同じ死刑廃止論といっても、その中身は玉石混淆である。人が人を殺すとはどのようなことか、哲学に問い詰めた結果としての死刑廃止論は「玉」である。これに対して、法律を無批判的に学んだ人による死刑廃止論は「石」である。刑法は罪刑法定主義を定めており、それは啓蒙思想に端を発する。そして、啓蒙思想は人権宣言に結実し、日本国憲法もその流れを受けている。そして、個人の尊厳を定める憲法13条がピラミッドの頂点にあり、刑法も刑事訴訟法もその下を支える存在に過ぎない。このような教科書を繰り返し繰り返し読めば、それがこの世の客観的な真理となる。質の悪い「石」の死刑廃止論は、その原理的な主張によって、哲学的に磨かれた「玉」の死刑廃止論にまでイメージダウンをもたらしている。
このような教科書事例がある。ある気性の荒い男が、猛スピードで車を脇見運転して、歩行者をはね飛ばした。男はイライラして、車を降りて歩行者に近づき、「いつまでも倒れてるんじゃねぇよ」などと怒鳴って何回も激しく蹴っ飛ばし、そのまま車で走り去った。歩行者は死亡したが、死因は最初の事故によるものか、その後に蹴られたことによるものかは確定できなかった。さて、男の罪責はどうか。ここで、法律を極める者は、この男の残虐性を道徳的に責めてはいけない。「許せない」などと思ってはならず、人道的に非難するあまり冷静さを失ってはならず、淡々と法律的に事実認定をしなければならない。生の事実を客観的な法律的に変換する能力のある人だけが、法律を扱うプロとして認められ、司法試験に合格するからである。
刑法の基礎的な考え方は、構成要件・違法性・責任という3段階を検討することであり、そのうち構成要件該当性は、①実行行為→②結果→③因果関係→④故意・過失という順で認定されなければならない。上の事例で問題となるのは、因果関係である。まず、最初の事故と死亡の因果関係は不明である。従って、自動車運転過失致死罪には問えず、自動車運転過失傷害罪に問えるのみである。また、その後の暴行と死亡の因果関係も不明である。従って、殺人罪ないし傷害致死罪には問えず、殺人未遂罪もしくは傷害罪に問えるのみである。もちろん、歩行者の死亡の結果が刑法的に評価されていないことは問題となり、同一の行為者による一連の行為であることを考慮に入れるか否かで、学説の争いが生じる。もっともそこで論じられるのは、あくまでも条件関係の公式の修正による複合的構成要件は罪刑法定主義に反しないか、疑わしきは被告人の利益にの原則に反しないか、という点である。この犯人の男の悪質性を論理の世界に持ち込むことは、あくまで法律家としては恥ずかしい行為であるとされる。
このように法律家は、人間としての自然の感情を抑える訓練をすることにより、その道のプロとなる。①実行行為→②結果→③因果関係→④故意・過失という純粋に論理的な法律の世界が大きくなり、細かくなれば、当然それ以外の要素は消化できない。被害者の無念、遺族の悲しみなどという話を持ち込まれても、体系にとっては邪魔者となる。ここにおいて、現実の被害者に直面し、法律の考え方を批判的に捉えられるかが法律家の分かれ目となる。確かに人類の歴史は、加害者に対して不当な手続を採り続けており、現在の制度はその教訓を背景としている。しかし、その理念が人間としての自然の感情をすべて支配することができるのか。法律を無批判的に学べば、加害者の行為を条文に基づいて分析するだけで物事を決めつける癖がつく。これはこれで仕方ないとして、この考え方は、世間一般と激しくずれていないか。法律の知識がない世間の人々を批判する前に、まずは法律や自分自身を批判することも必要ではないか。このような問いをどこかで所有していれば、一般の感覚と大きくずれた結論を押し付けるようなことにはならないで済む。
法律を無批判的に学び、加害者の構成要件該当行為によって世界が成り立っていることを疑わない立場からは、「加害者と被害者は対立するものではない」との主張がなされる。法律の体系に基づく限り、全くその通りである。しかし、法律を学んだことのない一般人やマスコミが被害者と加害者を対比して事件を捉えることは、最も自然な事実の捉え方である。ここで、「対立していないものを対立させて捉えるのは誤解であり、無知である」などと主張しても、一般人の違和感は増すばかりである。あくまでも法律は、歴史の苦い経験から、あえて自然な事実を逆転させた体系を確立しているにすぎない。そして、法律の世界が実在すると錯覚すれば、人間が見えなくなる危険がある。殺された被害者は優しいお母さんだった、将来の夢を沢山持った女の子だった、これらの事実は法律的には意味がないにせよ、意味がないのは法律の世界の中だけである。これらの事実に自覚的であるような死刑廃止論は「玉」であるが、そうでない死刑廃止論は「石」である。
このような教科書事例がある。ある気性の荒い男が、猛スピードで車を脇見運転して、歩行者をはね飛ばした。男はイライラして、車を降りて歩行者に近づき、「いつまでも倒れてるんじゃねぇよ」などと怒鳴って何回も激しく蹴っ飛ばし、そのまま車で走り去った。歩行者は死亡したが、死因は最初の事故によるものか、その後に蹴られたことによるものかは確定できなかった。さて、男の罪責はどうか。ここで、法律を極める者は、この男の残虐性を道徳的に責めてはいけない。「許せない」などと思ってはならず、人道的に非難するあまり冷静さを失ってはならず、淡々と法律的に事実認定をしなければならない。生の事実を客観的な法律的に変換する能力のある人だけが、法律を扱うプロとして認められ、司法試験に合格するからである。
刑法の基礎的な考え方は、構成要件・違法性・責任という3段階を検討することであり、そのうち構成要件該当性は、①実行行為→②結果→③因果関係→④故意・過失という順で認定されなければならない。上の事例で問題となるのは、因果関係である。まず、最初の事故と死亡の因果関係は不明である。従って、自動車運転過失致死罪には問えず、自動車運転過失傷害罪に問えるのみである。また、その後の暴行と死亡の因果関係も不明である。従って、殺人罪ないし傷害致死罪には問えず、殺人未遂罪もしくは傷害罪に問えるのみである。もちろん、歩行者の死亡の結果が刑法的に評価されていないことは問題となり、同一の行為者による一連の行為であることを考慮に入れるか否かで、学説の争いが生じる。もっともそこで論じられるのは、あくまでも条件関係の公式の修正による複合的構成要件は罪刑法定主義に反しないか、疑わしきは被告人の利益にの原則に反しないか、という点である。この犯人の男の悪質性を論理の世界に持ち込むことは、あくまで法律家としては恥ずかしい行為であるとされる。
このように法律家は、人間としての自然の感情を抑える訓練をすることにより、その道のプロとなる。①実行行為→②結果→③因果関係→④故意・過失という純粋に論理的な法律の世界が大きくなり、細かくなれば、当然それ以外の要素は消化できない。被害者の無念、遺族の悲しみなどという話を持ち込まれても、体系にとっては邪魔者となる。ここにおいて、現実の被害者に直面し、法律の考え方を批判的に捉えられるかが法律家の分かれ目となる。確かに人類の歴史は、加害者に対して不当な手続を採り続けており、現在の制度はその教訓を背景としている。しかし、その理念が人間としての自然の感情をすべて支配することができるのか。法律を無批判的に学べば、加害者の行為を条文に基づいて分析するだけで物事を決めつける癖がつく。これはこれで仕方ないとして、この考え方は、世間一般と激しくずれていないか。法律の知識がない世間の人々を批判する前に、まずは法律や自分自身を批判することも必要ではないか。このような問いをどこかで所有していれば、一般の感覚と大きくずれた結論を押し付けるようなことにはならないで済む。
法律を無批判的に学び、加害者の構成要件該当行為によって世界が成り立っていることを疑わない立場からは、「加害者と被害者は対立するものではない」との主張がなされる。法律の体系に基づく限り、全くその通りである。しかし、法律を学んだことのない一般人やマスコミが被害者と加害者を対比して事件を捉えることは、最も自然な事実の捉え方である。ここで、「対立していないものを対立させて捉えるのは誤解であり、無知である」などと主張しても、一般人の違和感は増すばかりである。あくまでも法律は、歴史の苦い経験から、あえて自然な事実を逆転させた体系を確立しているにすぎない。そして、法律の世界が実在すると錯覚すれば、人間が見えなくなる危険がある。殺された被害者は優しいお母さんだった、将来の夢を沢山持った女の子だった、これらの事実は法律的には意味がないにせよ、意味がないのは法律の世界の中だけである。これらの事実に自覚的であるような死刑廃止論は「玉」であるが、そうでない死刑廃止論は「石」である。