犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

千葉県館山市 小学生死亡事故

2012-04-29 00:12:24 | 時間・生死・人生

4月28日付け 日刊スポーツニュースより

 4月27日午前7時35分ごろ、千葉県館山市大賀の県道で登校のため停留所で路線バスを待っていた同小の小学生ら6人の列に軽自動車が突っ込んだ。軽自動車は車道から左側にはみ出し、この4月に小学校に入学したばかりの館山小1年の山田晃正君(6つ)をはねた後、約3メートル先の石塀に衝突した。その後、山田君をひき、巻き込んだ状態で約25メートル走行したとみられる。

 山田君の母親は路上に横たわる息子を抱え「こう君、こう君、お母さんだよ。目を開けて」と泣き叫んだ。50代の男性会社員も「6人はいつも同じ時間に立っていて、小学生はうれしそうにバスを待っていたのが印象的だった。京都でも同じような事故があったばかりなのに……」と声を詰まらせた。


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 ここのところ、急に交通死亡事故が急に増えたように思われがちですが、年間約5000人が交通事故で亡くなっています。1日に10人以上です。私が裁判所で立ち会った数々の自動車運転過失致死罪の裁判も、9割以上が新聞に取り上げられることもなく、私を含めた限られた人間の記憶に残るのみです。

 「お母さんだよ。目を開けて」という言葉は、世の中に五万とある言葉の中で、私が知り得る限り、人間の尊さや哀しさ、この世に起きてしまう事実の残酷さ、さらには窮しても転じることのない足元の崩壊による穴を最も正確に語る言葉であり、破壊力が時空間の内に凝縮されたまま人の解釈を拒んでいる状態を示しているように思います。この言葉を聞いて胸が張り裂けない者は、人間の名に値しないと思います。また、胸が張り裂ける状態を手放したままに語られる未来、立ち直り、癒し、再生といった理屈は、地に足が着いていない机上の空論だと感じます。

 私は、子供を事故で失って法廷で意見陳述をする母親の姿を前にするたびに、「命の重さ」という言い古された成句が無意味であることを思い知らされてきました。母親は、「子供と代わってやりたかった」と述べます。母親が子供と代わってしまったら、子供は母親を亡くして一人ぼっちで残されてしまうではないかといった心配は、現実には不可能なことであり、無意味な理屈です。この言葉がこの言葉として言われざるを得ないのは、この世には不可能を不可能と知り、比較の対象がないことを前提としつつ、その比較論を語ることによって現実を語るしかない現実があるということだと思います。

 私は、現に生きている母親の姿を前にして、その「命の重さ」を感じることができず、またこれを感じることは彼女に対して僭越な態度であることを知りました。母親が子供の死と同時に命を失っていれば幸福だったのかと問われれば、そうとは結論できないものの、不幸であるとも判断できませんでした。私は、彼女に生きるべきことを内心でも求めることができず、かと言って死ぬべきであるとは断じて思えず、少なくとも「命は重い」という常識論の無効を突きつけられました。それは、どんな人間も生きているだけで価値があるのだといった、死刑廃止論で用いられる論理とは次元を異にしていました。

 「お母さんだよ。目を開けて」という言葉が意味しているものは、母親が息子に対して目を開けてほしいと願っている、ただそれだけです。加害者の運転手を許すも許さないも意味しておらず、法律の定める刑罰が重いも重くないも意味しておらず、国や地方の道路政策を責めるも責めないも意味していません。ただ、目を開けてほしいという思いの破壊力が、その言葉の意味を知る者の精神を崩壊させ、政治的な一切の解釈を拒絶しているのみと思います。あれほどマスコミで聞かれた「絆」ですが、母親の言葉に対して「親子の絆」が語られないのは、絆が断ち切られる場合のことは想定していなかったからだと思います。

京都府亀岡市死傷事故 その2

2012-04-27 23:43:57 | 国家・政治・刑罰

 京都祇園の事故の報に接した者が受けるべき最大の衝撃は、事故原因がてんかんの発作であると否とにかかわらず、人生は次の瞬間にも簡単に消えるという事実でなければならないと思います。そして、現に起きた事実を解釈を入れずに端的に捉えるならば、まずは「人の命ある日突然終わらせるような運転はしたくない」という自発的な欲求が先に来るはずだと思います。事後の賠償が大変だとか、何らかの生産性のある教訓を得るべきだとか、そのような理屈は結果論に過ぎないはずです。それだけに、その11日後に盗んだ車で無免許の居眠り運転で事故を起こされてしまっては、完全にお手上げです。

 法治国家においては、事故の衝撃は政策論としての刑罰論に変形され、定型的な議論に収まるのが通常だと思います。法律学の常識は、「大事件は悪法を作る」ということであり、大事故に際して湧き上がる法改正論、すなわち命の重さに対する刑罰の軽さの不均衡に対する疑問は、まともに取り上げられないものと思います。理性的な司法制度は、すでに魔女裁判や仇討ちを乗り越えて至ったところの歴史の産物であり、問題は既に決着済みだからです。この歴史観は、人間が大事故の10日後に再び事故を起こすこと、すなわち人間は10日前の歴史から学べないことは語らず、100年の歴史のみを語ります。

 祇園の事故では容疑者が死亡しており、かような場合に被害者には「罪を憎んで人を憎まず」という道徳が可能になるかと言えば、これは全くの空論だと思います。祇園の事故の被害者における死が、「二度とこのような悲しい出来事がなくなってほしい」という意味を与えられざるを得ないとき、その11日後の亀岡市の事故の罪を別問題として、祇園の事故の罪だけを憎むことは背理です。しかし、歴史の経験に学んだ刑事司法制度からは、現に起きている事故を目の前にしても、「死を無駄にしない」という形の思考は生じません。大事件によって悪法を作らないためには、死を無駄にするほうが望ましくなります。

 政治的な賛否両論に持ち込めない絶句と沈黙は、すぐに議論が転じます。そして、例によって長続きしないものと思います。この事故に関しては、集団登下校の問題、歩道整備の問題などが真面目に論じられていましたが、1年前の栃木県鹿沼市の事故の際の「喫緊の課題」の再現に過ぎなかったと思います。今回のような無免許の居眠り運転での事故は、歩行者がどう頑張っても避けられません。歩道に乗り上げ、ガードレールも突き破り、集団登下校であろうがなかろうが歩行者の人生は一瞬で終わります。原因の99パーセント以上を占める部分には白旗を揚げつつ、1パーセント以下の部分を熱く議論しては冷めることの繰り返しだと思います。

京都府亀岡市死傷事故 その1

2012-04-26 23:52:21 | 国家・政治・刑罰

 京都府亀岡市の府道で10人が死傷した事故のニュースを聞き、私が瞬間的に感じたのは、その11日前に同じ京都府の祇園の事故で亡くなった方が全く浮かばれず、神も仏もなく、破壊された価値観がさらに破壊されたということでした。また、目の前の出来事から学ばない者は誰が何を言っても学ぶことがなく、学ぼうとする者はその虚しさに苦しみ、なぜか社会はいつもこのような形になっているのだと再認識させられました。これは、交通死亡事故に接したときの独特の虚しい感覚であり、私が法律を学び始めてから常時感じ続けているものです。

 私は大学院で刑事政策学を専攻し、交通事犯についても色々と文献を調べて研究し、論文らしきものを書いていました。社会奉仕命令などの刑罰論から道路整備の政策論まで、切り口は様々でしたが、論文を締めるに収まりのよい決まり文句がありました。それは、「事故防止のため様々な施策は重要であるが、何よりも大切なことは、ドライバーの人命尊重の意識なのである」というフレーズです。私はこのような論文を書いては悦に入り、学者の抽象論に深入りして抜けられなくなり、ニュースで悲惨な事故を見ては冷水を掛けられ、自分は何の役にも立っていないことを思い知らされていました。

 私はその後、刑事裁判の実務の世界に入り、定期的に交通死亡事故の法廷に立ち会うようになりました。被告人は、「今後は二度と法を犯しません」と誓い、被害者の家族に反省と謝罪の弁を述べ、裁判所に対しては寛大な刑を求めます。これに対し、被害者の家族は、被告人が二度と法を犯さないことを望むのではなく、二度とこのような悲しい出来事が起きない世の中であってほしいと望みます。刑事裁判の法廷では、「二度と」という言葉がよく聞かれていましたが、その意味は残酷にも語る者によって食い違っていました。そして、私はこの食い違い自体に慣れ、鈍感になり、内心忸怩たる思いに苛まれていました。

 私は、大学院生として理論の世界に生きようとも、裁判所書記官として実務の世界に生きようとも、交通事故で亡くなった人の存在を忘れ、あるいはその人が存在したことを忘れない家族の存在を忘れるようであれば、そのような職務に従事する意味がないとの確信は失っていなかったと思います。ところが、現実には学内政治や人事異動のほうが重大な問題となり、「司法制度に対する国民の信頼」「社会正義の実現」といったお題目を無反省に喧伝し、無数の死者の踏み台にして平然と生きていました。これには、交通事故をゼロにするなど土台無理なことだという虚脱感の影響もありました。

 利己的な理屈ばかりが飛び交う世間において、筆舌に尽くしがたい交通事故の報道に接して私が思いつき得る言葉は、法廷で何回も聞いてきた言葉と同じです。すなわち、「二度とこのような悲しい出来事が起きない世の中であってほしい」と願うのみです。これは無意味な要求であり、底なし沼を埋めるような虚しさを伴うものですが、そもそも交通事故による死は間違いであり、何らかの意味付けは無効である以上、無意味は無意味であるしかないように思います。もし、二度と悲しい出来事が起こらないことが何らかの価値であれば、その死には意義が認められてしまい、命を失うことが正義になってしまうからです。

(続きます。)

JR福知山線脱線事故から7年

2012-04-25 23:50:03 | 時間・生死・人生

 この7年間、私は自分自身が組織に揉まれ、あるいは組織に揉まれている人々に接する仕事を通じて、経済社会のルールを学んできました。その主要なルールは、「経済効率のためには安全は軽視されざるを得ない」ということであり、さらには「人命は全てに優先するわけではない」ということでした。また、いわゆる大企業病、官僚病といった単語が意味するところも、深い脱力感と無力感を伴って全身で理解できるようになってきたと思います。

 数分の遅れを取り戻そうと暴走し、高速でカーブに突入した運転士の心境を、私は容易に想像できます。私自身、組織人としての規則や義務、あるいは組織内部での保身の欲求が入り混じり、周りが完全に見えなくなることが多いからです。そのような状況に置かれた場合、自分以外の人間は邪魔であり、突き飛ばされるべき存在となります。組織の中で分刻みのスケジュールに追い回されている者であれば、当時の運転士の焦燥感は手に取るようにわかるものと思います。いわゆる日勤教育が事故の遠因であったか否かという議論自体は、後知恵の結果論であり、議論のための議論に堕するものと思います。

 事故現場にいたJRの社員が救助にあたらず、普通に出社して仕事をしていたことがマスコミで取り上げられ、世論の非難を浴びていました。私は、もし同じ立場に立たされたのであれば、出社を選ばざるを得なかったと思います。脳化社会における巨大なシステムがひとたび回転を始めれば、人間は組織の歯車にすぎず、自分自身の良心に従った行動をすれば職務倫理に抵触するからです。自分の欠勤によって処理すべき仕事の流れが滞ることの不当性は具体的な切実感をもって迫ってくるのに対し、電車の中に挟まれた状況は想像もできないものであり、重大さの判断に逆転が生じるのだと思います。

 事故の日の夜、JRの社員がボウリング大会を中止しなかったことも詳しく報道され、世論の非難を浴びていました。この点に関しても、組織内での実務的手腕に優れ、書店に並んでいるビジネス書を読み込み、順調に出世するような社員は、恐らくボウリング大会を中止しないだろうと思います。組織の中で責任を果たすということは、「そのような気持ちになれない」といった個人の内心、あるいは「そのような気持ちになるべきではない」といった他者への要求ではなく、その結末が結論として通用するかどうかを見極めることだからです。これは、様々な思惑を有する人々を調整する能力の試金石です。

 組織内で激しく揉まれ、挫折に打ちのめされる者は、現代は人命が最優先にされない社会であることを知り抜いているものと思います。これは、他者の人生の存在を実感するには、経済社会は余りにも自分自身の人生を生き抜くことに懸命にならざるを得ず、人命尊重など考えている余裕がないという裏側からの証明です。行き場のない攻撃の感情の対象として、事故後の対応の不味さが指摘されてバッシングを受ける場面は、ここのところも多く見られました。命の重さを理解すべき義務に駆られたとき、人は悪者を叩くことによって、死者や遺族の側に立っている安心感を得ることができるのだと思います。

 7年前の4月に繰り返し言われていたことは、経済効率のために安全が犠牲にされてはならないということであり、人命は全てに優先するということでした。そして、そのような認識が薄いJRの体質が批判され、その流れでボウリング大会の開催が批判され、二次会で乾杯をしたかどうかが問題にされていました。私もその流れに乗り、二度とこのような公共交通機関による死亡事故が起こらない正義のために、JRを批判していたように思います。7年後の私は、「人命は全てに優先するわけではない」という世界に完全に浸かりつつ、7年前に想像していた通りの7年後の世界を生きています。

木嶋佳苗被告の刑事弁護 その7

2012-04-23 23:49:41 | 国家・政治・刑罰

 今回の判決に先立つ論評として、裁判員が死刑を選択することの負担についての議論が聞かれました。人が人を裁くことの重大さ、そして人の命を奪うことの重大さに裁判員の精神が耐えられるか、といった問題提起です。実際に殺人事件の裁判に立ち会い、被告人と被害者の遺影の双方に向き合ってきた私には、このような抽象的な問題提起は的外れであると感じられました。ここでの問題は、研究室で行われる高尚な知的遊戯ではなく、現に目の前にいる被告人の人生を意図的に終わらせてよいか、現に血が流れて心臓が動いているこの人間を殺してよいかということです。

 私は、自らの経験より、「殺してよい」との持論を有しています。そして、裁判員が実際に死刑の決断を下したならば、その判断の過程において、避けては通れない独特の心情を経ていたのではないかと想像します。それは、殺人の体験がある者、すなわち他者の人生を奪った経験のある者の威圧感に接したときの戦慄です。私は、オーラといった非科学的なものは信じませんが、目の前にいる被告人のまさにこの手が実際に人の命を奪ったのだという現実の中に置かれていると、思わず「殺人者のオーラ」と言いたくなるような空気に圧倒されることがありました。目が合ってしまえば、その視線に飲み込まれそうになります。

 本件のように、被告人が犯行を否認している裁判の場合には、そもそも被告人が殺人者であるか否かが問題になっています。しかしながら、その殺人行為の否認の中から滲み出る堂々とした態度は、自白よりも雄弁に殺人への自信を語り得るように思います。現に人の命が失われているときに、その命についての敬意を持つか否か、被害者の死など歯牙にもかけないかということと、自分が殺人者であるか否かは全く別のことです。裁判員の最終的な決断の論拠は、有識者の議論に反して、一身的な倫理観の指し示す方向、すなわち殺人者の威圧感に対する戦慄への感度と無関係ではあり得ないと思います。

 裁判員による死刑の選択について、民主主義との関連での問題点が指摘されています。すなわち、国家権力が市民の命を奪うに止まらず、国から選ばれた市民が他の市民の命を奪うという問題です。ここでは、最初の殺人行為は単に私人間で命が奪われる現象に過ぎず、いずれにしても被害者の死は矮小化されており、国家機関による死刑執行とは質が異なることが前提です。しかしながら、これも私の狭い経験からの推定ですが、裁判員が肌で感じることになる死の質の違いは、全く別のところだと思います。すなわち、理不尽で不条理な突然の死と、手続きが保障されたうえでの罪の償いとしての死の違いです。

 判決の後、「裁判員が死刑を決断することの心理的負担」について再び問題提起がされていましたが、私は人を馬鹿にしているとの感想を持ちました。ここでは、裁判員が正義の問題について主体的に考察することは期待されておらず、「社会正義の実現」は弁護士会の側にあり、裁判員は対象化されています。これは、被害者遺族に対して心のケアばかりが与えられ、正義を主体的に問う地位が与えられない構造と似ています。裁判員が被害者の存在を通じて死を現実に受け止め、その現実の死から死刑を導く倫理的判断を経ている場面において、裁判員を客体化した刑事弁護の戦術の奏功は困難だと思います。

木嶋佳苗被告の刑事弁護 その6

2012-04-22 23:03:57 | 国家・政治・刑罰

 他人に迷惑が掛かることへの想像力からではなく、自分が罰を受ける不快感を避けるために「善」の行為を選択するのは、人間の理性の表われとしては幼稚だと思います。法は道徳と峻別され、刑罰権の発動は謙抑的でなければならず、ゆえに法は世間的な規範としては枠の小さな決まりごととなります。「人を殺してはいけません」と法律で決めてもらわなければ殺人の善悪が解らない人間は情けないですが、それを決めてもらうことが当たり前になっている社会は足元を掬われるものと思います。

 あらゆる行為の善悪を自分で決めず、他人に決めてもらうシステムの中では、「自分が殺したいと思った人間を殺して何が悪い」との理屈に正面から反論することは困難と思います。殺人は善であり、しかもその善である行為を隠すことも善であり、世間的な「殺人は悪である」という決まりに従うのも善であり、ゆえに自分はその殺人を犯していないと主張するのも善であり、あらゆる弁解を繰り広げることを善だとすれば、善悪の内容の議論では太刀打ちできません。あとは独善と独善が衝突するのみと思います。

 人間が作る法律や裁判制度が不完全であることは、日々実務に携わっている弁護士が一番よく知っていることだと思います。裁判では、小さな嘘はすぐにばれますが、大きな嘘は容易にばれません。この嘘の大きさが人生全体にまで拡大し、嘘の人生を演じるようになれば、そちらが本当の人生になります。経験を積んだ弁護士は、嫌でも「嘘で塗り固められた人生を生きている刑事被告人」からの洗礼を浴びているはずですが、多かれ少なかれ世間を上手く渡っている人間は、この嘘の人生を演じていざるを得ないように思います。

 「人を殺してはいけません」と法律で決めてもらう社会では、実際に起きた事実の重大さよりも、情況証拠による有罪認定のルールのほうが重要視されます。そして、唯一の真実を知っている被告人ほどそれを基点に「あり得た別の可能性」を細かく無数に思いつき、荒唐無稽な中でも理路整然としてくることは、腕の良い弁護士であれば容易に見抜けるものと思います。即日控訴という徹底抗戦の姿勢の表明は、弁護人にとっては立場やメンツを守るための手法であり、「裁判を闘うこと」がまさに戦術やゲームに過ぎないことを裏側から述べているように思います。

(続きます。)

木嶋佳苗被告の刑事弁護 その5

2012-04-20 23:48:06 | 国家・政治・刑罰

 刑事裁判において、「疑わしきは罰せず」のルールがひとたび動かし難い大原則であるとされれば、ここから生じる疑問について正面から問題にすることはタブーとなるように思います。この大原則に従えば、人の命を奪うことに対して何の感情も起こさず、上手い言い逃れを思いつき、冷静に証拠を処分した者ほど情況証拠しか残らず、無罪になりやすくなります。他方で、人の命を奪ったことに対する良心の呵責に耐えられず、証拠をすべて提出し、事実を正直に語った者ほど有罪に近くなります。

 著名な事件に関する有罪・無罪の判断は、国民の規範意識や遵法精神に与える影響が非常に大きいものと思います。但し、「悪知恵が働く者ほど得をし、正直者ほど馬鹿を見る」という結論をそのまま受け入れることを避けるため、この点の疑問は、警察の初動捜査に対する批判に替えられるのが通常と思います。近代刑法の理論からは、上記の結末は不合理でも逆転現象でもなく、すでに解決済みの問題です。他方、民事裁判を並行して処理している実務家においては、上記の結末の不合理性については、知っていて触れないことが多いように思います。

 多くの民事訴訟を解決してきた弁護士は、人間の最も醜い部分や社会の裏側を嫌というほど見せつけられています。人の欲と欲がぶつかり合ったとき、人は徹底して自己中心になり保身に走ります。人は、賠償金の支払いを免れるために財産を上手く隠して自己破産し、あるいは差押を受ける前に形だけの離婚をして配偶者に財産分与します。そして、このような依頼者の要求を上手く処理できない弁護士は、無能として淘汰されているように思います。このような弁護士が、刑事裁判の「疑わしきは罰せず」のルールを語る場合、それは学者・研究者における問題の捉え方とは異なります。

 近代刑法の大原則とは逆の「疑わしきは罰する」という命題を仮定した場合、社会の醜い部分を知り抜いた者においては、この命題の正誤を抽象的に問題にする動機は消失しているように思います。ここで問題となるのは、犯罪者にとっては罪を犯すことが「善」であり、証拠を隠滅することも有罪判決から逃れることも「善」であり、善悪が人によって相対化されているということです。この場面で、国家権力による人権侵害である刑罰は「悪」であると主張するならば、それは社会の裏側を一周してきた者の世渡り術の表れであることを免れ得ないように思います。

(続きます。)

木嶋佳苗被告の刑事弁護 その4

2012-04-17 00:03:32 | 国家・政治・刑罰

 「間接事実」「情況証拠」といった法律用語は、その定義の基礎を日常用語の「事実」「証拠」に置いており、この言葉の意味は他の言葉の意味との間で循環します。ある人間が通常の社会生活を送っているならば、その者は「事実」「証拠」という言語の前後関係を無意識のうちに把握しているはずです。時間の流れに関する常識論に従えば、まず初めに何らかの事実が起きて、それに関する証拠が残ります。今現在の目の前に証拠があって、そこから過去の事実を推認するという思考は、時間の流れを逆行していることになります。これは1つの決め事であり、法制度を運営するに際しての技術論です。

 ところが、このような時間の逆行性に慣れると、人はこれが技術論に過ぎないことを忘れます。弁護士は民事事件の相談を受けたとき、相談者が語りたい「事実」ではなく、まず「証拠」の確認から入ります。過去に実際に何が起きたのかよりも、念書を書かせたか、現場の写真を撮ったか、会話を録音したかどうかが重要になります。これは、相手方の当事者と弁護士が嘘をつくことが前提になっているからです。ここにおける当事者と相手方の地位は、双方の弁護士の間で互換性があります。弁護士にとっては、自分の側の当事者も、相手方の当事者も、どちらも嘘つきとなります。

 唯一であるはずの過去の客観的事実が唯一でないとき、弁護士にとって重要な問題は、「この証拠からはどのような判決が出るか」という点に集約されます。そして、それが過去の事実と合致しているか否かは重要ではなくなります。しかしながら、「証拠が存在しないならば過去の事実は存在しない」という法律実務の感覚と、「証拠があろうとなかろうと過去の事実は存在する」という常識論は、明らかに対立します。そして、弁護士が仕事を離れた場面で普通に日常生活を送り、そのことに何の疑問も持たないとき、法は人を救うものではなく、人を苦しめるものとなるように思います。

 「証拠が存在しないならば事実は存在しない」という実務感覚が刑事裁判の中で語られるとき、「無実」と「無罪」とは全く異なった概念となります。無罪とは、検察官の主張する公訴事実が証明できないということに尽きており、「それならば本当は何が起きていたのか」「真犯人は誰か」といった問題は、そもそも議論の場から解消されています。ゆえに、有罪判決を受けた弁護団の怒りは本気だと思います。怒りのポイントは、なぜこの程度の情況証拠で有罪の認定ができてしまうのか、という点です。ここでは、判決と過去の事実とが合致しているか否かは問題ではなく、被害者の死も大した問題ではありません。

(続きます。)

木嶋佳苗被告の刑事弁護 その3

2012-04-16 00:02:15 | 国家・政治・刑罰

 民事事件を受任した弁護士は、依頼者に対し、裁判所に対しては嘘を言っても構わないが、自分だけには事実をありのままに話してもらうことを望みます。ここで嘘をつかれると、裁判所に対して嘘を言うことも含め、弁護方針の見通しが立たなくなるからです。そして、弁護士と依頼者との信頼関係が崩れやすいのがこの部分だと思います。弁護士が依頼者の話を聞く際には、「真実の中に微妙に嘘を混ぜている」「ほぼ真実だが一部に誇張がある」といった形でその言葉を捉えます。ここでは「嘘」という言葉をめぐる定義のズレが生じています。

 依頼者が弁護士に嘘をつくとき、そこには本当も嘘もないのが通常のことと思います。ここで問題なのは、自身の記憶に従ったところの事実、すなわち世間的には真実と言われるものを語ることができないというそのことであり、この部分が依頼者にとって最重要の真実です。すなわち、苦悩・恐怖・矜持といった複雑な心情が言葉にならず、真実を語ろうとして嘘を語ってしまうため、まさにこの嘘を語るために弁護士に頼んで争わなければならないということです。ここで、弁護士が依頼者との信頼関係を確立できるか否かを左右するものは、法律の知識ではなく、人生の経験値だろうと思います。

 これに対し、刑事事件の依頼者である被告人が罪状を否認する場合、弁護人に対しても罪状を全面的に否認するのが通常です。被告人が弁護人に対してだけは自身の犯行であると打ち明け、以後の弁護戦術を託す、という事態は少数だと思います。弁護人としても、民事事件の場合とは異なり、技術的に表と裏を使い分けることは難しいと思います。但し、弁護士として多数の事件に携わり、何千人もの人間に接していれば、人はある程度の場合分けの技術を身につけるものと思います。すなわち、濡れ衣を着せられた者、見に覚えのない疑いをかけられた者に特有の「心底からの叫び」が聞こえるかどうかの判定です。

 この叫びが聞こえない場合、あるいは弁護人よりも被告人のほうが役者が上であった場合、弁護人はとりあえず「被告人は無罪である」と主張することになります。この部分の思考は、民事事件の被告側の答弁書において、とりあえず「原告の請求を棄却する」と陳述する場面と同様だと思います。依頼者は嘘ばかりつくものだとすれば、弁護士はその嘘を前提としつつ、「この嘘こそが真実なのです」と裁判所に訴えるのが仕事となります。そして、民事事件との違いは、無罪の推定の理論に守られている限り、弁護人は被告人の言葉を信じても、裁判所や検察官の前で恥をかく心配がないということです。

(続きます。)

木嶋佳苗被告の刑事弁護 その2

2012-04-14 00:07:10 | 国家・政治・刑罰

 刑事弁護の仕事と、民事弁護の仕事とは、理屈の上では全く別のものです。ところが、弁護士は実際には100件以上の事件を同時に担当しており、数時間のうちにも刑事の案件と民事の案件とを並行して処理しています。そして、依頼の数としては民事事件が圧倒的に多数であるため、事務処理の実務感覚や依頼者への接し方は、民事事件の経験が基礎になっているものと思います。人間が語る言葉に対する職業人としての解釈を行うとき、それが刑事事件に際しての言葉であっても、同時に多数を占めている民事事件からの影響を受けざるを得ないということです。

 民事裁判は、お金の貸し借り・離婚・相続・労働問題など多種多様であり、人生を賭けた人間のギリギリの本性を現さざるを得ない場面です。そして、客観的な事実は1つであるはずなのに、原告側が説明する客観的事実と、被告側が説明する客観的事実とは異なります。このような経験を積むうちに、弁護士が依頼者の言葉を聞く際の心得は定型化してくるように思います。「依頼者は嘘をつく」、「依頼者は自分に都合の良いことしか言わない」、「依頼者は自分に不利なことは隠す」、「依頼者は思い込みでものを言う」等々です。これらは、人間の言葉に対する懐疑的な視線です。

 依頼者の言葉を全面的に信用し、親身になって闘う弁護士は、多かれ少なかれ、裁判所や相手方弁護士の前で恥をかかされます。依頼者の言葉を基に長時間をかけて積み上げられた主張が、相手方からの証拠1枚で覆されたとき、その弁護士に向けられる視線は「調査不足」「能力不足」です。ここで、「依頼者は嘘をつくものだ」との割り切りができず、自分の職務怠慢であるとして抱え込んでしまえば、人は右往左往して燃え尽きます。弁護士として限られた時間を切り売りしつつ、何度か痛い目に遭ううちに、人は他者の言葉に対する独特の視角を取らざるを得なくなっていくように思います。

 世間の注目を浴びる殺人事件の刑事弁護も、弁護士が処理中の案件としては、単に100件のうちの1件です。そして、依頼者は嘘ばかりつき、自分に不利なことは隠すのが大前提です。依頼者であるところの被告人に関して、弁護人は被告人の無実を本気で信じているのかと問われれば、これは「どちらとも言えない(話半分)」と答えるのが正確だろうと思います。すなわち、問題自体が解決されないまま解消されている状態です。法治国家で行われている刑事裁判は、善と悪、罪と罰、過ちと償いといった本来の制度趣旨からは、かなり離れたところを扱っているように思います。

(続きます。)