犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

養老孟司著 『バカの壁』

2007-06-30 12:16:02 | 読書感想文
言わずと知れた400万部を超えるベストセラーである。現代社会においては価値観が多様化し、知識はますます細分化され、専門化されている。その結果として、共通理解の土台がどんどん小さくなり、現代では人と人とがわかり合うことが難しい。この原因を「バカの壁」であると指摘するのがこの本である。

現代社会における価値観の多様化、知識の専門化という点から、逆に国民の権利意識の向上、裁判の重要性という結論を導くのが法律学である。これは、バカの壁そのものである。養老氏からすれば、法律も裁判もバカの壁であり、真面目に法治国家を運営している法律家は笑い飛ばされる存在でしかない。

専門用語で細分化された現代法治国家においては、加害者の弁解は、どんな下らないことでも大真面目に聞かなければならない。逆に、被害者の苦しみの吐露は、どんなに哲学的な洞察が含まれていても、法律的には全く聞く必要がない。この法律の壁、司法の壁が、バカの壁である。

法治国家においては、裁判所書記官によって作成された公判調書は厳格な公文書であり、法廷で行われた内容は調書によってのみ証明されるという強い効力が認められている。例えば、加害者が法廷で「四次元ポケットでドラえもんが何とかしてくれると思った」と述べたならば、書記官はそれを一言一句誤りなく文字にして調書にし、法廷の場所と日付を書いて記名押印しなければならない。これが憲法の保障する厳格な刑事裁判の帰結であり、法律家の職責の重さということである。

法治国家における公判調書は何よりも厳格な公文書であるから、誤字脱字があれば大変である。もし書記官が間違って「ドラえもん」を「ドラエモン」と書いてしまったら、印鑑を押して訂正しなければならず、「削除3字、加入3字」と付記しなければならない。これが法律家の職責の重さである。このように一言一句を大切にすることによって冤罪を防ぎ、裁判は国民の信頼を得ることができるという建前だからである。

このように書記官の調書には強い証明力が認められるため、調書異議という制度が定められている。もしも書記官による訂正の前に、人権派弁護士によって誤字脱字が発見され、「ドラエモン」なるものは存在しないと攻撃された場合には大変である。裁判所は、「公判調書第○ページ第○行目における『ドラエモン』との表記は、『ドラえもん』の誤記であることが明白であるから、これを『ドラえもん』に訂正するものとする」という決定書を作り、この謄本を当事者全員に郵便で特別送達しなければならない。これも法治国家を担う法律家の重要な職責である。

このようなことばかりやって朝から晩まで忙しく走り回っている法律家が、犯罪被害者の問題の本質に深く切り込めるわけがない。法律家のバカの壁は厚い。冗談のような刑事裁判の儀式が笑えないというのでは、現代社会はかなりバカバカしい。怒っても仕方がないことは、笑い飛ばすしかない。

マンガのような刑事裁判

2007-06-29 23:47:20 | 実存・心理・宗教
山口県光市の母子殺害事件で、元少年は亡くなった本村夕夏ちゃんを押し入れの天袋に入れた理由について、「四次元ポケットでドラえもんが何とかしてくれると思った」と話した。高等裁判所もバカにされたものである。これでは裁判というよりもマンガである。それも、ドラえもんのような面白いマンガではない。ドラえもんに失礼である。

父親の本村洋さんは、「聞くに堪えない3日間。あまりにも身勝手な主張が多く、亡くなった者への尊厳のかけらも見えなかった」と語気を強めた。当然のことである。これは弁護士だけではなく、同じ土俵に乗って大真面目で論駁しあっている検察官や裁判官に対してもあてはまる。近代法治国家では、どんなに幼稚な弁解であっても、法律家はその土俵に乗って議論せざるを得ない。変だとわかっていてもやめられない。そうであれば、人間は法治国家のマンガのような儀式を続けるしかないが、それでも変なものが変でなくなるわけではない。

日本国憲法31条から40条には、被疑者や被告人の人権に関する崇高な理念が述べられている。しかし、現実に刑事裁判においては、この条文は被告人による稚拙な弁解や、弁護士による技巧的な屁理屈を正当化するために利用されていることが多い。これは原理主義として押し付けられ、宗教的な色彩を帯びる。それゆえに、厳粛な高等裁判所の法廷に場違いな「ドラえもんの四次元ポケット」が登場しても、なぜだか調和してしまうことになる。

このようなギャップを目の前にすれば、哲学的な態度としては、条文のほうに問題があるのではないかと疑うのが当然である。これに対して、近代刑法の大原則を信じて疑わない立場からすれば、このようなギャップもやむを得ないものとして切り捨てる。もちろんそれだけでは説得力がないため、例によって過去の権力者による恣意的な刑罰権の発動によって国民の基本的人権が踏みにじられた苦い歴史の教訓を持ち出す。大原則は大原則であるから、疑いを述べることはタブーとなる。

被害者が法廷における被告人の言動によってさらに傷つくことは、やはり人間として許しがたいと感じる。この世の常識は、地に足が着いた理論である。人間が自然に身につけている常識の中には、哲学的な真実がある。哲学は何よりも常識的な結論に納まらねばならない。これに対して、被害者を悲しませようが苦しめようが、被告人は法廷では徹底して自己中心になることが許され、自己弁護することができるというのが現在の法律の立場である。ここには1つの逆転がある。

この逆転を謙虚に直視するならば、法律は必要悪としての次善の策であり、便宜的なものに過ぎないことがわかる。被告人は素直に反省し、被害者に謝罪することが倫理的には正しい行動ではあるが、現在の法律はあえて反倫理的な行動を認めているだけの話である。ここで反倫理的な行動を正義として正当化しようとするならば、それはやはり原理主義として押し付けられ、宗教的な色彩を帯びる。反論の許されない原理原則とは、「神」の別名である。

近代刑法学の理論は、国家が人間の集まりであることを忘れて、国家権力という観念を実在させ、それに向かって戦いを挑む。これに対して哲学は、人間の人生というものから絶対に離れず、国家は単に人間の集まりに過ぎないことを忘れない。従って、前者は被害者というものの存在を軽視するが、後者は被害者の人生そのものを全力で考えようとする。近代刑法学の大原則を前提とする限り、犯罪被害者が傷つけられることは当然である。被告人のどんな弁解も大真面目で聞くならば、法廷がマンガのようになるのは必然だからである。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第9章「考えるということ」より

2007-06-28 18:56:14 | 読書感想文
法律家の思考方法は、分析的な条文で完全に固められている。どんなに悲惨な犯罪が起きても、最初から最後まで「現行法上仕方がない」の一点張りであり、そこから絶対に動かないし、動けないのが法律家である。法律言語を使いこなせなければ法律家が務まらず、主観的な感情ではなく客観的な条文を信頼しなければ仕事にならないからである。これは、一般人が知らないことを知っているというプロ意識と、強烈なエリート意識に裏打ちされている。明確な専門用語を扱える法律家と、不明確な日常言語しか知らない一般人という構図である。

被害者遺族が裁判を傍聴しても、専門用語ばかりでよくわからないのは当然である。刑法学は、犯罪という人間的な現象について、その根本の部分を取り扱うことを放棄した。そして、人間的でない部分について、非常に細かい議論を展開している。それが殺意の認定の問題となると、裁判は2年も3年もかかってしまう。犯罪被害者が蚊帳の外に置かれ、疎外感を味わってきたことには、単なる制度論に止まらない原因がある。以下の「哲学の専門用語」は、そのまま「法律学の専門用語」と読み替えることができる。


p.132~ より抜粋

考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わることだ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。なぜ、学問が、生活常識から浮き上って形式化し、「物しりたち」の業となるか、学者が、その考え方のうちに、生活常識への侮蔑を秘めており、これに気がついていないからである。

生活常識への侮蔑を秘めていながら、これに気がつかない。だからこそ、生活と学問との架橋が求められているなどの寝言のひとつも出てくるというわけだ。生活常識を感じ、驚き、これについて考えるという基本的な思惟の営みに、専門用語も哲学者の名も、まったく無用である。

カントもヘーゲルも、生活常識からはほど遠い言葉遣いによって説いているが、あれら専門用語は、常識を思惟するというまさにそのことの困難から生じるもので、もし用語が先にあるとするなら、人が思惟する余地などどこにあることになるのか。

言葉の研究は哲学の基本でもある。いや研究というから、言葉を外から恣意的に玩弄できるかのように聞こえるが、人は言葉を使うことで言葉に使われているのが真相なのだから、やはり人は言葉と交わる、交情し交感するのだというのが事態に近いだろう。繰返すが、哲学上の専門用語などというものは、存在を捉え存在を思惟する本物の学者にとっては、あくまでも二次的な作りものにすぎない。思惟せずに思惟を口真似するものだけが、それらの言葉を一次的のものと解し、その表面の意味を玩弄するのである。

光市母子殺害事件の21人の弁護団

2007-06-27 17:37:40 | 実存・心理・宗教
光市母子殺害事件の差し戻し審において、元少年が母親と女児への殺意を否認し、例によって物議をかもしている。ここで、被告人が自分を弁護するのは憲法上の権利であって、元少年を批判をするのは近代刑事裁判の原理を理解していないといった議論に乗ってしまえば、事態は一歩も動かなくなる。

被告人の人権を救済するために国家権力と戦うというスタンスは、間違いなく革新的・左翼的である。それとの関係で、犯罪被害者保護は保守的・右翼的な活動と見られることもある。しかしながら、犯罪被害者の苦しみは、それ自体右でも左でもない。保守も革新も、それぞれこの世には絶対的な真理が存在するという政治的な争いであるが、犯罪被害者の苦しみはそのような政治的な争いではない。

ニーチェ哲学の視点を応用してみれば、事態は次のように見えてくる。日本の刑事裁判は、これまで啓蒙思想に基づく近代刑法の原則に忠実に従ってきた。キリスト教の自然法、天賦人権論の流れは、この世には絶対的な真理が存在するという原理主義を引き継いできた。宗教の力が衰えた後は、人権そのものが絶対的な真理となった。これは政治的であり、革新的・左翼的である。ここでは、人権の存在に疑問を持つこと、異議を唱えることはタブーとなる。かくして戦後50年、被害者からの素朴な疑問は、大上段の原義原則で政治的に抑えられてきた。

犯罪被害者の声は、自らの苦しい経験を通じて、自分の頭で考えた末の生きた思想である。国民が被害者の苦しみに共感することも同様である。これは、哲学というものの基本的なあり方と一致する。哲学とは、自分の人生そのものの悩みや苦しみを全身で受け止めて考え抜き、それを絞り出して言語化する作業である。それは政治的な主義主張ではない。しかし、物事を政治的に捉える法曹界は、犯罪被害者の声も政治的な文脈でしか受け止められない。法曹界からは、犯罪被害者の声やそれを後押しする世論は「感情的」であって、「学問的に見るべきところはない」と位置づけられてきた。

しかし、このような哲学的な指摘が政治のパラダイムで上手く処理できるわけがない。市民の人権を救済するために国家権力と戦っているはずの弁護士が、あろうことか市民の1人である被害者を苦しめるという自己矛盾を犯しているからである。人権派弁護士が厳罰化や被害者の裁判参加に反対するためには、被害者保護の動きを保守的・右翼的な活動と位置づけるしかない。しかしながら、右でも左でもない犯罪被害者の声にレッテルを貼っても、問題を無意味に複雑にするだけである。その意味では、元少年の21人の大弁護団の意見は、真面目に聞けば聞くほど、哲学的な真実から遠ざかる。

東大作著 『犯罪被害者の声が聞こえますか』 第4章

2007-06-26 17:19:41 | 読書感想文
第4章 二つの動き

被害者参加制度をめぐっては、岡村勲さんが代表を務める「全国犯罪被害者の会(あすの会)」と、片山徒有さんが代表を務める「被害者と司法を考える会」とで政治的な対立が生じてしまった。犯罪被害者の団体同士がこのように政治的に対立し、自分は正しい、あなたは間違っていると主張し合うことは、非常に残念なことである。犯罪被害の根本にある哲学的な問題は、政治的な議論とは最も遠いところにある。

岡村さんの主張と片山さんの主張について、政治的な対立を抜きにして純論理的に比較してみた場合、哲学的な深さとしては圧倒的に岡村さんに分がある。岡村さんの原点は、とにかく人間が「もし自分が被害者になったらどうするのか」という認識を持つことであり、その時に人間であればどのように行動するのが普遍的であるのかを考えることであり、すべてはそこからの演繹である。軸がぶれていない。片山さん側の反対意見、すなわち①被害者の負担が大きい、②法廷で被告人から落ち度を追及される恐れがある、③参加しなかった場合に処罰感情が薄いと受け取られかねない、④裁判終了後に被告人から報復される危険があるなどといった問題点は、どこまで行っても表面的な利害をめぐるトラブルの話である。

被害者が裁判に参加することにより、表面的には被害者が被告人に向き合い、被告人が被害者に向き合うことになる。しかし、岡村さんがこの制度に期待しているのは、その先の効果である。被告人が被害者に向き合うことによって、被告人は自分の犯した罪と向き合わなければならなくなる。そして、自分自身と向き合わなければならなくなる。被害者が被告人に向き合うのは、そもそも被告人が自分自身と向き合うための契機に他ならない。その契機に伴う弊害ばかりに議論が集中しても、技術的で深みのない細分化した議論に陥ってしまう。この点において、岡村さんの主張と片山さんの主張とは噛み合っていなかった。

これまで被告人が自分自身やその罪と向き合わずに逃げることができたのは、検察官に向き合うだけで済み、被害者に向き合うことを避けることができたからである。それは、1人の人間としての倫理観に直面する苦しさを避けて、自らを誤魔化し続けることに他ならなかった。被告人が何よりも見つめるべきは自らの罪であって、被害者の面前に立たされれば、人間の倫理はそこから逃げることを許さない。ここで、被告人から被害者への報復の危険に論点が移ってしまうならば、議論のレベルはあまりにも低くなる。

被害者の中には、裁判に参加したいと参加したくない人の双方がいるのは当然のことである。片山さんがそのことを理由として被害者参加制度の導入に反対するというのは、あまりよく意味がわからない。参加したくない人は、単に参加しなければよいだけの話である。それがなぜ、参加したい人が参加することまでを制限する論理に飛んでしまうのか。この辺りを説得的に説明できていない以上、哲学的な深さとしては岡村さんに分がある。今回の刑事訴訟法改正が実現したのは、最終的にはこの点の差が出たものと思われる。

ルサンチマンの融合

2007-06-25 17:31:44 | 実存・心理・宗教
ニーチェの実存主義のキーワードが「力への意志」である。これは、生命体が持っている根本衝動である。これを超越論的な「人権」や「人間の尊厳」のレベルで捉えてしまっては台無しである。「人権」や「人間の尊厳」といったきれいごと、美辞麗句の欺瞞性を暴くのが「力への意志」である。

ルサンチマンも力への意志の消極的な表れ方である。一方でルサンチマンが大きければ、それは「反動的な力」となる。被告人が国家権力に対して自己中心的に防御を尽くす心情がこれに該当する。他方でルサンチマンが小さければ、それは「肯定的な力」となる。弁護士が被告人の防御を援助する心情がこれに該当する。ここに、社会の異端者に追いやられた被告人のルサンチマンと、国家の最難関の司法試験に合格したエリートである弁護士のルサンチマンとが奇妙に融合する。

被告人にとっての防御活動は、ただ単に自分の身柄が自由になりたいという意志に基づいている。拘禁状態から解放されて外に出たいという単純な欲望である。これが「反動的な力への意志」である。これに対して弁護士の防御活動は、自由・正義・公平・公正・愛など、崇高な倫理を実現する一環としてなされる。これが「肯定的な力への意志」である。こうして、最下位のルサンチマンと最上位のルサンチマンが奇妙にシンクロする。

弁護士が被告人のために弁護を尽くすことによって、絶対的な理念の渇望という「肯定的な力への意志」が発現される。これは被告人個人を超えて、人類共通の人権という文脈を有する。そして、被告人自身もこの文脈に乗ることによって、自分自身の犯罪を他人事にすることができる。これは、弁護士にとっても被告人にとっても、潜在的なニヒリズムの進行である。

被疑者国選弁護制度の採用については、冤罪を防ぐとともに、事態の真相究明にも寄与する効果があり、被害者のためにも有用であると言われる。しかし、その反面として、このようなルサンチマンの奇妙に融合によって、被疑者が自分の罪を向き合う貴重な時間が奪われるマイナス面も見過ごせない。社会の異端者に追いやられた被告人のルサンチマンが、被害者に対する攻撃に転化することは必然的である。

香西秀信著 『論より詭弁』 その2

2007-06-24 17:21:29 | 読書感想文
法律単語の厳密な定義は、事実を言語によって写像するものである。これは、前期ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における思考法と似ているが、実際にやっていることは全く逆である。法律学のパラダイムは、あくまでも現実の出来事の存在を大前提としつつ、裁判の当事者を説得するためのレトリックとして、言葉というツールを駆使している。ここでは、言語が事実を規定するという言語論的転回を経ていない。従って、本来は順序などない現実の出来事について、言語によって線条的に写像しているという認識がない。

判決文の構造は、どれも定型的である。死刑を言い渡すか否かの選択は、判決文をいじることによって、簡単に変えることができる。「犯罪は極めて悲惨である。しかし、被告人には更生の余地がある」。このような順番にすれば、死刑を避けるという結論が導ける。これに対して、逆に「被告人には更生の余地がある。しかし、犯罪は極めて悲惨である」という順番にすれば、死刑に処するという結論が導ける。鍵括弧の中の単語は一言一句同じにしたまま、並び順だけを変えればよい。もちろん現実の判決文は、修飾句を駆使して説得力の増加に苦心しており、このような単純な構図は見破られないようにしている。しかしながら、判決文が長ければ長いほど、それは「結論先にありき」という逃れられない裁判の構造を証明してしまっている。最後は「論より詭弁」に落ち着く。

法律学は、レトリックとしての説得力を至上命題とするがゆえに、条文や判決文が言語であることを見落としてしまった。そして、「結論先にありき」という構造を隠そうとする。しかし、言語の意味は、どこまでも循環する。ある言葉が意味を持つということを、その言語で説明しても仕方がないし、別の言語で説明しても仕方がない。言葉が意味を持っていることは、端的に「わかる」というしかない。これは必然的な循環論法である。「言葉」という言葉は、「言葉」という単語の中を永遠に循環する。そして、「意味」という単語の意味は、「意味」という単語の中を永遠に循環する。言葉と意味は切り離せない。

いかなる長い判決文も、すべては言語記号の組み合わせである。言語には意味があり、言語の組み合わせにも意味がある。言語が事実を規定するという言語論的転回を経てみれば、裁判における「結論先にありき」という構造も必然的であることがわかる。裁判の判決文は、当事者を説得するためのレトリックを駆使しているが、敗訴者を完全に納得させることなどできない。どんなに乱暴な判決文も、勝訴者の手にかかれば善意に解釈してもらえる。これに対して、どんなに丁寧な判決文も、敗訴者の手にかかれば揚げ足を取られて非難される。これも必然的である。やはり最後は「論より詭弁」である。

死刑反対の道徳論

2007-06-23 10:38:14 | 実存・心理・宗教
ニーチェが危険な思想家だと言われるのは、道徳の欺瞞と人間の本音を見破ってしまったからである。道徳においては、犯罪は悪であると喧伝される。殺人は悪であり、あってはならないことである。積極的に善を行い、悪を撲滅すべき道徳論からは、これを曲げるわけにはいかない。ところが、現に殺人事件はある。殺人犯に対して道徳は無力である。ここで道徳は、被害者遺族に対してのみ、その力を発揮する。仇討ちをしてはならず、死刑を求めてはならないという決まりごととしてである。死刑とは国家による殺人に他ならず、遺族が求めているのは殺人の実行に他ならならないという論理である。

いくら道徳が殺人は悪であると訴えたところで、現に人間は他人を殺したいと思うことがある。そして、それを実行に移してしまったのが殺人事件である。それならば、遺族が死刑を求めることも同様である。現に遺族は死刑を求めており、それが実行に移されるのが死刑の執行である。道徳は、起きてしまった道徳違反に対しては無力であり、未だ起きていない道徳違反の可能性に対してのみ効力を有する。従って、死刑反対の道徳論は、殺人事件の発生と死刑の執行の間においてのみ喧伝されるが、死刑が執行されてしまえば無力である。死刑反対の道徳論は、特定の時間軸を仮構してのみ効力を有する。

被害者遺族にとっては、死刑の執行は善である。死刑とは国家による殺人に他ならないとすれば、この殺人は善である。そうであるならば、犯罪は悪であるという道徳の真理性は疑わしくなる。道徳論は、殺人は一般的に悪であるという大原則を立ててしまうため、国家による死刑も悪であるという主張を導かざるを得なくなる。ところが、現に被害者遺族は、国家による殺人は善であると主張している。死刑反対の道徳論も、この事実自体は否定しようがない。その殺人が善であるか悪であるかは、すべての生きている人間において、自分自身にとって善であるか悪であるかに依存している。その意味では、最愛の人を殺された人にしかその悲しみはわからず、死刑反対の道徳論は万人にとって普遍ではない。

ニーチェによれば、道徳とは、個々の人間が心底から納得して得たものではない。それは、もともとは単なるこの世の便宜であり、人間によって信仰されることによって外在化する。従って、個々の人間が心底から考え抜いた結果として、その道徳に反する結果に至る場合があることは当然である。道徳が唯一の正しい答えだと信じることは、自己欺瞞をもたらし、自己における善悪の基準を崩すことになる。死刑反対の道徳論には、その意味で二重の誤解がある。1つは善悪を形式ではなく内容で捉えていることであり、もう1つは起きてしまった殺人事件に対して無力であることを隠していることである。

香西秀信著 『論より詭弁』 その1

2007-06-22 19:26:32 | 読書感想文
裁判という場は、言語のレトリックを駆使して双方が戦う場である。そこでは、尋問のスキルや高度な弁護戦術が要求される。そこでは、自分にとっては有利な単語を、相手にとっては不利な単語を使用することが有効となる。抽象名詞が何度も繰り返されると、人間はそれが外部に在るように錯覚してしまうからである。このような価値判断先取りの単語は、二次的評価語と言われる。

例えば、「監視カメラ」と「防犯カメラ」とは、全く同じものを指している。どちらの語を使用するかは、本人のイデオロギーによって決めることである。市民生活のすみずみに公権力の監視の目が光り、全国民の行動が監視されて統制される社会を許してはならないという文脈ならば、それは「監視カメラ」である。これに対して、犯罪の心理的効果として犯行を未然に防ぎ、悲惨な被害者の発生を許さず、住民が安心して暮らせる地域社会を作るという文脈ならば、それは「防犯カメラ」である。実際のカメラはどちらなのかを議論することには意味がない。

このような二次的評価語が問いに組み込まれると、答えるほうは窮地に追い込まれる。「国家権力の横暴によって、無辜の可能性がある一般市民の人権が奪われることを許していいと思うのですか」と問われれば、「はい」とは答えにくい。人権侵害を肯定する思想の持ち主だというレッテルを貼られるからである。しかし、問い自体を全く違うものに変えることはできる。すなわち、「凶悪犯人の可能性が高い人間を釈放して、被害者遺族の悲しみをさらに深くすることが許されると思いますか」と問えば、事態は全く逆転する。

犯罪被害者は、被告人の口から真実の言葉が語られることを期待して、裁判を傍聴する。しかし、裁判という場は、そのような場としては設定されていない。言語のレトリックを尽くして、検察官と弁護士が戦う場である。その最も卑しい側面が、検察側証人に対する弁護士の反対尋問である。弁護士は証人の言葉の飛躍を突いて、窮地に追い込もうとする。そこでは、真理ではなく勝負を目的としている。どんな弁護戦術であっても、背後には被告人の人権保護という名目があり、日本国憲法の下では正当化される。レトリックとは、あくまでそのようなものである。犯罪被害者は法廷においては期待を裏切られることが多いが、言葉の大安売りをしている刑事裁判の構造からは必然的である。

悪と戦えば偽善者になる

2007-06-21 19:04:27 | 実存・心理・宗教
法律学のカテゴリーは、あくまで社会科学の客観性を前提とする。一人一人の人権というカテゴリーも、その人間の人生にまでは踏み込まない。あくまでも、国家全体から見た市民の一人としての人権である。裁判における被告人の自己弁護の行動、それを正当な権利行使として認める裁判所、そのようなシステムを採用している法律に対して、被害者は強烈な違和感を持つ。その原因は、本来は個人の問題である善悪の話が、公的なものに置き換えられている点にある。

近代刑法は、何よりも誤判があってはならないことを大原則としている。富山における冤罪事件の反響は大きかった。無罪の推定の原則は憲法に詳細に書かれ、刑事訴訟法にも詳細に書かれ、裁判の法廷はそれに則って運営されている。従って、凶悪犯人が黙秘することも、否認することも、弁解することも、近代刑法の大原則からすれば正しい行動とされる。そのような行為を許容してこそ、裁判は冤罪を生まないようシステムとして確立されるからである。冤罪は絶対的な悪であり、それを防止する方向で働くものは善である。

しかし、法律学の文脈から一歩引いて眺めてみれば、本来は個人の問題である善悪の話が公的なものにすり替えられていることに気づく。凶悪犯人が黙秘することは、裁判所との関係では善とされるが、被害者との関係では悪にほかならない。その悪は、どんなに善を積み上げたとしても、根底に動かぬものとして存在する。真犯人の人生にとっては、罪を犯したならば人間として償うべきであるというだけの話であって、他の人間の冤罪は全く関係がない。富山の冤罪事件があろうとなかろうと、真犯人の人生にとっては、論理的に誤判の恐れはなく、冤罪の恐れもない。そして、冤罪か真犯人か否かは、真犯人本人が一番良く知っていることである。

国家権力を悪という地位に掲げる限り、被告人は善という地位に安住していられる。真犯人であっても、自分の罪を否認することは、社会全体から見れば善とされる。しかしながら、被告人が被害者に対して悪である限り、国家に対する善は偽善である。被害者が当然のこととして訴えているのは、この社会における当然の善悪の基準である。そして、近代刑法の裁判システムが採用している善悪の基準は、偽善と偽悪にすぎないということである。一人一人の人権というカテゴリーは、その人間の人生にまで踏み込めないからである。