犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

光市母子殺害事件差戻審 8・ 死刑廃止論も玉石混淆である

2008-04-05 23:38:34 | 国家・政治・刑罰
同じ死刑廃止論といっても、その中身は玉石混淆である。人が人を殺すとはどのようなことか、哲学に問い詰めた結果としての死刑廃止論は「玉」である。これに対して、法律を無批判的に学んだ人による死刑廃止論は「石」である。刑法は罪刑法定主義を定めており、それは啓蒙思想に端を発する。そして、啓蒙思想は人権宣言に結実し、日本国憲法もその流れを受けている。そして、個人の尊厳を定める憲法13条がピラミッドの頂点にあり、刑法も刑事訴訟法もその下を支える存在に過ぎない。このような教科書を繰り返し繰り返し読めば、それがこの世の客観的な真理となる。質の悪い「石」の死刑廃止論は、その原理的な主張によって、哲学的に磨かれた「玉」の死刑廃止論にまでイメージダウンをもたらしている。

このような教科書事例がある。ある気性の荒い男が、猛スピードで車を脇見運転して、歩行者をはね飛ばした。男はイライラして、車を降りて歩行者に近づき、「いつまでも倒れてるんじゃねぇよ」などと怒鳴って何回も激しく蹴っ飛ばし、そのまま車で走り去った。歩行者は死亡したが、死因は最初の事故によるものか、その後に蹴られたことによるものかは確定できなかった。さて、男の罪責はどうか。ここで、法律を極める者は、この男の残虐性を道徳的に責めてはいけない。「許せない」などと思ってはならず、人道的に非難するあまり冷静さを失ってはならず、淡々と法律的に事実認定をしなければならない。生の事実を客観的な法律的に変換する能力のある人だけが、法律を扱うプロとして認められ、司法試験に合格するからである。

刑法の基礎的な考え方は、構成要件・違法性・責任という3段階を検討することであり、そのうち構成要件該当性は、①実行行為→②結果→③因果関係→④故意・過失という順で認定されなければならない。上の事例で問題となるのは、因果関係である。まず、最初の事故と死亡の因果関係は不明である。従って、自動車運転過失致死罪には問えず、自動車運転過失傷害罪に問えるのみである。また、その後の暴行と死亡の因果関係も不明である。従って、殺人罪ないし傷害致死罪には問えず、殺人未遂罪もしくは傷害罪に問えるのみである。もちろん、歩行者の死亡の結果が刑法的に評価されていないことは問題となり、同一の行為者による一連の行為であることを考慮に入れるか否かで、学説の争いが生じる。もっともそこで論じられるのは、あくまでも条件関係の公式の修正による複合的構成要件は罪刑法定主義に反しないか、疑わしきは被告人の利益にの原則に反しないか、という点である。この犯人の男の悪質性を論理の世界に持ち込むことは、あくまで法律家としては恥ずかしい行為であるとされる。

このように法律家は、人間としての自然の感情を抑える訓練をすることにより、その道のプロとなる。①実行行為→②結果→③因果関係→④故意・過失という純粋に論理的な法律の世界が大きくなり、細かくなれば、当然それ以外の要素は消化できない。被害者の無念、遺族の悲しみなどという話を持ち込まれても、体系にとっては邪魔者となる。ここにおいて、現実の被害者に直面し、法律の考え方を批判的に捉えられるかが法律家の分かれ目となる。確かに人類の歴史は、加害者に対して不当な手続を採り続けており、現在の制度はその教訓を背景としている。しかし、その理念が人間としての自然の感情をすべて支配することができるのか。法律を無批判的に学べば、加害者の行為を条文に基づいて分析するだけで物事を決めつける癖がつく。これはこれで仕方ないとして、この考え方は、世間一般と激しくずれていないか。法律の知識がない世間の人々を批判する前に、まずは法律や自分自身を批判することも必要ではないか。このような問いをどこかで所有していれば、一般の感覚と大きくずれた結論を押し付けるようなことにはならないで済む。

法律を無批判的に学び、加害者の構成要件該当行為によって世界が成り立っていることを疑わない立場からは、「加害者と被害者は対立するものではない」との主張がなされる。法律の体系に基づく限り、全くその通りである。しかし、法律を学んだことのない一般人やマスコミが被害者と加害者を対比して事件を捉えることは、最も自然な事実の捉え方である。ここで、「対立していないものを対立させて捉えるのは誤解であり、無知である」などと主張しても、一般人の違和感は増すばかりである。あくまでも法律は、歴史の苦い経験から、あえて自然な事実を逆転させた体系を確立しているにすぎない。そして、法律の世界が実在すると錯覚すれば、人間が見えなくなる危険がある。殺された被害者は優しいお母さんだった、将来の夢を沢山持った女の子だった、これらの事実は法律的には意味がないにせよ、意味がないのは法律の世界の中だけである。これらの事実に自覚的であるような死刑廃止論は「玉」であるが、そうでない死刑廃止論は「石」である。

光市母子殺害事件差戻審 7・ 国家による殺人だから意味がある

2008-04-05 17:48:22 | 時間・生死・人生
死刑は、憲法36条の「残虐な刑罰」に該当するのか。すべて条文から出発する憲法論としては、まずこのような形で問題が立てられる。しかしながら、このような問いを立てるならば、答えもそれに応じた形に限定され、それ以上議論が動かなくなってしまう。残虐な刑罰に該当するという立場と、該当しないとの立場が延々と議論し、いつまでも決着が付かないことになる。残虐な刑罰に該当するという立場は、死刑執行の現場を詳細に再現し、人間は絞首刑にされるとどのような状態になるのか、克明に描写されることになる。さらには、死刑を執行する拘置所の職員の苦悩まで持ち出されることもある。

このような意見に対しては、当然ながら「最初の殺人行為の残虐さはどこへ行ったのだ」との疑問が起きる。そして、それに対してはお決まりのように、「一私人の殺人は刑罰ではない。国家による殺人行為は質が違うのだ」との反論がなされる。通常の場合、被害者の殺され方のほうが悲惨で残虐であり、死に顔は苦痛と無念で歪んでいるはずである。従って、人権論がいかに死刑執行の現場の残虐性を訴えても、多くの場合には説得力がない。

つい先ほどまで生きていた人が死刑執行によって徐々に死んでゆく現場の描写は、この上なく非常に具体的であり、どのイデオロギーによっても否定することができない。これに対して、国家権力による殺人と他の殺人との異質性については、イデオロギーによって重視することもできれば、軽視することもできる。死刑の残虐性を叫ぶ立場に説得力がないのは、この点に原因がある。「残虐さ」という形容詞を持ち出せば、まずは必然的に最初の殺人行為が範疇に捉えられることは当然だからである。

「一私人による殺人行為と、国家による殺人行為は質が違う」との命題は、全く異なった意味で捉えることができる。すなわち、最初の殺人事件における被害者の死は、何の罪もない理不尽な死である。これに対して、死刑執行における死は、罪を償うものとしての死である。これは、国家権力の濫用の危険性というフィルターを除いてみて、初めて得られる視点である。殺す側の論理から殺される側の論理へ、視座の転換と言ってもよい。死刑執行の場面においては、死刑囚も殺される者としての「被害者」である。そして、通り魔による被害としての死には「理」がないが、その犯人の被害である死には「理」がある。このような視座は、憲法論においては全く採られていないが、多くの人間の倫理観に合致する。死刑に賛成する多数派の考え方も、おそらくはこの常識に立脚している。単なる人殺しと、罪を償うものとしての死が同列に並べられるわけがないからである。

近代社会では国家において刑罰権が独占され、自力救済が禁止された以上、加害者が罪を償うに際しては、国家権力が登場せざるを得ない。それによって、私人による殺人と国家による殺人の差異の議論は、特定の型にはまってしまった。最高裁の判例では、大真面目に「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでは残虐な刑罰だが、絞首刑は残虐な刑罰ではない」と判示されているが、これがその典型である。国家権力は悪であるとのイデオロギーからは、死刑囚はいつ死刑を執行されるか毎日おびえており、明日の命があるかわからない状態で死と隣り合わせに生きていることの悲惨さはよく見える。他方で、平凡で幸せな毎日を送っており、明日の命があると信じ込んでいた人が、何の心の準備もなく突然人生を終了させられることの悲惨さは見えなくなる。