犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

小西聖子編著 『犯罪被害者遺族』 第5章

2007-08-31 21:45:13 | 読書感想文
第5章 息子が生きていたら… 松田政美さん・幸子さんのお話

客観的な法律の条文に従って粛々と手続を進めるのが法律家である。それでは、裁判官や弁護士は、もし自分の娘や息子がそのような目に遭ったとしたら納得できるのか。これは納得できないに決まっている。法律家の一番弱い所である。それゆえに法律学は、客観性、公平中立性という建前によって、この弱点を隠す。公平中立たるべき法律家は、「もし自分の娘や息子がそのような目に遭ったとしたら」と考えてはいけない。考えないことによって、法治国家は維持される。その具体的な表れが、除斥や忌避といった制度である。

「同じ死ぬのでも死に方が違う。人の手によって無理矢理この世から連れ去られた」。少年3人による暴行で息子さんを亡くした松田さんはこのように述べる。これは、生と死の弁証法、自分と他人の弁証法が重なったところに表れるパラドックスである。同じ死であっても、病気の場合には、このパラドックスは表れない。犯罪による死だけが決定的に異なる。自分の意志でこの世に生まれてくることのできない人間は、他の人間の存在をこの世から消すことはできない。弁証法的に見れば、殺した本人が一番苦しまなければならない道理のものであり、自らが死ぬことによって償いたいという気持ちにならなければならない道理である。間違っても、「生きて更生することによって償う」という理屈は成立しない。

法律家に理解できないのなら、宗教家に頼ればいいのではないか。ところが、松田さんの例では、お坊さんも全く話にならない。お盆やお彼岸におけるお坊さんのありがたい法話で、「人間はいずれ死ぬ。早い遅いかだ」と言われても、松田さんは「早すぎじゃないか」と思ってしまう。当たり前である。お経が少しもありがたくない。お坊さんは「語りかけてやるのが仏への供養だ」と言っても、そもそも松田さんは息子さんのことを仏だと思いたくない。これも当然である。このようなありがたくない法話は、宗教の最も悪い部分の発現である。多かれ少なかれ、哲学なき“葬式仏教”では、このレベルが限界である。

病気による死と犯罪による死の違いは、前者の文法は「死ぬ」という単語を所有しているに止まるのに対し、後者の文法は「死ぬ」「殺す」という2つの単語を所有していることである。万人に共通の「死ぬ」という単語で語ることは、加害者を利することになる。遺族が受け入れられないのは「死んだ」ことではなく「殺された」ことであり、この両者は絶望的に異なる。周囲の人は「死んだ者は生き返らない」と言って慰めたつもりになっているが、「殺された者は生き返らない」とは言わないところが欺瞞的である。「いつまでも死んだことをクヨクヨしていても仕方がない」、「死んだ人が喜ばない」といった表現も、「殺される」に置き換えることはできない点で、全く慰めになっていない。「人間はいずれ死ぬ」は正しいが、「人間はいずれ殺される」は正しくないからである。

新聞に穴が開く

2007-08-30 23:03:50 | 国家・政治・刑罰
悲惨な犯罪が起きた次の日の新聞は、紙面にぽっかりと穴が開く。名古屋市千種区における31歳の会社員、磯谷利恵さんの殺人事件においても、多くの新聞は、母親の磯谷富美子さんのコメントをそのまま掲載している。「その時の娘の恐怖と痛みを思うとき、居たたまれない気持ちで一杯になります。行き場のない悔しさ、無念と、犯人達に対する憤りで胸が張り裂けそうです。何の落ち度も、関係もない娘に対し、あれほどの異常な行為を行った人間の存在を、私は認めることは出来ません。絶対に、絶対に、許しません・・・」。

新聞でありながら、これは記事ではない。記者によって全く編集されていないからである。実際問題として、これ以上編集しようもない。「恐怖」、「居たたまれない」、「異常」、「絶対に許しません」。これらの単純かつ誰にでもわかる言葉は、これ以上説明しようがない。難しく分析することもできなければ、簡単に言い換えることもできない。誰もがわかっている。どうしようもない。新聞社もそれを十分にわかっていて、編集を放棄し、母親のコメントをそのまま掲載するしかないのが実情である。

それだけに、その母親のコメントの周辺に掲載されている「殺人事件の記事」とのギャップがどうにも妙であり、未消化のまま残される。犯人の3人組の接点は「闇の職業安定所」なる闇サイトであり、最後までお互いの本名を知らなかった。計画性のない場当たり的犯行であった。3人とも金に困っていた。このような事実が選別され、編集され、通常の記事として掲載されている。かくして、遺族のコメントを離れた「殺人事件の記事」は、あっという間に社会問題として捉えられることになる。

闇サイトは表立って犯罪行為をうたっていないにもかかわらず、実態は大半が非合法な取引や犯罪仲間を募る内容であり、この規制が今後の情報化社会の課題である。確かにその通りである。事件から教訓を得て、建設的な議論を進めようとすれば、この方向性は正しい。しかし、その隣には大きな穴が開いている。どんなに犯罪心理学の権威が専門用語を振りかざしても、被害者の母親の「絶対に、絶対に、許しません」という単純な言葉には勝てない。それだけに新聞社は、遺族のコメントをそのまま掲載するしかない。難しい問題はぽっかりと開けた穴に押し込み、多数派の社会生活の維持のために、それ以上深めたり広げたりすることを許さない。

『40歳から伸びる人、40歳で止まる人』『30代までに身につけておくべきこと』といった本がベストセラーになる日本社会において、31歳でこのような形で人生を終えるとはどのようなことか、正面から向き合って考えるだけの体力がある人は少ない。かくして、難しい問題は簡単な問題にすり替えられる。専門家は自己の理論に引き付けて後知恵の理屈をつける。良心的な市民は、犯人の1人が朝日新聞拡張員だと判明すれば、その方面でバッシングをする。さらに下品な市民は、被害者の生前のプライバシーを詮索し、ネットの掲示板で盛り上がる。

「犯人達に対する憤りで胸が張り裂けそうです。あれほどの異常な行為を行った人間の存在を、私は認めることは出来ません・・・」。多くの国民は、この言葉を正面から受け止めることに耐えられない。自分にわかるわかり方でわかろうとしても、どうしてもその枠に収まらないからである。遺族が広く社会に訴えようとしても、そのうちに聞いてくれなくなる。多数派の社会生活の維持にとって有害なこの種の言葉は、合目的的に変形される。これが哲学なき思考の限界である。哲学的な問題を穴に押し込み、今日も新聞は「東証大引け・反発、米株高受け1万6100円台回復、2部も反発」といった記事で一杯である。政治経済の記事のど真ん中に、哲学の穴がぽっかりと開いている、この奇妙なミスマッチは現代の象徴である。

西尾幹二著 『個人主義とは何か』

2007-08-29 16:34:34 | 読書感想文
西尾氏は保守系論客として有名であり、「新しい歴史教科書をつくる会」の設立人としても有名になってしまった。しかしながら、同氏の思想はニーチェ研究のバックボーンに深く裏付けられており、この面を見なければ、単なる政治論としてしか捉えられなくなる。ヘーゲルという大巨人の思想は、ニーチェとマルクスという巨人によって、全く別の角度から批判され尽くした。保守と革新の違いは、言うなればニーチェの問題意識に共感するか、マルクスの問題意識に共感するかの違いである。これは、パラダイム相互間の巧拙の問題であるから、最初から話が噛み合うわけがない。

ニーチェの問題意識からは、社会の発展、理想の社会の実現といった目標は、ただのニヒリズムにすぎない。正しい社会の建設に燃えるためには、現実の社会が不正義であってもらわなければ困るからである。かくして、反権力の思想は、それ自体を生きがいにする人々によって自己目的化され、単なるアナーキズムに堕する。近代刑法には「1人の冤罪を生まないためには999人の凶悪犯人を釈放しなければならない」というスローガンがあるが、これを実際に行えば恐ろしいことになる。その先まで責任を持ってシミュレートしておかなければ、反権力の思想は、アナーキズムの危険性を払拭できない。

ニーチェの問題意識からは、民主主義の政治体制も、人間相互のエゴイズムを調和させるための次善の策でしかない。民主主義は、専制独裁や無政府状態に比べればましであることは明らかであるが、そうであれば、そのレベルで満足しておけば済む話である。多くの人間が民主主義の正当性を声高に叫ばずにはいられないのは、その理論の正しさの故ではなく、多くの人間は次善の策に従って生きるという心理状態に耐えられないことに基づく。これも近代社会のニヒリズムである。20世紀の人々は、21世紀には理想的な未来が待っていると信じていたのに、この閉塞感はいったい何なのか。ニーチェは19世紀において、この程度のことはとっくに見抜いていた。もちろん、23世紀も24世紀も見抜いているのが哲学である。

近代ヨーロッパにおける「個人」の観念は、解放、自由、進歩という明るいイメージで語られ続けてきた。これを推進しようとして人権活動を進める革新派も、これに反対して道徳や規律の重要性を説く保守派も、同じ土俵の上で戦っていることには変わりがない。ニーチェに造詣の深い西尾氏は、このような意味での保守系論客ではない。「個人」とは孤独の別名であり、「自由」とはいつでも自殺し得る可能性のことであり、「進歩」とは底なし井戸を埋める作業であることを知り抜いているからである。それにもかかわらず、何でも政治的にしか物が見られない現代社会においては、保守系論客となれば、「戦前に戻ろうとしている」とのレッテルを貼られてしまう。犯罪被害者保護活動が右寄りの活動だと誤解されてしまうのと似ているところがある。

意識の不思議

2007-08-28 20:38:13 | 国家・政治・刑罰
人間の意識というものは不思議である。科学、宗教、哲学、どの分野にとっても解決不可能な謎である。「意識とは何か」と問うためには、意識がなければならない。「自分には意識がある」と気付くためには、自分には意識がなければならない。その意味で、「我思う、ゆえに我在り」と言ったのはデカルトではない。自分であり、すべての自我である。

意識は常に自分とともに存在し、一時も自分から離れることがない。朝起きても、他人の意識と入れ替わっていることはない。しかしまあ、何でよりによって、この意識が自分の意識なのか。人間は誰しもこの謎を抱えている。世界には65億人もの人間がいるのに、なぜか私の自我意識が存在するのは、「この私」である。永井均氏の表現を借りれば、<私>である。

私以外の人間には、「この私」の意識は絶対に存在しない。同じ親から生まれた兄弟であっても、同じDNAを持つ一卵性双生児の兄弟であっても、「この私」の自我意識は存在しない。このような驚きは、他人にも自分と同じような意識が存在していることを前提としており、独我論による解答では満足できないことを示している。独我論に頼らずにこの謎を解こうとすれば、答えは2つしかない。

1つには、神がこの意識を与えているという解決方法である。しかし、その人格神にも意識があるとすれば、その意識はいったい何なのか。その意識も人格的な意識だとすれば、「この私」の意識がその神の意識でないのはなぜか、この謎が解けない。これを無理に解こうとすると、「私が神だ」という新興宗教の教祖になってしまう。

もう1つは、意識が別々でありながら繋がっている、繋がっていながら別々であると考えることである。死者の意識はここにはないが、ここにある。未だ地上に存在せず22世紀に生まれるであろう人間の意識もここにはないが、ここにある。これがヘーゲルの「絶対精神」である。この悪名高い造語も、「自分には意識がある!」「他人にも意識があるようだ!」と気付いた瞬間の驚きを忘れると、単なる神の別名にしか見えなくなる。

「絶対精神とは、自己自身の外に根拠を持たない精神の本質が主観的・客観的段階を経て十全に展開され自覚に至ったものである」という講学上の定義も、意識の不思議を念頭に置きながら読んでみれば、その意味が何となくわかる。ヘーゲルは難解だと言ってしまえば、哲学を考える際に特有の視角の取り方が失われる。「我思う、ゆえに我在り」と言ったのはデカルトではないように、「絶対精神」と言ったのもヘーゲルではない。どんな哲学上の名言も、それを述べたのは自分であり、すべての自我である。

生きている人間は、殺人事件のニュースを耳にすれば、絶対に許せないという怒りを反射的に感じる。人間の意識の不思議が解けないのであれば、人間におけるこの怒りを抑えることはできない。殺人とは、人間の意識を消すことである。被害者の無念を推測した途端、それは恐怖から絶対不可解へと変わる。「殺人犯であっても罪を否認する権利がある」という刑法学の理論は、どう頑張っても哲学的に二流であり、社会において広く共有されない理由がここにある。

小西聖子編著 『犯罪被害者遺族』 第4章

2007-08-27 18:20:17 | 読書感想文
第4章 飲酒運転は犯罪である 大久保恵美子さんの手記

「私は今でも息子が死んだことを認めたくない」。「あの子は亡くなったわけじゃない。遠くに行ってしばらく会えないだけ」。大久保さんはこのように思いつつも、担当検事に手紙を書いて頼み込み、裁判を傍聴し、資料を集めてマスコミに配るといった相反する行動を強いられている。近代法治国家の常識からすれば、死を受け入れていることが正常であり、死を認めていないことは非合理だと捉えられるしかない。そうでなければ、遺言や相続の法制度が成り立たず、社会が回らなくなるからである。しかし、哲学的に見れば、事態は全く逆である。近代刑事裁判は、人間の生死を条文の中に閉じ込めているだけであり、それ以上のことは手に負えないだけの話である。

大久保さんは、裁判の日程をあらかじめ教えてほしいと何度も担当検事に頼んだが、法律上教える義務はないとのことで、1回も教えてもらえなかった。現在はこのような被害者の声の集積によって、法律もかなり改善されてきたようである。しかしながら、問題の根本は、このように条文をその都度変えることによって解決できるようなものではない。人間の死という最大の問題に直面しつつ、法律がある・法律がないというレベルで問題を片付けてしまおうとする、この問題の本質は少しも動いていない。法治国家は、この構造を積極的に推進し、維持しようとする。犯罪被害者遺族の問題は法治国家の理論で捉えようとすれば必ず迷走するのも当然のことである。

人間にとって、「死」は絶対にわからない。しかし、「罪」ならばわかる。そこで、近代刑事裁判は、「死」を「罪」に変換した。死ぬとはどのようなことか。それは、刑法199条や205条、208条の2や211条の構成要件に該当することである。これは、あくまでもとりあえずの策である。「わかったことにしておく」だけである。しかし、高度に発達した法治国家は、これを「わかった」と思い込んでしまった。ここにおいて、すべては情報化される。人間の生死も情報化され、法廷における日常茶飯事の出来事となる。「死」という概念は、あくまでも「罪」という概念を説明するための要素にすぎなくなった。「死ぬこと」は、刑法199条においては「殺すこと」となり、刑法211条においては「死なせること」となる。主語は死者から犯人へと替わり、死者は文法的にも不在となった。これが、犯罪被害者遺族が刑事裁判に感じるもの足りなさの源泉である。

大久保さんも次の章に登場する松田さんも、被害者保護の運動のリーダーとなっている。小西氏は、それは亡くなった人に対する義務であり、使命であると感じているのだと述べている。全くその通りである。哲学的に考えれば、むしろそれ以外にはあり得ない。個に徹するほど普遍に通じるという逆説がここにもある。被害者が事件の場面を思い出して辛くなると言えば、1日でも早く事件のことを忘れることが立ち直りであるといった軽薄な助言が登場することになるが、このような鈍感な助言には返答するだけ無駄である。加害者がこの世で何事もなく生活している限り、生死の弁証法は破られ続ける。本来であれば、加害者の側が自分の人生を投げ打って被害者保護の運動のリーダーとして参加しなければならない道理である。加害者が「一生かけて償います」という覚悟ならば、人間としてそれ以外の生き方はできないはずである。これができないならば、「一生かけて償います」という裁判長の前での決意は嘘である。

子どもの人権論

2007-08-26 14:22:30 | 国家・政治・刑罰
国家主義的であるとして評判の悪いヘーゲルであるが、その著作の中では、子どもが自由な存在であることを繰り返し述べている。これも、弁証法の考え方を通してみなければ、何が何だかわからない。ヘーゲルは、子どもの教育について、否定的な使命があると論じている。これは、単なるマイナスという意味ではない。大人は子どもを教育すればするほど、子どもは立派な人間として自立するようになり、いずれ教育が不要になるという事実である。こうして子どもは大人になり、次の世代の子どもに対して、また同じことを延々と繰り返す。世の中はどういうわけかこのようになっている。弁証法とは、この単純な論理の記述である。

子どもの権利条約に代表される子どもの人権論と、ヘーゲルの弁証法との決定的な違いは何か。それは、人生は一度きりであり、取り返しがつかないという恐るべき現実を常に捉えているか否かである。子どもは親を選べない、これは容易にわかる話である。これに対し、親も子どもを選べないことは、なかなか気付きにくい。子どもが親の所有物であることを前提とするならば、革新派による子どもの人権論と、保守派による家庭教育の重要性を説く立場とが対立するのも当然のことである。弁証法は、このような対立の土俵自体を見下ろす。ヘーゲルが子どもは自由な存在であると述べるとき、それは親が子どもを選べないという単純な事実を指している。

子どもの人権論や、家庭教育の重要性を説く理論は、それが政治的であるゆえに、人生の文法を決定的に取り逃がす。政治的な意見は、その主義主張が完全に実現する社会を目指して徹底的に闘うべきだとのイデオロギーになり、事態は長期戦の様相を呈する。しかしながら、子どもの人権論を15年間にわたって唱え続ければ、15年前に5歳であった子どもは、もはや成人している。理想の社会がなかなか到来しない、現在は過渡期であると言われてしまっては、その間に一度きりの人生の子ども時代を送ってしまった人間の立つ瀬がない。子どもの人権を守ることを社会の絶対的な目的とするならば、その子どもが大人になった時には、次の世代の子どもの人権を守ることが目的となり、堂々巡りとなる。これは弁証法の逆立ちである。「子どもが大人を否定する」という事実の記述ではなく、「大人は子どものために生きなければならない」という当為の主張になっているからである。

弁証法における否定とは、「あってはならないものを撲滅する」という話ではない。否定とは、“否定の否定”として肯定となり、さらには“否定の否定の否定”として否定となる。この弁証法の考え方を通してみれば、「大人」も「子ども」も単なる便宜上の肩書きにすぎないことがわかり、その根本における人間、さらには人生という存在の形式が捉えられてくる。最初から大人と子どもの二分法からスタートし、子ども独自の権利を考案するような政治論は、入口からして人生を見失っている。少年法の厳罰化をめぐる一連の議論も、この「子ども」という肩書きを外して、人生の存在の形式において捉え直してみれば、事態はかなりすっきりする。子どもは数年すれば成人になるという当たり前の弁証法を見失えば、子どもの人権論だから少年法の厳罰化に反対だと叫んでいるうちに、自分の人生が終わってしまう。

坂東眞理子著 『女性の品格』

2007-08-25 12:05:46 | 読書感想文
坂東眞理子著『女性の品格』 と 池田晶子著『14歳からの哲学』 の比較

哲学は、何らかの人生訓と混同されることが多い。このような混同の上で哲学の文章を読んでしまうと、押し付けがましいお説教にしか聞こえなくなる。哲学の文章は、読む側に考えさせることを促す形で書かれており、その点において最初から人生訓を目指して書かれた本とは異質である。この質の差については、次のような例で比較してみればわかりやすい。ここで、両者のどちらに説得力を感じるかの差は、そのまま哲学の資質の差を測る試金石になる。


『女性の品格』 51ページ~
早口の人はせっかちでゆとりがない人と思われます。せっかちな人は自分でも意識してスピードダウンして、間を取りながら話すようにしましょう。相手の反応を見ながら分かりやすく話す余裕が、安定した穏やかな人格を感じさせるのです。

『14歳からの哲学』 24ページ~
君は毎日友だちや家族と話をする。言葉を話すと、どうして相手に通じるのだろうか。なるほど、何を言っているのかさっぱりわからないという気持ちになることも、たくさんある。でも、面白いと思わないか。そのとき君は、その「わからない」ということは、わかるわけだ。どうしてわからないということがわかるのだろう。


『女性の品格』 86ページ~
「女性は美しくないと軽んじられる」と旧前田侯爵家に生まれた酒井美意子さんが母上の教えとしてお書きになっていました。それを読んだ頃の私は「外見より中身が重要」と信じていたので、ショックを受けた記憶があります。私は美人ではないから、中味を磨くのだと思っていたからです。

『14歳からの哲学』 32ページ~
「美しい」という言葉の意味は、目には見えない。「美しいもの」と聞いて、君は、美しい花や美しい景色、美しい音楽などを思い浮かべることができるけれども、それなら、そこから花や景色や音楽を取り去って、「美しい」だけを思い浮かべることができるだろうか。「美しさ」そのものだけを、見える物や聞こえる物として思い浮かべることができるだろうか。


『女性の品格』 170ページ~
自分の段取りが悪くて仕事がはかどらないのかもしれません。仕事の進行表を作ってまず何から手をつけるか決めましょう。優先順位の高いこと、重要なことからはじめて、あとは時間があったときに回すように仕分けすると、精神衛生はかなりよくなります。忙しがっている人のうちかなりの人は、重要ではない仕事に時間を割き、重要なことをする時間がなくなって忙しがっているのです。

『14歳からの哲学』 113ページ~
本当は自分で生きたくて生きているのに、人のせいみたいに「生きなければならない」と思っているのだから、生きている限り何もかもが人のせいみたいになるのは当然だ。生きるためには、食べなければならない、食べるためには、稼がなければならない、そのためには仕事をしなければならない、この「しなければならない」の繰り返しが、大人の言うとろの「生活」だ。しなければならなくてする生活、生きなければならなくて生きる人生なんか、どうして楽しいものであるだろう。

ヘーゲルと天賦人権論との関係

2007-08-24 19:34:50 | 国家・政治・刑罰
ヘーゲル研究者の間では、彼が国家主義的か否かについて長々と論争があるようであるが、これは研究者でない人間が生きる上ではどうでもいい問題である。どの人間も人格として自由であり、対等平等であるというのが、個人主義に基づく市民社会の理念である。ヘーゲルもこの立場にあるならば、なぜ政治学者・法律学者は18世紀のヘーゲルを通り越して、13世紀のマグナ・カルタを持ち出すのか。そして、紀元前のソクラテスまでには遡らないのか。これは、「ヘーゲル某」という人間の問題ではない。この世の中に人間の数だけある「某」それぞれの問題である。

ヘーゲルは具体的な理念として、国家主義になりかねない公的扶助よりも、市民間による共互助の持つ役割を強調している。それならば、法律学がヘーゲルの理論を援用しないのはなぜか。これは、Sollenの枠組みではWerdenの枠組みなど手に余るという点に尽きる。この世の現実問題を解決しようとしているところに、「もう解決しています」という正解は使い物にならない。それでは、13世紀のマグナ・カルタを持ち出せば使い物になるかというと、これはもっと使い物にならない。政治学における社会契約論の詳細な研究は役に立たず、現実の衆愚政治における選挙運動は毎度のことである。誰かの理論に頼って正解が出るようなものでないことは、もはや十分にわかってしまった。

日本国憲法の精神を尊重する立場は、18世紀のアメリカ独立宣言およびフランス革命における人権宣言を金科玉条とすることが多い。そうであれば、なぜヘーゲルを避けて通れるのか。ヘーゲルがホッブズ、ロック、ルソーといった啓蒙思想家と決定的に違うのは、自由を目指して王制を倒したはずの革命が、実際には恐怖政治をもたらした事実を直接見てしまったということである。ヘーゲルが個人主義に基づく市民社会の理念に理解を示しつつ、単純に人権宣言に賛成しないのも当然である。後の世のヘーゲル研究者が、彼が国家主義的か否かについて長々と論争しても、そんなことは本人に聞いてみなければわからない。また、後の世の政治学者・法律学者にとっては、ヘーゲルは難しすぎて捨てられるか、簡単すぎて捨てられるかのいずれかになる。

ヘーゲルの述べる「普遍意思」と、ルソーの述べる「一般意思」とは、同じようなものを指してはいるが、弁証法を経由しているか否かによって決定的な差異がある。国家の目的は公共の幸福であり、法律を整備し、権利を守り、社会制度を確立し、自由な社会を目指す。こう言ってしまえば、両者は同じである。中世封建的な制度を認めない点においても、両者は同じである。ところが、ヘーゲルは天賦人権論などには頼らないし、頼れるはずもない。それゆえに、現代の立憲主義のシステムにおいては、ヘーゲルの理論はなかなか現実に使いにくい。

ヘーゲルのいうところの自由とは、『精神現象学』で展開されているように、あくまでも人間の内側から生じている自由である。ここで、「ヘーゲルは『人間の内側から生じている自由である』と言った」という形で捉えてしまうと、後世の人間はまた「ヘーゲル某」という人間が残した思想の研究に走ってしまい、弁証法の核心を取り落とすことになる。これが現代の立憲民主主義において、学問の自由という人権に守られつつ、研究に没頭している哲学研究者である。ヘーゲルは国家主義的か否か、そんなことは本人に聞いてみなければわからない。

小西聖子編著 『犯罪被害者遺族』 第3章

2007-08-23 12:22:21 | 読書感想文
第3章 心の傷を深めるもの

犯罪被害者への心の傷はどのように深まってゆくのか。色々なノウハウばかりが発達した現代社会の構造が、この問題を無用に大きくしている。特に、専門家と言われる法律家、医療関係者、宗教家の対応が原因であることが多いようである。専門的なフィルターで物事を見て、その専門性に誇りと生きがいを感じ、それで生計を立てているのが専門家である。そのような専門家にとって、そこに持ち込まれた相談は、多くのケースの中の1つでしかない。相談者が人生を賭けて必死に話したとしても、専門家は人生を賭けて聞いてはならないし、実際に聞こうともしない。専門家が人生を賭けている対象は、その専門性そのものだからである。

被害者遺族が民事訴訟を起こそうとして弁護士に相談すると、「この事件ですとせいぜい100万ですね」「苦労のわりに得られるものが少ないですよ」などと言われる(p.82)。弁護士本人には全く悪気がなく、むしろ弁護士倫理からすれば、この上なく正しい行動である。被害者遺族が事件の話を聞いてもらいたくて医療関係者に相談に行くと、事件のことには耳を貸さずに、「うつだから薬を飲みましょう」「眠れないんだったら睡眠薬をあげましょう」などと返答される(p.84)。これも、具体的にどこが間違っているとは指摘できないだけに、歯がゆい気持ちだけが残される。宗教家に至っては、「それは水子の崇りです」「それは神様の決めた運命です」などという答えを押し付ける(p.85)。これは本人が自信満々であるだけに、非常に始末が悪い。

犯罪被害者の2次的被害については、それを防ぐために色々な理論が提唱されてきた。ところが、そのような「2次的被害を防ぎましょう」という態度の取り方こそが2次的被害を生んでいるのだという現実にはなかなか気付かれない。これもやはり、哲学的な問題を哲学抜きで捉えてようとしていることに基づく。専門用語を駆使する専門家から見れば、いきなり「人生」などという単語を持ち込む素人は、いかにも幼稚に見える。しかしながら、人生の問題は人生の問題でしかない。この世の出来事は、なぜか常に一回限りで我々人間を訪れる。いかに物事を客観化したところで、人間の主観性を消そうとしたところで、これが消えるわけもない。犯罪被害者の心の傷は、客観性、予測可能性、法的安定性を志向する法治国家の必然的な弊害である。これを法治国家の枠内で解決できるはずもない。

「判決はとても事務的なんだそうです。当事者が聞いていても、いったい何がどうなっているのかよくわからないような判決が15分で7本言い渡された。そのなかには交通事故の事件もあれば、その他の民事訴訟、土地を争っている事件とか、いろんな事件が7件入っているなかに自分のが1件入っている。自分のかけがえのない娘の事件がそういう扱いを受ける。法律の世界というのは実は私たちの常識とすごくかけはなれてる、と思います。たぶん弁護士さんや裁判官の方がこの話を読むとですね、『なに言ってんだ』と思うと思うんです。そういう方たちにとってはすごく常識的なことを私たちは知らない」(p.104~106より抜粋)。

無罪の推定と有罪の推定

2007-08-22 18:56:30 | 国家・政治・刑罰
人間とは不完全なものであり、被告人が本当に罪を犯したかどうかはわからない。これはその通りである。しかし、ここで「無罪の推定という理論は絶対に正しい」と言ってしまえば、人間は同じ過ちを犯すことになる。人間とは不完全なものであり、完璧な理論など作れない。そうだとすれば、「無罪の推定という理論は正しい」と言うこともできないはずである。人間は今のところ、無罪の推定の理論と有罪の推定の理論を比べて、より好ましいものとして、無罪の推定のほうを仮説的に選択しているとしか言えない。

国民やマスコミにおいては、有罪の推定の理論が常識化しているのであれば、それは単にその通りである。「誤判の恐れがあるため、あえて国民の常識をひっくり返して推定無罪の理論を採用している」と考えたところで、特に何かが変わるわけでもない。国民の人権意識は高いも低いもなく、ただそれだけのことである。人間とは不完全なものであり、誤判を起こしやすいのであれば、無罪の推定の理論のほうがよりましな制度である。しかしながら、どこまで行っても法政策は法政策であって、時代や場所によって異なる相対的な制度に過ぎない。このことを見落とすと、人権論はあっという間に一神教の原理主義に陥る。

「被告人が本当に罪を犯したかどうかはわからない」というレベルのカテゴリーを文字通りに実行すれば、人間はまともに生活ができない。自分が実際に見ていないことはすべてわからなくなり、最後には「我思う、ゆえに我あり」しか残らなくなってしまう。推定無罪の理論を採用しつつ、普通に社会生活が送れているならば、それは日常生活と刑事裁判とで「わからない」のレベルを変えていることである。これは1つの政治的な態度である。刑務所の看守の暴行事件などでは、人権論が一気に有罪の推定の理論に変わるのもこの例である。

この世の現象には無数の要素が絡み合っており、わからないと言えばすべてがわからない。ここで刑法は、証拠によって特定の要素だけをピックアップし、結果発生と実行行為との間の因果関係としてその現象を切り取り、人為的な再構成を行う。このような枠組みは、無限の因果応報の中における局所的因果律と称される。わからないものについて、とりあえずわかったことにして話を進めるのが法律の役割である。ここで「被告人が本当に罪を犯したかどうかはわからない」と言うことは、純論理的な意味であれば、それは法律の枠組み自体の否定につながる。この意味で、推定無罪の理論における「わからない」とは、「わかっていることについて、あえてわからないことにする」という政治的な選択である。限りなく怪しい被告人に灰色無罪の判決が出ても、単なる現行法の選択以上のものではない。