犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

いじめ問題とは

2007-07-31 12:45:49 | 国家・政治・刑罰
いじめ問題は、長きにわたって、管理教育・体罰・校則などの問題とセットで語られてきた。当然ながら、これはある特定の視点によるグループ分けである。いじめは人権侵害であり、子ども達の間に人権を尊重する精神が育っていないことが問題であって、それは教師が子ども達の人権を侵害しているからである。従って、管理教育を改め、体罰を許さず、校則を廃止すれば、問題の根本を絶やすことができ、いじめ問題も一気に解決する……。このような図式がいかに物事を単純化し、多様な物の見方の可能性を奪い、いじめ問題への深い考察を妨げてきたか。これは、政治学と哲学の関係に似ている。

教師が子どもの人権を侵害していることがいじめ問題の本質であるという単純な枠組は、現在でも根強く生き残っているが、今一歩現実に合わない。学級崩壊やモンスターペアレントの出現に直面すれば、自由放任が行き過ぎて、自由とわがままをはき違えてしまったとの分析のほうが的を射ている。教師が体罰をするから子どもはストレスでいじめに走り、校則を厳しくするからいじめに走るのだという理論は、1つの仮説としてのみ成立するものであり、客観的な事実ではない。体罰といじめを同じグループに簡単にくくってしまえば、いじめられた者に特有の人間的な苦しみを掘り下げることができなくなってしまう。自殺という哲学的な難問にストレートに直結するいじめ問題を、安易に人権論でまとめて済むわけがない。人権派が教師をやり玉に上げて糾弾し、教師がうつ病になって自殺するのでは、誰が誰をいじめているのかわからない。

哲学の役割は、権力と反権力のフィルター自体を壊すことである。哲学は政治ではなく、右でも左でもない。日の丸・君が代を義務付ければ秩序が保たれていじめが減るというわけでもなく、日の丸・君が代に反対すれば人権が尊重されていじめが減るというわけでもない。いじめ問題は、端的にいじめ問題である。いじめられれば死にたくなるという哲学的な真実は、政治的な議論で片が付く話ではない。いじめとは何かという事実論は、いじめをどうすべきかという規範論に先立つ。このような問題の切り口は、実用性がなければ意味がない教育学よりも、実用性など考えてもいない哲学に馴染むものである。いかに「いじめのない学校を作ろう」と決意を新たにしても、いじめで死んだ我が子は帰ってこない。

心の教育、命を大切にする教育というお題目の有効性がないことがわかっていながら、他に適当な言い回しが発明できず、同じことを繰り返しているのは欺瞞的である。「心」や「命」という概念を、哲学的思考を避けつつ語るならば、あっという間に行き詰まることは当然である。国家とは公権力であり、すなわち国家権力であるという図式から逃れられなければ、いかなる問題も社会問題に矮小化され、政治家に対して施策を要求し、それが達成されなければ不満を述べるという事態が延々と続くことになる。ヘーゲルにおける「家族・市民社会・国家」という分類は、このような行き詰まりに多くのヒントを与えてくれる。

パオロ・マッツァリーノ著 『つっこみ力』 その2

2007-07-30 12:39:19 | 読書感想文
裁判員制度の導入には賛否両論があるが、強いてメリットを挙げるとするならば、素人の「つっこみ力」が発揮できることであろう。もちろん法廷でボケとツッコミの応酬が展開されれば、法廷の権威は失墜するであろうが、国民に近い裁判を目指すというならば、それが本来の形である。もともと加害者が不真面目なのだから、裁判員にだけ真面目さを求められても無理というものである。

光市母子殺害事件では、元少年は遺体を押し入れに遺棄したことについて、「今考えると幼いが、ドラえもんの存在を信じておりました。ドラえもんの四次元ポケットは、何でもかなえてくれる。押し入れはドラえもんの寝室になっている訳ですが、押し入れに入れることで、ドラえもんが何とかしてくれると思いました」と述べた。ここで3人の職業裁判官が大真面目な顔で元少年の供述を聞くことによって、法廷はますます厳粛になり、遺族は傍聴席で声も出せなくなる。もしここで裁判員制度が導入されており、「ドラえもんが助けてくれる」と聞いた瞬間に6人の裁判員が反射的に吹き出してしまったらどうか。必死に笑いをこらえてもこらえ切れず、苦笑と嘲笑の入り混じった表情になり、それが傍聴席まで伝染してしまったらどうなるか。場の空気はガラッと変わり、元少年は弁解するほど恥ずかしい立場に追い込まれる。これは1つの思わぬ効果である。

近年は刑事裁判の傍聴に人気があるが、それは裁判がギャグの宝庫だからである。刑事裁判は、憲法の保障する被告人の防御権によって多くのギャグを生んでいるが、それが厳粛な雰囲気と相まって、ますます独特の笑いを生んでいる。スリや万引きの被告人は、「盗んだ記憶はありませんが、気がついたら色々な物が自分のカバンに入っていました」と大真面目で主張する。車上荒らしの犯人は、「ドライバーや工具は背中を掻くために持っていました。これからは疑いをかけられないように、孫の手を持ち歩くことにしようと思います」と涙ながらに述べる。無免許運転の犯人は、「私は新車を買いましたが、それはただ眺める目的であり、乗る予定はありませんでした」と訴える。尿から覚せい剤反応が出た犯人は、「誰かが勝手に私のコーヒーの中に入れたのだと思います」と怒りを交えて力説する。

これらの被告人の弁解について、検察官は「誠に稚拙な弁解であり信用性が薄い」と激怒するが、怒ってしまえば堂々巡りである。被告人の防御権という土俵に乗ってしまい、糞真面目な理論と厳粛な法廷の雰囲気も作用して、ますます被告人は主役を気取ることになるからである。犯罪被害者の疎外は、この構造の先にある。被告人にとって一番怖いのは、怒られることではなく、笑われることである。6人の裁判員は笑ってはいけないのに笑いをこらえ切れず、傍聴席にもそれがわかってしまう。このような素人の「つっこみ力」が発揮されることになれば、これは裁判員制度の1つのメリットである。

ヘーゲルと社会契約論

2007-07-29 18:55:24 | 国家・政治・刑罰
ルソーの『社会契約論』の有名な一節に、次のようなものがある。「イギリス人は、自分達が自由だと思っているが、それは大きな間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけであり、議員が選ばれるや否やイギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう」。これはイギリスの議会制についての批判であり、人民の直接参加による直接民主制の正当性を指摘するものである。

間接民主制(代表民主制)は保守的であり、直接民主制は革新的であるという構図は、我が国の政治学でも伝統的に確立していた。ところが、我が国では憲法9条改正の国民投票の問題が絡み、革新政党が直接民主制に反対している有様である。移り変わる現象のほうから唯一の正解を導き出そうとすると、どうしても辻褄が合わなくなって苦労することになる。

マルクス主義が21世紀にも影響を及ぼしている点としては、政治的な主義主張が哲学的言説の形式を採って主張されているという事実が挙げられる。マルクスによるヘーゲル批判は強烈であり、20世紀の末にマルクス主義が終焉しても、それによってヘーゲルが見直されるという方向にはならなかった。現在の日本のアカデミズム、すなわち憲法学を中心とする法律学においても、一番人気がロックであり、革新派に人気があるのがルソーであり、保守派に人気があるのがホッブズである。そして、ヘーゲルはそもそも法律学者に知られていない。マルクス主義の影響は、それほどまでに大きかった。

現代の政治的な議論がヘーゲルを消化できない理由は、ヘーゲルが社会契約論者ではないことによる。ロックやルソーの思想に慣れている政治学・法律学の専門家にとっては、全体主義で国家主義のヘーゲルなど、使い物にならないというところであろう。しかし、それでは、ヘーゲルがドイツ観念論哲学の完成者であり、近代哲学と現代哲学の分水嶺であり、哲学の王道を歩む巨人と言われているのはなぜなのか。ヘーゲルの理論が使い物にならないのは、多くの政治学者・法律学者にそれを使う能力がないからである。

ヘーゲルの「法の哲学」は、単なる「権利の哲学」ではない。ヘーゲルのいう自由とは、あくまでも人間の内側から生じているものであり、政治的な論争では捉えきれない。ヘーゲルの国家論は、「世界は私であり、私は世界である」という弁証法を通して見なければ、単なる国家主義、権威主義にしか見えないのも当然のことである。

人間のあらゆる側面を市民社会の原理のみで把握しようとしたのがマルクス主義であり、その枠組みを捨てきれない政治学者が、18世紀のヘーゲルを通り越して、17世紀のロックにその淵源を求めている。しかし、当然のことながら、ロックはヘーゲルによって乗り越えられている。それも、中途半端な乗り越えられ方ではない。ホッブズを“A説”、ロックを“B説”、ルソーを“C説”と位置づけるならば、ヘーゲルは“D説”ではない。いわば“アルファベット”である。AとBとCとで喧嘩をしているときに、アルファベットそのものを問題とされては、意味がよくわからない人が多いのも当然である。

パオロ・マッツァリーノ著 『つっこみ力』 その1

2007-07-28 13:58:58 | 読書感想文
筆者は、現代に欠けている「戯作者」の視点に立つ。戯作者とは、うがった見方で趣向を凝らし、何でも茶化して笑いに変える人物である(p.25)。権威や権力に正面から立ち向かうのではなく、そうかと言ってよくありがちな権力を揶揄する風刺や毒舌でもない。戯作者の根底にあるのは、人間を忘れて世相や世間を論じることの虚しさ、滑稽さを笑い飛ばすことであり(p.218)、人間に対する深い洞察である。

筆者は文中で主に経済学について茶化しているが、法律学についても同様のことがあてはまる。難しい専門用語を駆使する点では、経済学者も法律学者も同じだからである。誰にでもわかるように説明しようと思えばできてしまうのに、権威を保つためだけに、あえて難しい言葉でカモフラージュするのが学者である(p.28)。振り込め詐欺の犯人は、単に遊ぶ金欲しさに詐欺をしただけなのに、専門家にかかると「欺罔行為・錯誤・処分行為・財産上の利益の移転・因果関係」という仰々しい話になってしまう。峻厳な国家刑罰権の発動による構成要件の明確性などと言われては、詐欺師本人もびっくりである。

法学者が国民の裁判に対する違和感を見下し、犯罪被害者の声を無視するのは、「世間知」と「専門知」の区別に基づいている(p.21)。これは、「世間やマスコミは法律学の基礎も知らない」、「こんな愚かな人々をまともに相手している暇などない」というエリート意識である。刑法学者にとっては、構成要件該当性の厳格性・刑法の体系を維持し、罪刑法定主義を維持するのが先決であって、切れば血が出る生身の人間のことには興味がない。筆者は、このような「専門知」を、頭でっかちな優等生が考えそうな理屈であると茶化している(p.174)。刑法学者は感情論を何よりも見下し、「心情刑法に陥ってはならない」と力説する。しかし、今この瞬間に溺れかけている人には、今すぐ浮き輪を投げなければ意味がない(p.168)。

刑事裁判は、何年も前の殴り合いについて、正当防衛の要件を1つ1つ立証するために証人を呼んで、右手を挙げたり左手を挙げたり、法廷で細かく動作を再現する。飲酒運転の裁判では、どこのお店で何のお酒を何杯飲んだかが焦点となり、ビールをジョッキ半分残したのか残さなかったのかを巡って何ヶ月も大騒ぎする。このような厳粛な儀式は、正面切って批判されるよりも、笑い飛ばされることを何よりも恐れる。笑い飛ばされるのは、まずは犯罪被害者の声に直面してオロオロしている近代刑事法の枠組みである。そして、被告人の権利と被害者の権利は両立するといいながら、いざ被害者が裁判で証言するとなると筋が通らなくなり、ボロボロになってしまう人権論である。

主観説と客観説

2007-07-27 13:04:34 | 言語・論理・構造
法律学には、「主観説」と「客観説」の争いというものが非常に多い。その中でも特に決着がつきそうもないのが、偽証罪(刑法169条)の成立基準に関する主観説と客観説の争いである。偽証罪とは、証人が裁判の法廷で嘘の証言をしたときに成立する犯罪であるとされる。さて、それでは、「嘘をつく」とは一体どのようなことか。これを分析哲学の視点もなしに、法律学のツールのみによって条文解釈という形で行おうとすれば、あっという間に行き詰まる。現に、裁判の法廷はタヌキとキツネの化かし合いであり、多くの証人は白々しく嘘をついているが、これを立証して処罰することはほとんどできていない。

客観説は、証人が客観的真実に反することを述べれば、それが偽証罪であると考えている。この仮説が不可能であることはすぐにわかる。過去に起こった歴史的な事実として「客観的真実」というものが存在すること前提に話を進めているが、そもそも裁判をして大騒ぎをしているのは、その「客観的真実」が何なのかがわからないからである。そこで、判例・通説は主観説を採用しており、証人が自己の記憶に反することを証言することが偽証罪であると考えている。つまりは、一般に言われるところの「嘘をつこうと思って嘘をついた」ことが犯罪であるとする。しかし、これは政治家の証人喚問でも明らかなとおり、簡単に逃げられてしまう。「勘違いでした。嘘をつくつもりはなかったのですが、結果的に嘘になってしまいました」と言われれば行き止まりだからである。たとえ記憶にあっても、「記憶にございません」と言われてしまえば、それ以上他人からは突っ込みようがない。

刑法学ではこの点について、記憶は人間の内心に関わることであり、偽証をしたことの立証は困難であるという理由がもっともらしく述べられている。しかし、これはそもそも立証の難しさの問題ではない。主観と客観の二分法が可能であり、この世の中にそのような二元的な観点が存在すると思い込んでいる錯覚に基づくものである。客観的事実は明確であるが、人間の主観は不明確であるという捉え方は、近代科学主義・実証主義からすれば当然の常識である。この二分法はツールとしては有用であるから、一歩引いた視点から、必要悪の道具として使用していればよい。主観は客観であり、客観は主観であるといった哲学的真実に毎日向き合っていては疲れるので、とりあえずの生活の知恵として捉えておけばよい。

ところが、このような主観と客観という視点が二元的に実在し、客観性のほうは動かぬ真実であると信じ込んでしまうのが人間である。こうなると、それ以外の考え方ができなくなる。刑法学者は、悪質な証人を偽証罪で立件するための方法について、何十年も前から「詳細な研究が待たれる」「今後の課題である」と言っているが、何を詳細に研究したところで無駄な労力である。刑法学の大家といわれる人達の立派な基本書には、この手の記述が非常に多い。閉鎖的なアカデミズムの議論に終わってしまうのも当然である。



※ 文章の内容がややマンネリ化してきたので、テーマを若干広げて、いじめや過労死などの問題も視野に入れて考えていきたいと思います。現代の主流な議論の文法がもたらす問題、すなわち主語と人称の固定化によって視角が抑え込まれているという問題点において、犯罪被害といじめ、過労死の問題の根本は突き詰めれば同じところに行き着くものと思います。「ブログの概要」の欄を微妙に変更しました。よろしくお願いします。

養老孟司著 『無思想の発見』

2007-07-26 15:28:03 | 読書感想文
昭和12年生まれの養老孟司氏にとっての大きな転機は、やはり終戦であった。それまで「一億玉砕」「鬼畜米英」と言っていた大人が、一夜にして「平和」「民主主義」に豹変したからである。ここで、「平和」や「民主主義」を信じてしまうのが通常の人間であるが、養老氏はこれも信じなかった。普通の人は、それではいったい何を信じればいいのかと問いたくなるが、養老氏にはこのような問いも起こらなかったようである。これが天才の天才たるゆえんであり、変人の変人たるゆえんである。

民主主義を信じない養老氏からすれば、おそらく選挙はバカにされる儀式でしかない。養老氏は脳科学者でありながら、言語学にも精通している。この両者を哲学的なレベルで融合させると、非常に面白い視点が得られる。野党は佐田大臣の辞職、久間大臣の辞職と松岡大臣の自殺を同等に並べて、「3人の閣僚が交代した」といって安倍内閣を非難しているが、どうして辞職と自殺が同等に並ぶのか。ついこの前まではいじめ問題が政治的課題になっており、子ども達に「1つしかない命の大切さを考えましょう」と呼びかけていたのに、もう忘れてしまったのか。目の前の現象に四苦八苦している政治の議論の限界が見えてくる。

「憲法9条を守る」と「年金を守る」を同等の政治的主張として並列させている点も、養老氏のような懐疑的視点から見てみれば、言語のレベルが違いすぎるものを無理に並べている面白さが見えてくる。自分の年金を守るためには、領収書をしっかりと戸棚に保管しておかなければならない。しかし、その上から爆弾が降ってきたら終わりである。金庫に厳重に保管していても、ミサイルが飛んできたらどうするのか。領収書を持って避難しようとしているうちに、人間のほうが逃げ遅れたらアウトである。「憲法と年金を守ります」というマニフェストは、しょうもない面白さを含んでいる。

最近は、地震や台風といった自然災害も多い。人間は、自然の猛威の前には手も足も出ない。マスコミは避難所の様子や、土砂に潰された自宅をセンセーショナルに報じるが、被災者の年金については意図的に報じない。土砂に潰された自宅のたんすの中に領収書があるのであれば、早急に取りに行かなければならないのではないか。人災である年金の話と、天災である地震や台風の話が、見事に別の言語のレベルで並列され、処理されないまま残っている。政治的な混乱、天災や人災に直面したときには、やはり養老氏のような醒めた視線を持つ人間が一番強い。

血の通った裁判

2007-07-25 15:18:21 | 言語・論理・構造
裁判員制度の導入に伴って、「血の通った法律」「血の通った裁判」というメタファーのフレーズが目立つようになった。もちろん、これには欺瞞的な意味しかない。裁判官はあくまでその職務を遂行しているのであって、本当に1人の人間として熱血ぶりを発揮したり、人情たっぷりの判決を出してしまえば、職務倫理に反するとして問題とされるだけである。裁判とは、あくまでも人間の血を排除した人工的な言語空間である。

条文という人工的な言語空間においては、まず大原則として、人間は有機的な生物としての物体である。「血」という単語は、その文脈においてのみ使用されうる。殴られて血が出たとなれば刑法204条(傷害罪)の問題とされ、出血多量で死亡すれば刑法205条(傷害致死罪)の問題とされ、強制採血をするならば刑事訴訟法225条(鑑定処分許可状)の問題とされる。ここまでは法律の条文の一言一句の厳密な解釈であり、絶対に動かせない言語空間である。このような言語のみを駆使する法律家が、いきなり「血の通った裁判」という地に足の着いていない抽象論を語っているところに、この議論の胡散臭さがある。

法廷という場は、遺族の意見陳述よりも何よりも、まずは証拠調べが中心とされている。出血量や死亡時刻といった事実が、無機質に淡々と述べられる。これは、条文という法律言語に対応するように、事実を人工的な言語によって切り刻んだ結果であり、人体はそのための証拠方法と位置づけられる。遺族が意見を述べられるのは、このような証拠調べを散々見せつけられた後である。被害者遺族の法廷における困惑の原因は、無機質で人工的な言語によるものであり、それを得意になって駆使する法律家の傲慢さによるものである。ここに「血の通った裁判」というお題目だけを付け加えても、そのギャップが目立つだけである。

裁判員制度が導入されても、裁判が人間の血を排除した人工的な言語空間であることは変わらない。文字通り血の通った裁判になることは、現在のシステム上は不可能である。裁判官が1人の人間として情に溺れてしまっては、法治国家のシステムは成り立たないからである。「血の通った法律」「血の通った裁判」という美辞麗句は、そのようなものは実現しないという本音の下でのみ喧伝される建前である。「心の教育」が実現しないのと同じことである。

ひろさちや著 『「狂い」のすすめ』

2007-07-24 11:01:57 | 読書感想文
逆説と反語、諧謔にあふれた本であり、その意味で読者を選ぶ本である。ひろ氏いわく、人生の旅には目的地があってはならない。目的地というのは、「人生の意味」や「生き甲斐」である。人生に何かの目的を設定し、その目的を達成するために人生を生きようとするのは、最悪の生き方である(p.80)。目的意識を前提とする限り、その目的が達成されなければ、毎日がつまらなくなる(p.54)。

ありがちなハウツー本に慣れていれば、このような記述に対しては、当然反論が起きてくる。人生が無意味であるというならば、お前はなぜ生きているのか、それでは自殺すればいいではないか、という反論である(p.72)。これに対して、正面から再反論せずに、かつ言わんとしていることを伝えるのはなかなか難しい。ニヒリズムは、それをニヒリズムとして直視することによってしか克服できないからである。この逆説も、やはり逆説としてしか現われない。ひろ氏は、最初は「人生に意味がないとわかっていれば自殺する必要さえない」と応じていたが、そのうちに「私たちはたまたま人間に生まれてきて、生まれてきたついでに生きているだけだ」という言い回しを発見した(p.73)。同じ宗教家でも、哲学者に近い人物と遠い人物とではピンキリであることがわかる。

現代の日本人は、犯罪被害を筆頭に、いじめ、リストラなどといった問題に非常に弱い。自然災害や病気、受験の失敗や破産などにも弱い。年間3万人の自殺者がなかなか減らない原因ともなっている。ここで政府は、例によって実態分析の推進や情報提供の拡充、相談体制の充実などの対策を進め、今後10年間で自殺者の数を約25%減らすことを目指すものとしている。しかしながら、やはり政治的な議論はそれが政治的であるがゆえに、次々と起こる事件に振り回され、表面だけを滑る。犯罪被害者への心のケアの推進という掛け声も、このレールに乗ってしまっている。ひろ氏に言わせれば、それは「生活の危機」と「人生の危機」を取り違えていることに他ならない(p.59)。

交通事故に遭ったときの損害賠償額の算定に用いられるホフマン方式は、被害者の推定年間収入や就労可能年数などによって算出されるものであり、事故に遭う前の稼ぎによって大きな差が出る(p.165)。ここで、賃金センサスの格差を是正しよう、低所得者の権利を守ろうという方向を目指して戦うことは、同じ論理の上での局所的な問題に熱中してしまうという点で、結局は自分の首を締めることになる。現代の社会では、人間の価値は商品価値によって決められており、裁判でも人間を一個の商品として見た場合の価値が算定されるにすぎない。しかし、人間が犯罪被害によって直面する最大の問題は、このような点ではない。人間が人間である以上、最後に直面せざるを得ない問題は、「機能価値」に対する「存在価値」である(p.166)。やはり、思想・哲学というものは、苦しみの現実と闘うための武器になる(p.12)。

司法研修所の要件事実論教育

2007-07-23 17:12:38 | 言語・論理・構造
最難関の試験と言われる司法試験を突破した司法修習生は、研修所で特殊な言語体系を学ぶことになる。それが「要件事実論」である。要件事実論とは民事訴訟の攻撃防御方法の構造であり、実体法の解釈論を基礎としたスキルであると言われている。すなわち「要件事実の考え方を学ぶことは、民法・商法その他の実体法の知識を、民事訴訟の場で使える立体的なものに組み換えていくことを意味するし、多様な生の事実から、法的に意味のある事実を選り分けて、法的主張や反論として構成していくという法律実務家の仕事の中核を支えるスキルを涵養するものになる」というものである(加藤新太郎・細野敦著『要件事実論の考え方と実務』、民事法研究会、p.43~)。

このような高度に記号化された特殊な言語体系は、前期ウィトゲンシュタインの記号論の影響を受けた法実証主義から生み出されてきた。これは、哲学的問題の絡まない純粋な法的トラブルにおいては、非常に威力を発揮する。例えば、世の中でよく見られる借金のトラブルにおいては、「金返せ」、「いや借りた覚えはない」といった応酬が起きるが、これでは堂々巡りでらちがあかない。ここで要件事実論は、消費貸借契約の要件事実を詳しく分析する。すなわち、「金返せ」は、①金銭の交付(要物性)、②金銭の返還の合意、③弁済期の合意、④弁済期の到来という事実に意図的に分析される。そして、これに対応するように借用書や貯金通帳といった物証を位置づけ、問題点を絞った上で証人尋問し、論点の拡散を防ぎ、裁判を効率的に進めようとする。これは、後期ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論からも、それが上手く遂行されている例として受け入れることができる。

ところが、この手法を哲学的問題の絡むものにまで適用されてはたまらない。殺人罪の構成要件は、①殺害行為、②被害者の死亡、③因果関係、④殺意に分析され、さらに⑤正当防衛などの不存在、⑥責任能力などに分類される。この論理に対応するように現実を位置づけるならば、死体を細かく解剖して死因を調べ、傷の深さによって殺意を認定し、犯人について慎重に精神鑑定をするのは当然の流れとなる。法律実務家は、多様な生の事実から法的に意味のある事実を選り分け、法的主張や反論として構成していくことにより、本当に壮大な論理の体系が立体的なものに見えてしまう。これが「言語ゲームは対象を実在させる」という恐ろしさであり、部分的言語ゲームが自らを1次的言語ゲームであると錯覚する恐ろしさである。この壮大な体系の前では、人間の死体は証拠物というモノでしかない。

要件事実論とは、社会のさまざまな複雑な要因について、言語によって序列をつける技術である。そこでは、「法的に意味のないもの」は間接的なものとして振り分けられ、真の要件ではないとして後回しにされる。従って、被告人の稚拙な殺意の否認はどんなものでも「法的に意味があるもの」として最重要の地位に置かれるが、被害者遺族が絞り出す詩のような言葉は「法的に意味のないもの」として後回しにされる。司法研修所で特殊な言語体系を学ばなければ法律家になれないという法治国家の構造を見てみれば、法律家と一般人の認識のギャップも理由も見えてくる。法廷での遺族の意見陳述は刑事裁判の構造に合わないし、人権派弁護士の新興宗教に洗脳されたような行動も当然の要請であるし、犯罪被害者に理解を示す法律家のピントがずれているのも当然である。被害者の声は「法的に意味のないもの」であるから、法律学では手に負えず、「心のケア」という名称をつけて心理学にお任せするしかない。

茂木健一郎著 『意識とはなにか』

2007-07-22 14:51:24 | 読書感想文
人間において、自分の意識ほど確実なものはない。これがデカルトの出発点であり、「われ思う、ゆえにわれ在り」という有名なテーゼによって表現される。しかし、近代科学は、デカルトが直面した驚きの瞬間を忘れる。そして、どういうわけかデカルトを境に地球上に近代的合理的人間が生まれて、近代社会がスタートしたというストーリーが作られる。自然科学は、デカルトが発見した意識のほうを忘れて、物質のふるまいだけに着眼し、物質的合理主義を打ち立てることとなった。

デカルトが解けなかった心身二元論は、それがわかりやすい二元論であるがゆえに、そのまま刑法学に利用された。これは、社会のルールとして上手い具合に役に立つものであった。人間には、他人の故意・過失の存在などわからない。実証的な社会科学においては、本来であれば精神や意識のようなものは扱えないはずである。そこで法律学では、この二元論に段階をつけて、客観性を優先させることによって解決を図った。すなわち、まずは客観的構成要件の存在を措定して、主観的構成要件は「その客観面の認識」という形にした。こうして、主観面を客観面に取り込んでいるのが現在の刑法である。

近代科学は、様々な物質からなるこの現実の世界こそが、この世で唯一の確実な存在であると考えた。因果的法則からなる物理的世界のモデルからすれば、千差万別の人間の意識など邪魔である。そこでは、加害者の意識だけを故意・過失という形に変形し、被害者の意識は切り捨てられることとなった。刑法においては、1か所だけ「被害者の同意」という内心が問題とされているが(202条、承諾殺人罪・自殺関与罪)これもあくまでも加害者の側から見て、客観的構成要件の一部として位置づけられているだけである。

このような心身二元論は、その後に登場した現象学、実存主義、構造主義によって、そのツールとしての欠陥が明らかになってきた。今や二元論とは、主観・客観の二元論ではなく、主観・間主観の二元論として捉えざるを得ない。しかし、刑法学は相変わらずデカルトのモデルを利用している。そして、客観面と主観面の重なり合いといったメタファーを持ち出して、収拾がつかなくなっている。事実の錯誤における法定的符合説・具体的符合説・抽象的符合説の争いなど、決着がつくわけがない。法律家は、犯人の脳内の主観を想定して争っているが、それはそもそも自分と論敵の脳内の神経細胞による現象であることを忘れているからである。このような論争は、現在では政治的な政策論としてのみ意味を持つに過ぎない。

犯罪被害者の存在がようやく気付かれてきたことは、近代科学の限界がようやく認識されるようになってきたことと無関係ではない。犯罪被害者保護とは、目に見えないもの、五感では捉えられないものを扱うことである。これは近代科学の限界を超えるものであり、それが見落としたものを掬い上げることである。従って、これを「心の傷」というメタファーを多用することによって、あたかも目で見える物質のように扱ってしまえば、せっかく捉えた問題の核心を取り逃がす。心の傷も、すべては脳の中の1千億個の神経細胞(ニューロン)の活動によって生み出されているものである。「心の闇」も同じである。他者の心は仮想であり、自分自身の心を除き、すべての人間の心は闇である。少年犯罪が起きるたびに「心の闇」というメタファーを多用するならば、問題の核心を取り逃がす。