犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 21・ 死刑における生と死の弁証法

2008-04-12 17:43:04 | 国家・政治・刑罰
自己と他者の弁証法に、生と死の弁証法を加えてみると、死刑廃止論と死刑存置論の食い違いのポイントが見えてくる。これによって、同じキーワードである「償い」と「赦し」のニュアンスの違いも見えてくる。死刑廃止論においては、死刑は殺人に対する償いとはならず、犯人の死後も遺族は犯人を赦す気になれず、癒されることがない(はずである)。これに対し、死刑存置論においては、死刑は殺人に対する償いとなり、犯人の死によって遺族は初めて犯人を赦す気にもなり、心が癒される(はずである)。ここでは、真の償いとは何か、真の赦しとは何かといった議論は、どこまでも平行線である。

生死の問題は、他の問題とは並列できない。刑法は、殺人罪、窃盗罪、詐欺罪を条文の形で並列しているが、殺人罪だけは自己言及のカテゴリーエラーが生じている。すなわち、生きている人間は引ったくりや振り込め詐欺を犯すことができ、引ったくりや振り込め詐欺の被害に遭うこともある。これに対して、生まれていない人間や死んでしまった人間は、引ったくりや振り込め詐欺を犯すことができず、引ったくりや振り込め詐欺の被害に遭うこともない。そして何よりも、生きている人間は他人を殺すことができるが、生きていない人間は殺人罪を犯すことができない。この構造は、構成要件として条文をズラッと並べられると、見抜くのが難しくなる。そして、罪の「償い」や「赦し」の概念の混乱をもたらすことになる。

被害者の刑事裁判への参加や意見陳述が問題になっているのは、主に殺人罪や危険運転致死罪などの重大犯罪であり、被害者本人ではなく遺族による請求である。これは、人間の生命は財産と違って、失われれば取り返しがつかないという端的な事実に基づく。盗難や振り込め詐欺は、どんなに多額の被害であっても、その償いは民事訴訟における填補賠償で済む。従って、多くの場合には、刑事裁判で意見陳述をするモチベーションも存在しない。これに対して、人間の生死がかかわる事件においては、刑事裁判の過程において「償い」の概念の実現が求められるしかない。民事裁判における逸失利益、ライプニッツ係数の訴訟物だけでは、どうしてもお金が払えるか払えないかというテーマから離れることができず、本質的な問題の周囲をグルグルと回っているだけだからである。被害者遺族は、刑事裁判は復讐の場ではないことを重々承知の上で、人間社会における正義の概念としての「償い」を求めるしない。これが意見陳述の内実である。被告人から逆恨みをされて危険だとか、そのようなレベルの話をしているのではない。

自己と他者の弁証法に、生と死の弁証法を加えてみれば、殺人行為に対する償いは自らの死であるという結論も自然に導かれる。命が重いのではなく、生死が重いからである。この償いは、遺族に対する償いではなく、本来は死者自身に対する償いである。ところが、人間の生命は失われれば取り返しがつかないだけに、殺人犯が一次的に償いをすべき被害者が存在しない。一次的に赦しを与えるべき被害者も存在しない。そこで、二次的な窮余の策として、遺族に対する償いや、遺族の赦しを問題にすることになる。殺された本人が死刑を望むか否かは永久にわからず、そもそもそのような概念が論理的に成立せず、そのことが事態の取り返しのつかなさを示している。このような人間の生死に対する緊張感を欠けば、「償い」と「赦し」の概念は、やはり無用な混乱を引き起こす。死者自身への償いは死であるが、生きている遺族への償いは死ではないからである。

50万円を盗まれた人が20万円を快く免除し、30万円の賠償で納得することは、道徳的に賞賛されないばかりか、単にお人好しとして嘲笑される。これに対し、遺族が殺人犯を赦して死刑を求めないことは、道徳的に賞賛される節がある。金を返さないのは絶対に許さないのに人命を奪うことは赦すのか、このような違和感は大切である。

光市母子殺害事件差戻審 20・ 死刑における自己と他者の弁証法

2008-04-12 01:15:26 | 国家・政治・刑罰
死刑を語るときのキーワードが、「償い」と「赦し」である。この概念は問題のポイントを突いてはいるが、それだけに概念が一人歩きし、無用の混乱を呼んでいる。ここで弁証法によって物事を記述してみると、事態がすっきりとまとまることがある。この世の出来事は、自己と他者の弁証法、過去と未来の弁証法、生と死の弁証法などによって記述できるが、それぞれが一度に現実化しているため、その1つだけを取り出すことは邪道である。ただ、あえて視点を1つだけに絞ってみると、物事を見やすくするための補助線となることがある。ここで、自己と他者の弁証法は、死刑廃止論の論拠をわかりやすく記述するための視点として使えそうである。

近代法は、民事法と刑事法を明確に分離している。民事法における償いは、金銭的に損害を填補することであり、それによって被害者の許しも得られるのが通常である。例えば、50万円の現金を盗まれたならば、犯人から50万円を払ってもらえれば、普通は許す気になる。100万円相当の物を壊されたとしても、100万円の賠償金を受け取れれば、少しは許す気になる。誠意や気持ちの問題にしても、慰謝料の提示が高ければ高いほど許す気になるのが通常である。暴行や傷害、名誉毀損などの財産犯以外の犯罪についても、治療費などの実費は填補可能であり、さらに現在では慰謝料の相場も大体確立している。このようなシステムが確立していれば、刑事法における償いは、あくまでも国家による一般予防と特別予防という刑事政策的な面が大きくなる。実際に、被害者の宥恕の意思によって起訴猶予や執行猶予が決まり、示談や和解が成立するか否かによって、刑の重さが大きく左右されている。これが人間の自然な心情である。

ここで、生と死の弁証法を無視し、自己と他者の弁証法だけを取り出してみると、殺人罪についても事態は同じことになる。すなわち、「愛する人を奪ったことに対する償い」と「大切な50万円を盗んだことに対する償い」とは、同じレベルで並列される。まず、民事的な償いについては、死亡による逸失利益が金銭によって填補される。金銭的に見積もれない人間の生命を無理に金銭に換算しているだけであるが、資本主義社会の下では他に方法がない。交通死亡事故に際して使われる「赤本」は、その他の死亡事案に対しても広く使われている。逸失利益の算出方法、平均余命までのライプニッツ係数の計算式は、非常に精密に技術化されている。その結果、生前の収入によって逸失利益に差が生じるが、これは民事的に仕方がない。生前の収入による見込み以上の賠償金を手にすれば、遺族が不当に得をしてしまうという理屈である。もっとも現実には、加害者に資力がなく、実際に賠償金が全く支払われないこともある。

それでは、刑事的な償いはどうか。人の命を奪ったのだから、自分の命を差し出すのが償いであると考えられそうであるが、それでは自己と他者の弁証法に逆らうことになってしまう。すなわち、50万円の現金を盗まれた場合には、50万円の償いが価格の同価値性において埋め合わせとなるため、民事の償いをそのまま刑事の償いに反映させることができる。これに対し、殺人罪の場合には、加害者の死刑が価格の同価値性においての埋め合わせとはなっていない。あくまでも最初に殺された人が生き返っているのではなく、別人が死んでいるからである。殺した人を生き返らせれば償いであるが、さらに別人の死を持ってきたところで何の償いにもなっていない。もし遺族が、加害者の死刑が償いになると考えているのであれば、それは単なる勘違いだということになる。人間の命は、金銭による填補とは性質が違い、填補賠償という概念になじまないからである。

自己と他者の弁証法から殺人罪を記述してみると、死刑廃止論の簡単な流れがこのように見えてくる。もちろん、何となく変である。それは、生と死の弁証法を無視し、生きている人間だけに限定して議論を進めているからである。