犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

湯川秀樹著 『旅人』より その2

2014-10-10 23:20:09 | 読書感想文

p.131~

 物理学をやるようになってからも、私は仕事が順調にゆかない時など、しばしば絶望的な厭世観におそわれたことがある。ヨーロッパの理論物理学者で、自殺した人が何人もいることを知った。その気持はよく分るような気がした。しかし、私は自分が自殺したいとまで、思ったことはない。

 私の中には、人類に対する、社会に対する、あるいはその社会の構成分子であるところの家族や、知人や、若い研究者たちに対する、責任感がある。この責任感は、人間の空しさとか、社会が必然的に持っている矛盾に対する嫌悪とは、一応別個に存在するらしい。それは「ギブ・アンド・テイク」ではなしに、たとえ受け取るものはなくとも、与えなければならないという義務感のようなものである。

 科学に対する信頼によっても、しかし私の厭世観はとり除けなかったばかりか、むしろ反対に、科学的な自然観の中に、厭世観を裏づける、新しい要素さえ見出すことになった。けれども、そんな心理的な状況下でも私を支えて来たものは、自分の創造的活動の継続の可能性であった。もし、その源泉が枯渇したらどうなるか。私の手の内は、もう切り札を持たないカードの群れである。


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 「事故で亡くなった犠牲者にはどんな夢があった」というお涙頂戴のストーリーは、暗くて湿っぽい現実の行き止まりを打開する一番安易な方法ですが、この虚構の限界は簡単に見抜かれます。多くの犠牲者について、次々とストーリーが連発されると、その生命と死はただの情報となり、中身は軽くなるものと思います。

 この世の中の常として、光が当たるところは誰にも見えやすく、光が当たらないところは見えないものですが、今回の「明るいニュース」によって空気が一変したことは、人間の軽さを見るようで釈然としません。そろそろ悲惨なニュースには飽きてきた頃だったと、そこまで露骨に態度に表すのは下品なことだと思います。

 御嶽山の過酷な状況の中、行方不明者の捜索にあたっている方々は、地位も名誉も求めず使命感だけで現場に向かっているものと思います。この精神はノーベル賞よりも立派である等と言えば、小学生の道徳かと笑われるでしょうが、この逆説的な道徳の基礎が脆弱な社会の精神は、安っぽいものにならざるを得ないと思います。

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