犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

朝日新聞「オーサー・ビジット」 養老孟司氏@山形県立山形中央高校

2008-01-31 22:19:19 | その他
山形中央高校における講演 「何でも<同じ>なんておかしい」より

「君たちは『客観的な現実』や『誰もが認める事実』が存在すると言うけど、そんなものはありません。今この瞬間、君たちの目に映る私の姿は、それぞれ違う。でも日本人の99%はそういうことに気付いていない。……感覚の違いだけが強調されると、社会が成り立たないから、脳は物事を大ざっぱにまとめて<同じ>と考える。その結果、言葉がすくい取らなかった感覚的な違いを押しやり、物事を概念でとらえて<同じ>と思い込もうとする社会になっていく」


人通りの多い交差点で交通事故が起きた。目撃者が沢山いる。目撃証言を集めれば集めるほど、客観的な事実が明らかになるはずである。だから犯人の自白に頼らず、客観的な証言を沢山集めなければならない……。法律学はこのような常識に立脚しており、裁判実務もこの大前提に立脚して精緻なシステムを構築している。ところが、養老氏に足払いを掛けられれば、このシステムは見事に倒れる。法による合理的で客観的な事実認定など、人間が物事を概念でとらえて<同じ>と思い込んだことの結果にすぎないからである。もちろん、養老氏の言うように、日本人の99%はそのようなことに気付いておらず、専門家はさらに気付いていない。従って、裁判所は今日も客観的な事実認定に余念がない。

裁判員制度の導入がいよいよ近付き、始まる前から問題山積の状況のようである。法律の専門家による導入反対論は、大体は知識のない素人大衆に向けられた不信の念である。いわく、起訴状記載の公訴事実は検察官の主張に過ぎないのに、素人はそれを理解しない。素人は、検察官の主張する事実は提出した証拠をすべて事実だと信じ切ってしまう。素人は証拠能力や証明力の判断よりも、ワイドショー的な「真犯人は誰か」という方向に興味を持つ。素人は厳密な論理よりも情に流される。被疑者が警察に逮捕され、マスコミで報道されれば、素人はその人間を「犯人」だと決め付ける。これらの批判は、いずれも伝統的な人権論の変形である。

養老氏が『バカの壁』などを通じて一貫して揶揄しているのは、この専門家が素人を見下す視線である。「被疑者が警察に逮捕され、マスコミで報道されただけでは、まだその人間が本当に犯人であるのかわからない。客観的な事実などわからない」。伝統的な人権論は、文字にしてみれば養老氏の指摘と同じであるが、その指し示すところは正反対である。「客観的な事実などわからない」、そう言っているあなたは、結局のところ「『客観的な事実などわからない』という客観的な事実はわかっている」と言っているにすぎないのではないか。真犯人だけは真実を知っているとすれば、少なくとも真犯人にとっては「客観的な事実などわからない」という命題は偽であるから、「『客観的な事実などわからない』という命題は万人にとって真である」という条件が崩れてしまうのではないか。

養老氏の論を突き詰めていけば、法律の論理にはどうしてもこのような足払いがかかる。人間は誤判を犯す、だから誤判は許されない、これが法律の専門家による素人大衆への不信の念を正当化する論理である。しかし、人間は職業裁判官であろうが素人裁判員であろうが誤判を犯すものであり、許されようが許されまいが誤判を犯す。誤判を許してもらおうと思っても誤判はなくならず、誤判を許してもらおうと思わなくても誤判はなくならない、単にこれだけのことである。そもそも誤判とは、人間が物事を概念でとらえて<同じ>と思い込み、「合理的で客観的な事実認定」という概念を構築したことに伴う必然的な逆効果だからである。

マニュアル思考で存在論が語れるか

2008-01-30 21:53:27 | 時間・生死・人生
法律団体が作っている犯罪被害者支援マニュアルには、遺族の2次的被害を防ぐための「禁句」が色々と列挙されている。犯罪によって身内を亡くした人に向かって言ってはならない励ましの言葉として、次のようなものが挙げられている(カッコの中はその理由)。

・「頑張って」(すでに精一杯頑張っているから)
・「早く元気になって」(時間をかけることが必要だから)
・「お気持ちはよくわかります」(どれだけわかっているのか疑問だから)
・「もっと不幸な人もいる」(不幸は比較できないから)

善意に基づいて良かれと思って掛けた言葉が、思わぬ逆効果を生む。せっかく犯罪被害者を支援しようとしているのに、感謝されないばかりか激怒されるのでは、支援者のほうも報われない。一生懸命やっているのに、逆ギレしたくなってしまう。このような出口の見えない行き詰まりに右往左往しながら、その状況を打開するものとして、やむを得ずこのような「禁句」のマニュアルが作られることになる。確かにマニュアルは即効性と実用性があり、トラブルの予防には威力を発揮するものである。

ところがマニュアルというものが作られると、人間の行為は画一化し、無機質かつ非人間的になる。これもまた、この世の恐るべき真理である。支援者はマニュアルを暗記し、もしくは手元に隠しながら、同じような受け答えを繰り返す。こうなると、被害者側も、「これはマニュアルの何ページに書いてあることだ」とわかってしまう。そもそもマニュアルとは、パソコンなどの電子機器の操作や、サービス業における定型的な接客の指導に相応しいツールである。犯罪被害者をマニュアルによって客体化することには、やはり弊害も大きい。

「頑張って」。「お気持ちはよくわかります」。これらの言葉も、人間と人間の話の流れの中では良い効果を生むこともある。これが心の通じ合った人間の会話というものである。ここで、どのような時には「頑張って」と言うのが有効なのか、また細かく分析しようとし、完璧なマニュアルを作ろうとすると、ますます人間の対象化が進んでしまう。「被害者は直接的な被害だけではなく2次的被害を受けるのです。周囲の人々は細心の注意を払わなければなりません」。被害者自身がこのようなマニュアルを目にすれば、その説明口調と上から目線に本能的な違和感を持つはずである。一生懸命やってくれているのはわかるのだが、「何かが違う」という感じである。

マニュアルや取扱説明書といった文の読み方と、被害者遺族の手記の読み方とは、同じ日本語であっても全く異なる。正反対といってもよい。マニュアルは「言葉が出たところ」を読めば済むが、遺族の手記は「言葉が出ようとして出ないところ」を読まなければ意味がつかめない。ああすればこうなる、次にこうすればどうなるというように、マニュアルどおりに行かないのが、犯罪被害者遺族の存在論的な苦悩である。「弱者を救済してあげます」というスタンスは、1人称でしか語れない存在論的な苦悩とは正反対の位置にある。

諸富祥彦著 『人生に意味はあるか』

2008-01-29 22:00:44 | 読書感想文
人生に意味はあるか。諸富氏は最初にはっきりと答えを書いている(p.12)。すなわち、「どんな答えに行き着くか」は重要ではなく、「どれほど本気で答えを探し求めるか」が重要である。これが答えである。このような答え方に対しては、問いに正面から答えていないとの不満も予想されるが、この種の問いに正面から答えているような解答は意味がない。人生の根本問題は、あくまでも自分で真剣に考え抜いた末の答えでなければ正解ではあり得ず、他人から教えてもらった答えはすべて不正解である(p.36)。

自分の魂は、どうして“いま・ここ”の“この私”を選んでやってきたのか。他の星でも、他の国でも、他の物体でも、他の生き物でもよかったのに(p.35)。このような直感的な問いは、非常に魅力的で面白いものである。ところが、答えを出そうとすると、それは一気に苦しい悩みに転落する。ここで苦しみから逃れようとして他人に解答を求めてしまうと、逆に正解は遠のく。人生に意味はあるかといった種類の問いは、自分で初めて発見した答えでなければ納得できない(p.179)。他人の人生ではなく、自分の人生だからである。その後になって、すでに先哲が同じ答えを出していたことを知ったならば、ガッカリするのではなく喜ばなければならない。

すべての人間は必ず死ぬ。自分もいつかは死ななければならない。この恐怖と不安から生じるニヒリズムに対抗するため、人間は色々な手段を考え出した(p.94)。例えば瞬間的な快楽を追及する刹那主義、人間の絶対的尊厳を信じるヒューマニズム、すべてを意味づける絶対者を信じる宗教などである。これらはすべて、ニヒリズムの変形にすぎない。そうである以上、死の中でも最大の不条理である犯罪による死に関して、人権論がピントのずれた理論しか提供できないのも当然である。犯罪による死によって残された遺族が直面しているのは、「急性の実存的空虚」「絶望の実存的空虚」と言われるものである(p.43)。このような問題については、法律学よりも文学のほうが適任である(p.75)。トルストイやゲーテが一生を賭けて描写しようとしたのは、人間の孤独や絶望、空虚さといったものであった。

真理を得るためには、他者が思考を終えた後の遺物の蓄積は役に立たない。哲学史や思想史を年代別に覚えることは、真理を得る営みとは最も遠いことである。下手に知識があると、それに捕らわれて有害な結果を生じてしまう(p.228)。本来、真理を追い求める行程は、いずれはどうしようもない行き詰まりにぶつかるはずである(p.202)。その極限において、ようやく立脚点の転換が生じる条件が整う。諸富氏は随所に非常に上手い言い回しを用いているが、これも理解できなければ理解できないのが正解であって、理解しようとすれば正解は逃げてゆく。「いのちが、私している。はたらきが、私している。存在が、私している。たましいが、私している」(p.208)。

終身刑は死刑に匹敵するか

2008-01-27 15:45:02 | 時間・生死・人生
我が国では、8割前後の国民が死刑制度に賛成している。このような状況下においては、世界の潮流は死刑廃止の方向に進んでいると言われても、多くの日本人には何だかピンと来ない。世界の半分以上の国では死刑が廃止されている、国連の死刑廃止条約にも多数の国が批准している、西側先進国で死刑制度を存置しているのは日本とアメリカの一部の州だけだと言われたところで、生きた情報として実感できない。どうして世界の人々は、凶悪な殺人犯に対して死刑を求めずにいられるのか。なぜそんなに犯人に寛容でいられるのか。この直感的な違和感に片を付けなければ、大上段から「日本は世界の潮流と逆行している」と言われたところで、多くの日本人は困ってしまう。政治的なイデオロギーは、人間の倫理観の方向性までは強制できないからである。

死刑廃止論と必ずセットで論じられるのが、代替刑としての絶対的終身刑(仮釈放のない終身刑)の問題である。一方では、終身刑は生命が奪われない限りにおいて死刑とは原理的に隔絶しており、終身刑は死刑には及ばないとの意見がある。他方で、一生狭い部屋に閉じ込められて世間から隔離されることは、すぐに殺されるよりも絶望的な状態を強いるものであり、終身刑はむしろ死刑よりも残酷であるといった意見もある。どちらが重いのか、どちらが軽いのか、このような比較の問題に持ち込んでしまっては、いつまでも平行線が終わらない。終身刑は死刑に匹敵するか、この解答は、ある一点の真理において自ずから示される。すなわち、すべての人間は必ず死ぬ。死刑でなくても人は死ぬ。

安楽死や尊厳死、終末期医療は倫理的な問題を喚起する。快復の見込みがなく死期の迫った患者に人工呼吸器や心肺蘇生装置を着けて生命を維持するだけの延命治療には批判も多いが、いずれ死ぬべき運命にある人間は、功利主義によって解答を出すことができない。なぜなら、「人間は1分1秒でも長く生きることに意味がある」という命題を否定してしまえば、自らの生命の根拠も危うくなるからである。現に人間は、自殺という死の方法も所有している。人間が生命という形式をもってこの世に存在する限り、その生命は必然的に時間性を有する。それゆえに、死は時間性の喪失をもたらす。時間性の喪失とは、永遠かつ無である。ここでは永遠と無が同義となる。終身刑が死刑に匹敵するものとして人間が倫理的に納得できることがあるとすれば、突き詰めればこの一点を深く納得することの中にしかない。死刑の問題は、死の中から死刑という特殊な一形態のみを取り出して論じられるものではない。

凶悪殺人犯が終身刑によって死刑を免れて長生きしたところで、いずれ寿命で死んでしまえば、その犯人は永久に時間性を喪失する。何十億年の宇宙の側から見てみれば、50歳で死刑になろうと、終身刑で100歳まで生きようと、微々たる誤差のようなものである。それにもかかわらず、ここでもう一度ひっくり返して、人間は倫理的に問わねばならない。死刑でなくても人は死ぬ、しかしそれゆえに死刑によってのみ死なせなければならない死があるのではないか。これは世界の潮流がどうであろうと、生きて死ぬ人間が自問自答すべき問いである。このように倫理的に問うてみると、法律的な問題の立て方は不正確であることがわかる。「死刑が執行された後に冤罪が判明した場合に取り返しがつかない」と言ったところで、死刑でなくても人は死ぬのだから、いずれにしても取り返しがつかない。「終身刑の受刑者に国民の税金で飯を食わせるのは問題である」といった主張は、問いの所在を政治的に汚染するだけであり、単に有害である。

郷原信郎著 『「法令遵守」が日本を滅ぼす』

2008-01-26 15:46:56 | 読書感想文
1月25日に就任したNHKの福地茂雄新会長は、記者会見において、「コンプライアンス(法令遵守)の徹底をNHKの企業風土にする」との決意を語った。これは、NHKの職員3人による株のインサイダー取引が発覚したことに伴うものである。福地新会長は、NHKの現状を「崖っぷち」と表現し、視聴者からの信頼回復を最大の課題に掲げた。そして、職員のインサイダー取引については、経営委員会が求めた第三者による調査委員会を早急に設置し、徹底調査する意向を示した。

何かにつけてコンプライアンス(法令遵守)という単語を耳にする機会が増えたが、実際のところはどうなっているのか。福地新会長の言うことを信頼してよいのか。こういう時は、数年前に語られた言葉を見てみるに限る。


●2004年(平成16年)7月 海老沢勝二会長の会見
海老沢会長は、職員の不正な経理処理が発覚したことにつき、「放送に携わる者に常に高い倫理観が求められている中で、公共放送NHKに対する皆さまからの信頼を損ねることになってしまい、残念でなりません。深くおわび申し上げます」と述べて、改めておわびの意を表した。
海老沢会長は、今回のような不祥事が二度と起きないようにするための防止策について触れ、「業務改革を進めてきた中で不祥事が起き、痛恨の極みである。私どもはこれを深く受け止めて、問題がどこにあるか更に究明しながら、二度とこのようなことが起こらないよう、業務改革に取り組まなければならない。NHKに対する視聴者、国民の皆さまの信頼の回復に全力を挙げて取り組みたい」と述べて、万全の再発防止策を取る決意を表明した。
http://www3.nhk.or.jp/pr/keiei/toptalk/kaichou/k0407-2.html

●2006年(平成18年)6月 橋本元一会長の会見
「コンプライアンスについては、NHK内部の取り組みだけでなく、外部の専門家を入れて抜本的に取り組むよう、経営委員会からも指摘を受けている。どうすれば実効あるものになるのか、また屋上屋を重ねることにならないよう、現在、検討しているところだ。できるだけ早く具体化したい」
http://www.nhk.or.jp/pr/keiei/toptalk/kaichou/k0606.html#04


このように振り返ってみると、おそらく今後もダメである。そもそも株取引というものは、いち早く情報を得て、上がりそうな株は買い、下がりそうな株は売るマネーゲームである。「報道に携わる者が情報を悪用した」などと述べて人間の倫理観の問題に解消しようとしたところで、無理なものは無理である。金儲けが嫌いな人は株取引などできないし、しようとも思わない。今や株取引に長けた人間は、一瞬にして一生分の給料に匹敵する額を手に入れることもできる。株で1億円を儲ければ、当分の間は遊んで暮らせる。満員電車に乗る必要もない。上司にペコペコする必要もない。お客様からのクレームに対応する必要もない。このようなシステムを維持しつつ、コンプライアンス(法令遵守)を要求するなど、最初からまず無理な話である。

逆説の真実

2008-01-23 23:19:57 | 時間・生死・人生
平成14年10月に山口県周南市で起きた三菱自動車製トラックの欠陥による死亡事故につき、1月16日、横浜地方裁判所で同社の元幹部らに対して有罪判決が言い渡された。禁錮3年・執行猶予5年の判決を受けた元社長の河添克彦被告は、「企業経営者に実現不可能な義務を課す判決で、承服できない」との談話を出し、即日控訴した。弁護団も、「メーカーの場合、人身事故が起きたら企業トップは必ず刑事責任を取らなくてはいけないという極めて安直な判決だ。最近の過失理論とは懸け離れている」などと述べて控訴審で争う姿勢を示した。

この大企業の元社長の談話は、予測可能性を至上命題とする近代社会のシステムが、哲学的真実と厳しく抵触することを如実に示している。経済的な利益を上げることを大前提とする以上、企業の社会的責任、法令遵守、コンプライアンスなどと叫んだところで、どうにも出口が見えないのも当然のことである。弁護団が述べる「最近の過失理論」とは、結果回避義務違反を中心として捉える新過失論を指しているものと思われるが、これも哲学的真実に反することを売り物にしている理論である。

このような事故において、被害者遺族が企業のトップに必然的に求めざるを得ない謝罪とはどのようなものか。これは、「確かにこの事故は企業経営者にとって予測不可能なものでした。しかし、何を言っても亡くなった方の命には代えられません。私達はどんな責任でも負います」というもの以外ではあり得ない。このような謝罪は、予測可能性を何よりも重視し、結果責任を排除する近代社会の理論から見れば非合理的である。予想もできない結果責任を負わされる危険があれば、企業は安心して経済活動などできない。それ故に、その責任をすべて負う覚悟を示すことだけが、逆説的に唯一の謝罪の言葉となる。もし遺族の赦しというものがあるとすれば、その先にしかあり得ない。この世の論理は、どういうわけかこのような形をしている。

「この事故は企業経営者にとって予測不可能なものである。従って、私達に責任はない」。このような主張は、近代社会にとってはこの上なく合理的である。しかしながら、合理的であるが故に、この主張は被害者遺族の怒りと悲しみを増幅させる。これが端的な事実である。この世の論理は、どういうわけかこのような逆説的な形をしている。予測不可能であるからこそ、「予測不可能であった」と言われると怒りが増す。人間の倫理は、本来であれば予測不可能であっても結果責任負いたくなるはずである。これが生命の尊厳に対する畏怖である。このギリギリの苦しみに押し潰されそうになる人間の姿を示すことのみによって、逆説的真実は自然と現れてくる。

交通事故の被害者が刑事裁判だけでは気が収まらず、加害者を民事裁判に訴えるのは、このような逆説の真実に伴うものが多い。被害者としてはお金よりも、とにかく謝罪の言葉がほしい。誠意を見せてほしい。加害者には、「許してもらおうなどとは思っていません。自分の人生は二の次にして、一生かけて償いをします」と言ってほしい。被害者としては、加害者がこのような人間的な姿勢を見せてくれたならば、わざわざ裁判に訴える必要もない。ところが加害者は、被害者から大金を請求されることを恐れ、裁判に訴えられることを恐れ、言質を取られることを恐れる。それによって被害者の怒りと悲しみが増幅し、逆に裁判に訴えられてしまう。こうなると両者の決裂は修復不能である。近代法の予測可能性の理論が見事に逆説的に作用している例である。

「私はすべての言い訳を捨てて、被害者のためにどんな罰でも受けます」、このような謝罪は、近代社会にとっては悪ですらある。法と道徳の峻別という法治国家の大前提に反し、冤罪を防止するための罪刑法定主義にも反するからである。しかしながら、被害者が加害者に求めている謝罪は、この近代社会にとって悪とされるところのものである。まずは、近代社会の法律的真実は時代を超えた哲学的真実に反することを認識しておいたほうがいい。真実とは逆説である。加害者には罪を軽くするために徹底的に防御する権利を与えつつ、被害者には小手先の補償を与えることによって幕引きを図ろうとするのは無理な話である。

中嶋博行著 『この国が忘れていた正義』 第10章

2008-01-22 23:29:45 | 読書感想文
第10章 百年前の正義

歴史上、犯罪被害者の長い苦難の道のりは、近代人権主義の確立とともに始まった(p.100)。この指摘は的確である。そして、的確であるが故に、この指摘は隠蔽されることが多い。近代人権主義からは、犯罪被害者は「保護」すべきであるが「権利」は認められないとの結論に至ることは必然である。犯罪被害者の権利を認めてしまっては、近代人権主義のパラダイムが根底から崩れるからである。近代人権主義からすれば、犯罪被害者に権利を与えることは地動説を天動説に戻すようなものであって、何が何でも絶対に認められない話である。

『この国が忘れていた正義』という本の題名は、「犯罪被害者の権利を認めることが正義であり、犯罪者の権利ばかりを認めているのは正義に反する」という意味ではない。一旦正義を正義として掲げると、それ以外の正義が見えなくなり、それどころか自らの原理原則にそぐわないものには不正義とのレッテル貼りをする危険性を指摘したものである。犯罪被害者の哲学的な苦悩は、政治的な善悪二元論で解決するものではない。誰しも声を大にして主張するのは正義である。それゆえに、冤罪の防止や代用監獄の廃止を絶対的な正義とするパラダイムにおいては、犯罪被害者の存在は邪魔である。戦後長らく犯罪被害者の存在が見落とされていたと言われるが、近代人権主義のパラダイムを維持すべき要請からすれば、被害者の存在は過度に恐れられ、それゆえに意図的に切り捨てられていたと言うほうが正確である。

昨年2月の法制審議会において、民刑併合の附帯私訴が導入される見通しとなった。もちろん、民事と刑事を厳格に分離する近代法の大原則に反するという反対論も強いが、そもそも近代法の大原則を疑ってかかろうというのが附帯私訴なのだから、このような同語反復の反対論には意味がない。近代法の大原則を維持しつつ犯罪被害者に保護を与えてごまかそうとしても、犯罪被害者にその大原則を疑われてしまえば、もはや小手先の妥協案では済まない道理である。どんなに法律を整備したところで、肝心の日本国憲法には犯罪者の権利ばかりで被害者の権利が書いてないとなれば、被害者切り捨ての構造は変わっていないと言われても仕方がない。善悪二元論に基づく正義は、あくまでも犯罪者の側に絶対的に握られたままだからである。

近代人権主義は、過去の歴史の苦い経験を経て、その教訓の上に打ち立てられた正義である。それでは、その正義の影響によって被害者が無視されていることは、現在の苦い歴史の経験ではないのか。歴史とは、どの過去も現在であり、どの未来も現在であることを認めることである。この現在の現在に絶対的な基準を置くことができないならば、過去の過ちを反省しないのが、過ちに対する正しい態度である。過去の人類は過ちを犯した、我々はその苦い経験から教訓を得たと豪語したところで、過去の側は痛くも痒くもない。近代人権主義が跡形も無く消え去ったとしても、正義が正義であることはびくともしない。自分たちこそが正義の担い手であると叫んだところで、正義にとってはうるさいだけである。

存在論の問い

2008-01-19 17:45:57 | 時間・生死・人生
「この前までいた娘がどうして今はいないのか」。裁判所が嫌うこの種の問いは、哲学的に見ればハイデガーの存在論の中核の問いである。近代裁判のパラダイムからすれば非合理的と位置づけられるこの種の問いは、合理と非合理を包み込んだ存在論の原点に立つ。もちろん数学のような答えは出ない。それがゆえに、法律的なパラダイムからは、問いの所在がつかめない。

アリストテレスは述べた、「哲学は驚きから始まる」。ライプニッツは述べた、「世界はなぜ存在するのであって、無ではないのか」。アリストテレスによって「存在とは何か」と定式化された形而上学の問いは、ライプニッツによって先鋭化され、さらにハイデガーによって突き詰められる。存在とは、世界の究極の根拠であると同時に、それは己の本質をあらわにすることができず、根拠として呈示することができない。それは常に述語であって、主語たりえない。この驚きが存在論である。「あるはあり、ないはない」。

世界はいくらでも別様であり得たのに、なぜこのようであるのか。「この前までいた娘がいなくなった」という世界の状態は、あくまでも1つの可能な世界の状態である。しかし、世界は別様でありうるが故に、別様ではありえない。この世界の差異が驚きをもたらし、偏差が絶望をもたらす。「なぜ娘はいなくなったのか」という哲学的な問いは、日常生活を破壊する。ゆえに実用性を重視する実証科学は、客観的な真実としてそれなりの答えを用意し、究極的に問いを遡ることを許さない。その上で裁判所は、「なぜ娘は殺されなければならなかったのか」という問いを嫌う。そして、金銭的な補償をすれば遺族の怒りは収まるはずだとの結論に走る。

存在は、時間と空間の下で姿を現す。存在はこの形式から逃れられない。すべての思考は時間の内にあり、空間の内にある。さらには、世界に何かが存在するという事態が可能となるためには、そこに「私」が居合わせなければならない。「私」を通してのみ、世界の時間と空間は開かれるからである。世界の中に何かがそれ自体で存在しうると考えるのは錯覚に過ぎない。その意味で、哲学的な存在論は、法律的な存在論とは覚悟が違う。「私が存在する」「私の娘が存在しない」といった言明と、「未必の故意が存在する」「違法性阻却事由が存在しない」といった議論とでは、一見して存在論のレベルが違う。

形而上の問いは実用性がなく、現代社会では正面から問われることは少ない。しかし、人間がその問いから逃れられるわけではない。しかも現代社会では、実用的であるはずの形而下的な問いの多くも行き詰まっている。ここでは、形而上の問いにどれだけ強靭に取り組んだかがその後の結果を左右する。「生活保護法制の見直しにおいて老齢加算の段階的廃止は認められるべきか」という問いは、究極的には「なぜ人は生きるのか」という問いに収束する。「巧妙な偽装請負をいかにして立証するか」という問いは、究極的には「なぜ人は働かなければならないのか」という問いに収束する。裁判も同じである。どんなに細かい法律用語による議論も、最後は「なぜ娘は殺されなければならなかったのか」という問いに収束するはずである。

黒柳徹子・鎌田實著 『トットちゃんとカマタ先生の ずっとやくそく』

2008-01-18 17:51:00 | 読書感想文
「アインシュタイン、エジソン、黒柳徹子」という言い回しがあるらしい。共通点は、子どもの頃、周囲からLD(学習障害)と呼ばれていたことである。黒柳さんは昔から分数が全くできず、今でも二桁の計算ができないが、興味を持ったことは天才的な能力を発揮する。それが長寿番組『徹子の部屋』や、ユニセフの親善大使の活動につながっている。

大ベストセラーになった『窓ぎわのトットちゃん』の象徴的な場面として、次のような一節がある。通常の小学校に適応できずに退学になった黒柳さんは、トモエ学園の入試を受けに行った。校長の小林先生は、「さあ、何でも話してごらん」と言い、黒柳さんは話すことがなくなるまで4時間も話し続けた。その間小林先生は、一度も書類を見たり電話に出たりせず、ずっと身を乗り出して聞いてくれた。黒柳さんは「この大人は信頼できる」と思い、結果的にそれが人生の大きな転機になった。

鎌田實さんは、イラクなどへの医療支援を行っている医師であるが、黒柳さんのこの話を受けて、次のように述べている。「話したいことは何でも話して、聞きたいことを聞いてください」という医師が増えてほしい。患者という人間ではなく、病気にだけ興味がある医師は、患者の話を聞くことができない。そして、患者にはそのことが非常によくわかる。

黒柳さんも鎌田さんも、「難しいことはよくわからない」と公言しつつ、次のような結論で一致している。最近の日本では、すべてがお金に換算されるようになってきた。しかし、いつの時代にもお金では買えないものが必ずある。日本では、子どもたちが生き生きとしている姿を見ることは少なくなった。これに対して、日本よりずっと貧しく、大変な環境で生きている国の子どもたちのほうが目を輝かせている。日本のGDPは高いが、「幸せと感じる比率」は低い。この国の歯車はどこかで狂ってきた。自分たちの国づくりは間違っていたのではないかと考えさせられる・・・

言い古されたことではある。しかし、言い古されているということは、忘れられていないということであり、実際には少しも古くなっていないということである。日本という豊かな国で、今年も考えられない事件が次から次へと起こり、日本人からはそれらを考える余裕すら失われている。専門的な知識が説得力を失う中で、最後に説得力を失わないのは、人間として善悪の判断を自分自身で見極める者の語る言葉である。法律をどんどん細かくしても一向に世の中が良くならないのであれば、ベクトルが違っていることに気付いたほうがいい。

日弁連・法廷弁護指導者養成プログラム

2008-01-15 17:40:57 | 時間・生死・人生
裁判員制度の導入が近づき、法律家が話し方や説明能力を磨く訓練を始めている。裁判所ではアナウンサーを招いて「人をひきつける話し方」の研修をしたり、日弁連ではアメリカの弁護士を招いて法廷弁護戦術をレクチャーしたり、裁判員制度の開始に向けて余念がない。ここで何よりも重視されているのは、プレゼンテーションの力を磨くことである。素人中心の裁判員に対しては、検察官や弁護士がいかに上手く説明できるかが勝負の分かれ目になると考えられているからである。

日弁連の研修では、「動かないで左右均衡に立ち両手は胸の下で合わせる」「手を握り締めない」「メモを読まずに証人の目を見る」といった技術がレクチャーされているそうである。一見して小手先の技術論である。そもそもプレゼンテーションとは、企業の販売促進のための宣伝・広報活動であり、「我が社の製品を購入して頂ければこれだけのコストダウンが実現できます」といった企画・提案のツールである。言ってしまえば、金儲けのためのツールである。「罪と罰」という人間の実存的な苦悩を扱うにしては、どうにも浅さと軽さがぬぐえない。

模擬裁判でよく取り上げられるのが、殺人罪において殺意の有無が争われる事件である。裁判所の研修では次のような光景があったそうだ。検察官は、「包丁で2回刺したのだから明確な殺意に基づく犯行だ」と訴えた。これに対して弁護士は、「1回刺されたのに、男は女のほうに向かっていった。『ターミネーター』みたいなやつ、誰だって怖いでしょ」と反論した。白を黒と言いくるめる検察官、黒を白と言いくるめる弁護士、ソクラテスの時代のソフィストを思い起こさせる。真実よりも勝負を優先する、ここには人が人を裁くという実存的な緊張感がない。

仕事が専門化するということは、情報の入出力が限定化されるということであり、それ以外の入出力を拒否するということである。裁判に携わる者にとっての大前提は、故意犯である殺人罪(刑法199条)と、結果的加重犯である傷害致死罪(刑法205条)との構成要件的な区別である。そして、証拠裁判主義(刑事訴訟法317条)の下では、殺意を裏付ける証拠がなければ、犯人を殺人罪で処罰することはできない。しかし、裁判員は素人であるが故に、その程度の説明で納得するはずもない。検察官は白を黒と言いくるめた、弁護士は黒を白と言いくるめた、それでは「本当のところ」はどっちなのだ。どうしてもこのように問いたくなる。人が人を裁く以上、この問いの発生は必然的である。

殺意の有無についてプレゼンテーション能力を高めることに躍起になり、真実よりも勝負が優先されれば、小手先の技術ばかりが重視されるようになることも当然である。人間の生命をプレゼンテーション能力で左右できるという思い上がりは恥ずかしい。人が人を裁くという制度を始めるならば、本来であれば相当の覚悟が必要なはずである。生きている人間が他者を殺した人間に罰を与える、ここでは殺された人間の一生分の時間に対して正面から向かい合うしかない。死によって、人間の一生は輪郭を持ったものとして完結するからである。生死という人間の大神秘を目の前にして絶句する、人間はこれを正当にも「畏怖」と呼ぶ。人が人を殺す、それをまた別の人が裁く、この言語道断の状況に直面して、人間は一体どこまで鈍感になれるものか。

このような哲学的な疑問は、もちろん法律実務家からは切って捨てられる。いわく、「裁判とは そのような哲学的なものではない。被告人に構成要件に該当する行為が存在するか否か、有罪・無罪の別と量刑を判断するだけの制度である」。全くその通りである。近代刑事裁判とはそれだけの制度である。