犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 13・ 証拠によって殺意を認定することは可能か

2008-04-08 21:41:21 | 言語・論理・構造
光市事件における被告人の元少年は、事件直後からずっと殺意を認めていた。ところが、8年後の広島高裁差戻審において、「本当は殺意はなかった。今までの話は全部嘘でした」と供述している。ここで、法治国家の建前としては、元少年が死刑になりたくなくて最後の悪あがきをしているのだろう、知識のある弁護団が出来合いのゲームのルールに乗って小技を磨いているのだろうと公式の場で突っ込めないのが苦しいところである。実証科学では、殺意は客観的に殺意が存在したりしなかったりするものであり、それを証拠によって認定することに決まっているからである。

まず、客観的構成要件として、殺人に該当する実行行為、死亡の結果、因果関係が存在する。そして、それに対応する認識として、主観的構成要件としての故意が存在する。こうして、主観が客観に従属する。かくして法治国家における裁判実務は、凶器の大きさやそれを刺す角度と回数、首を絞めた道具の材質や時間の長さなどを実証的に分析し、殺意の認定の技術を進めてきた。ところがこの実証主義は、何年も経ってから「実は殺意はありませんでした」との弁解をすることを許容してしまい、科学的な合理性とは程遠い結果になっている。それどころか、殺意の認定の技術が向上すると、同時にそれを否定する技術も向上してしまい、光市事件のように、裁判がどんどん幼稚っぽくなっている。

他人に殺意が存在したりしなかったりするのか、これは哲学的には赤色・青色のスペクトルの問題と呼ばれるものである。我々は、他人の見ている赤や青を見ることはできないが、それでも他人と共通の仕方で赤色と青色を識別して生活している。夕焼けは赤く、晴天の空は青い。三菱東京UFJ銀行の看板は赤く、みずほ銀行の看板は青い。広島カープのユニフォームは赤く、中日ドラゴンズのユニフォームは青い。ほとんどの人は特に疑問を持たず、そのように考えている。他人にどう見えているかは見えていないにもかかわらず、生活に支障はない。その上で初めて、信号の「青」はどう見ても緑色だろうとか、「新緑の青葉」という言い方は変だとか、そのような会話が成立する。これは教科書事例であるが、他人の内心は見えないという点において、すべては同じことである。

動物的な条件反射である痛みやかゆみ、さらには人間的な喜びや悲しみ、憂鬱感なども同様である。これらは、客観的な存在としてではなく、感じる主体にとってどのように現れるかが本質である。ところが、客観的な存在ではないならば、それが他人にどう現れているかを知る術がない。もっと正確に言えば、そのような「現れ」なるものが存在するか否かも知りようがない。殺意も同じである。犯人の脳神経と捜査官の脳神経をつないで取調べをしても、それを認識しているのはどこまでも捜査官の脳であり、犯人の脳ではない。従って、犯人の脳と捜査官の脳の中の一致や不一致そのものが、原理的に成り立たない。心神耗弱の演技が通じてしまうのも同様である。演技であるか否かを見分ける方法はなく、それどころか「演技」という概念が成立するかも知りようがない。

ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論が独我論の考察を経ていることは、脳科学がクオリアの問題に収斂していることと無関係ではない。クオリアとは、脳において直接感じられる何物かであり、ある物事を他から識別する脳の機能と区別される。クオリアとは実質的であり、感覚的であり、現象的である。クオリアではない識別機能は、機能的であり、知覚的であり、心理的である。殺人罪の構成要件と傷害致死罪の構成要件は故意の有無で区別されるというならば、当然、殺人罪のクオリアと傷害致死罪のクオリアとの区別を見過ごすことができなくなるが、これは言語で記述しようがない。今や「ぶっ殺す」や「死ね」といった罵詈雑言は日常茶飯事であるが、これが多くの場合には殺意ではないとされている。それでは、「『死ね』と思っていました」は殺意があるのか。「脅すために『ぶっ殺す』と言いましたが、殺そうとは思っていなかったのに死んでしまいました」はどうか。

ある一時点で殺意が客観的に存在し、あるいは存在せず、それを事後的に証拠で認定するというルールを作ってしまった刑法学は、その枠組みに苦しめられている。本当に殺意を抱いた場合が殺意だと言っても、その「本当に」という概念が成立するかどうかもわからないからである。未必の故意における学説は、認容説、蓋然性説、動機説などに細かく分かれてきたが、それ以上動きようがなく、処理できずに行き詰まっているようである。「殺意はありました」と言えば殺意があることになり、「殺意はありませんでした」と言えば殺意がないことになる。すべては事後的な自己申告である。そうであるならば、殺意を否認するのは死刑になりたくないからだと端的に認めてしまったほうが正直である。