犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

この1年 (6)

2014-01-03 22:00:37 | その他

 この国の存亡が福島第一原発の収束如何にかかっているのであれば、実際に国を救っているのは現場の作業員です。ところが、原発事故の危機を叫べば叫ぶほど、作業員は英雄として称賛されるどころか、その存在を忘れ去られるように思います。「未来の子ども達の命」を守るようには叫ばれても、現に存在している作業員の命を守ることは叫ばれません。後者に価値を置いてしまえば、事故を早急に収束させるべき要請や、「直ちに全ての原発をゼロにする」正義と矛盾するからです。

 例えば、首都圏の低線量被曝が論じられるとき、現場の作業員の人生は見捨てられています。作業員の被曝データは、人体実験のサンプルに等しい扱いだと感じます。現に、作業員が心筋梗塞で死亡したとなれば、何よりも被曝との関連性についての詮索がなされます。国の危機に命を賭したことへの敬意どころか、常識的な悼みもありません。現場の劣悪な環境が報じられたとしても、作業員に向けられるのは、「過労の状態であってもミスは許さない」という厳しい視線のみだと思います。

 国の存亡という文脈で言えば、私は、大声で正義を叫ぶ者がいなくなっても国は滅びませんが、誰かが必ずやらなければならない仕事を黙々とする者がいなくなれば国は滅びると直感しています。原発事故の収束宣言を批判し、汚染水が止まらないことを批判する者は、現場で汗を流すわけではありません。これに対し、今後最低30年間にわたり放射線を浴びながら目の前の使命に向き合い、誇りを持って後始末を担う者がいなくなれば、実際に「未来の子ども達の命」は危うくなります。

 私の仕事に話を戻すと、原発被害賠償バブルなど生じるはずもなく、業務は尻すぼみになりました。私は、「3.11以降は国民は原発問題に無関心であることが許されない」「脱原発は他の問題とは別格である」といった全体主義的な空気を恐れる者です。そして、原発ゼロという言葉の持つ絶対性が、実際に命を削りながら原発ゼロ=無のための職務に携わる者の矜持を奪うという構造を前にして、改めて「目に見えない放射線」よりも「目に見えない人間の精神」について考えてしまう者です。

 以上、弁護士会の講義を真面目に聞かず漫画を読んでいた不埒者の戯言でした。


この1年 (5)

2014-01-02 22:43:56 | その他

 東日本大震災後の自粛ムードのとき、労働事件に取り組んでいる多くの弁護士が雇用問題を論じ、自粛の空気を批判していたことを思い出します。これは、弱い立場の者が「使い捨て」に遭っていたためです。ところが、その同じ弁護士が、福島第一原発の作業員の「使い捨て」の現状にはあまり興味を持っていません。政治的な主義主張とは、論者の正義を中心とした遠近法によって決まり、人は見たいものしか見ないのだと改めて知らされます。

 このルポルタージュの作者の竜田氏は、ハローワークで原発作業員の仕事を見つけ、被災地のためという義侠心もあって応募し、6次請け以下の最底辺の仕事に就いたとのことです。そして、現場では危険手当すら出ず、日給8000円の「使い捨て」の状況が横行していたとのことです。原発問題の議論に熱心で、かつ労働問題にも取り組んできた弁護士は、当然このような現状を知っています。しかし、やはりここの労働問題には力が入りません。

 このような矛盾の原因は明らかです。竜田氏が語らずに示している通り、「原発のない社会を次世代に残そう」という目標の達成のためには、現場での苛酷な作業に従事する者が必要不可欠だからです。国民世論が「一刻も早く原発をなくしたい」という方向に盛り上げられるほど、工程表にはピントが合いますが、原発作業員は国民の視界から消えます。そして、竜田氏はこの矛盾を暴くことなしに、黙々と与えられた仕事をしているだけです。

 もちろん、脱原発の活動の一環として、福島第一原発の作業員の劣悪な環境には同情の視線は向けられているものと思います。しかし、それは「諸悪の根源である原発が存在したことが問題なのだ」という原理の各論であり、犠牲者の立場にある者への上から目線に過ぎません。すなわち、誰もやりたがらない仕事を引き受けた者への敬意ではなく、逆に「あなた達の仕事は最初から最後まで無意味なのだ」という烙印を押しているものです。

(続きます。)


この1年 (4)

2014-01-01 22:04:03 | その他

 昨年10月、ある方のブログで紹介されていたことがきっかけで、『いちえふ』という漫画を読みました(竜田一人著・第34回MANGAOPEN大賞受賞作・モーニング第44号掲載)。福島第一原発の作業員として働いていた作者のルポルタージュです。政治的なメッセージは何もなく、脱原発に向けての賛成反対の主義主張もありません。冒頭部分には、「これは『フクシマの真実』を暴く作品ではない」と書かれています。

 私はこの作品を見て、感想を持つことができませんでした。作者のほうが、意見や現状への不満を何も述べず、読者に同情を求めず、福島第一原発の様子を淡々と案内しているだけだったからです。読者は賛成も反対もできません。「日本崩壊なんて言ってる連中にここの作業見せてやりてえもんだ」という台詞や、「メディアの報じる話なんて俺たちは正直うんざりだ」という作者の独り言の前にただ立ちすくむのみです。

 この作品の最後は、「いつか必ずこの職場を福島の大地から消し去るその日まで」という言葉で結ばれています。すなわち、自分の仕事の目的は破壊であり、創造性は皆無であることの覚悟です。私はこの記述から、現場で働く方々の内心の象徴として、生産性とは無縁の構造下で、自らの精神の破壊と向き合う覚悟を読み取りました。これは、精神力の強さを身につけたり、逆境を克服するといった生易しい話ではありません。

 私は昔から、「目に見えない放射線」を恐れるよりも、「目に見えない人間の精神」を畏れる者です。この作品に対し、単に立入禁止区域内の場所の貴重な記録であるという評価をするだけなら、血の通った人間の精神が平板になる過程に慄然とすることもないのだと思います。そして、理屈を語るだけで体を動かさない我々の世界の側から、別の世界を覗き込みつつ、未来への希望を抽象的に語るのみだと思います。

(続きます。)

この1年 (3)

2013-12-31 19:50:58 | その他

 一度きりの人生において、積み重ねてきたものや人生設計を一瞬で吹き飛ばすものが「被害」であり、この世のあらゆる被害は理不尽です。しかしながら、政治的な視点を持てば、その被害の重さには序列が生じるものと思います。現に、原発被害者支援の正義は風評被害救済の価値と衝突し、後者を犠牲にします。原発は絶対的に危険なものであり、この文脈での安全の要請には意味がないからです。

 また、原発被害者支援活動は「被害者の怒り」を原点としますが、「被害感情」は扱いません。この被害感情というものは、典型的な犯罪被害者が有するものとされ、その内実は生産性のない腹いせへの衝動であり、かつ宥め透かされて抑え込まれることが予定されています。この用語の選択は作為的ではないと思いますが、それだけに政治的な主義主張に基づく序列が表れていると感じます。

 弱者の救済を正義とするこの支援活動において、私が最も偽善性を感じたのが、福島原発の廃炉のために働く作業員への無関心でした。脱原発を主張する弁護士のほぼ100パーセントが、他方では労働者の味方であり、格差解消や反貧困を目指し、苛酷な労働を強いられている人々の救済に取り組んでいます。ところが、脱原発の主張の場面になると、作業員の姿は見事に視界から消えています。

 脱原発を実現するためには、「さよなら原発」と言えば原発が消えてくれるわけではなく、数十年にわたり無数の作業員に廃炉・解体の作業を遂行してもらい、その命を縮めてもらうことが必要となります。ところが、労働者の使い捨ての問題に取り組む弁護士の多くが、なぜか原発ゼロのために働く作業員の存在を忘れます。一刻も早い正義の実現を脳内で考える限り、話は必ず抽象化するからです。

(続きます。)

この1年 (2)

2013-12-31 18:28:00 | その他

 弱者の味方になるという絶対的正義は、いつの間にか「弱者を利用して正義を実現する」という転倒を起こします。抽象名詞の操作によって物理的な動きを生じさせたい人間にとって、この構造や欲望から逃れることは困難だと思います。これが、世の中に言うところの典型的な「正義の味方」です。そして、弁護士が行う従来の犯罪被害者支援には障害が多くなる理由も明らかだと思います。

 原発被害者支援の業務においては、「被害の甚大さと深刻さ」「お金を払っただけで終わらせない」「怒りや恨みは一生続く」といった言葉が多くの弁護士から語られ、全くその通りだと思わされました。同時に、当事者でない者がこれらの言葉を代弁する権利や資格の有無について、改めて考えさせられました。他者の身になる苦しみは、正義の側に立つことの気持ち良さに転化しがちだと思います。

 私がこの点に思い至ったのは、言うまでもなく、原発被害者支援に熱心な弁護士の多くは従来の犯罪被害者支援活動に意義を認めていないからです。原発被害においては、何よりも原発という絶対悪があり、脱原発という将来的な被害根絶の手段があり、東電という社会的権力および政府という公権力が存在します。そして、これらの絶対悪に立ち向かう者が正義でないことはあり得なくなります。

 原発被害と犯罪被害とを問わず、この世で「被害」と称されるものほど理不尽なことはありません。この不条理と絶望を純論理的に突き詰めれば、その先は精神の破壊に至るものと思います。ここでの最大の救いは、前向きな生き方の推奨でもなければ立ち直りへの支援でもなく、絶対悪の存在です。そして、これに対抗する怒りや憎しみ、恨みや悲しみは絶対善でなければ救いがありません。

(続きます。)

この1年 (1)

2013-12-30 23:28:38 | その他

 平成25年、私が新たに担当することになった最大の仕事は、原発被害者支援弁護団に関する事務作業でした。司法制度改革によって法曹人口が急激に増え、弁護士事務所はどこも経営に暗雲が垂れ込めているようです。そして、建前論を抜きにすれば、弁護士事務所は世の中のトラブルのお陰で飯が食えているのであり、しかも飯が食えない形のトラブルには意味がないということになります。

 ここ数年、弁護士事務所にとっての救世主は、消費者金融に対する「過払いバブル」でした。これは、グレーゾーン金利を前提に、多重債務者の救済という正義を実現しながら、消費者金融各社と相互依存の関係を維持しつつ、格差社会や貧困問題に対しては何の根本的解決もなし得ない業務でした。そして、弁護士事務所と司法書士事務所はこのチャンスに群がり、ほぼ食い尽くしました。

 私も組織人の1人として、綺麗事を離れて、次なるバブルを確かに待望していました。一時期、「更新料返還バブル」や「残業代請求バブル」がへの希望が語られた時期もありましたが、これらの期待はあっけなく萎んだように思います。社会的権力や強弱関係を背景として、弱い者の味方をするという大義名分は立つ状況でした。しかし、これらのバブルは弾ける以前に膨らみませんでした。

 あらゆる経済活動の場には利権が生じます。人が食べて行くためには働かなければなりませんし、代案のない主義主張はただの机上の空論であり、お花畑です。司法制度改革の不調が否定できないレベルにまで達し、過払いバブルに続く二匹目のどじょうが待望されていた空気の中で、確かに「原発被害賠償バブル」への期待も生じました。ここには、東電という絶対悪も存在していました。

(続きます。)

この1年 (2)

2012-12-31 00:36:20 | その他

 人が組織の中で仕事をするとき、そこで生み出される事務的な書類の作成者は、その人自身ではなく、「その人の立場」「その人の役割」であると感じます。社会人が立場の使い分けを会得し、役割を演じることに長ければ長けるほど、その人自身の心底からの言葉は頭の中に溜まり、表に出ないままに失われるのが通常だと思います。さらには、これを何とか消えないように文字にすることは、「書きたい」「書かなければならない」という衝動とは裏腹に、言葉にしにくく、結構な疲労を伴う作業である思います。

 ある弁護士が、本業とは別に、エッセイを書いている現場を見たことがあります。いわゆる「○○の事件簿」という類の断片集です。仕事の上で他人のために書いている書面は、あくまでもルールに則って他人の言葉を述べているものであり、その合間に生ずる自分自身の言葉は、仕事を長く続ければ続けるほど溜まっていくものと思います。そして、言葉にならずに漏れてしまったものや、多忙に紛れてこぼれ落ちたものを拾い上げたいという念願は、人間の本能から湧き上がってくるものだと感じます。

 私は、そのエッセイの原稿を見せてもらったとき、「生き様と文章が正反対だ」との感を持ちました。弁護士の仕事は、多くは俗世間の欲望の中に入り込むことであり、人間の醜い部分に揉まれることです。従って、繊細な神経を保っていては潰れてしまうため、俗物に徹しなければならないところがあります。ところが、そのエッセイの文面は純粋かつ高潔であり、弁護士としての高い志にも満ちており、とても当人が書いたとは思えないものでした。私は、この言行不一致の矛盾によって、その弁護士の精神のバランスが図られていることを知りました。

 私のこのブログには立派な目的があるわけではなく、私は「書きたい」という欲求に従い、言葉が消える前にできるだけ文字にしておきたいとの意志のみで、グダグダと書き留めてきました。法律の仕事を続ける中で、法律というものに対して生じる疑問を手放さないことにより、自分に対して嘘をつかず、言行一致を図りたいという部分もありました。しかしながら、私もこのような言葉を書くことによって、逆に言行不一致を正当化する陥穽に落ちており、如何ともし難い状況であることに気付いているところです。

この1年 (1)

2012-12-31 00:03:05 | その他

 弁護士会からのDMやFAX、弁護士会の運営するメーリングリストにおいて、昨年は「被害者」の文字が従来の10倍は見られました。これは、「原発被害者相談」「原発被害者支援弁護団」などの事務連絡が連日行われていたためです。私は、今年はこの傾向がもっと顕著になるだろうと予想していました。震災そのものの風化が懸念される一方で、3月11日は「原発事故の日」となり、地震や津波によらない単独事故であるような扱われ方が増えるだろうと思われたからです。

 私は、このような傾向に心を痛めていました。それは、「被害者支援」「救済」「保護」という態度に付きまとう欺瞞性によるものでした。あの日のあの瞬間を境に住み慣れた家を突然追われ、人生が一変したことの呪詛や身を切るような絶望に対して、それ以外の者になし得ることは、畏敬の念を持ちつつ、寄り添って話を聞くことのみです。他方で、福島の被災者に憐憫の情を寄せることや、お金の支援のみを目的とすることは、不可避的に「支援してやる」との上から目線と、「感謝してほしい」との対価の要求を伴うことになるものと思われたからです。

 さらに、私が弁護士会による活動の傾向に対して心を痛めていたのは、それ以前の問題でした。すなわち、「福島県民の苦しみを知っていますか」「ノーモア・フクシマ」という定型句によって、福島県の方々は画一化されており、脱原発・原発ゼロの政治的主張と不可分一体になっていた点です。そこでは、福島県の方々と一緒になって東電に怒ること、原発政策を推進してきた政府に怒ること、さらには原発差し止め訴訟を却下してきた裁判所に対して怒ることが絶対的正義となっており、それ以外の正義はありませんでした。

 今年1年を振り返ってみて、私の予想はかなり外れました。原発被害者相談のやり取りは減り、DMやFAXの「被害者」の文字も昨年より減りました。代わりに入ってきたのが、計画が思い通りに行かないことに対する弁護士の焦りの声でした。福島県に赴いたある弁護士は、現地の方々から、「復興を妨げないでほしい」、「福島をフクシマと書くな」、「風評被害を拡大させないでほしい」、「福島を免罪符にするな」、「本当は支援など考えていないのではないか」、「電力不足で虐げられるのは弱者だ」などの厳しい苦情を浴びて帰ってきました。

 先般の衆議院議員選挙で、福島県では軒並み原発再稼働派の候補が圧勝したことも、被害者支援活動の意気消沈に拍車をかけたように見えます。「福島県民の苦しみを知っていますか」と言うならば、まず大事なことは何十年後の未来よりも今日の生活であり、現状の収拾であり、現在の苦しみからの脱却であり、補償・賠償・安全な住居の確保・経済的再生であり、目の前の消費税や社会保障の問題でした。そして、これらの要請は、脱原発の活動をしている弁護士の関心とは食い違っていました。このことも、支援活動の鈍りを招いた原因であるように感じられます。

門田隆将講演会 『光市母子殺人事件 ~法の限界を乗り越える~』 その2

2012-11-04 20:48:16 | その他

(中央大学白門祭の企画講演会です。門田氏の講演の内容と私の感想が混じっています。)

 本村洋氏が裁判制度の壁の前に絶望を深めていたその頃、私は裁判所の側の人間としてそのニュースを聞き、様々な感情を有しておりました。「遺影は妻と娘そのものであり、その妻と娘の生命と死が裁かれている場所に持って入れないのは筋が通らない」との本村氏の論理に対し、裁判所は同じ土俵に立って議論をすることができません。山口地裁の廷吏と本村氏との間では、「裁判所規則ではそのような荷物の持ち込みはできません。」「いいえ、荷物ではありません。妻と娘です。」との押し問答がなされたと聞きました。私はその時の自分の立場から、本村氏の実存的苦悩よりも、廷吏の心労の側への同情が上回っていました。

 木を鼻で括ったような山口地裁の廷吏の対応を批判するマスコミの論調に対し、私は「現場の苦労が全然わかっていない」と憤慨していたことを覚えています。仮にその廷吏が自分の判断で本村氏を法廷に通したならば、恐らく元少年の弁護団側から裁判官への懲戒請求ないし訴訟指揮への異議申立てがなされ、その時点の最高裁の通達に反して勝手な行動を取った廷吏の処分も避けられなかったものと思います。すなわち、懲戒免職にはならないまでも、譴責による自主退職に追い込まれるのはやむを得ないだろうと思います。マスコミの論調も、国家公務員の不祥事の文脈に乗ってしまえば、掌を返したように、廷吏の軽率さへの非難に向かっただろうと想像します。

 仮に廷吏が1人の人間として本村氏の人生を賭けた言葉を正面から受け止めてしまえば、国家公務員としての職務の遂行に支障を生じるものと思います。すなわち、自身の良心と公的な立場の間で引き裂かれるような者に対しては、「仕事をして給料をもらうことの意味を理解していない」「学生気分が抜けていない」「世の中の厳しさがわかっていない」との批判が妥当します。ここで人間が採り得る態度は、思考停止して上からの命令に従うだけです。私も似たような立場に置かれたとき、本村氏のような言葉を述べる被害者やその家族を、あえてクレーマーとして一括りにしました。そして、減点法で人事評価をされる現場の疲弊に飲み込まれることを防ぎ、私自身の精神の破滅を防ぎました。

 門田氏が述べるところの法の限界を乗り越えること、すなわち裁判所が哲学を取り戻すべき点については、かつての現場での気苦労が染みついている私にとっては、瞬間的な反発を覚えるところがあります。しかしながら、その反発の内実は、自分でもよくわかっています。すなわち、法律の仕事に携わる者は「法律とは何か」を考えてはならず、物事を我が身に置き換えて根本から考えてはならず、私もそれを誤魔化して働いていたということです。その上で、国家公務員が「全体の奉仕者」「公僕」であるという単語だけを引き寄せて正義を語り、公務員らしい公務員を演じていたのがかつての私です。私自身は、このような経験から「法の限界」というものを捉えています。