犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 27・ 死刑にしてもしなくても問題は解決しない

2008-04-15 21:06:33 | 国家・政治・刑罰
「犯人を死刑にしたところで、問題が根本的に解決するのか」。死刑廃止論からよく聞かれるこの問いは、レトリックとして反語を含んでいる。すなわち、犯人を死刑にしても問題は解決しない。死者は戻らず、遺族はかえって苦しむだけであり、心の平安は訪れない。従って、心のケアこそが根本的な解決であって、これからは修復的司法の時代である。死刑廃止論からは、このような論理が繰り返し語られているところである。しかしながら、このような努力にもかかわらず、日本では存置論から廃止論に転向する人は多くないようである。それは、この裏側の問いを誤魔化していることによる。すなわち、「犯人を死刑にしなかったところで、問題は根本的に解決するのか」。これも答えはNOである。死刑にしてもしなくても問題は解決しない。

実際に法律によって人間の行動を規制し、裁判によって国家権力を発動すべき社会においては、問題とは解答があるものでなければならない。一体何が正解なのか迷っているようでは、法律や裁判にならないからである。従って、法律の問いからは、哲学的な問いは問うに値しないものとして真っ先に除かれる。かくして、法律の問いは、どこかに必ず解答があるものとして逆算されることになる。そして、根本的に解決にとってどちらの解答がより妥当であるか、根拠やデータを掲げて争われることになる。「犯人を死刑にしたところで、問題が根本的に解決するのか」という反語的な問いも、これを大前提としている。死刑の問題は根本的に解決できると思っており、解決できないことが答えである(しかもこれは答えではない)ことなど、全く思いも及んでいない。

法律の問いの形式が妥当するのは、国家権力と市民の二元論においてである。例えば、痴漢冤罪を扱った映画『それでもボクはやってない』において典型的であるが、ゴールは明らかである。第一に、主人公の金子徹平は誤認逮捕されてはならなかったし、起訴されてはならなかったし、無罪判決が下されるべきであった。そして、徹平には再審請求が認められるべきであり、名誉の回復が図られるべきであり、国家賠償請求も認められるべきであり、警察官や検察官は公の場で謝罪すべきである。ここでの問題は、あるべき正義と、あってはならない現実との距離である。この距離を埋めることが、問題の根本的な回復である。もちろん、失った時間は永久に戻らないと主張されるが、これはあるべき正義のかさ上げにおいて使用されるフレーズであり、遺族に犯人の死刑を断念させる場合とは方向性が逆である。

人間の怒りは、あるべき正義とあってはならない現実との齟齬を生み出す。このパラダイムは本来政治的であり、無実であるにもかかわらず逮捕されて有罪判決を受けたことに基づく怒りなどが典型的である。すなわち、自分だけにはあるべきゴールが見えているのに、周りが明らかに誤解しており、どうにも抵抗できない。この場合の絶望は、あるべき正義を目指して、巨大なエネルギーとして結集する。これに対し、被害者遺族の犯人への怒りは、このようなゴールと現実との齟齬において捉えられるものではない。このようなパラダイムで問題を捉えてしまえば、「息子を返せ」「娘を返せ」と言うしかないが、これは不可能だからである。その悲しみによって、更に埋めようのない距離を突きつけられるのであれば、あるべき正義なども目指しようがない。これは、冤罪の場合の怒りとは根本的に質の違う怒りである。

死刑の問題は、根本的な解決が可能な問題ではない。修復的司法は、あるべきゴールとして犯人の反省と更生、被害者遺族の赦しと立ち直りを置くが、そもそもこの前提が安易にすぎる。初めに国家権力と市民という図式を作り、その後に被害者をくっつけたという単純さであって、問い自体を問いとする哲学的な問題意識が完全に抜けている。死刑を語って人間の生死を忘れる愚である。「犯人を死刑にしたところで遺族は救われるのか」と問われれば、「救われるわけがない。犯人を100回死刑にしても救われない」と答えて、問い自体を粉砕するしかない。問いの立て方が甘すぎて、答える価値がないからである。

光市母子殺害事件差戻審 26・ 革新派は若者の犯罪に理解を示す

2008-04-15 01:30:31 | 実存・心理・宗教
殺人事件の被害者遺族にとって最も不運なのは、犯人が少年であった場合である。面識のない通り魔的な犯罪においては、被害者側の論理としては、犯人が少年であろうと成人であろうとどうでもいい話である。遺族における胸が張り裂けそうな思いは、犯人の年齢とは何の関係もない。ところが、犯人が少年であれば、その後の二次的被害の大きさは格段に異なってくる。まずは氏名を初めとする情報が出てこない。マスコミが顔写真や実名を報道すれば、被害者そっちのけで場外乱闘が始まる。また、少年審判に対する参加が一定の範囲で認められるようになったとはいえ、刑罰ではなく少年の保護を目的とする制度下においては、何をするにつけても「少年の更生にとって障害にならないか」という論点に付き合わされる。

人権派と言われる立場が特に少年法の厳罰化に反対してきたのも、反体制・反権力のイデオロギーにおいて、少年が象徴的な存在だからである。若者はいつの時代でも反体制的・反権力的であるが、これは若者の特権である。一般に保守派は若者文化に眉をひそめるが、革新派は若者文化に無条件の理解を示す。そして、管理教育に反対し、校則による髪型や服装の規制に反対し、子どもの権利条約の趣旨を生かそうとする。大前提として、このような若者に対する理解があり、殺人を犯した少年もその延長線上に置かれることになる。従って、国家権力によって少年に厳罰を与えるなどもってのほかであり、ましてや死刑など論外だということになる。犯行当時18歳であった光市母子殺害事件の被告人は、今や27歳になってしまったが、弁護団にとっては現在の年齢は関係ない。あくまでも、「罪を犯した当時に少年であった者が死刑になる」という事実が絶対に許せないということである。

人権派が若者文化に理解を示すのは、大人社会の道徳やマナーを無視する空気が本能的に合うからである。例えば、若い人達が公共の場所で大声で騒いだり、地べたに座ったり、電車内で携帯電話で大声で話したり、堂々と化粧をしたりする。保守的な人は、これらのマナー違反に対して本能的に嫌悪感を覚えるが、革新的な人にとっては大して気にならない。むしろ、それを注意する保守派の大人のほうに不快感を覚える。これは直感的な好き嫌いであり、理屈は後付けである。若者の傍若無人な振る舞いに対し、他の乗客が不快感を覚えるのは、自らの存在が人間として認識されていないからである。電車内で携帯電話で大声で話し、化粧をしている若者にとっては、周りの大人は単なる風景の一部であり、石ころに過ぎない。自分と直接の利害関係のある人しか、同じ人間として意識していない。これが若者の特権であり、この反体制・反権力性が革新派から強く支持される。

このような心理構造は、その極端な現れである少年犯罪においても如実に示される。少年には罪を犯したという感覚がなく、他者への共感が薄く、ことの重大さがわかっていない場合が多い。これは、少年には被害者が単なる風景の一部であり、石ころにしか見えていないからである。被害者は人間として認識されていない。ここで、少年に被害者の気持ちを考えるよう求めることは、電車内における周りの乗客のことを考えるよう求めるのと同じように難しい。眼中にないものは眼中にないからである。そして、反体制・反権力性を旨とする人権派からは、被害者の気持ちを考えることには意味がないどころか、そのようなものを押し付ける保守派のほうに不快感を覚える。この意味で、少年支援と被害者支援は水と油であり、そう簡単に両立するものではないことがわかる。反体制カルチャーに惹かれ、1960年代の学生運動で革命を夢見た万年青年にとっては、今さら人生の方向性を変えられないところではある。国家権力と市民の対立軸を大前提とするならば、被害者と遺族の存在は消化不良であり、何とか上手く黙らせたいはずである。