀の日本を予言している訳はありませんが、現代の格差社会に即して言えば、神が死んだ後には「馬車馬のように働かされている人間」に対する狂気が残らなければならないと思います。

堀井憲一郎著 『若者殺しの時代』

2012-05-25 23:53:07 | 読書感想文

p.22~

 僕は、世の中には「騙す人と騙される人」の2種類しかないと思っている。騙す人。騙される人。これで全部だ。どっちかを取るしかない。でも、世間のみんなはそうはおもっていないということを知った。みんなその中間のポジションを取りたがっているのだ。無茶だとおもう。騙されないためには、人を騙すしかない。

 人を騙すのは、言葉ではない。関係性だ。気持ちのやりとりで相手の感情を自由に動かせる状況を作っておくだけだ。人を騙すときに会話は必要ない。会話なんかしてはいけないのだ。ペテンとは、ペテンにかかってくれる状態に相手を巻き込んでおいて、あとはただ通告するだけである。そこに会話は存在しない。


p.86~

 NHKの朝の連続テレビ小説が描いているのは、女の半生である。視聴率が高かった時代、何を見ていたかというと、戦争の苦労である。大東亜戦争が始まって、戦争に負けて、戦後苦労するが、最後には報われるという物語を見ていたのである。主人公は戦争を生き延びる。視聴者も、戦争を生き延びた人たちだ。戦争中に死んだ人は主人公にならないし、戦争中に死んだ人はテレビドラマを見られない。

 ただ戦争の描かれかたは変わっていった。1960年代はまだ、戦争は災害のように描かれていたが、80年代から90年代になると、「いけないこと」として描かれた。戦争はいけないから避けるべきだというのが当然のことのように扱われ、主人公とその周辺は「この戦争は間違った戦争だ。止めなければいけない」と考えだす。口に出したりする。不思議なドラマである。主人公は戦後の日本がどうなるかを察知していて、その視点から戦争を眺めているのだ。一種のタイムスリップドラマである。


p.151~

 携帯電話を持ってるかぎり、どこにいようと、あらゆるところとつながっている。そのために否応なく自分という個を見つめさせられてしまう。たとえば、自分のお誕生日に、いったいいくつメールが来たか。そのメールの数で「いま存在する世界の中で、あなたの誕生日を覚えていて、祝ってくれる気持ちのあったすべての人の数」が示されるのだ。逃げようがない。

 携帯電話以前では、もっと留保できるエリアが広かった。たまたまその日逢えなかったからだろう、と勝手に自分を納得させられた。ゆるやかだった。いちいち、自分の内側と対面する必要がなかった。あきらかにそのほうが幸せだ。いつどこでも、すべてのところにつながる可能性があるというのは、身も蓋もなさすぎる。便利にはなった。しかし人間関係が豊かになったわけではない。


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 コラムニストが引いてしまう思考の補助線は、いかにも不真面目で、真実ゆえに社会の役に立たず、真実ゆえに残酷であり、救いようがなく、肩の力が抜けるものだと思います。風刺や毒舌によって善悪を明らかにするタイプの社会の斬り方と、誰が悪いわけでもないことを前提とする補助線の引き方との違いは、間口の広さだろうと思います。賛成も反対もできない論理のほうが、その見かけに反して毒は強いと思います。

嵐山光三郎著 『転ばぬ先の転んだ後の「徒然草」の知恵』

2012-05-22 23:59:24 | 読書感想文

p.19~

 私は、自分で忙しさを作り出すことによって怠惰な心をカバーしていたのではないか、と反問した。忙しいことが価値だと思うから、会社に働く人は、目前にある雑事の山をとりあえずやってしまう。目前のどうでもいい雑用ばかりに追いまくられ、肉体的に忙しい思いをすれば、とりあえず自分が何かをやったという気分になる。その疲労と充足感のみが自分を支えていた。

 と同時に、もっと別の「今日なさんと思ふこと」があるはずだ、と思い続けてきた。人は定年で会社をやめるとき、今まで会社のために一生懸命働いてきたけれど、はたしてそれは何であったのだろう」と思う。会社をやめたときに、初めて気づくのである。同じことを思う機会はあと1回あって、それは自分が死ぬ前である。「懸命になって駆け抜けてきた一生だったけれど、自分は今まで何をしてきたんだろう」。そういう思いが、胸をかすめてゆく。


p.75~

 俗世間から離れ、静かに世捨人としての暮らしを送っていると、自分は俗世間の雑事とは無関係だと慢心することがある。いかに草庵の生活を悠々と送っていても、そういうところにだって死というものは攻めてくるのだぞ、と兼好は説く。人は会社や組織や都会からドロップアウトすることはできても、自己の存在そのものからドロップアウトすることはできない。

 脱世間の果てには、一見、すばらしい世界がひらけているように思える。今いる会社をやめ、無欲無心になって清貧の日々を送る。こういう人は、ことあるごとに金銭や欲望の空しさを説くが、そのじつ、金銭には人一倍執着する。金銭がなければ生活ができないからだ。ドロップアウトとは年金でも入らぬ限り死に近い。

 兼好にも、そういった一面がみられ、私は、兼好の本質は金にも名誉にも執着心が強かったのではないかと思うのだ。だからこそ、兼好は、自己の本性と懸命に闘わざるを得なかった。無常から逃れるには、死しかないという現実にぶつかる。兼好自身ですら、これだけ世捨人に憧れながら、結局は世捨人になれなかった。


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 私も社会人として揉まれてきた中で、「雑事」「雑用」に対する人間の距離の取り方は、大体同じところに行き着くのだと気付きました。一方では、雑用を軽視するのはあるまじきことであり、真摯に雑用に取り組まない者は一流になれないという言い回しを耳にします。しかしながら、このような価値基準は、結局のところ雑用は乗り越えるべき一時の仮の仕事であると捉えており、雑用係で終わる人生を軽視し、そこに人間の器の差を求めているように思います。

 人は金銭がなければ死ぬしかなく、世を捨ててしまえば死ぬしかないという事実に直面しつつ、「雑事」「雑用」という概念に対して距離を取るならば、実態は逆でなければならないと思います。俗世間の雑事はまさに煩雑であり、これに真摯に取り組むべき価値を与えるのはいかにも恣意的です。他方で、どの時代でも世の中の仕組みを回しているのは日の当たらない縁の下の多数派の人々であり、その仕事は「雑事」「雑用」との命名を拒否すべきものと思います。

井上ひさし著 『ブンとフン』より

2012-05-20 23:53:09 | 読書感想文

p.139~
(作家と、その作品から飛び出してきた主人公(泥棒)の会話です。)


「泥棒のくせに、金銀財宝ダイヤモンドに手をのばさず、人の心に手をのばすようになったな」

「いろいろ盗みをするうちに、人間が一番大切にしているものがわかりましたの」

「ほう、そりゃなにかね?」

「権威です。人を思いのままに動かすことのできる、あるもの。ある人にとっては自分はこれだけのことをしたという過去の栄光、お医者さんの白衣、勲章、菊のバッジ、文学賞……人はそういうものが好きなんです。そういうものをたくさん手に入れて、その威光で、人を思いのままに動かそうとしているのね。お金も出世もホコリも、努力もよい行いも、なにもかもみんな、権威、力をもつための手段にすぎないんです」

「でもねェ、もしそうだとしても、権威をもつことがなぜいかん?」

「人間の目がくもりますもの。権威をもつと、人は、愛や、やさしさや、正しいことがなにかを、忘れてしまうんです。そして、いったん、権威を手に入れてしまうと、それを守るために、どんなハレンチなことでも平気でやってしまうのだわ」

「いいかね、人間というものはだね、オギャア! と生まれおちたときから苦労を重ねて、押し寄せる運命とたたかい、ようやく中年になるころに、それぞれ分に応じて、他人と張り合う力をつけるようになる。それでいいのではないか。君はあまりにも考えが厳しすぎる!! いいかね、この吾輩だってそうなのだ。いまのような一流の小説家になるために、大変な努力をしたのだよ」


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 『ブンとフン』は、昭和46年に書かれた井上ひさしのデビュー作です。上のように議論している作家(フン)と泥棒(ブン)は、どちらも井上氏の半面の本音を語らされており、これから一流の小説家になろうとする者の葛藤がさり気なく書かれているように思います。

 「世の中の厳しさ」という単語で示されているところのものは、「世間知らず」という単語への嘲笑によって、その正当性を保っているのだと思います。ここで、「世の中の厳しさ」の反対側に「人生の厳しさ」を置いてみると、世間に揉まれることの陰の部分が出てくるように思います。

「交通事故遺族の会休止後も活動続ける 福岡の夫妻」 その2

2012-05-19 23:26:49 | 時間・生死・人生

 国家権力による復讐代行か、あるいは社会全体の修復か、国民1人1人が刑罰のあり方に対して責任を負うといった議論を主眼とする刑事政策論は、各種の「遺族の会」に対しても二元的な評価を行いがちだと感じます。すなわち、厳罰感情を維持・増幅する団体には消極的な評価が、厳罰感情を抑制・緩和する団体には積極的な評価が向けられるということです。しかし、これも私が見聞きした範囲での結論ですが、それぞれに不幸である家庭が集まった各種の「遺族の会」は、法律家が机上で考えた図式には収まりようがないと思います。

 取り替えが効かない人生において突き詰められた死生観は、客観的評価を拒みます。全ての色が失われた世界において、富や名誉が無価値となったとき、人が頼れるものは言葉のみです。それだけに、絶望の状態を支え得る言葉、あるいは心が弱っている時に耳が傾けられる言葉は、他人にも適用が可能な原理主義的なものにならざるを得ないと思います。すなわち、ある世界を強烈に信じることを前提とした現状の正当化であり、価値相対主義の入る余地がなく、他者への強制が必然となる種類の思想です。

 ここでの柱は、「いつまでも悲しんでいては死者が喜ばない」、「人は死別の悲しみを乗り越えることによって成長する」といった言葉に集約されるものと思います。これが人生の意味にまで拡大されれば、「人は誰もが試練を乗り越えるために生まれてきたのだ(神は乗り越えられない試練は与えない)」、「この交通事故にも何かの意味がある(起きていることはすべて正しい)」といった論理に至ります。そして、それぞれに不幸な家族を一瞬にして幸福に転化させようとする力は、一瞬にして「遺族の会」に不協和音を生み出すように感じます。

 刑事政策論は、心のケアによる厳罰感情の緩和の必要性を簡単に述べ、各種の「遺族の会」に対しては被害感情を抑制する限りで積極的な評価を与えがちだと思います。しかし、現実はそう単純ではないと感じます。私が見聞きした範囲での結論ですが、「遺族の会」の内部での食い違いは、政治的な内ゲバの形式ではなく、至って内向的であり、狂気を含んでおり、それぞれが自問自答しており、利権が生じることもなく、外部からは想像もつかない論点が生じ、それぞれの不幸は一点にまとまりようがなく、既成概念に頼れない種類のものと思います。

 デモ行進などによる政治的発言力の拡大が世の中を変える言動力だと信じられている社会において、活動の休止後も「同じような目に遭った人をこれからも支えたい」として地道に相談や提言を続ける原田さんご夫妻に対して私が感じるのは、純粋な敬意と畏怖のみです。そして、この敬意と畏怖は、このような相談の成果に便乗して「被害者遺族も厳罰を求めていない」と主張し、難なく寛大な刑を得ている実務家への軽蔑の念の裏返しです。また、社会に対して自分の発言を売り込むことしか考えていない学者への軽蔑の念の裏返しでもあります。

「交通事故遺族の会休止後も活動続ける 福岡の夫妻」 その1

2012-05-18 23:42:38 | 時間・生死・人生

毎日新聞 5月17日朝刊より

 「全国交通事故遺族の会」(井手渉会長、東京都中央区)が3月末、会員減少などのため約20年に及んだ活動を休止した。同会福岡県連絡所(福岡県福津市)代表として九州各地の遺族を支えてきた原田俊博さん(62)と妻美津子さん(58)はそれでも、二人三脚で相談や提言を続ける。2人は「同じような目に遭った人をこれからも支えたい」と話している。

 夫妻の生活が一変したのは1994年12月のことだ。長女未麻ちゃんが小学校への登校途中、自宅近くでトラックにはねられた。意識が戻らないまま、約1ヶ月後に亡くなった。8歳だった。美津子さんは数ヶ月後、知人を通して知った「遺族の会」の集まりを訪ね、最愛の娘を奪われた苦しみをはき出した。よみがえる悲痛に耐え切れず、号泣してトイレに駆け込んだ。「あなただけじゃない」。息子を亡くした女性が声をかけてくれた。

 「苦しんでいる人はもっといる」。そう思い立ち、96年5月、自宅に専用電話を引いて相談を受ける活動を始めた。各地の遺族から「涙ながらに駆け込むように」(俊博さん)電話が続いた。ほとんどは子供を失った母親から。語り口がソフトな美津子さんが主に応対し、俊博さんが集会であいさつするなど、自然と役割分担ができた。毎年「世界交通事故犠牲者の日」(11月第3日曜日)に合わせてキャンドルで死者をしのぶ催しを続け、交通事故加害者への厳罰化などを仲間とともに中央省庁に何度も提言した。

 地道な取り組みの結果、加害者への厳罰化は進み、捜査機関も遺族の心情に配慮するように変わった。俊博さんは振り返る。「被害者遺族なのに心ない言葉を言われ、理不尽なことが多すぎた。その怒りが突き動かした私たちの活動は、制度改正に貢献したと思う」。 「遺族の会」は91年、高校3年生の娘をダンプカーによる事故で失った井手会長らが設立した。その年、1万1105人に上った全国の交通事故死者は昨年4611人になった。事故減少の流れに沿うように、会員はピーク時の1100人から380人になり、活動休止が決まった。

 それでも悪質な事故はなくならない。夫妻は、地元福岡で全国最悪水準の飲酒運転事故が続くことに胸を痛める。「あの日」から18年。夫妻は今秋に都内で開かれる解散式で、支えてくれた仲間にお礼を伝えるつもりだ。自宅の仏壇脇には今も未麻ちゃんの小さな遺骨がある。美津子さんは「暗いところにいれるのは可哀そう」とつぶやいた。「これからも事故で肉親を失う人を減らしたい」。それが2人の共通の願いだ。


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 幸福な家庭はどれも似たようなものであるのに対し、不幸な家庭はそれぞれに不幸であらざるを得ないと思います(アンナ・カレーニナ)。それぞれに違う交通事故で肉親を亡くした家庭のそれぞれの不幸に関しては、言うまでもないことと感じます。そして、それぞれの実存の深淵に根差した不幸がどんなに集まっても、それは「数の論理」が支配する政治的主張とは一線を画するものだと思います。

 厳罰化の中央省庁への提言といった活動も、究極の目的が「交通事故で肉親を失う人を減らしたい」という地点にある限り、活動の消滅という自己矛盾を含むはずと思います。これは、勢力の拡大を常時志向せざるを得ない政治的な団体とは異質のものです。活動によって死者が元通りに戻るという最大の希望が奪われている以上、この自己矛盾は解消しようのないものだと感じます。

 政治的な団体は、その主張に反する事態が生じた場合、怒りによって活動が勢いづくのが通常と思います。すなわち、横断幕やプラカード、ビラや拡声器の出番であり、デモ行進によるシュプレヒコールが行われます。ここでは、先に答えが用意されている結果、安易な理論武装に流れ、似たような幸福に転化する傾向があるように感じます。人は、他者との議論に勝つためには、自分自身の考えを疑ってはならず、自問自答してはならないからです。

 これに対して、「交通事故で肉親を失う人を減らしたい」とそれぞれに心底から願わなければならない不幸は、どんなに全国で悲惨な事故が続発したとしても、勢力拡大による活気とは無縁であらざるを得ないと思います。ここでの勢力拡大は、交通事故の増加と死者の増加を意味する点において、イデオロギー的であることを拒むからです。

(続きます。)

冷泉彰彦著 『「上から目線」の時代』 その4

2012-05-14 23:41:07 | 読書感想文

p.132~ (動物愛護の問題を、国家刑罰権の発動の問題に置き換えてみます。)

 対立のポイントは「世界観」である。どうして世界観は対立になるのか、それは「世界」に例外があってはならないからであり、「世界観論争」とは相手を屈服させて服従させるかどうかの「絶対的な勝ち負けの世界」であるからだ。たとえば、「国民の人権を守るためにある近代国家が法の名において人権侵害である刑罰を発動するのは矛盾だ」という世界観の立場からは、理由はどうあれ、厳罰を正当化するような意見は絶対に許せない。厳罰を口にする人間の存在自体が悪なので、全面的に相手を屈服させなければ我慢がならない。

 「世界観」というときの「世界」には、論争の相手も含まれるので、自分の世界観が正当だと信じれば信じるほど、相手を自分の世界観に服従させなければならないという暴力的といってよいような信念を抱いてしまうのである。そこで、論争は「勝ち負け」の世界になり、そのプロセスにおいては「正しい自分」が「誤った相手」を常に見下すというコミュニケーションスタイルになってしまう。つまり、世界観を争っている限りにおいて、お互いに「上から目線」になるのは一種の必然なのである。


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 刑罰に関する法改正が問題となる場面では、それぞれの立場からの賛否両論が起こるのが通常のことと思います。厳罰反対派に対しては「被害者のことを理解していない」との批判が向けられますが、厳罰賛成派に対しても、「被害者本人でない者が被害者を代弁するのは僭越だ」との批判が向けられるのを目にします。そして、肝心の被害者本人は、この「世界観論争」に参加することは難しいと思います。

 これも私の狭い経験からの感想であり、今のところ犯罪被害者でない私がこれを語るのはまさに僭越なのですか、犯罪被害というのは、この「世界」を崩され、「世界観」が持てなくなることを指すのだと思います。すなわち、現実の人生と抽象的な思考が一致し過ぎてしまって、自主的に世界を把握して世界観を持つという思考の形式が不能になるということです。その意味では、厳罰を求める被害者を厳罰派に分類することは乱暴ですし、厳罰を求めない被害者の存在を政治的主張の根拠に用いることは軽率だと思います。

 厳罰反対派にとって、最大の壁は厳罰を求めている被害者本人です。しかしながら、被害者に対して「上から目線」により屈服を求めるのは逆効果であり、ここでは「下から目線」による懐柔策が採られるのが通常と思います。これは独特の反転の形式であり、殺し文句のフレーズが多数保有されています。例えば、「厳罰よりも心のケアこそが大切なのだ」「報復は何も解決しない」「恨みや憎しみの連鎖からは何も生まれない」「復讐心は被害者自身を不幸にする」といった言葉です。

 これらの言葉を投げつけられることは、被害者本人にとっては身を切られるほど残酷な事態であり、心の底から腑に落ちることは殆どないだろうと思います。(あくまでも私の狭い経験からの勝手な想像です。)そして、世界を破壊されて世界観を持たない被害者は、この「世界観論争」の問いに正面から向かうことができず、聞き役を務めるしかないと思います。もし、ここで相手を自分の世界に服従させようと思えば、相手が同じような犯罪被害を受けた者でない限り、自己嫌悪に追い詰められるしかないのだと思います。

冷泉彰彦著 『「上から目線」の時代』 その3

2012-05-12 23:34:03 | 読書感想文

p.115~ (動物愛護の問題を、国家刑罰権の発動の問題に置き換えてみます。)

 ここで、「厳罰を求める犯罪被害者」と「厳罰を科せられる加害者」の力関係をどう捉えるかという視点から考えてみると、どうだろうか?

 まず、「刑罰は国家による人権制約の最たるものである」と考えている人は、「国家に刑罰権を委ねた国民>生命・身体の自由を侵害される受刑者」という力関係を前提にしている。一方で、「人は自ら犯した罪に対して相応の償いをしなければならない」という人は、「自己の意志で他人の人生を奪った加害者>理不尽に人生を奪われた被害者」と考えているわけだ。そこで、この2つの不等式を結びつけると、「国家刑罰権の危険性を認識している人権派>犯罪者>厳罰を求める被害者」ということになるだろう。

 重要なのは、この「人権派>犯罪者>被害者」という力関係の不等式を理解しているのは、犯罪被害者のほうだということだ。「何の罪もない被害者は理不尽に人生を奪われたのに、罪を犯した側と支援者は罪よりも罰を問題とし、犯罪被害を受ける苦しみには関心がなく、身柄拘束や取り調べの苦しみばかりを主張する」ということである。これに対して、人権派の感覚では、「人権侵害である刑罰の積極的な発動を叫ぶ被害者>加害者=刑事弁護人及び支援者」という理解であり、犯罪被害者が目の前の絶望的な事態から「加害者>被害者」という感覚を持っていることには気づかない。

 この点に関して言えば、まずは人権派の側が被害者側の論理を理解することができれば、少し問題解決への手掛かりができるのではないだろうか? その第一歩は、人権派側の意識改革だと思われる。

(続きます。)