自己と他者の弁証法に、生と死の弁証法を加えてみると、死刑廃止論と死刑存置論の食い違いのポイントが見えてくる。これによって、同じキーワードである「償い」と「赦し」のニュアンスの違いも見えてくる。死刑廃止論においては、死刑は殺人に対する償いとはならず、犯人の死後も遺族は犯人を赦す気になれず、癒されることがない(はずである)。これに対し、死刑存置論においては、死刑は殺人に対する償いとなり、犯人の死によって遺族は初めて犯人を赦す気にもなり、心が癒される(はずである)。ここでは、真の償いとは何か、真の赦しとは何かといった議論は、どこまでも平行線である。
生死の問題は、他の問題とは並列できない。刑法は、殺人罪、窃盗罪、詐欺罪を条文の形で並列しているが、殺人罪だけは自己言及のカテゴリーエラーが生じている。すなわち、生きている人間は引ったくりや振り込め詐欺を犯すことができ、引ったくりや振り込め詐欺の被害に遭うこともある。これに対して、生まれていない人間や死んでしまった人間は、引ったくりや振り込め詐欺を犯すことができず、引ったくりや振り込め詐欺の被害に遭うこともない。そして何よりも、生きている人間は他人を殺すことができるが、生きていない人間は殺人罪を犯すことができない。この構造は、構成要件として条文をズラッと並べられると、見抜くのが難しくなる。そして、罪の「償い」や「赦し」の概念の混乱をもたらすことになる。
被害者の刑事裁判への参加や意見陳述が問題になっているのは、主に殺人罪や危険運転致死罪などの重大犯罪であり、被害者本人ではなく遺族による請求である。これは、人間の生命は財産と違って、失われれば取り返しがつかないという端的な事実に基づく。盗難や振り込め詐欺は、どんなに多額の被害であっても、その償いは民事訴訟における填補賠償で済む。従って、多くの場合には、刑事裁判で意見陳述をするモチベーションも存在しない。これに対して、人間の生死がかかわる事件においては、刑事裁判の過程において「償い」の概念の実現が求められるしかない。民事裁判における逸失利益、ライプニッツ係数の訴訟物だけでは、どうしてもお金が払えるか払えないかというテーマから離れることができず、本質的な問題の周囲をグルグルと回っているだけだからである。被害者遺族は、刑事裁判は復讐の場ではないことを重々承知の上で、人間社会における正義の概念としての「償い」を求めるしない。これが意見陳述の内実である。被告人から逆恨みをされて危険だとか、そのようなレベルの話をしているのではない。
自己と他者の弁証法に、生と死の弁証法を加えてみれば、殺人行為に対する償いは自らの死であるという結論も自然に導かれる。命が重いのではなく、生死が重いからである。この償いは、遺族に対する償いではなく、本来は死者自身に対する償いである。ところが、人間の生命は失われれば取り返しがつかないだけに、殺人犯が一次的に償いをすべき被害者が存在しない。一次的に赦しを与えるべき被害者も存在しない。そこで、二次的な窮余の策として、遺族に対する償いや、遺族の赦しを問題にすることになる。殺された本人が死刑を望むか否かは永久にわからず、そもそもそのような概念が論理的に成立せず、そのことが事態の取り返しのつかなさを示している。このような人間の生死に対する緊張感を欠けば、「償い」と「赦し」の概念は、やはり無用な混乱を引き起こす。死者自身への償いは死であるが、生きている遺族への償いは死ではないからである。
50万円を盗まれた人が20万円を快く免除し、30万円の賠償で納得することは、道徳的に賞賛されないばかりか、単にお人好しとして嘲笑される。これに対し、遺族が殺人犯を赦して死刑を求めないことは、道徳的に賞賛される節がある。金を返さないのは絶対に許さないのに人命を奪うことは赦すのか、このような違和感は大切である。
生死の問題は、他の問題とは並列できない。刑法は、殺人罪、窃盗罪、詐欺罪を条文の形で並列しているが、殺人罪だけは自己言及のカテゴリーエラーが生じている。すなわち、生きている人間は引ったくりや振り込め詐欺を犯すことができ、引ったくりや振り込め詐欺の被害に遭うこともある。これに対して、生まれていない人間や死んでしまった人間は、引ったくりや振り込め詐欺を犯すことができず、引ったくりや振り込め詐欺の被害に遭うこともない。そして何よりも、生きている人間は他人を殺すことができるが、生きていない人間は殺人罪を犯すことができない。この構造は、構成要件として条文をズラッと並べられると、見抜くのが難しくなる。そして、罪の「償い」や「赦し」の概念の混乱をもたらすことになる。
被害者の刑事裁判への参加や意見陳述が問題になっているのは、主に殺人罪や危険運転致死罪などの重大犯罪であり、被害者本人ではなく遺族による請求である。これは、人間の生命は財産と違って、失われれば取り返しがつかないという端的な事実に基づく。盗難や振り込め詐欺は、どんなに多額の被害であっても、その償いは民事訴訟における填補賠償で済む。従って、多くの場合には、刑事裁判で意見陳述をするモチベーションも存在しない。これに対して、人間の生死がかかわる事件においては、刑事裁判の過程において「償い」の概念の実現が求められるしかない。民事裁判における逸失利益、ライプニッツ係数の訴訟物だけでは、どうしてもお金が払えるか払えないかというテーマから離れることができず、本質的な問題の周囲をグルグルと回っているだけだからである。被害者遺族は、刑事裁判は復讐の場ではないことを重々承知の上で、人間社会における正義の概念としての「償い」を求めるしない。これが意見陳述の内実である。被告人から逆恨みをされて危険だとか、そのようなレベルの話をしているのではない。
自己と他者の弁証法に、生と死の弁証法を加えてみれば、殺人行為に対する償いは自らの死であるという結論も自然に導かれる。命が重いのではなく、生死が重いからである。この償いは、遺族に対する償いではなく、本来は死者自身に対する償いである。ところが、人間の生命は失われれば取り返しがつかないだけに、殺人犯が一次的に償いをすべき被害者が存在しない。一次的に赦しを与えるべき被害者も存在しない。そこで、二次的な窮余の策として、遺族に対する償いや、遺族の赦しを問題にすることになる。殺された本人が死刑を望むか否かは永久にわからず、そもそもそのような概念が論理的に成立せず、そのことが事態の取り返しのつかなさを示している。このような人間の生死に対する緊張感を欠けば、「償い」と「赦し」の概念は、やはり無用な混乱を引き起こす。死者自身への償いは死であるが、生きている遺族への償いは死ではないからである。
50万円を盗まれた人が20万円を快く免除し、30万円の賠償で納得することは、道徳的に賞賛されないばかりか、単にお人好しとして嘲笑される。これに対し、遺族が殺人犯を赦して死刑を求めないことは、道徳的に賞賛される節がある。金を返さないのは絶対に許さないのに人命を奪うことは赦すのか、このような違和感は大切である。